3月2日:舞に相談

「えー! じゃあ綾、配信辞めちゃうの?」

 

「うん、そのつもり」

 

「……ちょっともったいなく感じちゃうな。せっかくたくさんの人に見てもらえるようになったのに」


 そう言って綾の対面に座る女性――松田 舞まつだ まいはコーヒーカップをさらりと口に運んだ。ミルクも砂糖も添えていない、苦みの際立ったコーヒーだ。綾にはとても飲めないそれを、彼女は頭をすっきりさせるのにちょうどいいからと好んで飲む。


「まあでも、うーん……綾がそう決めたなら、いいと思うよ。二兎を追うのは大抵落とし穴に落ちるからね」

 

「一兎をも得ず、じゃなくて?」


「実は何も手に入れられないだけならまだましなんだよね。本当に怖いのは、二匹ともウサギは逃げてるのにずっとその幻を追いかけ続けることだよ。時間の浪費、コンコルド」


 コンコルドコンコルド、と舞は二度繰り返した。


「人間時間も気力も有限だもの。そうなるくらいなら、一点集中して確率を高めるほうがよっぽどいい」


 大学で出会ったこの友人は、さっぱりと割り切った現実的な考えをする人だった。それに従って行動を一気に推し進めていく人だった。綾が悩んでばかりいる間に舞は二歩も三歩も先を行ってしまう。まるで違うエンジンを積んでいるみたいにだ。この友人の聡明さを、綾は時折羨ましがらずにはいられなかった。


「もちろんそれは逆もまた然りで、配信一本に絞るのも悪くなかったと思う」


「でもそれだとあんまりにも不安定じゃないかな」


「その不安定な道を歩ける素質を、綾は証明したよ。まあ確かに先が見えにくい業界ではあるんだろうけど……」


 春が近づき、少し華やいできた日の光が窓を透過して舞の顔に差した。彼女は眩しそうにすがめ、窓の外の景色を眺めている。


「結局安定なんて、どこにもないよ。そんなものは誰かにとって都合いいだけの神話だから。私たちにできることは自分の武器を理解して、得意な戦場を選んで戦うだけ」


 舞の言葉には何かを諦めたような響きがある。それがどこから来るものなのかわからずに、綾はカフェラテに口を付けた。ミルクでマイルドに調整されたコーヒーの風味。甘さでふんわり包まれた苦み。


 甘いから、嫌気が差すような苦みに顔をしかめないで済む。

 

「そしたら綾は就職活動に本腰を入れるんだよね」


「うん」


「面接とか大丈夫そう?」


「だいじょばない……」


 就職活動に当たっての一番の不安が面接だった。


 初対面の人と面と向かってはきはきと喋る。それは綾にとって鬼門と言ってよかった。自分が試されているという緊張状態ではどうしても委縮してしまうのだ。


 サークルに入っていないのも、新入生の歓迎会でうぇーいうぇーいと盛り上がるノリに全くついていけなかったというのが大きい。日陰でひっそりダンゴムシのように暮らすのが自分にはよく似合うと綾は思っている。


「どうしよー。まともに喋れる気がしないよー」


「ふむ、それは困ったことだね」


「面接練習も自己分析もしてるけど……本番になったら吐きそうになる」


 ルールの上では大学四年生の六月から本格的な採用活動が解禁されることになっている。しかし実際には多くの企業が優秀な学生を採用しようともっと前から活動しているのだ。かくいう綾もインターンシップや説明会の名目で行われる面接を受けたことがある。


 結果は惨敗。まともに話すことさえできず、何度自分が春香だったらよかったのにと思ったかわからない。


 胃がきりきりと締め上げられるあの感覚は、どうにも慣れる気がしないのだった。


「じゃああたしが手伝ってあげるよ。面接練習とか」


「いいの? でも舞にも就活があるのに……」


「ふふ、大丈夫。あたしはもう内々定を貰ってるから」


「え、いつの間に!?」


「ついこないだだね。去年からインターンに行ってるところがぜひって」


「すごいじゃん!」


 胸の前でパチパチと手を叩いて褒める綾の姿に、舞は口の端をにやけさせている。


「そこが一番の本命だから、あとはもう消化試合。だから綾の手伝いをするくらいわけないよ」


 それにしても、と間を置いた舞の手が頭一つ低い綾の頭に伸びる。長身で手足も長い彼女の手は、テーブルを挟んでいようと難なく届いていた。


 見た目がモデルみたいでずるいと、こういう折々に綾は思う。小柄で年齢を低く見積もられがちな綾からすれば、喉から手が出るほどにそのスタイルが欲しかった。その願望は春香の身長が舞と同じくらい高いところにも表れている。


「綾は嬉しそうに褒めてくれるよねえ。い。ご褒美に苺も上げちゃおう」


「子ども扱いされてる……?」


「気のせい気のせい。はいあーん」


「……なんだか納得いかないけど、苺はいただきます」


 差し出されたフォークの先にある、赤い果実。それは口いっぱいに頬張ると幸せな甘味で不安をさっぱり忘れさせてくれた。

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