第3話

そして私は彼女に今日あった出来事を話した。

そこに私たちの他にも沢山の人がいるはずなのに、まるでこの空間には二人だけしかいないようだった。

彼女の言葉しか私には届かない。


「さよならを言いたくなかったのね。」


彼女の声は実にフラットで、それでいて透き通った水のようなスッと、耳から体に浸透していくような声。

私は自分の声で次に続くかもしれない彼女の言葉を遮らないように、コクリと頷く。


「李津果はとても繊細ね。私ね本が好きでここに来るわけじゃないのよ。」


「ここの珈琲がお気に入り、とか?」


そんな質問を聞いてクスリ、と笑う彼女。


「珈琲は確かに欠かせないわ。私が好きなものは“言葉”よ。」



彼女は机に置いた文庫本をトントン、と指さす。


そしてタイミングよく、店員さんがやってきてそれぞれ頼んだものが机に置かれてゆく。

店員さんは静かにお辞儀をして去る。恐らくここが本を読む場所故の配慮だろう。もちろん会話を楽しんでいるお客さんもいるが。


彼女は珈琲を一口飲む。私もつられて紅茶を一口口にしようとしたが生憎猫舌のせいで飲めずに紅茶は机の上に戻ることになる。


「言葉の魔法ってよく言うでしょう。言葉一つで人間の思考は変えられる。本当に思考だけなのかと思うこともあるわ」


「それってどういう意味?」


彼女は文庫本にあてていた綺麗な人差し指を私の胸に当てる。


「さぁ、どういう意味なのかしらね。李津果ならきっととっくに知っているんじゃないかしら。」


と不敵に笑った。


彼女の言葉の意味は胸に手を当てても理解できなかった。


彼女の言う“それ”は何故彼女がこの場所を好きなのかを知ることができれば解るのかもしれない。


いつの間にか時は過ぎていて窓から見える景色はオレンジ色の街頭と車のヘッドライトの明かりで灯されていた。

私は慌てて本を閉じる。

そう、彼女との会話はあそこで終わっていたのだ。いや、正式には“今のあなたに薦めたい本があるの”と彼女が切り出したのだ。あまりにも非現実的な美しい顔立ちの彼女に非現実的な行動や言葉づかいをする彼女を前に私は茫然としてしまったのだ。そんな私に気を使ってなのかそう彼女は切り出した。そして私は彼女が薦めた本を読んでいたらいつの間にかこんな時間になっていた、というわけだ。


物語はヴァンパイアと人間が恋に落ちる物語で、相いれない二人が様々な壁を前にしながらも二人で困難を乗り越えるという物語だ。


彼女はというと、参考書を横に勉強していた。


まずい、これは私を待っていてくれていたに違いない。


「ごめん!!!つい、夢中になってしまって……」


慌てて謝る私をよそに彼女は静かに顔をあげ、長い髪を耳にかけ私に微笑んだ。


「そう、それはよかった。」



彼女はそう言ったのだ。




彼女の唇を纏う綺麗なオレンジ色のグロスに気付いたのはこの瞬間だった。

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