「――ま、そこからはこの通りだ」

 話し終えたユオはシサギのいる岩場にもう一度よじ登ってくると、シサギの傍らに腰を下ろした。香炉の煙が棚引いて、ユオとシサギの周囲を取り囲むようにして、天へと昇っていく。

 シサギはユオの話が終わっても、微動だにせずじっとしていた。

「俺は結界を護ることになり、ここで黒大蛇あいつと睨み合いを続ける毎日だよ。まぁ、元々暇だったし、やることなんて特にないから、ちょうど良かっ――」

「……なぜですか」

 しばらく黙っていたシサギが、急に呟いた。

「うん?」

「なぜ、ここに残ることを選んだんです」

「だから今言った通りだよ。暇だったんだって」

「本当にそれだけですか? もしかしたら彼が……ハクガンが、帰ってこないかもしれないことくらい、あなたは気付いていたんでしょう?」

 沈黙が流れる。

「それなのに、どうして引き受けたんです。助けられたからといって……」

「――別に、恩を返そうだとか、殊勝なことを考えてたわけじゃない」

 ユオがぽつんと言った。

 波が岩に砕ける音がやけに大きく響く。

「ただ、気になっただけだ。一人で大勢の魂を護って死んでいこうとしている馬鹿のことが。……でも、俺が追い出したせいであいつは結局……息子にも会えねぇで」

 ユオはなにかをこらえるようにうつむいた。くそ、とかすれた声。

「違うな。それだけじゃない。……なにか俺にできることがあればって、ずっと思ってた。人魚なかまにも認めてもらえないような半端者でも、もしかしたら俺にしかできないなにかがあるんじゃないかって。そう思っていたから……だから、引き受けた。俺だって命を懸けてみたかったんだよ。あいつみたいに」

 でも、とユオの口の端が歪む。

「そういうところだろうな。俺は本当は、自分のことしか考えていなかったんだな……はは」

 ユオは乾いた笑いを発した。藻のついた長い銀灰色の髪が、流れる水のように光る。

「ごめんな。シサギ。馬鹿は俺だ」

 シサギはそんなユオを黙って見つめていた。それから、ふっと視線を眼前の海に戻す。そしておもむろにこう言った。

「いや、馬鹿ですよ、あの人は」

 あまりにあっさりした言い方に、ユオは思わず顔を上げた。シサギはかすかだが、本当にかすかだったが――愉快そうに笑っていた。

「あの人が――ハクガンが崖崩れに巻き込まれたのは、動けなくなった妖を身を挺して助けたからです。あの人はいつも目の前の命を救いたがりましたから。銭にならなければ意味の無いことだと言われても。全く、そのせいでいつもいつも……こっちは大変だったっていうのに」

 違和感のある言い方だった。まるで独り言のような。

 ユオは不思議に思い、じっとシサギを見つめた。シサギの目は、天の灯りをうけて紫色に光っていた。ユオには、その色に覚えがあった。

 そうだ、あの解魔士げまし。ずっとここで待ち続けていたあの男の目に――。

「お前」

 もしかして、と。ユオが言い終わらないうちにシサギは香炉の蓋を閉じると、その場に立った。その瞬間、大空が凄まじい勢いでうねり出した。星々が揺れて溶けだしていく。月が異常な速さで、ぐるぐると泥のような天の上を滑り出す。黒大蛇くろおろちが眠りに入りかけているのだ。

「あなたが人魂あのひとたちを護ってくれたから、ハクガンは妖を助けることができた。これはあなたにしかできなかったことだ」

 力強い声がはっきりと響く。シサギが腰にいた太刀をすらりと抜く。

「そのことにあなたが何者であるかは関係ありません。俺はそう思います」

――きっと、ハクガンも。

 シサギはそう言うと、月の光のごとき刃が輝く。海へと飛び降り、太刀を水の中に突き立てた。不思議なことだが、その瞬間に音叉のような澄んだ音が響き渡った。すっと背筋を伸ばすと目を閉じ、なにか小さくぼそりと呟く。すると少し先の空間が陽炎のように揺らめいた。シサギはユオを振り向いた。


「行ってきます」

 柔らかな声音が、あの男に重なった。


 シサギはその空間に向かって、波に押されているというのに、それを凌駕する勢いで、水をかきわけ揺れている空間に向かって走る。

 と、結界内にまばらに光が差し始めた。光の明滅する間隔がだんだん早くなる。黒大蛇くろおろちが結界から離れたのだ。

 真白い光一色に視界が染まった瞬間、両手で太刀を振りかぶったシサギの影だけが海面に濃く伸びる。光が砕ける。

 金属同士がぶつかり合うような鋭い音が響き渡った。

 久々に感じる眩しさに目が眩んでいたユオは、音の発生源をよく見ようと辺りを包んでいる光を手で遮りながら、海を見た。

 結界の外、夕焼けにも思える暁の下で、小島の影がそのまま蛇の形をとったような、一町はあろうかと言えるほどの黒く巨大な蛇が炎のようにぐわっと赤い口を開けて、シサギに襲いかかっている。

 巨体が蠢く度、全身が鞭のようにしなり、生み出された波がシサギを呑み込まんとする。いくら強力な香とはいえ、完全に眠りにつかせるには至らなかったらしい。

 シサギは大蛇の立てた海水に突っ込むようにして攻撃を避けると、太刀をかすみの構えにとった。その瞬間、大蛇の攻撃が一旦止まる。

――首を落とすつもりか。

 黒大蛇くろおろちを完全に倒す方法はそれしかない。ハクガンが真正面からではかなわないと言っていたことを思い出し、ユオは唾を呑み込む。大蛇が今にも喰い殺さんばかりの目つきで邪魔者を睨みつける。挙動が少し鈍く見えるので、香の効き目はあったということだろう。獰猛さが衰えないところを見るに年季の入った執念深さだ。

 じりじりと炙り合うような間合い――それを先に破ったのは大蛇だった。飛び込んでくるのと同じ速さでシサギも正面から太刀を突き出す。だがあと一歩遅かったか、ばくん、と素早く蛇の口が閉じられ、シサギは姿を消した。

「っ……シサギ!!」

 ユオが思わず叫ぶ。いても立ってもいられなくなり、水に身を躍らせた。焦ったせいで泳ぎがうまくいかず、じたばたしてしまい、ほどなく海面から顔だけ出す。そんな彼の顔に大きな影がぬるりと覆い被さってくる。ユオは息を吞んだ。

 シサギを飲み込んだ黒大蛇くろおろち

 嘲笑あざわらい、勝利を誇るかのようにその身体が天を向いた。

――が。

 しゃん、と鈴の鳴るような音と共に、急に大蛇の首がねじれた。

 いや、ねじれたのではない。ずれていく。ゆっくりと下へ。

 と、首と体の切れ目から人が飛び出した。吹っ飛ばされるようにして海に着地する。すると、蛇の首も同じように水中に落っこちた。首を失った体は黒い霧をまき散らすと、どうと倒れ伏す。

 空気が大きく震えた。

 シサギは刀を振るい、鞘に納めた。次の瞬間姿がすうっと薄くなり――、ユオの近くの岩の上に、また幻のように現れ出た。

「わっ!?」

「すみません、また驚かせてしまいましたか」

 険しい表情のまま、淡々とシサギはそう言った。

「色々と唐突なんだよ。ったく……」

 ユオは混乱したように頭に手をやった。

「でも、なんというかお前……す、ごいな。あいつを一撃で倒しちまうなんて」

 ユオは驚愕したせいで、喉になにかを詰まらせたような声になった。

「師匠が厳しかったもので、しごかれました」

 険しい表情のまま、淡々とシサギはそう言うと、着物の袖を軽く絞り払いずぶぬれになった髪をかき上げた。彼の背後では蛇の死体から上がった黒霧がもうもうと煙を噴き上がっている。それを横目にユオがシサギのいる岩場に泳いで近づくと、シサギも傍まで降りてくる。

「なぁ、もしかして、父親より強かったりするんじゃないか」

 父親、という単語を強調するように言うとユオはにやっと笑った。シサギもそれをうけてようやく表情が少しばかり緩んだ。が、ユオは、瞬時にむっとした顔になる。

「というか、さっさと言えよな、息子だって。後任とかあの人とかいうから関係ねぇのかと思ったよ」

 シサギはぴしりと全身を固まらせると、大きく目を見開いた。

「言って、ませんでしたっけ……?」

「言ってねぇ。重要だろうがそこは」

「……言ったつもりでした。ごめんなさい」

 きまり悪そうにシサギがぼそぼそと謝る。ユオが観念したように首を振った。

「やれやれ、親子揃ってなんか抜けてるな。……っと、そうだ」

 ユオが口元を押さえて何回か咳き込むと、手になにかを吐き出した。それを海水にくぐらせると、シサギに手を伸ばして差し出す。

 輝く翡翠の玉。

「解くんだろ。結界」

 シサギは頷く。そして人差し指と中指を揃えると、玉の上にかざした。ふっと息を吐き、またまじないかなにかを口内で低く呟くと、翡翠の玉からは光が徐々に失われていき、ぱきん、と甲高い音を立てて粉々に砕け散った。

 突風がにわかに巻き起こる。風にのって、綿毛のような光たちがユオとシサギの背後からわっと海へ飛び出していく。波に呑まれ生を終えた者たち。その旅路の始まりだった。

「……あいつら、自力で動けないんじゃなかったのか」

 光を視線で追いかけながらユオが言った。

黒大蛇くろおろちに使った香が、彼らを導いてくれているんですよ」

 甘い匂いに誘われた光たちが死んだ蛇の上を戯れるように通り過ぎ、黒霧の中をすり抜けた。水平線の向こうの朝焼けに溶け込んでいく。

「あなたに会いたかった」

 光が全て消えた頃にシサギがこう言った。

「人魚がこの浜辺に結界を張っていると聞いて、父の手記を思い出したんです。もしかすると彼に結界を託されたのではないかと。だとしたらどんなやりとりをしたのだろう……と」

 シサギは頭を下げた。

「今まで――人魂かれらを護ってくれて、ありがとうございました」

 ユオは手のひらを見つめた。そこには砕けた翡翠の欠片の残りがあった。

――やれることはあったんだな。こんな俺でも。

 なあ、ハクガン。

「いいんだ。礼なんて」

 ユオは石の欠片を大事そうに両手で抱えると、海中に放った。骨灰のごとき細かい石の欠片。吸い込まれるようにして海に散っていく。

「本当に、いいんだ」

 ユオの頬に一筋の雫が伝う。それは石の欠片の後を追うようにして水面に落下した。



 十年ぶりに浜に訪れた暁の海を一匹の人魚が泳いでいく。

 シサギが見守るなか、人魚は沖で大きく跳ねた。多分別れの挨拶だったのだろう。彼は銀の波に隠れ、もう二度と姿を現すことはなかった。


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