第14話 新しい後輩と波乱の予感


 陽菜が家に来てから、三週間が過ぎていた。あっという間だった気もするのに、季節は進み、息が白くならない季節になった。

 帰宅ラッシュから上手くずれ、満員は免れた改札を抜け、駅前に出る。見慣れた駅前に、一度駅ビルを仰ぐように見上げた。

 それが良くなかったのかもしれない。何とも言えない油のにおいに紛れて、そこの声は聞こえて来た。


「せんぱーい!」

「へっ」


 間抜けな声。自分でもそう思った。

 早矢は甲高く明るい声とともに、勢いよく飛びついてきた女子を反射的に受け止めていた。

 先輩と自分を呼ぶ特徴的な声、ふわりと広がる高価そうな香水の香り。軽くウェーブした艶やかな髪に品のいいセットアップ。

 こんな後輩は一人しか知らないし、一人でも手に負えないくらいだ。

 お金持ちのお嬢様そのものの姿をした後輩――松本瑠衣菜だった。


「松本、相変わらず距離感がバグってる」


 反射的に受け止めた身体をすぐ離そうとするも、松本がわざとらしく腕の力を強くした。

 相変わらず、面倒くさいか絡み方をしてくる。

「ひどーい」という抗議の声は耳に入れず、早矢は遠慮なく松本の肩を押す。沙羅ちゃんに香水が臭いと泣かれたらどうしてくれる。と、胡乱気に見つめた。


「先輩が冷たすぎるんですよ。武田さんはハグし返してきますよ」

「それは武田が特殊だから。武田は誰とでも距離が近いでしょ?」


 武田はハグを許す人間には、ハグし返すだろう。沼崎さんのような人間には最初から触れさせもしないだろうが。脳内の武田が「セクハラですよ?」と沼崎さんを撃退している絵が浮かぶ。

 松本も武田と同じような分類の人間だった。つまり、距離の近い特殊な人間だ。

 早矢の言葉に松本はたっぷりリップの塗られた唇を尖らせた。


「私は先輩だけですよ」

「いいから、そういうの」


 早矢はため息混じりに肩を竦める。

 この後輩は武田に輪をかけてコミュニケーション能力が高い。悪く言えば軽薄。まったく言葉に重さがなく、そのくせ、大切なポイントは外さない。

 人生を生きるのが楽しそうな奴だと初めて見た時から思っていた。

 早矢の予想通り、松本は早矢の隣に並ぶと腕を組んでにこにこと笑みを浮かべる。


「先輩がhinaと知り合いなんて聞いたら、来ないわけがないじゃないですか」


 誰だ、松本にそんな情報を流した奴は、と考えて武田以外いないと心の中で舌打ちをする。

 妙に馬が合うのか、武田と松本はよく一緒に行動している。そして、ミーハー。

 イラつきがそのまま声に出た。


「あんた開業医に務めたんでしょ? もうちょっと働きなさいよ」

「開業医の良い所は、自由が利くところですよ」


 松本は研修終了後、開業医に務めていた。実家の系列らしく、勤め人の早矢より余程自由が利く身だ。

 服の着こなしから爪の先まで気合が入った姿は、職業が医者だなんて思えないだろう。


「これだからお嬢様は」

「どうとでも。それに、これも仕事ですから」


 早矢の言葉を意に介さず、松本は優雅に微笑む。暖簾に腕押しとはこのことだ。

 研修医時代、カンファレンスで少しだけ手を貸したのをきっかけに、妙に懐かれてしまった。あの時は半ベソをかいていて可愛かったのに、まさかこうなるとは。

 どう撃退しようと考えていたら、松本の目が光った。


「hinaさん、うちの顧客にどうかなぁと」


 そっちかと更に早矢は苦虫を嚙み潰したような気持になる。

 松本の仕事場は美容医療に力を入れている病院だ。自費中心だが、芸能人であれば利用者も多いだろう。

 早矢は首を何度か横に振った。


「目端がきくわ」

「そういう商売ですから」


 はっきりしている。こういう所を見ると、大学や普通の病院では務まらなかっただろう。

 早矢は深いため息を出すしかない。


「倫理も守ってよ」

「守ってるから、こうやって先輩に許可を取りに来たんじゃないですか」


 松本は悪びれる様子もなく肩をすくめた。

 陽菜のことを決めるのに早矢の許可はいらない。問題はわざわざ押し売りのように陽菜に会いに来たことだ。


「だめ、というか、嫌」

「そんなぁ」


 早矢のきっぱりとした否定に、松本は腕に抱き着くようにして密着してくる。

 そのまま許可が出るまで離さないとでもいうように抱え込まれた。

 あんたはそういうぬいぐるみかと突っ込みたくなった早矢の耳に、背後から聞き覚えのある声が響いた。


「早矢ちゃん、その人、誰?」


 まるでドラマの台詞のように、くっきりはっきり陽菜の声は早矢に届いた。

 振り向くと、そこにはマスクをして化粧気のない陽菜が立っていた。可愛らしい毛糸の帽子を被っているがそこから見える髪の毛は艶やかだ。

 街灯に照らされた切れ長の瞳が、わずかに不機嫌そうに細められている。

 駅前の陽気なBGMと陽菜の不機嫌そうな表情が、いっそ対称的で早矢に焦りを抱かせる。


「っ、陽菜」

「え? ほんとだ、さすがの美ですね」


 早矢の言葉に、松本は腕を離すと陽菜の方へ振り返る。

 松本の感嘆の声が聞こえたが、早矢の注意は完全に陽菜に奪われていた。

 陽菜は早矢と松本に交互に視線を動かした後、数歩の距離を縮める。


「お仕事終わりの連絡来たから、そろそろかと思って待ってたんだけど……お邪魔だった?」

「いや、そんなこと……ないけど」


 連絡が来てたのか。改札を出てからスマホを確認してない。早矢はポケットを探そうとしたが、それより陽菜の行動が早かった。

 丁寧な言葉遣いの中にも棘を感じた。これは良くない。こうなった陽菜は面倒くさいのだ。学生時代にも同じような状況があったのを思い出し、どこか居心地の悪さを覚える。


「へぇ、それなら良かった」


 普段の陽菜から聞かない冷たいトーン。早矢の焦りに気づかず、もしくは気にせず、松本が軽く肘でつついて促してくる。

 早矢は小声で聞いた。


「なに?」

「紹介してください!」


 この場面で、堂々とその要望を突き通す心の強さを見習いたい。

 早矢は半眼でこちらを見つめたままの陽菜をちらりと伺い、こほんと小さく咳払いをした。


「あー、こっちは松本瑠衣菜。後輩。今日は本当にたまたま、久しぶりに会って」


 それ以上の紹介文を早矢は持っていなかった。

 陽菜に会いたくて来たなんて、紹介したくなかった。


「初めまして、松本瑠衣菜と申します。先輩には研修医のころから、大変お世話になっております」


 早矢に紹介された松本は、さっきまでの馴れ馴れしさを完全に消していた。仕事人モード。医者としてのスイッチなのか、商売人としてのスイッチなのか。

 この時の松本の声は完璧なセールスマンの様で、さっきまでの子供の様な姿との変わり身の早さに、早矢は内心呆れる。

 陽菜は松本を警戒するように視線を細め、わずかに頷いて挨拶を返した。


「初めまして。藤堂陽菜です。早矢ちゃんの幼馴染です」


 藤堂は陽菜の旧姓だ。まだ離婚が成立したわけでもないのに、藤堂を名乗ったことに、早矢は驚きに肩を揺らす。

 陽菜は松本の顔を見つめた後、何か言おうとしてから――顔を逸らした。

 その姿がまるで自分には何も言う資格がないと陽菜が思っているように早矢には見えた。


「お仕事の話を邪魔しても悪いんで……早矢ちゃん、あたし先に帰るから」

「え、ちょ、陽菜?」


 早矢の制止の言葉も虚しく、陽菜はくるりと背中を向けてしまう。

 お仕事の話でもないし、松本が用事があるのは、むしろ陽菜だ。早矢にではない。

 軽い足音を響かせ、小さくなる背中を見つめる。早矢は松本に軽く手を上げて陽菜を追いかける。


「ごめん、松本。また今度!」

「はいはーい、こっちこそすみませんでした」


 松本はにこやかに手を振って見送ってくれる。

 どうやら、この短いやり取りでも、何か察するものがあったようだ。そういう所だけ流石だ。



 早矢が陽菜を追いかけた後、松本は一人苦笑を漏らしていた。


「そりゃ、武田先輩も結婚したって聞きますよ。早矢先輩。それにしても……」


 松本は手元のスマホに視線を落とした。


「荒れそう、かな」


 その呟きは、既に走り去った早矢の耳には届かなかった。

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