3月5日:姉からの電話
眠りの中で夢を見る。暗闇に顔を塗りつぶされたのっぺらぼうの春香がこちらを見ている。生気のない足取りで静かに近づいてくる――。
「っ!! ……は、はあー……っ」
目覚めた綾の視界には見慣れた天井が広がっていた。毎朝見る景色、眠りから覚めて昨日の疲れがすっかり取れているはずの瞬間。
しかし今日はいつもの清々しい開放感はなかった。全力疾走した後のように脈を打つ心臓、気持ち悪い冷や汗が背中をぐっしょりと濡らしている。
綾は結局ほとんど寝ることが出来なかった。瞼を閉じる度に思い浮かぶ、あの春香の目。どうにか忘れようと頭まで布団にくるまってみても、温もりは決して救いにならなかった。むしろ濃さを増した闇に恐怖を掻き立てられていっそう息が苦しくなる。
今度はこの安全地帯の中に春香が現れてしまうのではないか。あるいはもしかしたらもう傍に立っていて、外に出たら目が合ってしまうのではないか。
そんな想像に囚われ、震える身体を抱きしめているうちに長い時間が経っていた。外から朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえた。布団から顔を出しても誰もいない。微かに白んだ空が心を温めてくれた。
それでほっと安心して浅い眠りについて――また夢で春香と出会った。
「なに、なにが起きてるの……?」
噛み合わずにかたかたとなる歯の根を落ち着けようと頬を抑える。窓の外の太陽は中天より少し浅いところから、柔らかな光で綾を包み込んでいた。
「こきゅう、そうだ、深呼吸、しなきゃ……」
気持ちを落ち着かせるために深くうららかな空気を吸う。そして恐怖ごと、不要になった息を吐きだしていく。
夜の影に怯える中で、綾は一つの確信を抱いていた。
(ゲンガーは
不定形な都市伝説、自分の罪悪感が見せる幻影などではない。ゲンガーは――春香は確かな意思を持って、電子の空間の中に存在しているのだ。
消えたくない、忘れられて電子の海の遺物に成り果ててしまいたくない。生存本能と言い換えてもいいそれを綾に訴えかけている。
他の誰かに言っても到底信じてもらえそうにない戯言だ。将来の不安で精神を病んでそんな妄想に囚われてしまったのだろうと言われるかもしれない。しかし綾にとっては今やその戯言こそが真実だった。
突然届いた謎のメール、勝手に切れていた配信、伝わってきた春香の思い。幻だと一笑に付すにはあまりにも不思議な点が多すぎる。
「でも……どうしよう」
ゲンガーが実在するならば、自分はどうすればいいのか。引退を取りやめて活動を続けると宣言する? まず思い浮かんだその選択を、綾はすぐさまよしとすることが出来なかった。
現実に立ちはだかった難題と向き合いながらバーチャルの世界に身を置き続ける。そんな器用に生きられるような自信がなかったからだ。
(それでもした方がいいのかな……)
トゥトゥルトゥルトゥトゥルトゥルトゥン♪
綾の思考を断ち切るようにスマホが着信を告げる。発信者は
「もしもし」
『もしもーし、綾、元気してる?」
「……うん、元気だよ」
『そっかあ。ならいいね、うん』
それから幸は挨拶もそこそこに『就職活動はどう?』と聞いてきた。
『あんた頭はよくっても暗いからさ、コミュニケーションに難ありって思われないよう頑張んないとだよ? 動画編集なんかに呆けてないでさ』
ずけずけと言葉で綾を突き刺してくる。応援しているようで内心綾を見下しているその口ぶりが、メスで何か所も肉を切り刻まれているように痛かった。
『母さんも心配してたよ? インターネットで知りもしない変な人達相手にお金を稼ぐことに慣れて、良くない仕事に行っちゃうんじゃないかって』
「……うん」
綾はバイトの代わりに動画編集の仕事をしていると家族には伝えていた。バイトもせずにだらだらしているんじゃないかね、と母に問い詰められたからだ。
配信者をしていると言わなかったのは、身内に自分の配信を見られるのが恥ずかしいからというのもある。しかしそれ以上に、新しい物はまず悪とみなす母が烈火のごとく怒り狂う様を容易に想像できたからだった。一人暮らしを始めるまでの十八年間の経験は、人から感情を真っ直ぐぶつけられることの恐ろしさを教えた。そして綾は人の怒りに触れないよう息を潜めることを覚えた。
そんな綾を幸はいつも蔑むような目で見てくる。どうしてそんな嫌うのか綾にはよくわからなかったけれど、嫌味を言うくらいなら放っておいて欲しかった。
『まああたしはあんたがこっちに迷惑さえかけなきゃどうだっていいけどね』
お互いに関わりたくないと思っているなら、なおのこと。
『母さんには心配しなくて大丈夫そうって言っておくから、落ち着いたら顔を出してあげなよ』
「そう、だね。うん、そうするよ」
そんな姉だけれど、母と綾との間にある微妙な空気を察して出来る限り直接会わなくていいようにしてくれていることはありがたかった。
『じゃあ、ばいばーい』
ぷつりと電話が切れる。部屋に満ちた沈黙が、綾には暗澹たる色をしているように見える。
配信者として生きる道を選べば、きっと母は金切り声で綾を
けれど普通に働いて、普通の人と同じように生きる道を選べば今度はゲンガーが邪魔をする。
その真ん中にある道には綾が居ない。自分には困難だとわかっている道を、親とゲンガーによって
社会も、家族も、自分の分身でさえ味方とは言えない敵だらけの未来。これから先何十年も出口の見えない暗いトンネルの中を歩き続けるような人生を想像して、胃から酸っぱい物が込み上げてくる。
「う、うう゛……!」
綾はトイレの中で一人、溢れてしまいそうになる涙をこらえていた。
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バーチャル・ゲンガー 星 高目 @sei_takamoku
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