タンポポ(4)

「──でもあの日、小野田くんがタンポポの明るい花言葉を教えてくれて、わたしもわたしの中のおばあちゃんとの思い出も救われた気がしたの。一度は嫌いになりかけたタンポポをやっぱり一番好きだなって思えたのは、あの日の小野田くんのおかげだよ。本当にありがとう」

 わたしがそう言うと、小野田くんは「いやいや、そんな」と大したことはしていないと言いたげに首を振った。

「わたしね、あの日小野田くんが教えてくれたこともかけてくれた言葉もなに一つ忘れたくないなって思っているの。でもわたしを大好きだって言っていたおばあちゃんだって、わたしのことをまるで存在しなかったみたいに忘れてしまったから……絶対に忘れないなんてそんな無責任なことは言えないじゃない?」

 忘れたくないけど、忘れてしまうこともある。だからこそあの日、その曖昧な気持ちを「一生忘れないかも」という言葉に託した。一生忘れない未来が来るかなんて、そんなの誰にもわからない。

「長谷川さんは、おばあちゃんに自分の存在を忘れられてしまったのが本当につらかったんだね」

 小野田くんの言葉に頷く。

「でも、長谷川さんがおばあちゃんとの思い出を覚えている限りその出来事は事実として存在したんだから、そこまで悲観的になることではないんじゃないかな」

 小野田くんの方を見て首を傾げる。

「たしかにおばあちゃんの中に長谷川さんはいなくなってしまったかもしれない。でも、過去に嬉しかった出来事はちゃんと長谷川さんの中に存在するから、長谷川さんが覚えていたらその時間は決してなかったものにはならないよ。だから、無責任だとしても言っていいと思うんだ、一生忘れないって。だってその気持ちはそのときに感じた事実で、今を生きている僕たちは、未来を生きている僕たちのことなんて考えてもわからないんだから。それだったら伝えたいことを素直に伝えて、たとえ未来の自分が忘れてしまっても、相手が覚えている限りそれは残り続けると思った方が気持ちは楽なんじゃないかな」

 こちらを見た小野田くんと目が合う。

「あの日にあった出来事、長谷川さんだけじゃなくて僕だって忘れたくないと思っているよ。でも、たとえ病気じゃなくても、その日の出来事を一秒も漏らさず全部覚えているなんて動画とかに残しておかない限り不可能だと思うんだ。ましてや感じた気持ちなんて目にも見えなくて、もちろん動画にも残せない。だからこそさ、どちらか一方が覚えていればいいんじゃないかな。その記憶が完璧じゃなくていい、ボロボロの虫食いでもいい。たとえところどころでも、それだけでその出来事は存在しているんだから。おばあちゃんとの思い出も長谷川さんが覚えていたら、それが事実で、全部で、きっとそれで充分なんだよ」

 その瞬間、優しく微笑んだ小野田くんをいいなと思った。ひとつひとつの言葉の選び方とか、恥ずかしそうにしつつも真っ直ぐ目を見て話してくれる姿が素敵だなと思った。この人と一緒にいたら、何気ない毎日をすごく大切にできそうな気がする。これが恋なのかもしれないと思って、今の気持ちを素直に言葉にしようとしたとき、小野田くんが遠くの方で誰かに呼ばれた。

「なんだろう、もう帰ろうと思っていたのに。じゃあ長谷川さん、また明日」

「あ、うん。また明日」

 名残惜しい気持ちで小さくなる背中を目で追った。制服の後ろ姿を見送りながら、もう少し小野田くんと話していたかったなと思う。

 小野田くんが去ったあと、大きな花壇に植えられた花にホースでたっぷりと水を与えた。扇形に広がった水のベールがオレンジ色の夕日に照らされて虹になる。

 明日、小野田くんに自分の気持ちを伝えようと思う。今日かけてくれた言葉が嬉しかったことや、なにより小野田くんのことが好きだということをちゃんと伝えたい。

 ホースの角度を少し変えただけで虹が色濃くなる。見方が変わっただけで、わたしの心の中にはとっくに小野田くんへの想いが恋として存在していたのかもしれない。小野田くんが何度もその行動や言葉という水を与え続けてくれたから、わたし自身が認識できるくらい心の虹が濃くなったのかしら。なんて、気分が良いからこんなメルヘンな考えが浮かんでくる。緊張や明日に対する少しの好奇心で浮かれているのかもしれない。

 そんな気持ちからか、手元が緩んでホースが暴れた。

「わっ!」

 勢いよく出た水がジャージのズボンを少しだけ濡らす。

「アハハッ! ひなたちゃんなにしてるのー」

 そんなふうに少し離れた場所で別の花壇に水やりをしていた同い年の部員に笑われた。

 家に帰っておばあちゃんの部屋の扉を開ける。いつもと同じようにおばあちゃんがテレビを観ていた。

「おばあちゃん、ひなただよ。ただいま」

「ひなた……?」

 首を傾げながらそれだけ言って、おばあちゃんはまたテレビに目をやる。わたしも今さら「おかえり」とすら言われないことに胸を痛めることはなくなった。扉を閉めて溜息をつく。

 入院していたおばあちゃんは、その後の治療とリハビリが順調に進んでほとんど大きな後遺症もなく退院し、以前とほぼ変わらぬ日常を過ごしている。ただ、一度進んだ認知症が戻ることはなく、毎日名前を名乗ってもおばあちゃんの頭に残ることはない。こんなふうになる前だったら、おばあちゃんに小野田くんの話をしていたのだろうなと思う。再び溜息が出そうになって首を横に振る。

「わたしが覚えていたら、それが事実で全部で、きっとそれで充分」

 少し滲んだ視界の中で、小野田くんの言葉をなぞるように小さく呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る