ユオは人魚である。

 だが人魚としては形が半端であった。人魚は元々、人と大魚が交わって発祥した一族だ。

「ある日、海草の原に遊びに行ったら、母親がいつまでたっても迎えに来なかった。ずっと待ってたんだけど、来ないからうちまで戻ったんだ。誰もいなかったよ。そこでようやく気付いたんだ。捨てられたんだって」

 ユオは指し示そうとしたのか足をばたつかせた。

「ほら、俺、足が二本あるだろ?」

 人魚の一族内には厳格な掟があった。それは代々続く上半身が人、きっかり下半身が魚の形状でなければ人魚としては半端であり、形状が半端な者は正しい血を濁らせる要因になるため、一族に迎えてはならないという内容である。

 ユオは沢山の海を渡った。最初は母親を探していたが、やがてすぐに諦めた。もう一度出会うには海は広すぎた。次は同じ身の上である人魚なかまを探した。だが、同じように人魚たちから差別された境遇の者からも、形状の違いを理由に嫌悪されることがあった。そうではなくとも、壁があって全く距離が縮まらなかった。

 そんなことが何回か続くうちに、ユオは人魚なかま探しを止めてしまった。そして、流されるように生きることにした。抵抗しなければ、痛みは感じない。簡単なことだった。

 ある日、大きな鮫を怒らせてしまい、追いかけられた。身を隠す場所を探していたところ、ひどく濁った海流を発見した。海藻の類は見当たらず、選択肢のなかった彼が命からがらその海流に飛び込むと、凄まじい流れに巻き込まれた。一緒に海流に巻き込まれていた重たいものが頭と腹にぶつかり意識が飛んだ。

 次に目覚めたユオを迎えたのは大きな夜空だった。ユオは身体を起こした。浜辺だ。岩場の多い――。

 束の間、自分がいるのがどこだかわからなかったが、大きな桶のようなものに入れられているのだということがわかった。縁は欠けているが澄んだ海水が入っている。頭に違和感があって手をやると、そこには包帯がしっかりと巻かれていた。

「起きたかい?」

 能天気な気さえするような声に振り向くと、人間がこちらに歩いてくるのがわかった。

 見るからに人の良さそうな面立ちをした、大きな体躯の男だった。一本刺に黒の着流しの恰好で、灰色気味のまっすぐな白髪を後ろで一つに束ねている。

 男はしゃがむと、ユオの顔をのぞきこんだ。炎の灯りが滲んだ目は紫色だった。

「うん、顔色は悪くないみたいだ。いやいや、結界の外に流されてきた時はびっくりしたよ。でも、間に合ってよかった」

 そう言うと男はにっこりと笑った。目元に刻まれた笑い皺が深くなる。白髪のような髪色と皺のせいで一見老けた印象を与える顔だが、表情からして実年齢はもっと若いのだろうという感じがある。男曰く、この場所は高ヶ志こうがしと呼ばれる地の浜辺だということだった。

「結界だと……?」

 思い当たったユオは、あ、と声に出した。

「あんた、もしかして解魔士げましか」

 聞いたことがある。確か、金銭と引き換えに妖術を使って人と妖の間の揉めごとを解決する者たちの総称であったはずだ。人と妖が共存するこの常世では、昔から両者の争いが絶えることがない。

「その通り。なんてことはない、一介の解魔士げましさ。――ところでお腹減ってるよね。あいにく新鮮な食べ物は無いんだけど、干した貝や烏賊いかならあるよ。食べられる?」

「ああ……」

 ふとユオは辺りが不可思議なくらいに真っ暗であることに気が付いた。月も星も出ているというのに、光量が少ない。焚火の炎だけが煌々こうこうと周囲を円状に照らしている。砂浜には木片や瓦礫が漂着しているようだった。

 ユオは視線を海岸から陸へと移した。じっと見ていると、闇に塗り込められたそこでなにかが動いている。気になって桶から這い出すとそちらへ向かった。

 そこで目にしたのは、原型を留めていない家屋の群れだった。船が潰れた屋根の上に乗りかかってさえいる。白っぽい光の玉が家屋の間を無数に行き交っていた。

 間違いない。ここは人間の集落だ。

 だった、ところだ。

「危ないから、戻ったほうがいい」

 背後から解魔士げましだという男の声がする。ユオはそちらを振り返らずに尋ねた。

「津波か」

「……うん」

 こういった現場をユオは以前、一度だけ見たことがあった。海に浮き上がった、多くの人間の死体。同じように浮き上がった、泥砂が詰まって死んだ魚。浜辺に積み重なっている木片と瓦礫の塊。泣きながら、それを必死でより分ける人間たち……。

 ユオは踵を返すと、焚火のもとまで戻った。そこまで勢いをつけたわけではなかったのだが桶に入ると、海水がちゃぷんと大きく鳴った。

「あれは人魂だな」

「そう。津波で亡くなった集落の人間の魂たちだ。ああやってどこにも行かずに跡地にいる。……亡くなったことに気付いていないんだ。きっと彼らの間では、以前のままの生活を送っているんだろう」

 男は頭上を見上げた。ユオもつられるようにして顔を上げた。一見、月と星々が輝く大空は、じっと見ていると気のせいかじんわりと動いているように見える。

 いや、気のせいではない。動いている。かすかにだが、確実に。

黒大蛇くろおろちという妖だ」

 口には出さなかったユオの疑問を読み取ったように、男が言った。

「私の張った結界に貼り付いて、ああやっていつも上から見張ってる。人魂たちを喰らうのをひたすら待ち続けているんだ」

「……この夜空みたいに見えるのが、ぜんぶ蛇の体なのか」

 ユオは呆れて言った。

「どうかしてるな。そんなにしてまで待つなんて。食い意地が張りすぎだろ」

「死の記憶のない人魂は、妖が好むからね。大蛇おろちみずちは特にそうだけれど」

「俺だって妖だけど、そんなものは食べない」

「人魚は先祖に人が混ざっているだろう。だから、たまたま必要としないんだ」

「確かに」

 ユオが水かきのついた片方の足を桶から出して、見つめた。

「俺はどうも、人間臭いらしいからな」

 男はなにも言わなかった。血を継いでいても正しい形状をしていないと一員として認めないという人魚の一族の特性について承知していたらしい。少ししてから、確かめるように彼はこう言った。

「でも君は、人魚だろう?」

「どうかな。半端者だよ」

 男は立ち上がると、荷物をごそごそと漁り、ユオの桶の傍までやってくると隣に座った。それからユオに干した貝と烏賊いかを渡す。しばらく二人して静かに食べていると、ユオには波の音が大きく聞こえる気がした。

 男はやがてこんなことを聞いてきた。

「……君は、海流に巻き込まれたのか?」

 ユオが鮫の縄張りに入って追いかけられたことを話すと、よく逃げられたねと、男は笑った。

「当たり前だろ」

 ユオは得意げに言うと、残りの烏賊を口に放り込んだ。貝も烏賊いかも噛みにくくて仕方なかったが、悪くない気分だった。

 こんな風に誰かと話したのはいつ以来だっただろう、とユオは思う。あったとしても昔のことだ。もう、思い出せないほどには。


 ユオの傷は、人魂たちを護っているらしき解魔士げまし――ハクガンと名乗った彼の手当てのおかげで順調に回復していった。ユオは手当てを受けている時に、ハクガンが両腕に包帯を巻いていることに気が付いた。

 ハクガン曰く、依頼の帰り道に寄った峠茶屋で知り合った行商人からある相談を受けたという。この峠を越えたところにある岩に囲まれた小さな集落が随分前に津波にあい、壊滅した。そして、そこには多くの人魂が出現するとのことだった。

 集落付近の山道は峠を越える為の近道だったが、自分も含め皆気味悪がって通ることを避けている。このままでは市までの往復に大層な時がかかってしまう、どうにか解決してもらえないだろうか、と。

 そしてハクガンは集落で今にも人魂を吞み込まんとする黒大蛇とばったりかち合ってしまったのだ。とっさに結界を張ったハクガンは、黒大蛇くろおろちと睨み合いを続けることになった――というのが、今ここに至るまでのいきさつだった。

 腕の傷はその時、蛇の初撃を避けたが為にできたものだと、彼は言った。

「また息子に怒られちゃうな」

 ユオに軟膏を塗りながら彼は笑った。常に穏やかで、人でも魚でもない生き物だという理由でユオを見下さなかった。

 黒大蛇くろおろちのせいで常に夜中であるこの浜辺では常に静寂が流れていた。結界内は術者であるハクガンが許可したもの以外は外から入れない仕組みになっていたが、元々いた魚や鳥の数も多かったので、食べる物には困らなかった。

 ハクガンは銀でできた香炉で黒大蛇くろおろちが眠るという香を毎日のように焚いた。黒大蛇くろおろちを倒す方法は首を斬る以外にないが、何しろ強いので倒すにはそれが一番の方法だという。

 だが、一向に蛇が眠りにつく気配はなかった。

 ハクガンは傷の癒えたユオに何度もそろそろ結界から出るように告げた。しかし、ユオはその度にハクガンにお前はどうするつもりだと尋ねた。ハクガンの答えはいつも同じだった。

――あいつが眠るまで。

 このままではこの男は籠城したまま死ぬかもしれない。縁もゆかりもない者たちの為に、この男はどうして命すら懸けようとするのか。

――わからない。

 だんだん苛々してきたユオは、八つ当たりのようにハクガンに食ってかかった。

「あんたは人魂を死ぬまで護るつもりなのか? ただでさえ短い寿命をこんなことで削っちまうのか? 馬鹿かよ。あいつら、あんたと元々関係なかったんだろ。だったらわざわざ匿う義理は無いはずだ」

 ハクガンの眉根が寄って、苦しそうな表情になる。それからこう言った。

「君の言う通りだ。そうだ、私はとんだ馬鹿だよ。でも」

 このままじゃ辛いじゃないか、と。

 胸の内から振り絞るような言い方だった。そのせいでユオは言い返そうとする気を失った。浜辺に波が三回行きつ戻りつを繰り返したあと、ハクガンが口を開いた。

「ねぇ、ユオ。君は聞いたことがあるかい。常世では、魂は三日かけて地上を旅したあと死者の国に向かうんだ。大切な記憶にもう一度触れて、手放す為の準備をする。……それが、生まれ変わる前の最後の旅だ」

「でも……死の記憶のない魂ってやつは旅に出られるのか? 記憶がないからああやってひとところに留まったままなんだろ」

解魔士わたしたちが手を貸して送り出すことはできるよ。そういった魂にとっては、死んだことを受け入れる為の旅になるんだ」

 けれど、とハクガンは目を伏せた。

黒大蛇くろおろちに喰われれば、黒大蛇くろおろちの魂と同化する。喰われた時点で、今の彼らが生前の思い出に触れる機会はもうなくなる。……黒大蛇かれが死者の魂を喰う、そういう習性があるということはわかっているよ。でも、これは、こればかりは見過ごせないんだ」

「――それが、あんたが人魂あいつらを護っている理由か」

 ユオはようやく少しだけ得心がいった。人を人のまま死なせてやりたい、ということか。ちゃんと納得できるかと言われればそうでもない。むしろ、死んだやつの為にわざわざご苦労なことだ、と思う。

 だが、ハクガンは命を懸けている。そのことをユオは笑う気には――どうしてもなれなかった。

「とはいえ、対策はあんのか?」

 ユオは厳しい声で言う。

「あれは結界が破れるのを待ってるんだろ? あんたが弱って膠着こうちゃく状態に限界がくれば、すぐに攻め入って人魂あいつらを喰っちまうだろうよ」

「最終手段になるけど」

 ハクガンは香炉の蓋に手を置いた。

「今持っているものより更に強力な香を焚くことくらいしかない。けれど、それには故郷まで帰る必要がある。私の故郷でなければこれほどの大きさの蛇を眠らせることのできる香は手に入らないからね」

「また香か。解魔士げましの道具ってのはつくづく非効率だな」

「そればかりは仕方ないな」

「応援は呼べないのかよ? お前んとこのさとにも解魔士は他にもいるんだろ。あるいは知り合いの解魔士やつとか――」

「いるけれど、難しいよ。銭にはならないことだからね」

 ハクガンは弱々しく笑った。ユオは不機嫌にふん、と鼻を鳴らす。片足で押し寄せてきた波をぺしん、と叩いた。水混じりの砂が四方に飛び散る。

「じゃあ、結界だけど……あんたが常に妖力を送り続けなくちゃならないのか?」

 ユオの問いにハクガンは首を振ると、懐にしまっておいたらしき小さな巾着からなにかを取り出した。人の指の関節ほどの大きさの翡翠の玉だった。

「術はこの石に閉じ込めてある。これさえ護っていれば、結界自体も護られる」

「へぇ……」

 それを聞いた途端、ユオの頭にひらめいたものがあった。

 ユオは素早く彼の手から宝玉を奪い、口を大きく開けた。そしてハクガンが止める前に飴玉をぽん、と放るようにして一息にごくん、と呑み込んでしまった。

 ハクガンは束の間あっけにとられていたが、慌ててユオの両肩を揺さぶった。

「おい! なにをするんだ!?」

「なんだよ。ただの妖力の塊じゃねぇか。別に腹の中で溶けたりしないだろ?」

「そうじゃない! 喉に詰まったりしたら大変じゃないか! 早く吐き出しなさいっ」

「そっちかよ」

 焦るハクガンに、ユオは呆れた声を返す。

「聞けって、ハクガン。あんたは故郷へ帰れ。俺が代わりにこの結界を護ってやる」

 ハクガンの目が見開かれる。

「いや、……だめだ。絶対にだめだ」

 それからぶんぶんと首を振る。声が強張る。

「君を巻き込むなんて」

「巻き込みたくないんだったら全部正直に話すな。阿呆か」

「そう……そうだね。私ときたら……本当に」

「あーっ、だからそうじゃねぇって! 面倒くさいなあんた!」

 がくりと肩を落としたハクガンを、ユオはしっかりしろと小突く。

「息子がいるんだろ。まずはちゃんと帰って安心させてやれ。こっちに戻ってくるのはそれからでいい。あ、言っておくが人魚の寿命舐めんな。人間おまえなんか比にならねぇから」

 ハクガンが顔を上げた。紫の目が潤んでいる。

「一体どうしてそこまでしてくれるんだ? だって本当に……君は」

「……さあな」

 ユオは顔を背けた。なんとなくその視線に、耐えられなかった。さまよわせた視線は集落の方に向いた。仄明るい光の粒が集っているのが見える。顔さえ知ることのない、行き場のない魂たち。

「――これだけは約束してくれ」

 思わずユオは口に出していた。

「必ず戻って、あいつらを見送るって」

 ハクガンは口元を固く結んだ。そうして頷くと、ユオの目をまっすぐに見てこう言ったのだ。

 絶対に戻ってくるよ、と。

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