四つ葉のクローバー(1)

 目の前のお椀によそわれた味噌汁があと一口ほど残っている。お腹をさすりながら、じっとその表面を見つめた。少しの汁の中に小さなわかめの欠片がいくつか沈んでいる。

「仁、食べないの? あと少しじゃない」

「ああ、うん」

 ばあちゃんに促されてようやくお椀に口をつける。そのたった一口をなかなか喉に流し込むことができなかった。口に味噌汁を含んだまま鼻で呼吸する。喉にある脈がどくどくと速く動いていた。ごくりと喉が鳴る。うまく飲み込むことができなくて、わかめが喉に張りついた。

「お皿はいいわよ、全部やっておくから。そのまま休みなさい」

 そう言ってばあちゃんが空になった食器を流しへと運んでいく。その言葉に甘えて自室に戻ることにした。すっかり色あせた畳の上に寝転ぶ。木目の天井を見つめて、何度目かの瞬きで視界を黒で覆った。

 また食事が喉を通らないことが増えてきた。学校に持っていく弁当も残すことが多くなってきて、作ってくれるばあちゃんに申し訳がないから最近はコンビニでパンを買っていくことにしている。そのパンも一つ食べるのが精一杯だった。

 嫌な予感がしている。自分の体調がおかしくなったと自覚した一因が食欲の減退だった。あの頃よりは少しずつ良くなっていると思っていたのに、なんだか後戻りをしている気がして怖い。このままご飯が食べられなくなるのだろうか、夜を迎えるのが怖くなって眠れなくなるのだろうか、ようやく頓服一つになった薬もまた増えるのだろうか、教室にいるのが怖くなるのだろうか、家から出ることもできなくなるのだろうか……

 そんなふうに色々考え出したら指先が冷たくなって小さく震えた。心臓はまだ馬鹿みたいに速くうるさい。呼吸に意識を向けたらどのタイミングでどれだけの息を吸い込んでいいのかわからなくなった。吐く方へ意識を向けようとするけど、わけがわからなくなって額に汗がにじむ。とりあえず急いで頓服薬を口に含んだ。手元にあったミネラルウォーターで薬を喉に流し込む。胸に手を当てながら、再び倒れるように畳に寝転ぶ。こんな身体も自分も嫌だった。目を瞑ったらそのまま消えてしまいたかった。

 文化祭が終わってからの生活はそれまでのものと一変した。高校に入学してから今まで、小野田以外のクラスメイトとは関わりがなかったし、そもそも関わろうとも思わなかった。それが今や、朝の挨拶からほんの少しの雑談に至るまで、色々な人に声をかけられるようになった。文化祭の準備期間にいわゆるクラスの中心になるような人たちと話す機会が増え、気づいたらそうなっていた。

「立山って意外と面白いやつなんだな。今まで勘違いしてたわ」

 文化祭の準備をしているときにそんなことも言われだけど、勘違いしていたのは俺も同じだった。話が通じないと思っていた人たちは、いざゆっくり会話をしてみると全くそんなことはなかった。

 こんなふうに良い方に変わったこともあればそうでないこともある。文化祭以来、小野田が必要以上に関わってこなくなった。以前は休み時間のたびに話しかけてきたのに今はそれもない。小野田は朝教室に来るのがギリギリになったし、挨拶も俺からするようになった。正直、複雑な気持ちだ。文化祭前と今とじゃ自分が抱える気持ちに大きな変化があったからだ。

 文化祭の一般公開の日、泣いている小野田を見て自分のことのように胸が痛くなった。今まで自分のことで精一杯だったけど、泣いているこの人の気持ちも支えられるようになりたいと強く思った。そうなるには今以上に強くならなければいけない。もちろんそのための努力は惜しまないつもりだけど、今の未熟な自分では告白なんて到底できない。たとえ小野田が自分と同じ気持ちだとしても、自信を持つことはできなかった。

 後夜祭の最中、小野田のシャツの袖口を掴みながら今の自分では口にできないこの想いがそこから流れていけばいいのにと思った。自信がなくても未熟なままでも彼女を手に入れたいと思ってしまった。自分が小野田の隣にいて安心するように、彼女にとっても自分がそんな存在にはりたいと思った。そんな一方的な熱い想いを抑えるように冷静な自分が顔を出してくる。小野田が今の自分の隣で安心できるわけがない。小野田がいくら自分のことを好きでも今のままでは対等ではない。小野田が心から自分を頼りにしていたら、文化祭で泣いたあのとき彼女は俺にその理由を話してくれたはずだった。

 俺は自分ともうひとり、小野田の気持ちを抱えられる人間になりたい。そのために好きと言う言葉がどうしても口に出せなかった。それでも彼女に近づきたい。そう思っているからこそ、小野田の態度が変化した今がもどかしく寂しかった。

 放課後、何度か小野田を誘ってどこかに寄り道をしようと考えたけど、気がつくと小野田は教室からいなくなっていることが多くなった。たまに追いついて声をかけても「用事があるから」と断られるだけだった。

 どうやら俺は小野田に避けられているらしい。なぜこんなふうになったのか正直心当たりはない。そもそも自分が小野田に避けられているなんて考えたくもないことだ。小野田に対する気持ちを自覚したばかりなのに、そんな悲しい現実を見るのは嫌だった。

 文化祭のあと、ネットでとある買い物をした。いつか小野田に想いを伝えるそのときに、なにか形に残るものをプレゼントしたかったのだ。たくさんの商品で溢れるネットの海で選んだのは、四つ葉のクローバーの形をした瓶に入っている香水だった。香水をあげることも四つ葉のクローバーの花言葉も随分重いなということはわかっている。それでもそれが自分の気持ちなのだから仕方ない。綺麗にラッピングされたそれを毎日リュックに入れて持ち歩いているけど、なかなか渡す機会は訪れそうもなかった。

 薬が効いてきたのかだいぶ息がしやすくなってきた。耳に響いてくる心臓の音も気になるほどではない。

 確かに悲しい現実を見るのは嫌だけど、自分の心はそういった小野田の変化に敏感だった。彼女に避けられるようになって体調が不安定になる──そこでようやく自分にとって彼女がどれだけ大きな存在だったかを思い知った。

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