第14話 『打算抜きに恋愛できるのなんて、二十歳までよ』
その日は、晩から霧雨になった。
朝からずっとぐずついていたけれど、夕方には雲の切間に夕焼けも覗いていたので、思いがけない雨だった。
「厭な雨……」
マホガニーのバーカウンターに頬杖をつき、どこか物憂げにつぶやく司に、理玖はグラスを磨く手を止めて、ほうっと息をついた。
優しげな垂れ目と、右目の下にある小さな泣きぼくろ。ふんわりとアップにまとめた髪からのぞく首筋が、不可侵なエロスを纏っている。
程よく照明を抑えたシックな木目調の店内には、古いジャズバラードが流れている。
いつも静かな店だけど、給料日前とはいえ一組も客が来ないなど、四年前のオープン以来初めてだ。
こんな日もあると動じない司でも、さすがに暇を持てあましていたところへ、格好の相手が飛び込んできた。
「ああ、降られた~」
「お帰りなさい! ユキさん」
しっぽりと濡れた髪をハンカチで拭いながら、多恵は止まり木の左端から二番目の指定席に腰を降ろし、眉根を寄せた。
「どうしたの? それ」
司の左手首から甲にかけて、包帯が巻かれている。
「ひったくりに遭って、転んだンすよ」
間接照明に浮き上がった酒棚からボトルを下ろす理玖は、真冬でも白いTシャツにジーンズ姿。
ただでさえ寒そうなのに、今どきの若者の美意識なのか、腰骨が浮くほどのスリムさに、同年代の弟を持つ多恵としては、ちゃんとご飯を食べてるのかと、いらぬ心配をしてしまう。
塩顔がよけい貧相に見えてしまうけど、これでも私立医大に在籍するおぼっちゃまだ。
もともと理玖も、客の一人だった。学生の分際で通い詰めていると思っていたら、いつの間にかバーテンダーとして居着いていた。
下戸のくせに、今では一丁前にシェーカーを振るのだから、青年の恋心というのは形振り構わず熱い。
こんなだから、今期も卒業できる可能性は低く、長野で総合病院を経営している両親を嘆かせることになるだろう。
「怖いわねぇ。犯人は? 捕まったの?」
鮮やかに檸檬を搾る手元に、多恵は口を窄めた。
「相手はバイクっすからねぇ。このくらいの怪我で済んだからよかったけど……」
「よかないわよ!」
調理場の配膳口から、司が怒り交じりの声をあげた。
「お財布に厄除けのお守りまで入れてたのに……。正月に大枚はたいて厄払いしたって、ちっともご利益なんてないんだから。ユキみたいな罰当たりは、よっぽど気をつけなきゃダメよ」
「私のどこが罰当たりよ」
心外だと多恵は口を尖らせた。
「父親の七回忌にも帰らない一人娘が、どこにいる?」
多恵は苦々しくそっぽを向いた。
高校は女子校の寮生活、十七歳で渡米し、二十五のとき父危篤の報を受け帰国。ちょうど東京支社への転勤が決まっていたこともあって、葬儀のあと初七日も待たずに上京した。
以来、多忙を理由に、実家には一度も足を運んでいない。
田舎は懐かしいけれど、戻ったら戻ったで、いろいろと鬱陶しいことになる。
多恵が帰省すれば、未亡人である養母を差し置いて、施主の席に担ぎ上げられるのは目に見えていた。
そうして彼女は歓んで、なさぬ仲の娘にその座を譲るだろう。
さらに、本家の血脈を絶やすなと、縁談を喧しく迫る世話焼き婆もいる。それもまた七面倒くさい。
「厄年に子どもを産むと、厄落としになるって、ばあちゃんが言ってたっけ」
「理玖、それ、私にじゃなく、司に言いなさい」
とたんに、シェイカーのリズムが情けなくなった。
彼は司を愛している。それは傍で見ていても、痛々しいほどの惚れっぷりだ。
だがいかんせん、司は一国一城の主で、仕送り頼みの学生には、彼女を養うだけの力はない。
この店には、艶麗な顔立ちのくせに聡明でさっぱりした司を目当てに、足繁く通ってくる常連客も多い。中には年齢も経験も重ねた紳士もいて、海外出張の土産だと称して、高価な品をさりげなく渡していくのを、理玖はいつも辛そうに座視していた。
バイトを辞めて勉学に専念し、一日でも早く医者になればいいだけなのに、「その間に他の男に取られそうで不安」だと言うのだから、一途でおバカだ。
理玖の不安は、司より七つ年下というコンプレックスにあるのだ。こればかりは一生ひっくり返らないのだから、悩んだって詮無いことなのに。
司は司で、そこは年長者として、言葉や態度で迷える若人を安心させてやればいいのに、なぜか手を差し伸べようとしない。
二人の問題だし、クレバーな司のことだから、何か考えがあるのだろう、と多恵は静観していた。
「今夜は、彼氏は?」
温野菜とローストビーフ、それに温めたオニオンスープを多恵の前に置いて、司はしれっと言った。
二日とあけず仕事帰りの夜半に訪れる客は、注文を訊かれた試しがない。
「そんなんじゃないわよ」
多恵は、ホワイトレディーのグラスを光に翳して、惚けた。
「でも、つき合ってるのでしょう?」
「つき合ってるって言うのかなぁ?」
「いつも一緒に帰るくせに」
「別に約束しているわけじゃないもの」
あの日から、多恵と玲丞との奇妙な関係は、穏やかに続いていた。
気が向いたらこの店に来て、会えれば一緒に呑んで、そのまま多恵の部屋で一夜を過ごす。
次の約束もなければ、連絡手段さえ交わしていないので、二週間会わないこともあれば、連日会うこともある。
多恵が常連であることを承知で通ってきているのだから、憎からず思ってくれているのだろうけど、決定的な意思表示も明確な告白も受けていないので、それがいかなる種類の好意なのかは、甚だ不明だ。
第一、恋愛を意識する兆しもなくいきなり男女の関係になってしまったのに、今さら相手の気持ちを確認しようなどという、既成事実を盾に迫るような野暮なことができるわけがない。
後腐れのないセックスフレンドだと、思われているのかもしれないのに。
「何か〝ドライなオトナの関係〞って感じっすよね。何をしている人なんすか?」
「さぁ? サラリーマンではないでしょうね」
朝はすこぶる弱いし、不規則な生活をしているようだ。
真夜中でも休日でもお構いなしに携帯電話がかかってきて、そんなときは多恵を気にしてか、やけにひそひそと会話していた。
電話から女の甲高い怒声が漏れ聞こえたり、泣いているのを宥めているような場面も目撃している。
ここに来るときはラフな格好だけど、銀座では仕立ての良いスーツ姿だったし、広尾の高級マンションに住んでいるくらいだから、収入はかなりのものなのだろう。
親の財産で飲食店のオーナーでもしている感じ? 反社会的勢力と馴染みがあるようだから、あれでいて金融系の裏家業?
「あんた、まさか彼の職業も知らないの?」
「あのひと、自分のことって喋らないもの」
互いに相手の素性を詮索しないのが、いつの間にか無言のルール。
「秘密主義なんて、ますます怪しいなぁ。絶対まっとうな仕事じゃないって」
「できる男は、みだりやたらに自分を語ったりしないものなのよ。自慢話の多い男ほど、大した人生送ってない」
司が庇ったものだから、理玖は面白くなさそうに唇を尖らせた。
「え〜、でも、何をしてるかくらいは、ふつう言うっしょ。カノジョなんだから」
「カノジョじゃない」
「そうだ、司さん、名刺は?」
「いただいてない。いつもニコニコ現金払いだし、一度いただこうとしたら、切らしてるからって。それに、ユキのカレシだしね」
「だからカレシじゃないって」
「怪しい! ユキさん、カモだとか思われてンじゃないっすか? 都心の分譲マンションに女の独り住まいなんて、相当溜め込んでるって考えたんっすよ。アラサーの独身女が一番狙われやすいって言うから」
ギロリと二つの視線に刺されて、理玖はしゅんと首を引っ込めた。
「いずれにせよ、職業ぐらいは訊いておきなさいよ?」
「別にいいんじゃないの? お互い何も知らない方が、変に干渉し合わなくて」
「また寂しいことを言う」
「寂しいから温め合うんじゃない」
「体は温もっても、かえって心が寒くなるってこと」
「この歳になれば、誰でも孤独の一つくらい抱えてるわよ。あのひとも、きっと寂しい人なんでしょう?」
「あんた……、絶対、出会い系とかしちゃダメよ」
司があまり真剣になるから、多恵は茶化した自分が悪くなった。
「そんな暇もないから」
「そっちの方が心配するわ。ユキは立派なワーカホリックよ。オーバーヒートしてぶっ倒れる前に、一遍立ち止まって、よおっく廻りの景色を見てご覧なさい」
ボストン時代のルームメイトは、最後はいつも辛辣な説教になる。
〈仕事一筋もたいがいにしないと、前に進むことばかりに急ぎすぎて、優しさが足りてないのよ。他人にも、自分にも〉
多恵は、会社に終身の忠誠を誓うほど義理堅くないし、同僚や部下に家族的な思い入れを感じるほど人情家でもない。
経済的にも、いくつもの貸ビルなどの不動産収入や、一族関連の株の配当金で、一人分食っていくくらい充分ある。
仕事にのめり込む理由は、世間から自分の存在を認められたいという、強い自己承認欲求のためだ。
淡泊な都会では、魂が迷子になる。どこにも自分の居場所が見つからなくて、夜の森にひとり彷徨うような心細さと寒さに、叫びたくなることがある。
そんなとき拠り所になるはずの家族を、多恵はすでに失っていた。
母を亡くし、父に新しい家族ができたその日から、多恵は常に自問していた。自分が死んでも、悲しむ者もなく、生前の記憶さえ呆気なく忘れ去られてしまうのではないかと。
過去にも未来にもつながりを持たない人間は、己の存在意義さえ見出せず、人生が不確かに思えてならないのだ。
立ち止まれば、孤独の波に呑まれてしまう。振り返れば、今まで見ないふりをしてきた過ちに足元を掬われる。高みに向かってがむしゃらに走り続けている限り、迷わずにすむ。
けれど、仕事に没頭する理由が〝自分探しの旅〞だとは、司には口が裂けても言えない。
「とにかく、気取ってないで、彼ともっと知り合いなさい」
「知り合ったら気を遣うじゃない。毎日仕事で神経すり減らしてるのに、プライベートまで誰かの機嫌をうかがっていたら、よけい疲れる。そんな余裕があるなら、まだまだスキルアップに使いたいし」
「過去の反省なら、方向が間違ってるんじゃないかしら?」
「司」
多恵に睨まれ、司は口元に手をやって、わざと上品ぶった笑い声を発した。
「私はいい傾向だと思う。日本に帰ってきてからのユキったら、何と戦ってるのか知らないけど、いつも眉間に皺寄せて肩怒らせて、殺気立ってて怖かった。それが、この頃は
「好きな人ねぇ」
「好きなんでしょう?」
「どうだろう? カテゴリー的にはLikeに入るんだと思うけど?」
「ほんっと素直じゃないんだから。そうやってソワソワと彼を待っているくせに。そんなんだから、プライドばかり高いお嬢様育ちは扱いにくいって、言われるのよ。意地を張る分、幸せは逃げていくって、教わらなかった?」
減らず口同士の舌戦は、決まって司に軍配が上がる。今夜も敗者は舌打ちして、一気に罰杯を煽った。
「理玖、お代わり!」
司は、多恵が定期的に活け替えるオバールテーブルの花へ向けて、セーラムの煙を長く吐いた。
「ハンネマニア」
「恋の始まり?」
条件反射で花言葉を答え、多恵はアッと目を丸くした。
多恵が生け替えた黄色い花が、背後でしたり顔に見つめていた。
「あんたたち、お似合いよ。いい加減、年貢の納め時でしょう?」
「からだのフィーリングが合うだけじゃないの? 恋愛ももう面倒くさくって。打算抜きに純粋に恋愛できるのなんて、二十歳までよ」
「男を二人しか知らないあんたが、よく言うわ」
ぐうの音も出ぬ多恵に、司は鬼の首を取ったかのようにからからと笑った。
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