第16話 『生きている人間は辛いわね』

ドアを開けると、玄関マットの上で、はなが行儀よく出迎えていた。


多恵に続いて玲丞の姿が見えても、逃げるどころか、長い尻尾をぴーんと立てて、足元に頭をすり寄せている。


「お腹、すいてるんだね?」


玲丞がキャットフードを皿に入れるのを、はなはくねくねと尻尾を揺らしながら、おとなしく座って待っていた。


この人嫌いの猫が、なぜか玲丞にだけは懐いている。


──まあ、懐いてるというより〝家来扱い〞してるんだと思うけど……。


「着物、しんどいでしょう? 先にシャワーしておいでよ。その間に用意しておくから」


「用意?」


「うん、楽しみにしていて」


玲丞は、鼻歌まじりに冷蔵庫を開けている。夜食でも作るつもりなのか。彼の謎の行動はいつものことだ。

多恵は、遠慮なくバスルームへ向かった。




「わっ、すごいね」


おしゃれにセッティングされたリビングテーブルに、多恵は驚きながら苦笑した。

こんな真夜中に、いったい何を始めるつもりやら。


ふと見ると、留守番電話が点滅している。

多恵は、濡れた髪をタオルで乾かしながら、再生ボタンを押した。


〈多恵さん、静枝です〉


静かで、どこか寂しげな声。

多恵の動きが、ぴたりと止まった。


〈お変わりありませんか? 今日、山岡さんからいただいた蜜柑を送りました。こちらは皆、元気です。多恵さんも、あまり無理をしないでくださいね。それから──〉


物言いたげな間があいて、〈一度こちらへ〉という言葉が、再生終了の音とともにかき消えた。


「間違い電話?」


カウチソファへ顔を向けると、玲丞が、はなに足元をスリスリされ、困ったようなデレ顔をしながら、シャンパーニュの栓を抜いていた。


多恵は、答えにくさを誤魔化すために、録音を消去しながらそっけなく言った。


「いいえ、実家から」


「でも、って……」


五つくらい疑問符を浮かべたような沈黙。からの──


「ええっ⁉」


吹っ飛んだコルクに、金色の目がキラリと光り、はなが獲物を追うみたいに飛びかかった。


「ユキって、名前じゃなかったの?」


玲丞は、狐につままれたような顔をしている。


「ユキは苗字から取った渾名。本名は、ユキムラ・タエ」


司に倣って、ザナデューの客も〝ユキ〞と呼ぶし、マンションの表札も苗字だけだから、名前だと思い込むのも無理はないけど──今まで気づかなかったとは……ほんと、能天気な人。


「どうやって書くの?」


「〝幸せな村〞に、〝多く恵まれる〞。欲深い名前でしょ?」


「いい名前だね」


「古くさいでしょ?」


「そうかな? ──多恵」


「やめてよ」と、多恵はわざとぞんざいに玲丞の横に腰を下とした。


多恵を呼び捨てにできるのは、亡くなった祖父母と両親だけ。

どんなに親しくても、〝多恵〞と呼ばせたことはない。


そんなことはお構いなしに、玲丞は何だか得意げに、シャンパンを注いでいる。


「クリュッグ クロ・ダンボネ? すごい、高級シャンパーニュじゃない」


「うん。ケーキもある」


「なんで?」


「なんで? クリスマス・イヴだから」


多恵は目をぱちくりさせた。


「クリスマス……」


「じゃあ、乾杯しよう。メリークリスマス、


睨みつける多恵に、玲丞は満面の笑みでグラスを掲げる。

その顔があまりにも子どもみたいで、怒る気も削がれてしまう。


最上級のシャンパーニュに、最上級の笑顔。BGMには、パヴァロッティの〈アヴェ・マリア〉。……ほんと、狡い人だ。




コルクとの格闘に飽きたはなが、ふたりの足元で、喉を鳴らしながら毛づくろいを始めた。

曇りかけた窓ガラスに映る影が、まるで〝幸せな家族の肖像〞みたいに見える。


多恵にとって、こんな穏やかなクリスマスは初めてだ。

子どもの頃は、家業の繁忙期だったし、成人してからは、自分が勉強や仕事に忙殺され、クリスマスなど縁のない行事だった。


夏目にプロポーズされたのは、クリスマス・イヴ──昇進の内示を受けた夜だった。


周囲から本命視され、彼自身も昇進に自信があったからこそのプロポーズだったのに、自分の方が選ばれたとは、とても言えなかった。


年齢的には結婚や出産に焦りを感じ始める頃だったけど、それ以上にランクアップが見えてきて仕事が面白くて仕方がない時期で、返事を先延ばしにしてしまったのだ。


最悪のタイミングだった。

結婚か、出世か。男の面子か、女の意地か。


司の言葉に腹が立ったのは、「待つ」と言ってくれた彼を、都合のいいセーフティネットのようにキープしていた小狡さを、見透かされたからだ。


夏目の実家は、都内でベーカリーチェーンを展開する創業家。

社長の父親に、専業主婦の母親。専務として父を補佐し、さらにコーヒーショップの事業展開を手がける兄には、すでに二人の子どもがいる。妹は製菓職人として独立していると聞いていた。


入婿が絶対条件の多恵にとっては、申し分ない相手。――甚だ打算的だった。


もちろん、彼のことは好きだった。結婚しても仕事は続けられた。

ただ、彼の〝妻〞となることで、出世レースの不利になることが嫌だった。

何かを得るためには何かを切らなくてはならない。そう考えたとき――彼のために犠牲を払うおうとは思わなかった。


それからは、彼に負い目を感じ、それが相手にも伝わって、互いに気色をうかがっているようなところがあった。それなのに、仕事を理由に、まともに話すことから逃げていたのは事実だ。


だから――四ヶ月前、夏目から別れを告げられ、同時に彼女の妊娠を知らされたとき、実はホッとしたのだ。


「憧れてます」と煽られて目をかけてきた部下から、「時代遅れの生き方」と思われていたことや、「尊敬してます」と笑顔の裏で裏切られていたことは、ショックだったけど。


ふたりの幸せを、嬉しいと思う。

ただ、花嫁姿で祝福を受けているのが自分だったかも、と思ったら、ちょっと惜しかっただけ。

恋も仕事も結婚も子どもも、どれもほどほどに、そつなく手に入れてしまう。そんな彼女の、淡泊なのか欲張りなのかわからないバランス感覚が、ちょっと羨ましかっただけ。




「さっきの人は、お姉さん?」


唐突に訊ねられて、多恵は酔いの回った目を上げた。


「誰のこと?」


「留守電の女性」


「ああ……、彼女は亡くなった父の後妻。ご主人を亡くして、子連れ同士の再婚だったから、私にはまったく血の繋がらない弟もいるの」


「優しそうな人だね」


「ええ、優しい人。……優しすぎて、かわいそうな人」


多恵は電話機に目をやって、小さくため息をついた。


「父が再婚したのは、私が小学五年生のとき。難しい年頃だったし、彼女にはずいぶん反抗的だったわ。……反抗っていうより、無視ね。透明人間だと思うようにしてた。目の前にいても見えない、話しかけられても聞こえない……。

人間、自分の存在を無視されることほど辛いことはないわ。そのうえ、周りの人たちはみんな私の味方だったから、彼女にとってはもう苛めよね」


多恵は、父の早すぎる再婚を憎悪した。亡き母を思慕するあまり、父に裏切られたという恨みと、男女の関係を不潔だと思う少女らしい嫌悪感で、父に対しても心を閉ざした。

いわんや新しい母親にはだ。


両親や祖父母の愛情を一身に受け、周囲から甘やかされることが当然のようにして育ってきた少女が、そのときから甘えることをやめた。


その結果が、「君は強いから」と、恋人に振られる女だ。


「あのひとは、どんなに陰口を叩かれようと、ただ黙って悪役を演じていたわ。哀しいくらいいい人なの。それなのに私は、一度もあのひとの顔を真っ直ぐに見たことがなかった……」


項垂れる多恵の頭を、玲丞は慰めるようにぽんぽんと叩いた。


「今からでも、遅くないよ」


「いいえ」と、多恵は心の中で首を振った。


そんな日は、一生訪れない。死者への深い愛情が、多恵の心を捉えているからだ。


「愛する人と過ごした思い出って、どんなに時が経っても色褪せないものなのよ。私の母は、美しいまま逝ってしまったの。父の時計はそこで止まったまま、彼女の面影だけを愛し続けたわ。

生きている人間は辛いわね。美化された死者と常に比べられる。──私もそうやって、あのひとをずっと苛んできたのよ」


多恵は、懺悔を終えた罪人のように、長く息を吐いた。BGMはレクイエムに変わっていた。


「──戻らないとわかっていても、どうしようもないんだ」


10分に一度は微笑む彼に、時折、切なくなるほどの哀愁を感じることがある。今も苦し気な翳りが横顔に落ちていた。


「リョウも、……大切な人を亡くしたの?」


「……うん」


多恵は、そうかと頷いた。

あの部屋は棺だったのだ。玲丞もまた、死者の花園に生きている。


「母が言っていたわ。もしも大切な人を失って寂しくなったら、〝ポラリス〞を見つけなさいって」


「ポラリス?」


「北極星のこと。亡くなった人たちはポラリスにある楽園で幸せに暮らしているんですって。祖父も祖母も母も父も、そしてあなたの大切な人も、きっとそこで見守ってくれているわ。──今度、見つけ方を教えてあげる」


行きつけの店を教えるような口調に、玲丞は目を閉じ唇に微笑みを浮かべて言った。


「多恵、君は優しいね」と──。

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