地球黎明期

鳴沢寧

序章:影が空を覆う日

その日、僕はいつものようにバイト先のコンビニでレジを打っていた。時計は午後3時を少し回ったところ。外は薄曇りで、時折風がビニ傘を揺らすような、なんでもない日だった。客はまばらで、棚の奥から賞味期限切れの弁当を回収するかどうか迷っていると、店内に響くはずのない低く唸るような音が耳に届いた。

「ん?」

僕は顔を上げて窓の外を見た。音は遠くから聞こえてくるようで、でもどこか近くにも感じられた。飛行機にしては低すぎるし、トラックのエンジン音とも違う。店長がバックヤードから出てきて、「おい、なんか変な音しないか?」と首をかしげた瞬間、店の照明が一瞬だけチカチカした。

「停電か?」

そう思った次の瞬間、窓の外が急に暗くなった。まるで太陽が雲に隠れたみたいに。でも、空を見上げた僕は、雲じゃないことに気づいた。

そこにあったのは、黒い影。

いや、影じゃない。物体だ。

巨大な、信じられないほど巨大な何かが、空を覆うように浮かんでいた。

店の外に飛び出すと、すでに近所の住民や通行人が立ち止まって空を見上げていた。誰かが「あれ何だよ!?」と叫び、別の誰かがスマホを構えて写真を撮り始めた。僕もポケットからスマホを取り出してカメラを起動したけど、手が震えてピントが合わない。

目の前に広がるのは、まるでSF映画のワンシーンみたいな光景だった。上空に浮かぶ黒い宇宙船──そうとしか形容できないもの──は、端から端まで見えないほど広大で、街全体をすっぽり覆ってしまうようなスケールだった。表面はつや消しの黒で、ところどころに赤や青の光が点滅している。形は完全な円盤じゃなくて、どこか歪んだ楕円形に近い。底面には無数の小さな突起があって、それがゆっくり回転しているように見えた。

「うそだろ……」

隣にいたおじさんが呟いた声が、妙に現実感を帯びて耳に残った。僕も同じ気持ちだった。これは夢じゃない。現実だ。

でも、こんな現実ありえないだろ?

その後、数分もしないうちに街はパニックに陥った。道路では車がクラクションを鳴らし合い、信号待ちの歩行者が一斉に走り出す。コンビニの店内では、客が「早く袋に詰めろ!」と叫びながら水や食料をかき集め始めた。店長が「落ち着けって!」と怒鳴っても誰も聞いちゃいない。

僕はその場に立ち尽くして、空の黒い巨体を見上げていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、何をすべきかもわからない。ただ一つだけ確かなのは、あの宇宙船がただの気象現象や軍の秘密兵器じゃないってことだ。あんなものが地球の技術で作れるはずがない。

スマホが震えて、画面を見ると母さんからの着信だった。慌てて出ると、「あんた! どこにいるの!? テレビ見て! 今すぐ家に帰ってきなさい!」と叫ばれた。

「テレビ?」

店に戻ってバックヤードの小さなモニターをつけると、どのチャンネルも同じ映像を流していた。ニュースキャスターが早口で状況を伝え、画面にはさっき僕が見た宇宙船が映し出されていた。

「本日午後3時12分頃、突如として日本上空に正体不明の巨大な飛行物体が出現しました。現在、政府および自衛隊は対応を協議中ですが、詳細は一切不明です。国民の皆様は冷静な行動を──」

途中で音声が途切れ、画面がノイズに変わった。店長が「何!? 電波がやられたのか!?」と叫んだ瞬間、外からけたたましいサイレンの音が響き渡った。

家に帰る途中、街はまるで戦争直前のようだった。コンビニやスーパーには人が殺到し、道路は渋滞で動かない。空を見上げるたびに、あの黒い宇宙船が少しずつ低くなっている気がした。いや、気じゃなくて本当に下がってるのかもしれない。距離感が掴めないから確信は持てなかったけど、少なくとも動いてるのは確かだ。

母さんに電話をかけ直そうとしたけど、電波が繋がらない。LINEもTwitterも「送信エラー」の表示ばかり。ネットが死んでるのか、それとも何か妨害されてるのか。

頭の中でいろんな考えがぐるぐる回った。宇宙船が飛来した理由は何か? 攻撃しに来たのか? それとも別の目的があるのか? 映画みたいに人類とコンタクトを取ろうとしてるのか? でも、もしそうなら、なんでこんな不気味な形で現れるんだ?

家の近くまで来たとき、近所の公園で子供が泣き叫ぶ声が聞こえた。見ると、小学生くらいの女の子が地面に座り込んで、空を指さしながら「怖いよぉ!」と叫んでいた。親らしき大人がいない。僕はその子に近づいて、「大丈夫だよ、一緒に家まで行こうか?」と声をかけた。

女の子は涙目で僕を見上げて、こくんと頷いた。手を握ると、震えが伝わってくる。僕だって怖いのに、こんな小さな子にまで恐怖が広がってるなんて、現実が一層重く感じられた。

家に着くと、母さんが玄関で待っていた。僕を見つけるとすぐに抱きついてきて、「無事で良かった……!」と泣き出した。父さんはリビングでテレビの前から動かず、チャンネルを切り替えながら「何も映らない」と呟いている。

「ねえ、あれ何なの? 宇宙人なの?」

僕の質問に、母さんは「わからないよ……でも、ニュースで政府が緊急事態宣言出すって言ってた」と答えた。父さんが「あんなもん、ミサイルでも落とせねえよ」と吐き捨てるように言ったけど、その声に力はなかった。

窓から外を見ると、空は完全に黒い影に覆われていた。太陽の光が遮られて、昼間なのに薄暗い。街灯が点き始めたけど、それすら宇宙船の存在感に飲み込まれているみたいだった。

その時、宇宙船から初めての「動き」があった。

底面の突起が一斉に光り出し、低い振動音が地面を揺らした。窓ガラスがビリビリ震えて、母さんが「地震!?」と叫んだ。でも、揺れてるのは地面じゃない。空気が震えてるんだ。

「何!? 何が始まるの!?」

僕が叫んだ瞬間、宇宙船の中央から眩しい光が放たれた。光は一直線に地面に向かって伸び、街のどこかに着地したらしい。遠くで爆発音のようなものが響き、窓の外に赤い閃光が走った。

「逃げなきゃ!」

父さんが立ち上がって叫んだけど、母さんは「どこに逃げるのよ!?」と返す。僕はその場に立ち尽くしたまま、光が落ちた方向を見つめていた。あれは攻撃なのか? それとも何か別の合図なのか?

頭の中が真っ白になって、考えることもできなかった。ただ一つだけ確信があった。

この日から、世界はもう元には戻らない。

その夜、宇宙船は動かなくなった。光の柱も消えて、街は不気味な静寂に包まれた。でも、誰も安心なんてできなかった。テレビは映らず、ネットも繋がらない。ラジオからは断続的に「屋内に留まり、指示を待て」というアナウンスが流れるだけ。

僕は自分の部屋でベッドに座り、窓の外を見ていた。宇宙船はそこに浮かんだまま、まるで空の一部になったみたいに動かない。時折、赤い光が点滅するけど、それ以外は何も起こらない。

なぜ突然現れたのか?

何をしようとしているのか?

答えは誰も知らない。政府も、自衛隊も、僕たち家族も。ただ待つことしかできない。

でも、待ってるだけじゃダメだ。

何かしなきゃいけない。

そんな気持ちが胸の奥で芽生えていた。

あの黒い宇宙船が何を意味するのか、僕はその答えを見つけるために動き出すしかない。そう決意した瞬間、窓の外で再び光が点滅した。

物語は、ここから始まる。


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地球黎明期 鳴沢寧 @yasuu_kusayan

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