四つ葉のクローバー(2)

 翌朝の寝覚めは最悪だった。頓服薬のおかげでなんとか眠ることはできたけど、身体は重いし頭がひどくぼーっとする。ばあちゃんが心配そうに学校を休むかと聞いてきた。首を横に振る。まだ頑張れると思って無理やり学校へと向かった。

 保健室を経由して、自分にしては少し早めに教室に入る。何人かのクラスメイトと挨拶がてら会話をした。そろそろ朝自習の時間になるというのに、教室に小野田の姿はまだない。

 朝自習開始のチャイムが鳴る。それと同時くらいにようやく小野田が肩で息をしながら教室へと入ってきた。当然自分は小野田を見つめているから気づいたことだけど、彼女は一瞬こちらを見てすぐに目を逸らした。小野田が自分の席に着いて前の席の明野さんと話し始める。そこから聞こえるただの挨拶のやり取りでさえ羨ましくてたまらなかった。罰ゲームでもなんでもいいから声をかけてほしかった。

 配られた朝自習のプリントを解きながらお腹をさする。朝ご飯を残すことはなかったけど、そのせいで逆にお腹が重くて気持ちが悪い。呼吸が浅くなるのを感じてできるだけ長く息を吐いた。それが溜息に聞こえたのか、隣の席の男子がこちらに目を向ける。

「立山どしたん、大丈夫かあ」

「大丈夫、問題ない」

 全然大丈夫なんかじゃないのに、自分に言い聞かせるように言った。

 朝のホームルームが終わったあと、すぐに小野田の席へと向かった。おはようと声をかけると、小野田もなんでもないようにおはようと返してくれる。とりあえずなにかを話そうと口を開いたとき、小野田が思い出したように両手をポンと叩いて言った。

「そいや、一時間目から移動じゃんね! 美紗、さっさと行こ。ほら立山も早く行かないと」

 そう言って小野田が明野さんを連れて教室を出ていく。いつもならギリギリまで教室に残っているのに随分と露骨だ。

「おーい、立山。移動しようぜ」

「ああ、うん」

 こんなふうに自分の意思とは関係なく世界が変わっていく。その流れに今の自分はどうも乗り切れていないみたいだ。

 その後の休み時間、小野田と話す機会はなかった。ようやく話せると思った昼休みも小野田はすぐに教室を出て行った。そのかわり教室に残っていた明野さんに声をかけると「茜はトイレに行ったよ」と言われた。その場を離れようとしたとき、不意に明野さんに呼び止められた。

「あのさあ、もう茜に構うのやめなよ」

「え?」

 言葉の意味がわからず眉をひそめる。

「頭の良いあんたならもうとっくに気づいてると思うけど、茜あんたのこと諦めたの。前に進もうとしてバイトも始めたみたいだし、思わせぶりなことしないでよ」

「思わせぶりなんかじゃない」

 明野さんが同じように眉をひそめた。その姿に心臓が嫌な音を立てる。

「じゃあなに、本気っていうわけ? ──今さら?」

 その言葉に頷くと明野さんが乾いた笑いを浮かべた。

「なら、なおさらやめなよ」

 とても冷たい声だった。

「今ね、あたしの中学んときの友達が茜のこと気になってんの。今日も放課後二人で会うみたいだから、気が合えばそのうち付き合うんじゃないかな。茜を大事に思うなら前に進もうとする邪魔をしないでほしい。本気なんだろうけど一歩遅かったあんたのその気持ちはもう障害でしかないんだよ」

 硬い石が思い切り頭に投げつけられた気がした。こめかみのあたりがズキズキと痛みだす。

「美紗ごめん! なんかめっちゃトイレ混んでてさあ──って、なに? 二人で話してんの珍しいじゃん。なに話してたの」

「大したことじゃないよ。ねえ、立山」

 その言葉に無言で明野さんを見つめ返す。冷たい視線同士がぶつかった。

「立山?」

 小野田に顔を覗き込まれる前にその場を離れた。朝にコンビニで買った惣菜パンを抱えて教室を飛び出す。急いで階段を上って屋上手前の階段にひとり腰掛ける。ここに人が来ることは滅多にない。その証拠に腰掛けた階段はいつでもひんやりと冷たかった。ズボンのポケットからカシャンと剥き出しのスマートフォンがこぼれ落ちる。拾おうとしたその真っ黒な画面に自分の顔が映ったとき、さっき小野田に見られなくてよかったと心底思った。こんなにも怖い表情の自分を知られなくてよかった。

 惣菜パンの袋を開けようと指に力を入れかけてやめる。食欲が少しも湧いてこなかった。頭の中を先ほどの明野さんの言葉が、喉元あたりを自分が口にしたかったなにかがそれぞれぐるぐると回っている。目を瞑ると目眩のようなそれらがさらに加速する。できるだけ目を瞑らないようにした。心を落ち着かせるために長く息を吐く。昼休みの間、たたひとり瞬きも忘れて無機質な白い天井を見つめた。

 放課後、足早に教室を出て行った小野田を追いかけて下駄箱のところでようやく追いついた。背後から左腕を掴むと、小野田が目を丸くしてこちらを振り向いた。

「び、っくりしたあ……なに立山、どしたの」

「明野さんからバイト始めたって聞いた。今日も?」

「ああ、そうだったんだ。うん、今日もこれから」そう言いながら、小野田が俺の手を丁寧に引き剥がす。

 小野田のその顔は嘘をついているようには見えなかった。明野さんが言うにはこれから俺の知らない誰かと会うらしいけど、そんな素振りもない。

「あたしさ、地元のパン屋さんでバイトしてんだけど、その店の名前がデイジーっていうの。まだ恋人同士だった時代に、店長である夫さんが妻さんに初めてプレゼントした花が由来なんだってさ」

「へえ」

 そんな話を聞いて少し複雑な気持ちになった。そのバイト先の店長さんのデイジーに比べたら、今俺のリュックに入っている四つ葉のクローバーの香水に込められた想いはあまりにも身勝手な気がした。

「立山、デイジーの花言葉知ってる?」

 そんなことを聞かれて、ふと小野田にあげた花言葉の図鑑を思い出す。あの図鑑にはデイジーが載っていなかったと記憶している。前にスマートフォンで図鑑に載っていない花言葉を検索したときの記憶を呼び起こす。

「あなたと同じ気持ち」

 そう口にしたとき、久しぶりに小野田とゆっくり目を合わせた気がした。その間に流れる刹那の沈黙がとても心地良かった。小野田が気まずそうに下を向く。心なしか頬が赤く染まっている気がする。もう一度こちらを向いて欲しくて彼女の腕を掴もうとゆっくりと手を伸ばした。

「小野田、俺──」

「おい、立山!」

 その大きな声に出しかけた手がこわばる。声の方を見ると明野さんがいた。般若はんにゃのようなその顔に圧倒されている隙に小野田が昇降口を飛び出していく。小野田を追いかける前に明野さんに思い切り突き飛ばされた。そのまま背中が大層な音を立てて下駄箱にぶつかる。

「茜のこと邪魔すんなって言ったじゃん」

「邪魔なんかしていない。俺は俺がしたい行動をしているだけだよ」

「だからそれが邪魔だって言ってんの!」

「それは明野さんが判断することじゃない」

「じゃあ自分で判断すれば? 見てみなよ、正門のとこ」

 明野さんに言われるがまま正門の方へ目をやると、先ほど駆けていった小野田が知らない男と話をしている。うちの高校の制服ではない。背が高くて筋肉質で、制服の上からでもがっしりとした体型なのがよくわかる。

「あれが昼休みに話したあたしの中学んときの友達。茜のことが気になってる──あ、立山!」

 雑に履いたローファーで走り出す。正門のところにいた小野田がすでに男とともに歩き出している。追いかけたその先でどうするかは決まっていなかったけど、とにかく夢中で走った。正門を出たところで足を止める。数メートル先に小野田と男が歩いていた。

「小野田!」

 そう叫ぶと、先ほどと同じように目を丸くして小野田が顔だけこちらを振り向いた。あがった息を二三回の呼吸で落ち着かせる。

「なに……?」

「今日バイトだって言った」

「そうだよ、バイトだよ」

「でもその人に会ってる」

「それは──」

「おれが勝手に会いたいって言って、勝手に会いに来ただけっすよ」

 返事に困っている小野田に助け舟を出すように隣に立っている男が言う。人懐っこい笑顔が今の俺には鼻についた。

「茜ちゃんの友達っすよね。おれも茜ちゃんの友達なんすよ。って言っても、知り合ってまだ数週間だけど」

 その悪気のない顔面を黒で塗りつぶしたくなる。あまり良い感情が湧いてこなくて男の方を見るのをやめた。

 小野田がなにも言わずに背を向けて歩き出す。隣の男も後を追うように歩き出した。そうするのが当たり前みたいな男の行動が嫌だった。それなら二人を追いかければいいのに、自分の足はそれ以上前に踏み出せない。小野田が行く道は俺の家とは逆方向だ。駅へと向かってそのまま電車に乗るのだろう。

 この男と一緒に? それはわからない。想像のとおりだとして、そのあとは? おそらくバイトがあるのは本当だろうけど、じゃあこの男は? どうして今ここにいて、小野田のあとをついて行っている? そんなふうに聞きたい事柄が頭の中に渋滞しているのに、やっぱり足は動かなかった。

 そう考えているうちにも小野田と男はどんどん自分から遠ざかっていく。もどかしくて苦しくて、大きく息を吸い込んだ。

「男女の友情は成立しないって言った!」

 幼い子供みたいな叫びだった。それがその場を動くことができない自分ができた唯一のことだった。その言葉に小野田が一瞬足を止める。振り返ったのは隣にいた男だけだった。小野田がその男に向かってなにやら声をかける。そのまま二人は足早に駅の方へと向かった。

 自分の足はやはり同じ方向に動くことはなかった。追いかけろと念じても、その足は鉛のように重い。俺と小野田の間には見えない壁があることがはっきりとわかった。

「見たでしょ。あれが現実だから」

 少し後ろで見ていたらしい明野さんがそう言って校舎の方へと戻っていった。結局自分の身体は見えない壁をぶち破ることはなく、そのまま弱い足取りで自分の家の方へと向かった。

 季節が冬の入り口に差し掛かっている。赤や黄色に染まっていた木の葉も徐々に色を失っていく。下を向いて歩いている俺のそばを何枚かの枯れ葉がかさかさと音を立てて転がっていった。

 枯れ葉は脆い。色を失ってこの枝から離れるとそれでもうおしまいだ。紅葉で山を彩っている間は皆にちやほやされるのに、枝を離れたら見向きもされない。足元でかさりと音がする。ローファーが枯れ葉を踏みつけた。小さく砕けた欠片が再びかさかさと地面を転がっていく。こんなにも弱い足取りなのに、枯れ葉は簡単に朽ちていった。今の自分もこんなふうになにか簡単なことでボロボロに崩れ落ちてしまいそうだった。いや、もう半分そうなっているのかもしれない。自分ではわからない。自分でわからないものは他人ひとからしたらもっとわからない。自分の心は今どれくらい朽ちているのだろう。どれくらい色を失って、どれくらい小さくなっているのだろう。

 寒い風に吹かれて思わず首をすぼめて空を見上げる。無数の黒点を見て鳥の大群かと思ったら、風によって枝から切り離された枯れ葉だった。

 たった今理解した。小野田の心の中にある俺に対する気持ちもこんなふうに朽ちて切り落とされてしまったのだろう。

 自分の抱える小野田への気持ちに貼りつけられた『一歩遅い』『障害』『邪魔』という言葉たちが剥がせそうもない。

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