ある男の話
蒼朔とーち
ある男の話
「俺は、後悔なんてしねえ!」
雪の中、そう言い放って家を出たのは何年前だろうか。
暇になったレジで思う。
それが、今じゃ一体何のために生きているのかわからない日々。
レジ打って、品出しして、口うるさいババアに嫌味を言われて、それなのに何も言い返せない日々。
いつになったら終わるんだ。
思い返せば、あの時終わっていたのかもな。
万引きをしたのが店員に見つかって、街中を走って逃げていた。
出くわす角すべてを曲がってとにかく追手を巻くのに必死だった俺は、気づくと交差点に出ていた。
人、人、人。飛び込んでくるどの景色も人だった。これなら巻ける。
迷わず人混みに突っ込んだ。
しかし、これが罠だった。
あまりの人の多さで身動きが思ったように取れなかった。
結局、追ってくる店員と挟むように前方から迫ってきた店員を躱せず、つかまってしまった。
片手をきつくつかまれる。
ああ、このまま連行されるしかないのか。
あきらめ半分で、なんとはなしに視線だけ上げた。
そしたら、手を少し伸ばせば届くちょうど良い距離に背中があった。
自転車に手をかけたじいさんだ。
ここでじいさんを押して、こけさせる。その少しの騒ぎの間に俺は自転車で逃亡する。
これしかないと思った。
躊躇なく、片手でじいさんの背中を手で押した。
ガシャンという音と同時に駆け出した。
手で押す寸前、じいさんが再び自転車にまたがろうと姿勢をとった。
押したじいさんは、体制を崩し、そのまま車道へと倒れていった。
ちょうどそのタイミングで、トラックが突っ込んできた。
けたたましいブレーキ音の後に背後がざわめきだしたと思ったが、逃げるには好都合だった。
しかし、逃走劇は1時間で終わりを迎えた。
まもなく警察が現れて、俺は捕まった。
じいさんが俺のせいで死んだことを知ったのは警察の話を聞いたときだった。
俺が押したじいさんはそのまま姿勢を崩し、車道に倒れこんだ。
そしてちょうどそのタイミングで、トラックが突っ込んできたらしい。
俺は5年間刑務所で過ごした。
万引きは、ちょっとした出来心だった。
バンドの歌詞が浮かばずむしゃくしゃしていた時に、ふと思ってしまったのだ。
誰もが驚くような歌詞は、誰もがやったことのないことを経験したから書けるのだと。
今思えばあまりにも短絡的で愚かしいのだが、当時ずっと追いかけていたバンドのメンバーが薬物で捕まったニュースを見た直後だった。
結局、歌詞云々以前に、バンドは解散、メンバーとはそれ以来会っていない。
あんな啖呵を切って出てきた手前、実家にも帰れない。
そうして出所後もずるずると、こんな生活をしているわけだった。
その日のコンビニでのバイト終わり、珍しく外食をしたくなって、近くの店に寄ろうとした。
しかし、ふといつも通る道の路地裏から声が聞こえた。
子供の声だ。
この時間に子供の、しかも泣き声だったような。
聞き間違えかもしれないが、意外と近くで聞こえた、
音のした方へ近づくと顔の高さくらいの塀に行き当たった。
おそらくこの裏側だ。
歩きながら、らしくない、と思う。
関係ないガキの声がした程度、いつもなら気にならないというのに。
だが、わけもわからないまま俺の足は塀の裏側へと向かう。
塀を回り込んで覗き込んでみたが誰もいなかった。
ただの空き地か。
どうやら聞き間違えだったようだと振り向いた瞬間、腹に衝撃が走った。
息ができない。
前のめりに倒れこむと、そのまま意識を失った。
目が覚めると、後ろ手に縛られていた。
見回すと少年が一人いた。
俯いてじっと動かないが、わずかに肩が上下している。
縛られたまま眠っているのか。
部屋を見つめていると暗闇に目が慣れた。
どうやら前方に窓があるらしい。
かがめば無理なく出入りできるような大きい窓だ。
「だからさあ、あの男は連れてくる必要なかったでしょ」
「うるせえ、顔を見られたんだからほっておけないだろ。あの場でやったら証拠が残る」
「じゃあここで殺すの?」
「あいつは後回しでいい。まずは金だ」
壁越しに犯人と思しき声が聞こえてきた。
どうやら、誘拐に巻き込まれたらしい。
話に耳を向けながら後ろ手をしばらく動かしていると、ほどなくして縄がゆるんだ。
これならいつでもほどけそうだ。
問題は、どのタイミングで出るかだ。
話は聞こえるが音だけでは状況がわからない。
銃でも持たれていたら危ない。こちらは生身だ。
バッグはとられているが、みぐるみははがされていない。
詳しくはないが、どう考えても素人ではありそうだ。
しばらく様子をうかがっていると、壁越しに電話音が聞こえてきた。
電話をどこかへかけたようだ。
まもなく話が始まった。
どうやら交渉をしているらしい。
初めは静かだったが、しばらくするとだんだんと声を荒げる様子が増えていった。 交渉が難航しているらしい。
じりじりと音に気をつけながら、ドアの隙間を覗き込んだ。
二人の人影が、電話に向かって怒鳴りつけている。
相当熱くなっているらしい、身振りも大きい。
そして手元には武器らしいものはみえない。
逃げるなら今がチャンスだと思った。
少年はまだ眠っている。
後ろ手を縛る縄をほどき、近くで眠っていた少年を抱える。
閉じ込められた部屋についていた窓から外へ出た。
音を立てないよう、慎重に足を伸ばす。
すとんと柔らかい感触が靴裏に伝わってきた。
足元には雪が積もっていた。
吹き付ける風は氷のように冷たかった。
かじかむ手で少年を抱え、走り出した。
あたりは木々に囲まれている。
ここがどこなのかまったくわからないが、眼前に続く斜面を下った。
しばらく進んだ時、背後で銃声がした。
悲鳴と、直後もう一発の銃声。
今の悲鳴、電話口で話していた誘拐犯の片割れの声だったような。
とにかく急ごう。
斜面を下りていくと、ほどなくして道路が見えた。
気になり後ろの様子をうかがうと、銃をもった兵士のようななりの男が、先ほどまでいた家の周りにいるのが小さく見えた。しかも一人ではなく数人だ。
見つかったら消されると確信した。
道路を渡り、さらに斜面を滑り下っていく。
10分ほどだろうか、斜面を下り続けて気づく。街が見える。
さらにその手前に橋がある。
これを渡り切ればあの街に着けそうだ。
少年を抱えて橋を渡り始めた。
橋は見渡がとてもよかった。
先ほどの斜面からでも橋の反対側まで見通せるほどだった。
それはつまり、自分と少年の姿が追手からすぐに見つかることを意味していた。
少年を抱えて走る。
背後から撃たれてもいいように、前に抱きかかえて走った。
少しでも距離を稼げ。あの街はそんなに遠くない。
吹雪が強くなってきた。
このまま強まれば、数メートル先も見えなくなるかもしれない。
そうなれば安全に街までたどり着ける。
その時、背後から銃声が聞こえた。
だいぶ近い。
どう考えても、こちらに向けた発砲だろう。
あと少し吹雪が強くなれば、もしかしたら逃げ切れるというところなのに。
しかし、吹雪の強風でバランスをとるのが難しく、走るのが難しくなってきた。
進みが遅くなる。
「う、うーん」
腕の中に抱えていた少年が小さく唸り声をあげた。
「起きたか」
「おじさん、だれ」
ぎょっとした目を向け怯えながら問いかけてくるのを無視し、続ける。
「走れるか」
少年の目を見つめ、強く訴えかけた。
それが伝わったのか、恐る恐るといった感じで少年は頷いた。
「よし、それでいい」
少年を腕から降ろした。
「走れ」
少年の表情が硬直する。
そこには不信と恐怖が混ざっていた。
シュン。
何かが耳をかすめた。
触ってみると、赤くにじんでいた。
血だった。
もう距離がない。
「走れえええええええ!!」
少年の背中を押し出し、自分はその後ろから壁になるように歩いた。
直後、猛烈な痛みが走った。
急に熱くなった腹部に手をあてる。
手が真っ赤に染まっていた。
よろよろとよろめき、耐えきれず地面に倒れこんだ。
とっさに前を見る。
少年が雪で見えないことに少し安心した。
それにしても痛い。呼吸が熱い。
ここで倒れて終わるわけにはいかない!
そう立ち上がろうとしたとき、再び体に衝撃が走った。
視界が白い。
何かが自分の上に積もっていく。
雪だ。
雪が舞っていたのか。
やさしく、舞い落ちる雪だった。
ああ、そうか。
寒さの中、ほんのりとあたたかいおなかに手を当てて目を瞑った。
死ぬというのに、不思議と後悔はなかった。
ほら見ろ、俺は後悔なんてしない人生を送れた……。
そんな風に誇示したいわけでもなく、ただすっきりと落ち着いた感覚だ。
そのまま目をつむった。
ある男の話 蒼朔とーち @torchi_1
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