あなたの人生、売ります

わんし

あなたの人生、売ります

 和馬かずまは窓の外に広がる灰色の空を眺めながら、疲れた身体をソファに沈めた。


 もう何日も、あの日から何も変わっていない。就職活動が思うようにいかない日々が続き、何度も履歴書を書き直し、面接に臨んだが、結果はいつも同じだった。


 どんなに努力しても、どこかで自分には足りないものがあるように感じられた。社会の中で自分の居場所を見つけられず、何もかもが無駄に思えてきた。


 和馬は大学を卒業して半年が過ぎた。


 友人たちは次々と新しい職場に就き、それぞれの道を歩んでいるというのに、自分はどこでつまずいたのか、ただただ不安と焦燥感に苛まれた。心の中で、あのころの自分がまだ目の前にいるような気がしてならなかった。


 あの頃は、未来に希望を持っていたはずだった。


 しかし、今の自分はその希望すらも感じることができない。


 ある夜、和馬は再びネットで就職情報を探していた。スクリーンに映し出される求人広告が目に入る度に、胸の中で何かが沈んでいくような感覚に襲われた。


 ふと、目にしたのは、他の広告と一線を画すものだった。


「あなたの人生を高額で買い取ります。」


 その文字が不思議なほど目を引いた。普段なら無視してしまうような怪しげな広告だったが、和馬はなぜかそれをクリックしてしまった。


 画面に現れたのは、シンプルなデザインのサイト。サイトの中には、どう見てもまともではない内容が並んでいた。


「あなたの人生、売りませんか?」


 その後に続く言葉が、和馬の心を捕えた。


「人生に行き詰まりを感じている方、もう一度、最良の選択をするチャンスを手に入れませんか?」


 サイトには詳細が書かれていた。それによると、何もかもが上手くいかない人生を他人に売ることができ、その代わりに相応の金額を受け取るというものだった。


 そして、その売買に関わる一切の手続きをネットで完結できるという。


 和馬は軽い気持ちで、申し込みのページを開いた。


「人生を売るなんて、ありえない。」


「だけど、もし本当にお金を手に入れられるなら、少しは楽になれるかもしれない。」


 迷いながらも、和馬は必要事項を入力した。名前、年齢、住所、そして、売りたい理由を簡単に記入した。


「どうせ無駄だろう」


 と思いながらも、最後に「申し込み」をクリックすると、画面に「確認」と表示された。


 すべての内容が正しいことを確認し、再びクリック。


 その瞬間、和馬は深くため息をついた。心の中で、どこか悪い予感がしていた。


 だが、それが現実になることを、彼はまだ知る由もなかった。


 画面の前で、和馬はしばらく動かずにいた。次の瞬間、メールの通知が彼のスマートフォンに届いた。


「あなたの人生は1000万円で売却されました。」


 和馬は一瞬、画面を凝視した。


 信じられない思いで、何度もその通知を読み返したが、どこにも冗談だとは書かれていなかった。


 彼は、軽い気持ちで申し込んだだけだったが、その通知は間違いなく現実だった。


「本当に……?」


 和馬は、自分の手にスマートフォンを握りしめたまま、深く息を吸った。


 その時、銀行からの振込通知が画面に現れた。1000万円。まるで夢のような金額が、確かに振り込まれていた。


 和馬は信じられない気持ちを抱えながら、座り込んだ。頭の中でさまざまな考えが巡るが、どこかで一瞬の安心感も感じていた。少なくとも、今の自分には、希望の光が差し込んだように思えた。


 だが、すぐにその気持ちが不安に変わる。


「どうしてこんなことに……」


 和馬は、少しの間、目を閉じて考え込んだ。今後どうすべきなのか、何をすべきなのか。だが、頭を整理する暇もなく、彼の心はますます落ち着かなくなっていった。


 翌日、和馬が目を覚ますと、何かが違っていると感じた。普段通りに目を開け、窓から朝日が差し込むのを見たはずなのに、何かがぼんやりとして、世界が一歩遠く感じられた。


「ただの寝ぼけか?」


 和馬は自分をなだめるように思い、手を顔に当てて伸びをした。


 そのまま、スマートフォンを手に取ると、昨日受け取った振込通知がまだ残っていた。


 1000万円。改めてその金額を目にして、少し胸が高鳴る。


 しかし、ふと気がつくと、手のひらに冷たい汗がじっとりとにじみ出ているのを感じた。


「本当に、これは……現実か?」


 昨日はあれだけ信じられなかった振込通知が、まるで現実であるかのように感じられた。


 しかし、今は何かが引っかかる。まるでどこかに間違いがあるかのような、根拠のない違和感。

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。和馬は少し驚いたが、急いで玄関に向かう。


 だが、ドアを開けた瞬間、彼はさらに強い違和感を覚える。


「和馬、いるか?」


 声の主は、大学時代からの親友である俊介だった。普段ならば、すぐに顔を出す和馬だが、今日はなぜかその姿に見覚えがなかった。


 俊介はあまりにも自然に、まるで和馬がそこにいることが当たり前のように振る舞っているが、和馬は違和感を隠せなかった。


「お、おう、俺だよ。」


 和馬はあわてて返事をし、玄関から顔を出した。だが、俊介は不思議そうに彼を見つめて、少し首をかしげた。


「お前、最近なんか元気ないな。調子悪いのか?」


「いや、大丈夫だよ。」


 和馬は答えながらも、心の中で動揺していた。俊介の目が、どうしてもどこか冷たく感じられ、昨日までの温かい友情が薄れていくような気がした。


「まあ、今度飲みに行こうぜ。とりあえず、今日は用事があるから。」


 俊介はそう言って、和馬をじっと見た後に、そのまま足早に去っていった。和馬はその背中を見送りながら、ますます不安になった。


「何かが……おかしい。」


 その日は、部屋に一人残された和馬は、どこか心の中で空虚さを感じていた。家の中が静まり返り、まるで何もかもが無意味に思えてくる。自分の存在が、ただ空気のように消えていくのではないかと、ふと考えてしまった。


 その夜、和馬は自分の家族に電話をかけた。普段なら、簡単に出る母親の声が電話の向こうからは聞こえてこない。何度もかけ直すも、結局、母親は電話に出ることはなかった。


「どうして……」


 和馬は不安と疑念を抱えながら、次第にその不安が強くなるのを感じていた。あの振込通知に何か意味があるのかもしれない。あるいは、この世の中で自分の存在が消えつつあるのかもしれない。


 翌日、和馬は試しに、家の中で何かを変えてみようと考えた。どこかで、何かを証明したいと思った。試しに鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。しかし、鏡の中で見つけた自分の顔は、あまりにもぼんやりとして、まるで他人の顔のように感じられた。


「俺って……本当に、ここにいるのか?」


 その疑念が消えることなく、和馬は次第に、自分の存在そのものに恐怖を感じるようになっていた。家の中では何もかもが変わらず、普通のように見えても、周囲の人々は彼を徐々に無視するようになった。


 ある日、和馬が街を歩いていると、道行く人々が彼を見ても目を合わせることすらしないのに気づく。あまりにも不自然だと感じ、和馬は意識的に誰かに声をかけてみた。


 しかし、どんなに声をかけても、相手は彼をまるで無視しているかのように、通り過ぎていく。


「これ、どういうことだ……?」


 和馬は自分の周りの人々の目線が、まるで彼を認識していないかのように感じた。親しい友人も、顔見知りの店員も、すべてが無関心に見える。心の中で焦燥感が募る中、和馬はその日の帰り道、スマートフォンを再び手に取った。


「何か、手がかりがあるかもしれない。」


 サイトの履歴を辿ってみたが、そのページはすでに消えていた。再度アクセスしようとすると、表示されるのはただのエラーメッセージ。


「サイトが見つかりません。」


 その時、和馬の心に恐怖が走った。自分が一体何をしたのか、そして何が起こっているのか、その答えを知る術はもう残されていないのだろうか。


 彼の周囲は、少しずつ、確実に変わりつつあった。


 和馬は夜になると、家の中でただ一人で過ごすことが多くなった。周囲の人々が彼を認識しないことが日常になり、家族の記憶すらも曖昧になってきた。


 どこに行っても、誰も彼を見ていないような感覚に囚われ、彼は次第に精神的に追い詰められていった。


 それでも、和馬は諦めなかった。彼は手がかりを探し続け、何とかこの状況を打破できる方法があるのではないかと必死に思考を巡らせた。


 インターネットを使い、何度も何度も「人生売買サイト」のことを調べてみたが、もうどこにもアクセスできなかった。


 サイト自体が、まるで最初から存在していなかったかのように消えてしまっていた。


 その夜、和馬は気がついた。彼の部屋の机の上に、以前はなかったノートが置かれていた。無造作に置かれているそれを見て、和馬は一瞬戸惑ったが、すぐに手に取った。ページをめくると、何も書かれていない空白のページが続いていたが、その最初のページには、奇妙な文字が書かれていた。


「あなたの人生は、すでに誰かの手に渡っています。」


 その言葉を目にした瞬間、和馬は冷たい汗が背中を伝うのを感じた。まるでその文字が、彼に対する告知のように響いた。


 そのノートに書かれていることが、次第に現実となりつつあることを理解した。


「売った、俺の人生を。」


 和馬はついに、すべてを悟った。彼が申し込んだサイトが、ただの金銭的な取引に過ぎないわけではなかったこと。


 サイトの運営者は、彼の「人生」を単に金で取引していたのではなく、彼を現実世界から完全に抹消するためにその金を支払ったのだ。


 その事実を理解した瞬間、和馬は本能的に逃げ出したい衝動に駆られた。


 しかし、どこへ逃げても、周りの人々は彼を認識しない。そして、最も恐ろしいのは、自分の存在そのものが、少しずつ消え去っているということだった。


 翌日、和馬は再び街に出た。だが、今度はさらに恐ろしい変化が訪れていた。彼が通りを歩いていると、人々がすれ違う度に、まるで彼を避けるように道を開けて通り過ぎていくのだ。


 誰一人として、和馬に視線を送らない。まるで、彼が透明な存在になったかのように。


「どうして、誰も俺を見ない……?」


 和馬は心の中で必死に叫んだ。友人も家族も、もはや彼のことを覚えていない。街の人々の中に彼の存在はなく、過去に存在したはずの記憶すらも消えかけている。


 その時、ふと目に入ったのは、道端の広告だった。

「あなたの人生、売りませんか?」


 その広告は、まるで和馬に向けられたかのように、彼を冷やかし、さらに追い詰めるように感じられた。


 サイトは消えたはずなのに、広告は依然として表示されていた。そして、その広告の隣には、再び見慣れたロゴが現れていた。


 和馬はその広告を見て、心底から恐怖を感じた。彼は今、完全にこの世界から消えつつあるのだと実感した。


 人生を売った者は、どんどんその存在が薄れていき、最終的にはこの世界から抹消される。そして、次に待っているのは、他の誰かがその人生を手に入れることになるのだろう。


「俺は、もう……」


 和馬はその場に立ち尽くし、すべてが無意味に思えてきた。過去も未来も、そして今も、すべてが消えていく中で、彼は唯一の確かなことを知っていた。


 自分が、もう存在しないのだということを。


 その瞬間、和馬は背後で何かを感じて振り返った。だが、そこには誰もいなかった。ただ風が吹き抜ける音だけが、無機質に響いていた。


 和馬は、動けずに立ち尽くしたまま、目の前の風景を見つめていた。周囲は変わらず、歩き続ける人々や、日常的な騒音が耳に届いていた。しかし、彼自身はそのすべてが、遠くから眺めているような感覚になっていた。


 まるで、世界の一部でありながら、そこに存在していないかのようだった。


「俺はここにいた。」


 和馬は、ふと思いつき、手に持っていたノートにその言葉を書き始めた。


 ペンの先が紙に触れるたびに、微細な感覚が伝わる。だが、筆圧がかかる度に、彼の手は震えていた。彼が感じる現実と、周囲の人々が感じる現実には、もはや決定的な違いがあるのだと、和馬は深く理解していた。


「俺は、確かにここにいたんだ。」


 何度も何度も、その言葉を書き続けた。ページの隅々まで、彼の存在を示す言葉を埋め尽くしていく。


 彼はただ、記憶を留めたかった。


 せめてこのノートだけは、消え去ることなく残ってほしいという強い願いが、彼の手から滲み出ていた。


 それから、数時間が過ぎた頃、和馬はやっとペンを止め、ノートを閉じた。


 ページには、彼の名前と、「俺はここにいた」という言葉がしっかりと残っていた。しかし、ふとした瞬間に、和馬はノートの中身が急激に薄れていくのを感じた。文字が消えていく。その様子は、まるで水に溶けるインクのようだった。


「なんだ、これ…?」


 和馬は慌ててノートを開き直した。だが、ページをめくると、もうそこには何も書かれていなかった。完全に白紙となったノートを見つめながら、和馬は絶望的な気持ちに包まれた。


「消えていく…。俺のすべてが、消えていく…。」


 彼の言葉が、ひときわ大きく響いた。しかし、周りには誰も反応しない。彼の声は、もはや誰にも届かないものとなっていた。和馬の存在は、まるで元からこの世界にはいなかったかのように、完全に失われてしまった。


 その後、和馬の姿を見た者は誰もいなかった。彼の家族も友人も、すべての記憶から和馬という人物が消え去った。街の中を歩いていた人々の記憶にも、和馬の姿は一切残らなかった。和馬がその人生を「売った」ことは、今やもはや存在しない事実となった。


 そして、翌日、和馬がかつて見た「人生売買サイト」の広告が、再びネット上に現れる。


「あなたの人生、売りませんか?」


 その広告は、今度は新たな誰かに向けられているかのように、静かに画面を占めていた。次の犠牲者が現れるのを待ちながら、サイトの管理者たちは、無表情でその言葉を繰り返すだけだ。


 人々はまた、軽い気持ちでそのサイトにアクセスし、人生を売り渡すことに疑問を持たないまま、日常を過ごしていくだろう。


「売った者は消える。」


 和馬の名前も顔も、今はもう誰の記憶にも残っていない。ただ、消えていった存在として、この世界の片隅に存在している。


 彼が残した唯一の証拠は、その消えたノートの中の文字だけだった。


 そのノートは、今もどこかで誰かの手に渡り、また新たな物語が始まるのだろう。

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