第5話
桐継 磨央。
彼がそこにいたのだ。
忘れかけていた彼との時間が一瞬で脳裏を過っていく。
しかし彼の視線の先は私ではなかった。
美都祇は確かに綺麗だ。雨に少し濡れている彼女は絵画のように儚かった。
女の私からしても魅力的だ。見てしまうのもわかる。
恐らく数秒の間だったが私にとってそれは長い沈黙だった。
静かに雨が弱まっていく。
少しずつ雲が晴れていき太陽の光が隙間からこぼれてくる。
明かりが彼女を照らしそして磨央は彼女の隣にいる私に漸く気が付く。
ほんの一瞬だけ目が合った。しかしすぐにそらして雨が弱まったのと同時に彼はそこを離れた。
私の心臓はまだドクドクと音を立てている。彼の後ろ姿を見て本当に他人になったのだと実感させられた。
いや、もとより他人だったのだろう。
私だけが彼を特別視していた、という可能性の方が高い。
静寂を切ったのは美都祇だった。
「見て、虹。」
彼女は私の手を握りそう言った。
多分握ったのは私の手が震えていたからだった。
顔を上げるとそこには綺麗な虹が掛かっていた。
それは“遠い”だった。
いくら私が手を伸ばそうと届かない、綺麗なモノ。
彼女はすぐにそれを見つけるのだから、やっぱり彼女も届かないものなのだ。
「……綺麗だね、とっても。」
私はそう、言葉をこぼした。
彼女はフフと微笑む。そして私の手を握ったまま雨宿りの場所から私を連れ出す。
「雨が上がって、こうして虹を見れて。季津果とこの景色を見れて私はとっても幸せよ。」
彼女はそう口にした。
疑いたくなる程真っ直ぐな言葉で、それは私の心の奥にナイフのように突き刺さる。
その言葉を疑う罪悪感みたいなものが私の心に更に深く深くその言葉を刺していく。
彼女は気を使っているのかもしれない。
そうではなく本心で言っているのかもしれない。
真理なんて誰にもわからない。
わからなくて、いいんだと思う。
正しさばかりを追求して他人を疑うばかりの日常は自分の首を絞めるだけなのだから。
私が好きなもの。
それはお部屋にあるくたびれた犬のぬいぐるみ。
幼い頃に母にねだって買ってもらったものだった。
私が好きなもの。
譜面上にある情報を正確な音で奏でてくれる鍵盤。
これも幼い頃に父と母が私に買ってくれたものだった。
私が好きなもの。
誕生日ケーキにだけ刺さっているロウソク。
白い生クリームとイチゴがオレンジ色にゆらゆら照らされて
子供ながらに幻想的だと思ったものだ。
私が好きなもの。
そうね。これは“今だけ”かもしれないし、ものではない。
“彼女と見る景色”
私の革靴は彼女に手を引かれて水たまりに入ってしまった。
靴下に水が浸透して少し気持ち悪い。
でもそんなことよりも彼女と見る景色が美しくて。
目の前に広がるシルクのような髪の毛がとても綺麗で。
私は好きなものを眺めたり感じたりしている時と同じ感覚になった。
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