第30話 クッキー

私は若者達に王都で戦場への旅で必要なものを買うように頼み、メアリーにいざなわれ、全体が高い城壁に覆われた広大な王都南端のある場所へと案内された。

数メートルの鉄柵に囲われた小高く広い丘は全体が菜園や果樹園となっていて、その丘の頂上中心に建てられた古びた二階建て屋敷の周囲には、近衛兵達が広い間隔で並び、警備に当たっているのが見える。

私は屋敷内に居る貴人の見当がついているが、あえて考えないようにした。


衛兵達により門が開かれ、丘から屋敷へと伸びる一本道を進んでいく。

左右の菜園は夏野菜が実をつけ見事なものだが、メアリーが王宮ではなくここに連れてきたということは、王の御内意ではないということだ。

重くなりつつある気持ちを晴らそうと、青空を見上げ大きく息を吐いた。


屋敷内は調度品も使用人も少なく閑散としていて、私が一階の応接間に座らされるとメアリーは出て行った。

多少緊張をしつつ待っていると、ロングスカートにエプロン姿で長い総白髪を後ろで束ねた、目鼻立ちの美しい長身の中年女性が、焼きたてのクッキーを乗せたトレイを持ち、優雅に入ってきた。

思わず立ち上がり、騎士式の敬礼をしそうになると女性は穏やかに微笑み

「トーバン、今日は堅苦しいのは良いの。座りましょう」

「はい。王妃様」

そう、この場所は王族の王都内別荘なのだ。そして最も良く利用しているのは王妃である。

黙って言われた通りにすると王妃はテーブルに皿を置きつつ座り

「……私と王の想いについては、モーリから伝わったと思うので、あえてこの場では口にしません」

私は黙って頷く。

「私を入れ歯にしたあの子は、その価値があったと思うわ」

5人目の出産時に王妃は歯をかなり失っているというのは本人が公言している。

王妃は化粧をしていない顔を微笑ませると青く澄んだ両眼で見つめてきて

「ローズのことです」

私は心中で大きくため息を吐く。

その話題の可能性が高いと思っていた。


王妃は私にクッキーを食べるように勧め、その昔ながらの素朴な味を噛み締めていると

「知っての通りローズは、大人になれなかった。繊細なあの子に王宮は難し過ぎた」

出来うる限り畏まった姿勢を見せつつ、黙って聞く。王妃は微笑みながら

「恋というのは強くなったと錯覚もするものです。けれど今考えると、相手と釣り合わなかったわね」

その相手とはアダムのことだ。

彼が丸坊主にして顔に泥を塗ってまで逃げた相手とは困ったことに第一王女なのだ。彼と深く関わりつつある私はひたすらに恐縮するしかない。王妃はクッキーを口に入れると上品に咀嚼し飲み込む。そして

「トーバン、私も愚かな親の一人です。ローズで手打ちにしたいと思いますが?」

聡明な王妃は、マルバウ王子をダイナミス平原の生贄にしたのは別の子を救うことで許すと言ってきている。

軽々と締め上げられ追い詰められた私は大きく息を吐き

「王妃様、ローズ姫のため、このトーバン、どのようにすれば良いのでしょうか」

王妃は実に綺麗に微笑むと

「知りません。と言いたいところだけど……」

少し考え、そして

「釣り合わぬ相手を諦めさせ、あの子に釣り合う相手を見つけなさい。ちょうど東部戦線の近くなので、旅行ついでにね?」

確かに第一王女ローズ・ローファルトの領地は王国東部の複雑な山岳地帯だ。

……とんでもない無理難題だ。

とてつもない難癖でもある。

しかし、この王妃マーサ・ローファルトというお方は若い頃から、この様な性格なのだ。抜群に切れる頭で他人を使い倒す。

詩や文学、哲学にのめり込み、ともすれば意思疎通の難しい王の最も有能な理解者であり、謀臣でもあるという王の半身の様な人なのだ。


「頑張ってみます」

観念した私がそう答えると、木製のバスケットケースを持ったメアリーが室内に入ってきて、手慣れた様子で素早くクッキーを詰めていった。

王妃はそれを楽しげに眺めながら

「トーバンにはメアリーって名乗ってるのよね?」

メアリーが微笑んで頷くと王妃は

「メアリーは私の大切な友人で、様々な国の話を聞かせてくれるの。例えば、精霊憑きのヴァシルは、若い女性の吟遊詩人と黒い犬の幻と会話しているらしいとかね」

私が黙っていると

「バルボロスは反バルボロス派の政略に苦慮しているようよ。異民族の大集落に頻繁に通っているのは帝都が息苦しいのね。下手に大勝したものだから、身動きが取りにくいみたい。誰かさんのお陰でね」

黙って深く頭を下げる。王妃なりのリップサービスだ。

メアリーが全てのクッキーを詰め終えると王妃は

「トーバン、出来の悪い親でごめんなさいね」

優しく微笑みながら、鮮やかに応接間を出て行った。


屋敷の敷地外に出てようやく緊張が解ける。

「ふう……」

思わずため息が漏れると、バスケットケースを持ったメアリーが

「あのお方は心底、心を痛めておられます」

「……お子たちについて、ですかな」

モーリ王女以外の王子王女は美点よりも問題点が多い。

メアリーは首を横に振り

「違います。王国の行く末についてです」

「……そうですか」

視野が広すぎると大変だろうが、地を這う生き方をしてきた私には、王妃の空を飛ぶ様な苦しみは到底伺いしれぬし、今は目前に迫った戦場に集中したい。


集合場所のケンリュウの鍛冶屋前へとメアリーと向かうと、黒馬が繋がれている荷車にジュースの瓶が山と積まれていて、一緒に乗っている自慢げな少女が立ち上がり、こちらへとピースサインをしてきた。

ケンリュウとチャスルと話し込んでいたアダムが申し訳なさそうに私に

「押し切られました」

「金貨を使ったのか」

困惑していると、メアリーが微笑みながら、荷車の近くでバスケットケースを開き、少女がそれを見ると飛び降り

「クッキー!久しぶり!ちょうだい!」

メアリーはバスケットケースを閉めると首を横に振り

「ご令嬢、荷車のジュースを半分、ケンリュウさんに預けたら良いですよ」

ケンリュウは驚いた表情で

「置く場所ねえよ」

メアリーは上品に微笑みながら

「夜には取りに来ます」

ケンリュウは顔を顰めて頷いた。そして私に

「しょうもねえ盾で死にかけたんだってな」

アダムのことだろう。

何かを押し付けられる予感がしたので

「彼は傷すら負っていないが」

そう言葉でかわすと、ケンリュウは鼻で笑った後、店の奥から新品の分厚く1メートル半ほどの長さがある金属大盾を軽々と持ってきた。そして

「嬢ちゃん、クッキー全部と引き換えだ」

少女を見上げてニヤリと笑う。


少女は混乱した表情になり

「つまり?メアリーのクッキーと私のジュース半分が交換で、その後、貰った全部のクッキーとその盾が交換ってこと?」

ケンリュウは嬉しそうに私を見つめ

「嬢ちゃん、馬鹿じゃねえぞ!じゃあ、その先だ」

緊張した面持ちになった少女を彼は再び見上げると

「この盾は、嬢ちゃんが受け取るもんじゃねえ、アダムのもんだ。でも嬢ちゃんがクッキーを諦めて俺にくれたらアダムはこの盾で皆を守るだろうな。どうする?」

少女は唸りながら、しばらく必死に頭を働かせると

「……トーバン、分からない」

困り顔で助けを求めてきた。私はできるだけ穏やかに

「ケンリュウは、何が自分にとって一番得かを考えろと言っているのだよ。アサムリリー君にとって、ジュースを飲むのが得か、クッキーを食べるのが得か、盾によって皆が守られるのが得か、という選択だね」

少女は涙目で

「全部……全部欲しい……もん」

と言うと馬車から飛び降り私に抱きついてきた。私は息を吐いて

「交渉と言うやり方もある。ケンリュウから示された選択肢はまだ一方的なものに過ぎない」

ケンリュウの方を向き

「クッキーは半分ではダメかね」

彼は首を横に振り

「それ、見覚えあるんだよ。さるお方が特に気に入った者にだけ焼くもんだろ?千金払っても死ぬまでに食いてえって言ってる馬鹿な雑兵共が居てなあ。半分じゃ足んねえのよ」

もはや騎士ではない私は王妃のクッキーにありがたみは感じないが、そういうことならば仕方ないか。

とは言え少女の為に少し粘ってみよう。

「君も知っての通りクッキーを焼いたお方は、千の目と耳を持つ貴人なのだ。今もそのお方の眼は我々を見ている」

チラッとメアリーを見る。

「元々は我々5人がそのお方にご招待されていたのだ。そうですね、御婦人」

メアリーは微笑みながら頷いた。

「つまりケンリュウ、そのクッキーは私とアサムリリー君、アダム、そしてチャスル君、ここには居ないがブロッサム君の分も含まれると考えて良いわけだ」

ケンリュウは嬉しそうに舌打ちすると

「アダム!店の中から新品の鉄皿持ってこい!」

苦笑いするアダムへと言いつけ、わざとらしく腕を組み顔を顰め

「5枚だけだ」

「いや6枚だ。同席したメアリーさんの分も貰う権利がある」

ずっと黙って腕を組み聞いていたチャスルが感心したように唸り、少女が心底驚いた表情で両眼を見開き

「凄い……これが交渉……!トーバン!頑張って!いけるわ!」

と言った瞬間、ケンリュウとメアリーが同時に噴き出した。そして大笑いしだす。

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