チョコレートコスモス(13)
402教室の扉が開く音がする。鼻をすする音が響いているからか、足音はすぐに教卓の方へと向かってきた。
「小野田」
大好きな立山の声がする。それだけで胸が詰まるように苦しくなった。走ってきてくれたのか、立山の呼吸する音が大きく聞こえる。
「顔見られたくないならそう言って」
「……別にいい。そんなの気にしなくても」
あたしの言葉を受けてから立山が教卓の裏にまわってしゃがみ込んだ。今こんなにも苦しいのに、立山のこういう小さな気遣いがたまらなく好きだなと思う。
「これ」
「……飴? なんで」
「さっきひなたちゃんにもらった。発作が起きそうになったら食べてって。でも俺、口の中にものがあるとかえって落ち着かなくなるから」
とりあえず飴のフィルムを剥いて口に放り込む。立山が自らの頭を軽く掻いた。
「本当はクレープとか買ってきたかったけど、ひとりで行くのは難しくて」
「あ、クレープ…………そんなに食べたかったんだ。ごめん」
「いや、俺はそうでもないけど」
その言葉に首を傾げる。
「小野田がそういうものを食べて少しでも元気になるならと思っただけだよ」
その言葉に、いつもならすんなり自分の口をついて出るおどけた返しが出てこなかった。立山が流してくれる白色の絵の具は、悲しいことにあたしの頭の中の黒に簡単に飲み込まれていく。
「……さっきの、中学んときの同級生」
「うん」
「結構仲良かった。一番の親友みたいな」
「うん。さっきの人も同じように言っていたね」
「それで、」
中学二年のとき、そいつと二人で好きなアーティストのライブに行ったの。その帰りにね、カラオケボックスでそいつと初体験した。地元の外れにある、誰も寄りつかないような古ーいカラオケボックスね。ちょっとほこりっぽい真っ赤なソファに押し倒されたこと、今でも嫌なくらい鮮明に覚えている。あたしはそのあとそいつと付き合うものだと思っていたの。顔とか全然タイプじゃなかったけど、そういうことをしたからさ、流れでそうなるもんなのかなーって思ったわけ。そしたらね、なんと次の日そいつが別の女と付き合っていたの。もうクラス一番の大ニュース! あたしは頭ん中が真っ白でさ。勢いでそいつを呼び出したわけ。そしたらあいつ、なんで言ったと思う?
『お前あれで付き合うとか言う、そういう面倒なやつじゃないよな』
だって! ほんとクズだよね。あーあ、思い出すだけで腹が立つ! それでいて今、あの態度だよ。おまけにそんときの彼女と今でも付き合ってんの。なんであんな最低なやつが幸せで、心も身体も思い切り傷ついたあたしが──……
……──なんて、
どうしたらこんなふうにすらすらと話せるのだろう。なんでもないようにヘラヘラと笑えるのだろう。現実は頭の中で文字たちがエンドロールみたいに下から上へと流れるだけで、その場は沈黙に包まれた。
喉に言葉が渋滞して息ができない。
「別に無理に話さなくていい」
立山が言った。
「話を聞いただけでその場に存在しない自分が軽々しくあれこれ言うのは違うと思うし、なにより話すことで逆に傷が広がってしまうようなことなら言わなくてかまわない」
しゃがんでいた立山が黒板下の壁に寄り掛かってこちらを見つめてくる。
「俺には小野田が経験した過去の出来事や気持ちをそのまま理解するのは不可能だけど、それでも約二年近く一緒にいるキミが今こうして傷ついていることくらいはわかるよ」
その言葉で立山の姿がぼんやりとにじむ。突き放すわけでも寄り添い過ぎるわけでもないその言葉がじんわりと心に染みた。それが立山なりの温かさだった。あたしが大好きな立山の優しさの形だった。喉に詰まった言葉がほどけて息を吐き出す。再び涙がこぼれ落ちた。
どうして目の前にいる立山はあたしの彼氏じゃないのだろう。彼氏として今ここに存在していたら、ゆっくりでも全部話せてしまうかもしれないのに。全部話して、それでも「大丈夫だよ」なんて言われたら、あたしを苦しめるこの汚い過去も溶けてなくなりそうなものなのに。
なんて、こんなことを考えるあたしは本当にどうかしている。慎也に会ってポジティブの仮面が剥がれてしまったみたいだ。
勢いのまま溢れ出そうな言葉を抑え、涙を拭いて笑顔を作る。
「なんか、ありがとね! あー、今ここに立山がいてくれてよかったわ」
「それはよかった」
大丈夫。もう一度ポジティブの仮面をつけ直す。
「てか、立山ってちゃんと走れんじゃん」
「走るよ。大事なときはね」
その言葉が素直に嬉しかった。たまらなく嬉しくて、苦しかった。
あたしが普通だったら、この恋は上手くいっていたのだろうか。普通だったら、こんなに素敵な立山の視界に入るような女の子になれていたのだろうか。普通になって、それで立山に出会ってきたらどうなっていたのだろう。そしたらもう少し対等な関係になれていたのかもしれない。
本当は好きになったときからわかっていた。あたしと立山は全然釣り合わないって。それを必死になって見ないようにしていた。ポジティブで無理やり突き進んでいたら、いつかあたしにとって都合の良い間違いが起こるかもって心のどこかで思っていた。あたしと立山との間にバグが起こって、もしかしたら付き合えちゃうかもって考えていた。
でも、さすがにもう痛いほどわかっている。あたしと立山は今も、そしてこれから先も暮らしていく世界が違う。立山はこれから大学に進学して、そこでパズルのピースみたいにぴったりと合う人を見つけていくのだと思う。真っ直ぐな立山に対して、あたしの過去はあまりにも曲がっている。これからいくらでも描いていける立山に対して、あたしはもうなにも描けないくらい真っ黒な存在だ。真っ黒なあたしから放たれる言葉もまた真っ黒で、そんなあたしからの「好き」はきっと全然綺麗じゃない。
さて、もう一度、ポジティブの仮面をつけ直す。
「立山知ってる? この高校、後夜祭が一番盛り上がんの。体育館でライブとかあるんだよ」
「へえ」
「グラウンドでキャンプファイヤーもあるけど、外に出てみる?」
「大丈夫。小野田と二人でここにいるよ」
「あ、そう」──あたしも一緒にいてもいいのか、と嬉しいような素直に喜んではいけないような複雑な気持ちになった。
穏やかに秋の夕日が落ちて、キャンプファイヤーが始まる。グラウンドから騒がしい声が響いてきた。四階までキャンプファイヤーの明かりが優しく差し込む中で、立山が溜息混じりに「後夜祭が終わるまで少し休みたい」と言った。立山の隣で同じように窓に背を向けて腰掛ける。もたれ掛かった壁がひんやりと冷たい。
「ちょっとここ貸して」
そう言って立山が唐突にあたしのシャツの袖口を掴んできた。
「なに急に。どしたの」
「疲れが一気にきた。発作は起こらないと思うけど、なにか安心したくて」
「そうなの?」
そういうものなのか、と無理やり納得してみる。袖口を掴まれているだけなのに、右半身がこわばって動かなくなる。立山にとっては意味のない行動だろうけど、緊張して汗をかいてきた。
「はあ、疲れた」
「あたしが無理やり文化祭誘ったの、ほんとは迷惑だったよね。ごめん」
「いや、たしかに疲れたけど楽しかったよ。むしろ想像していた以上に楽しめて参加してよかったって思っている。どうもありがとう」
そう言ったあとで、立山が大きなあくびをする。このまま少し寝させてと言って目を瞑った。
隣で眠る立山を横目で見ながら、今この手を握ってしまったらどうなるだろうと考える。そのまま最後の好きを伝えたらとも考える。あたしが望む一歩進んだ関係になるのか、それとも今までと同じように拒否されるのか。いや、拒否されるのは悲しい。それならいっそ、と今まで少しも考えなかったことが頭に浮かんでくる。いつもならすぐに消そうとする考えが今日は随分と長いこと頭の中に留まった。むしろ消そうとする気持ちの方が萎んでいく。
もう、充分だった。
隣で安心して寝息をたてる彼を見て、もういいかもしれないなと笑みがこぼれた。立山にとってあたしは今こうして袖口を掴んで安心してもらえる存在なのだから、それで充分なのかもしれないと思った。それよりも今ここで告白をして、この関係が壊れてしまう方がつらい。
立山の穏やかな寝息に対して、こんなときまでちゃんと速くなる自分の鼓動があまりにも対照的だった。グラウンドから賑やかな笑い声が響いてくる。自分の心は寂しくなっていく一方だった。掴まれた袖口を見ながら溜息がこぼれる。
これで充分だ、今この関係で満足すればいい。
真っ黒な頭の中で、幸せのための答えを一つ出した。もう大丈夫と無理やり自分の頭の中を納得させた。
一時間ほどで後夜祭が終了し、すっかり熟睡していた立山を起こす。まだ眠そうな目をこすりながら「ごめん」と立山が握っていた袖口から手を離した。そこからスッと心に風が通り過ぎていく。
「家まで送ってくよ」
「いいの? もうだいぶ外暗いけど」
「大丈夫。電車に乗ったら家までそんなに時間かかんないから気にしないで」
きっと大丈夫。心の中で自分に対してそう言葉をかけた。
帰りの道中、立山に「静かだね」と言われた。
「ちょっと文化祭で疲れただーけっ」
そんなふうにいつもどおりを装っていたけど、うまくいっただろうか。
後夜祭の最中、立山の幸せのための答えを一つ出した。
立山のために、立山のことを諦める。
今こうして当たり前みたいに一緒に歩いているけど、それも今日で最後にする。立山を家に送り届けたら、それと同時にこの気持ちを手放す。でもそんな決意とは裏腹に、一歩前へ進むたびに好きという文字が並ぶ。頑張って決意した『手放す』の文字を消す勢いだ。
泣きそうになるのをなんとか我慢する。今、立山の前で泣いてしまったら、頭を埋め尽くす好きの言葉を口にしてしまいそうだった。
空に浮かんだ星がゆらゆら歪む。必死になって瞬きを我慢した。
「送ってくれて、どうもありがとう」
立山がいつものように玄関前の生垣のところで丁寧にこちらを向いて言う。この人から発せられる言葉の全てが好きだなと思う。何度考えても何度諦めようとしても、その気持ちが増すくらいに立山のことが大好きだった。
「ううん。それじゃあ、また」
「あ、待って」
珍しく立山に呼び止められて、振り向いた。古い横開きの扉にはめ込まれた硝子から家の中の明かりが漏れている。それを背にする立山が逆光の中でもキラキラと白く光って見えた。
「来年は食べようよ、女バレのクレープ」
なにも言えなかった。微笑む立山に、ぎこちない笑顔で手を振ることしかできなかった。
好きだ。
立山のことが本当に大好きだ。
そんなことをうっかり口走ってしまわないように、ゆっくりと一歩二歩三歩。
珍しく一度も振り返らなかった。立山の家からあたしの姿が見えなくなる頃に、駅に向かって全力で走り出す。背後から追いかけてくる好きの気持ちに追いつかれないように必死だった。この追いかけっこに負けてしまったら、あたしは立山の家に戻って自分の気持ちを伝えてしまう。そしてきっとお互いに心地が良いこの関係が終わってしまう。無我夢中で走って、気づいたら駅のホームに駆け込んでいた。タイミングよくきた電車に乗り込む。入り口近くの窓にもたれて人がまばらのホームを眺めた。
特になにも考えずに、カバンの中から立山にもらった花言葉の図鑑を取り出す。秋だからと秋のページをパラパラとめくって一つの花に目が留まった。図鑑にすらもう無理だよと言われている気がする。
この先どう足掻こうとも、その花が恋の終わりを告げていた。
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