キラー・ひな人形

武州人也

闇バイトとひな人形

 夜の街に冷たい雨が降っていた。ネオンの灯りが濡れたアスファルトに滲み、路地裏には腐ったゴミの臭いが漂っている。じんは薄汚れたフードを目深に被り、手を震わせながらポケットに突っ込んだ。


「やるしかねぇ……」


 ポケットには小さなナイフと、指示書が入っている。紙には殴り書きの文字。


『夜二十三時、黒瀬くろせ邸に侵入し、金目の物を奪え』


 脅しの言葉は書かれていない。それがかえって不気味だった。スマホと個人情報さえ押さえてしまえば、それ以上の脅しは必要ないってことだろう。


 仁は借金を抱えていた。最初の勤め先でパワハラに遭い、退職後も時折それがフラッシュバックしてしまう。職をいくつか転々として、どれも長続きはしなかった。収入が途絶えて家賃が払えず、サラ金で借入をしては支払いに充てている。こんな暮らし、長く続くはずがない。


 そんなある日、求人アプリで「急募!高収入!深夜バイト」という張り紙を見つけた。内容は深夜に野良猫を探すというもので、日給はなんと2万円。それに飛びついた結果……怖い人に個人情報を握られ、スマホを取り上げられて今に至る。


 標的の黒瀬邸は、この街でも指折りの富豪が住む屋敷だった。屋敷の主である黒瀬氏は大手機械メーカーの創業者らしい。厳重なセキュリティがあるはずだが、事前に仕入れた情報では「独特な警備システム」が導入されているらしい。その意味が分からぬまま、仁は指定された通用口へと忍び込んだ。


 仁は手袋をはめ、ポケットから小型のガラスカッターを取り出した。使い方はさっきコワモテの男に教えてもらった。震える手で窓ガラスの端に吸盤を押し当て、円を描くようにゆっくりと切れ込みを入れる。数分後、慎重にガラスの円盤を外し、手を差し込んで内側の鍵を外した。思っていたより簡単で、仁は拍子抜けした。


 もう後戻りはできない。屋敷の中へ足を踏み入れる。


 ——静寂。


 だが、どこか異様な雰囲気が漂っている。天井は高く、黒光りする床が広がる廊下の先に大広間が見えた。そして——


 そこに鎮座していたのは、ひな壇だった。そういえば今日は三月三日だったか、と、今さらながら思い出した。仁は一人っ子だったから、ひな祭りには全く縁がなかった。姉か妹がいたとしても、ひな人形を飾るとは思えないほどの貧乏な一家だったが。


 七段飾り。最上段に座す内裏雛が、まるで仁を見下ろしているかのように感じた。こんな立派なものを飾るのだ。やはり金持ちは違う。


 ——カタッ。


 小さな音が響いた。


 その瞬間、五段目の衛士たちが、一斉に顔を上げた。


 仁の背筋に冷たいものが走る。見間違いじゃない。人形が動いた。


 次の瞬間——衛士のうちの一体が、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には微かな赤い光が灯っている。仁は息を呑んだ。


 そして、三体の衛士は、懐から何かを取り出した。


「っ!」


 ——それは小刀だった。ひな壇の淡い灯りに照らされて鈍く光る。


 ——シュッ!


 一体が音もなく床を蹴って、仁に向かって飛びかかる。反射的に後ずさるが、足がもつれて転びそうになる。


 「待て! 俺は——」


 言葉を発する間もなく、小刀が仁の目の前を横切る。紙一重で避けたが、フードが裂けた。この刀、本物の刃物だ。


 「チッ……」


 仁は身を翻し、近くの棚へと転がり込む。衛士の動きは人間のものではない。まるで糸で操られた人形のような、ぎこちないが異様に速い挙動。


 二体目が側面から迫る。仁は転がりながら棚の置物を掴み、それを思い切り投げつけた。が、衛士は無造作に刀で弾き飛ばす。小さいくせに、想像以上のパワーだ。


 ——このままでは殺される!


 呼吸が荒くなる。まともに戦う手段などない。とはいえ逃げ出せば、裏社会の人間によって東京湾の藻屑に変えられるだろう。何か一つ、でも持って帰らねば……


 大広間にある襖に向かって駆け出す仁。だがその瞬間、ひな壇の三段目、五人囃子が動き出した。彼らは笛を吹き、太鼓を叩いて音色を奏でる。


「うっ……」


 今まで聞いたことのないような、不快な音が耳をつんざく。あまりにひどい音色のせいか、激しい頭痛が仁を襲った。


 だが、苦しんでばかりもいられなかった。正面と左右の三方向から、小刀を手にした衛士たちが迫りくる。


「クソがっ!」


 仁は箪笥の上に置いてあった花瓶を手に取り、思い切り振るった。正面から飛びかかってきた衛士にクリーンヒット。地面に叩きつけられ、小刀を手にしたまま動かなくなった。


 そのとき、右ふくらはぎに鋭い痛みが走った。白刃が肉に食い込んで、鮮血が滴っている。刺された! 仁はほぼ反射的に、自分を刺した衛士を蹴り上げた。


「いってぇ……このやろう!」


 残る一体が左足に迫る。仁はさっき手にとった花瓶を投げつけた。衛士に命中した花瓶が割れ、花と水がぶちまけられる。すかさず追い打ちとばかりに、仁は衛士を踏んづけた。素焼きの陶器のように、衛士はあっさりと割れた。


 相変わらず音楽は鳴りやまない。さっさとこの大広間を出たいが、音楽と右ふくらはぎに苦しめられて、すぐには足が動かない。


 ――そこに、何かがヒュンと飛んできて、首の後ろに刺さった。手を回して取ると、それはつまようじぐらいの大きさの矢だった。


「お前かよ……」


 ひな壇の四段目で、右大臣と左大臣が弓を構えている。あれがこの矢を射たのだ。とはいえ人形の射るような矢だから、せいぜい大きさはこの程度だ。


「人形風情がよ……ふざけんじゃねぇよ!」


 体の底から、怒りが湧き上がる。仁はひな壇の正面にずかずかと戻り、思い切り壇を蹴った。暗がりの中に、バァンと大きな音が響く。この衝撃のおかげか、五人囃子の演奏も止まった。


「何が楽しいひな祭りだよ! 人間サマの邪魔しやがって!」


 怒りに任せて、壇をひっくり返した。人形や小道具類が床にばらけるのを見て、仁はせいせいした気分になった。


 ――そうだ。


 ひな人形に構ってる場合じゃない。早く何か金目の物を盗って、ここを立ち去らねば。そう思って、ひっくり返したひな壇に背を向けた。


「はぁ……はぁ……」


 何かがおかしい。矢の刺さった部分が、焼けるように痛い。それだけじゃなかった。喉の奥が痺れ、胃がひっくり返るような吐き気が襲いくる。体の震えが止まらなくなり、背筋に悪寒が走る。


 ――まさか、毒矢?


 胸が締め付けられる。心臓が速く打ち、やがてそれさえも乱れ始めた。熱と寒気が交互に襲い、体の中で何かが暴れ回っている。唾を飲み込もうとするが、喉が干からび、舌が動かない。呼吸ができない──。仁の額に汗が滲む。喉が渇く。指先が冷たくなっていく。指の先から感覚が消えていく。まるで体が自分のものではなくなっていくかのようだ。


 よろよろと歩き出した仁は、さっき開けた窓へ向かった。降参だった。裏社会の人間に何をされるだろうか……いや、もしかすればその前に警察か何かが動いて、命だけは助かるかもしれない。


 そんな仁の足首に、何かが絡みついた。


「あっ……」


 仰向けに転んでしまった仁が足元を見ると、彼を転ばせた犯人がわかった。三人官女が白いロープを握っていて、それを仁の脚に巻きつけていたのだ。


「やめてくれ……」


 仁の頭に向かって何者かが、ざり、ざり、と近づいてくる。それが何なのか、仁はすでにわかっていた。


 男雛と女雛が、仁の顔を覗き込む。彼らの手には、アイスピックのようなものが握られていた。


 深夜の豪邸に、男の絶叫がこだました。 


*****


「今回もパパの勝ちだったな」

「いやー、俺の負けだわ。父ちゃんの人形強すぎ(笑)ていうか毒は卑怯じゃない?」

「そのくらいいいだろうよ」


 石の壁に囲われた冷たい地下室で、白髪の老人とやせ型の中年男が薄型の液晶画面に映し出された映像を眺めていた。黒瀬機械工業の創業者、黒瀬高明くろせたかあきと、その息子の陽介ようすけである。


 黒瀬高明は自分が起こした会社をすでに手放していて、経営からは一切手を引いている。悠々自適の余生を過ごす彼には、一つの趣味があった。自分の作ったロボット警備システム殺人ひな人形を屋敷に配置して、そこに息子の手配した闇バイト……もとい挑戦者を向かわせる、という遊びであった。闇バイトが人形に負ければ高明の勝ち、人形に負けず盗みを成功させれば息子の勝ちというゲームだ。毎回のように死人が出ているものの、孤独な貧乏人を選んでいるから足はつかない。


「そもそも、陽介お前がもっと骨のあるやつ選んでこないからだろう」

「無理っしょそれは。退役軍人でも連れてこなきゃあ」


 映像の中で、挑戦者闇バイトは男雛と女雛に目をくり抜かれ、ぐったりと床に四肢を投げ出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キラー・ひな人形 武州人也 @hagachi-hm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ