ああ!昭和は遠くなりにけり!

@dontaku

第9話

末っ子の歌穂が家族の一員となり、娘たちの成長と活躍が続きます。



ああ、遠くなる昭和の思い出たち


淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂



夏休みも終わりに近づき次の月曜日には家に戻らなければならない。約1ヶ月と1週間の長い間お世話になったこの高原町を去ることは寂しくて辛い。特に小学生3人はこの町の人たちとの触れ合いを通じて大きく成長させていただいた。そんなお世話になった方々とのお別れは3人をブルーにさせていた。しかしそんな時でもそれぞれ自分の練習は怠らなかった。今週末の最後の公演に向けての全体練習にも熱が入っていた。そしてお昼には喫茶「白樺」へ、その後楽器店に寄って喫茶「樹林」へ出向く予定でいた。今後の6人の活動の打ち合わせを行なうためだ。特に小学生3人の今後は個人的な活動に終始していくであろうと思われるからであった。喫茶店「白樺」ではナポリタンに舌鼓を打ってアイスミルクティーを楽しんだ。マスターご夫妻も名残惜しそうにしておられた。しかし、9月に入ると高原高校の音学部を始めとする皆さん方がいつも通りに来店してくれると楽しみを教えてくれた。そして何よりも6人が町の観光大使に任命されたことを大変喜んでくださった。

そんな「白樺」を後にして次に向かうのは楽器店だ。新規開業以来ずっと優香さんと早紀さんが付きっきりでサポートをしてきた。6人が訪れるのはオープニングセレモニー以来だ。平日ということもあり駅は何時もの静かな佇まいを取り戻していた。しかし以前と違うのは列車が着くたびに20人位の女の子たちとその保護者たちが改札を出て真っすぐ音楽教室へ吸い込まれていくことだった。

「何だか変わったね。」6人でそう言いながら2階への貨物エレベーターへ向かう。防火シャッターの入り口を開けて中に入る。2階で降りてそっと扉を開けると結構人が歩いている。ランチタイムは終わってはいるが駅ビル商店街は活気を取り戻していた。客足は上がり、しかも定着した様だ。どのお店も活気に満ち溢れている。

楽器店はというと、旧店舗の最後の時の勢いは無いもののコンスタントにお客さんが訪れていた。楽器を手にした学生さんたちも立ち寄ってくれている様だ。何と言っても6人が知らない制服姿の学生さんたちが目立ったからだ。

一旦従業員控室へ行き、2人のママは音楽教室へ、美穂と優太君、遥香さんと里穂に分かれて楽器店へ入って行く。入り口左手にはやや小ぶりなグランドピアノが置いてある。新しいシリーズの“天使の3姉妹”がCMを担当しているあのピアノだ。そしてすぐ右手にはカウンターが設置されており大きな端末が2台置かれていた。どうやらこれが売り物の電子カタログとレシを兼ねているようだ。更に進むと消耗品が並ぶ低めの棚がありその上部は展示ケース、そして反対側には大量の楽譜が納められた本棚となっていた。更に進むと奥の突き当りは試聴コーナーが設けられヘッドホンが3台置かれていた。どうやら端末から曲を検索出来る様だ。早速2人は1台のヘッドホンを交代で聴いてみることにした。ジャンケンをして優太君が勝ったので「カルメン幻想曲」を検索、試聴することにした。最初の出だしは美穂が聴き直ぐに優太君にヘッドホンを渡す。「やはり男の人の力強さには勝てないわあ!」そう独り言を呟く美穂。

「おやおや。美穂さんにもかなわないお方がいらっしゃるのですか?」聞き慣れた声。そう優香さんだ。優香さんは笑いながら続ける。「どこかで見たカップルだと思ったんだよ。」そんな会話で両脇の女の子たちが気付く。「きゃっ!美穂ちゃん!」指を差され少し慌てる美穂。優太君は曲に聴き入っていてこの騒動には全く気付いていない。「それじゃあ、こちらは優太君?」女の子たちは色めき立つ。騒ぎを聞きつけて遥香さんと里穂がやって来た。「わあーっ!」再び歓声が上がる。「しいーっ!」と口元に人差し指を立てる遥香さん。8人皆で全く気付いていない優太君をじっと16の目で見つめる。さすが優太君、視線を感じて周りを見回す。

「わあーっ!」ヘッドホンを着けたままなので声が大きい!それに皆は大爆笑だ。

「気が付かなかったよおーっ!」そう言いながらヘッドホンを外す優太君。周りの女の子たちに「あっ!どうも!」と挨拶をする。

「きゃあーっ!」飛び上がって喜ぶ女の子たち。下げている楽器ケースが一緒にはねる。

「何の楽器やっているんですか?」優太君の質問に女の子の一人が答える。「4人ともクラリネットです。」「今日は楽譜を探しに来たんです!」他の女の子も続けて答える。こうして会話が弾んでいく。聞いていると桜さんの通う大学の付属高校とのこと。吹奏楽コンクールの話で盛り上がる。その話から遥香さんの学園高校の名を聞き驚く4人。毎年、全国3位以内に入る名門校とのことだ。これは3人も知らなかった。

「遥香お姉ちゃん!何で教えてくれなかったのよおっ!」美穂がふくれっ面で遥香さんを見つめる。

「だって、皆、何も聞かないからだよおーっ!」とふくれっ面で返事を返す遥香さん。一同、大爆笑となった。そしてお互いに音楽部の連絡先を交換して従業員控室へ戻る。2人のママはまだ戻っていなかった。

「私見てくる。」そう言って部屋を出ようとする里穂を遥香さんが止める。「一人じゃあ危ないから一緒に行こう!」そう言って2人で従業員控室を出た。

1階の音楽教室は大盛況だった。店内は7つの部屋があり全てにグランドピアノが置かれていた。

「遥香お姉ちゃん、すごいね。どの部屋にもグランドピアノがあるよ。」そう言って外から一部屋一部屋を覗いていく2人。ピアノ教室が6部屋、ヴァイオリン教室が1部屋という部屋割りだ。2人のママはその一部屋に居た。部屋には10人ほどの生徒さんたちが居て、各自練習に励んでいる様だった。

「皆一緒ってことは初心者クラスかしらね。」そう言いながら遥香さんと里穂は中の様子をじっとうかがっていた。どうやら2人のママは3人を1チームとして教えている様だった。やはり基本的な構え、弓の動かし方から教えているようだ。良い音が出ると褒めてあげるという優しい指導だと思われた。「優太お兄ちゃんもあんな感じだったのかなあ?」里穂がそう言うと「そうだね。全く最初から上手い人なんていないからね。」そう言って遥香さんは笑った。「それにしてもヴァイオリン教室は手が足りていないのかなあ?」心配そうに里穂が続ける。「そうだね。」遥香さんも里穂に同意する。「ピアノは個人レッスンだね。」遥香さんは懐かしそうに呟く。「遥香お姉ちゃんもピアノスクールに通っていたの?」里穂の問いに頷く遥香さん。「うちって両親がずっと共稼ぎだから幼稚園の頃からずっと一人で通っていたの。それじゃ危ないからって直ぐにお手伝いさんが付き添ってくれる様になったんだよ。」そう言って遥香さんはため息をついた。「遥香お姉ちゃんも小さい頃から寂しかったんだね。私も幼稚園までは祖父母の元で育ったの。祖父は剣道を、祖母は民謡を教えてくれたわ。小学生になってから私も家族と一緒に全国を回るようになったの。各地を1か月ごとに点々とする生活だったの。だからお友達も出来なかった。そんな時に声を掛けてピアノを教えてくれたのが美穂お姉ちゃんだった。優しく教えてくれて、こんな人がお姉ちゃんだったら良いなあと思っていたら・・・。」「本当にお姉ちゃんになっちゃったわけだね。」遥香さんにそう言われて嬉しそうに頷く里穂。「私、今がとっても幸せ!遥香お姉ちゃんまで居てくれるから!」そう言って遥香さんに抱き着く里穂。「ありがとう!里穂ちゃん!」遥香さんもしっかりと里穂を抱きとめる。

「あらあら、2人で仲の良いこと。」レッスンを終えた2人のママにしっかり見られてしまった。

「本当に仲良しだよね、あなたたち。」そう言って笑う優太ママだった。いつの間にか春子さんも加わってにこにこと2人を見つめていた。

「それじゃあ、そういうことで。」そう言いながら春子さんと別れて教室を後にした4人。従業員控室の美穂と優太君と合流し、その足で喫茶「樹林」へ向かう。

途中の商店街ですれ違う人たちに声を掛けられる。

しかし、皆さん軽い挨拶だけでさりげなく接してくださった。

「樹林」へ着くとマスターご夫妻が何時もの笑顔で迎えてくださった。どうやら楽器店の休憩場所にもなっているようで結構にぎわっていた。子供たち4人はチーズトースト、大人2人はパンケーキを注文。飲み物は全員アイスミルクティーを注文した。ここでも美穂と里穂がウエイトレスさんになって大活躍だ。子供4人はボックス席、大人2人はカウンター席に陣取っていた。

「信子お姉さん、さっきの話って何だったんですか?」遥香さんが信子に尋ねた。

「うん、あれはね、毎週水曜日がバイトさんたちの全体練習の日ということで人手が足りないの。だから当分、私たち2人が通うことにしたの。優太君も自分で練習出来ているし。」信子の話に頷く優太ママ。

「帰ったらピアノルームが3部屋になったから大分便利になるわよ。ね、遥香さん。」そう信子に言われて嬉しそうな遥香さん。「優太君も思いっきり練習できるわよ。」そう続ける信子だった。そして遥香さんと同様に優太君も嬉しそうだった。

4人がテーブル席でチーズサンドをほおばっていると若いお母さんが声を掛けてこられた。一緒に小さな男の子を連れている。

「あっ!」里穂は思い出した。あの時、そう、どら焼きをプレゼントしてあげた男の子とお母さんだった。お母さんは丁寧にお礼を言ってくださり、男の子も「ありがとう!」と言ってくれた。そして何かを差し出してくれた。それは小さなミニカーだった。どうやら自分の宝物を里穂にくれるという。「ありがとう!大事にするね!」そう言うと男の子は「うん。」と言ってはにかんだ。里穂は自分のかばんからサイン色紙を取り出しサインを描いた。驚いたように里穂の手元を見つめている男の子にそれを渡すと「お姉ちゃん、ありがとう!」と言って「良かったねえ。里穂さん、ありがとうございます。」そう言う母親と手を振りながら店を出て行った。里穂は男の子からのプレゼントを自分のハンカチでて包みそっとかばんに入れた。

「ねえ、里穂。知り合いなの?」事の経緯を知らない3人を代表するように美穂が尋ねた。「うん、以前どら焼きをおすそ分けしたの。」そう言う里穂にますます「???」な3人だった。そんな3人に奥さんが事の経緯を説明してくれた。2人のママもそれをじっと聞いていた。そして里穂の神対応を褒めてくれた。3人も口を揃えて里穂を褒めたたえてくれた。余りの誉め言葉の連続に嬉し恥ずかしの里穂だった。

マスターご夫婦にご挨拶をして「樹林」を後にした。

里穂は少し涙ぐみながら遥香さんと美穂に支えられるように商店街を駅まで戻って行った。里穂にとって「樹林」は春子おばあちゃんとの想い出の場所でもあったからだ。

ロッジに戻った6人はお風呂の準備をしてホテルの温泉に向かう。夏休み最後の土日を控えたホテルは結構混雑していた。そんな中、女性たちの話題は完成した地下ピアノルームだった。完成予想図は見ていたものの実際の出来上がり具合が気になっていた。特に遥香さんは父と母の経営する会社の防音ユニットだけに特別な思いもあった。一応は美穂と里穂の練習部屋だが誰でも自由に使うことが出来ると信子が説明してくれた。急な停電時に稼働するバッテリーシステムが駐車スペース奥に設置されたとも皆に説明してくれた。「酸欠対策ですね。」優太君が頷きながらそう言った。「換気扇は無いの?」美穂が信子に尋ねる。

「美穂ちゃん、エアコンが外気導入型だから音漏れを意識して特に換気扇は無いのよ。ドアを開ければ空気は入ってくるわ。」遥香さんは美穂にそう説明した。信子は思った。『遥香さん変わったわ。仕様書を細部まで読んでいたのね。もうのんびり屋さんは卒業ね。』

温泉上がりのフルーツ牛乳を一人で飲んでいると知らないお父さんたちから声を掛けられる優太君。小学生の男の子が一人でいるのが気になるようで飲み物を買いに来たお客さんたちが代わる代わる声を掛けてくれる。そんなお父さんたちと世間話をしながら飲むフルーツ牛乳も格別だった。その間に女性5人が温泉から出てきた。普通の家庭とは異なる家族連れにたじろぐお父さんたち。しかし打ち解けてみると楽しい会話になっていく。6人皆が話好きということもあるが何よりも人柄だと私は思っている。瞬く間に浴室の売店前は賑やかな集団が出来上がっていた。そんなお父さんたちだったが6人のことを知っている人は誰も居なかった。だからお互い普段通りの会話が弾んだのだろう。そんな集団はロビーでそれぞれの家族の元へと散って行った。

夕食までまだ時間があった。6人で売店へ行きお土産を買うことにした。2人のママは相変らずの大量買いで直接配達をお願いしていた。

それを見習ったのか、遥香さんも学園の音楽部宛に大量のお菓子を選び配達をお願いしていた。里穂は健君へのお土産を選んでいた。が、今一つこれといったものが見つからなかった。それを遠目に見ていた美穂と優太君は遥香さんにお願いをした。「里穂を高原神社に連れて行ってお守りを買わせてください。」その意図を汲んだ遥香さんは小声で「オーケー。」と二つ返事だった。


翌日、何時も通りにりすくんたちに落花生をプレゼントして朝食へ向かう。何時も通りと思っていたことが全て明日を持って何時も通りではなくなる。美穂も里穂も少しやるせない気持ちでいた。そのせいか、毎朝見られた2人のスペシャルメニューが影を潜めていた。クロワッサンをほお張りながら遥香さんが里穂を誘った。「食事が終わったら駅の方まで行かない?」

やって来たのは高原神社だった。神社の駐車場に車を停めて参道へ。里穂のルーティンに従ってお参りをする。「遥香お姉ちゃん、何かお願い事があったの?」参拝を終えて里穂が遥香さんに尋ねた。

「うん。里穂ちゃんと健くんがますます仲良くなれますようにって。」

そう言って里穂を見て微笑む遥香さん。里穂の目に涙が溢れる。「うれしい!遥香お姉ちゃんありがとう!」里穂は涙を拭きながら遥香さんにお礼を言った。

「里穂ちゃん、お揃いのお守りを買っておいでよ。健康運の、白いお守り袋も。」遥香さんの言葉に頷く里穂。そして遥香さんの意図に感謝した。

ロッジに戻った2人を美穂と優太君が出迎えてくれた。遥香さんはにっこりと頷くと里穂の背中を軽く押した。

「里穂、お土産が買えて良かったね。」美穂の言葉に再び涙をこぼす里穂。「お姉ちゃん、心配してくれてありがとう。」そう言って美穂に抱き着く里穂だった。

そうこうしている間にお昼となった。今日は最後のレストランでの昼食だ。張り切る3姉妹に少し呆れた表情の優太君だった。奮発して6人でランチコースを頂くことにした。スープ、サラダ、メインディッシュのヒレステーキ、食後のデザートのプリン、そしてパンと飲み物が出てくるコースだ。「美味しいね。」3姉妹はにこにこ顔で料理を堪能していた。

昼食が終わると17時から始まる最後の演奏会に向けての練習を行う。

演目は各自の得意とする曲でと2人のママからの話があった。皆、少し悩んだが意外とすんなり決まって行った。そして2部構成としてクラッシクと歌謡曲を披露することとなった。

最初の1曲目は里穂の「くるみ割り人形より「花のワルツ」」

次の2曲目は美穂の「ト長調のメヌエット」

優太君の「ヴァイオリン協奏曲ホ調作品64第1楽章」

遥香さんの「トルコ行進曲」

遥香さんと美穂の連弾で「仮面舞踏会」

優太君と美穂の「カルメン幻想曲」

第1部最後は全員での「運命」

以上で第1部が終わる。

急遽設けられた第2部は歌唱である。

優太君の「美しい十代」に始まり

美穂の「みずいろの手紙」

遥香さんの「瀬戸の花嫁」

優太君の「雨の中の二人」

美穂の「天城越え」

遥香さんの「鳥取砂丘」

遥香さんと美穂の「ウナ・セラ・ディ東京」

里穂の「好きになった人」

といったラインナップとなった。

今日最終公演ということでいつもより早めの17時に

開演することとなっていた。また、地元の町営テレビ局も収録のためにカメラを設置して待機していた。

そんな中、優太ママは来客の増加を考慮し1/3のみをお年寄りやちびっ子たちへの優先席とし、残りは立見席とした。高原高校のお手伝いの皆さんもてきぱきと相変わらずの対応ぶりを見せてくれた。

私も渋滞に巻き込まれながらもどうにか開演前にロッジに辿り着けた。既に2人のママは会場設置に携わっていたため遥香さん以下4人が楽器類を纏めて待機していた。私が玄関から声を掛けると4人揃って出迎えてくれた。1週間ぶりの再会だったが何故か4人ともまた大人になっていることに気付いた。

楽器類を積み込みワゴン車でホテルへ向かう。到着すると何時も通りに高原高校の有志の皆さんが手渡しで荷物を運んでくれた。

会場は既に満員の状態で信子が優先席の案内を何度も繰り返していた。それを到着した美穂が引き継ぐ。

楽器類の設置も終わりいよいよ開演を待つばかりとなった。

そして16時30分、公演前のちびっ子タイムが始まる。3姉妹が登場するとちびっ子たちは大喜びだ。今日は会場が狭いのでその場で一緒にお歌を歌うことになった。

そしていよいよ最終公演の幕が開く。里穂の演奏を皮切りに次々と演奏が披露されていく。皆、自信に満ち溢れ、今までで一番素晴らしい出来栄えではないかと思われるほどだ。4人ともアマの域を超えている様に思えた。会場も私と同じ気持ちだったのだろう。各人に凄まじい程の拍手と声援が飛び交った。演奏を終えた4人は今までにない達成感に酔いしれていた。

「あっ!」遥香さんが気付いた。芸能プロの社長さんと副社長さんの姿を見つけたからだ。お2人とも笑顔で拍手を送ってくださっていた。6人皆でステージ上から軽く会釈を送るとお2人とも軽く手を揚げて答えてくださった。

第1部が終わり第2部の歌唱に入る。

トップバッターの優太君の歌声に感心されるお2人。

美穂、遥香さんのデュオの完成度に大変驚かれていた。

最後の歌唱は里穂の「好きになった人」だ。里穂の歌声とこぶし回しに圧倒されるお2人。うん、うんと頷きながら聴いてくださっていた。

曲の最後になると感極まって涙声になる里穂。

「がんばれーっ!りほちゃーん!」何と!社長さんからエールが贈られる。

涙を流しながら笑顔で歌い終える里穂に飛び切りの拍手と声援が送られた。

全員で横並びになり一礼する。最後の挨拶は里穂がそのまま担当した。皆様への感謝の気持ちを泣きじゃくりながら伝える姿に会場からもすすり泣きが聞こえる。挨拶を終えて再び6人で最敬礼すると「こちらこそありがとうーっ!」という声があちらこちらから飛んでくる。手を振りながら舞台裏に戻っていく6人を会場の皆さんが盛大な拍手で見送ってくださった。

その後、涙も乾ききらないうちにサイン会の開催となる。警備員さんたち、ホテルの従業員の皆さん、高原高校の皆さんご協力のもと粛々と進行していく。「ありがとう。」の言葉を皆さんに頂き、感謝の言葉と共に色紙を渡していく。そんな6人の姿をお2人は最後まで見守ってくださった。

お2人と高原高校の皆さんをお見送りすると、最後の夕食は22時過ぎとなってしまった。皆お腹が空いて堪らないだろうと思ったが、最後の公演ということで緊張感が何時もより高かったのだろうか、皆あまり表情には表さなかった。何時ものテーブルで何時もの様にディナーを頂く。皆口数が少なく、思うところが大きいのだろうと感じた。

「美穂も里穂もやけに静かだね。」私が2人に声を掛けると美穂が言った。「このレストランの味を覚えておこうと思って。」里穂も頷いていた。

ナイフとフォークが食器に触れる音だけが静かなテーブルを賑わわせていた。

食事が終わると帰り支度に取り掛かる。もう使わないものからワゴン車に積み込んでいく。極力身の回りのものだけを残すように全員が荷造りを行なう。明日は朝食後にはこちらを立つ予定だ。そんな流れもあり、大人3人は温泉へ向かう。残る4人は夜も遅いこともありシャワーで済ませ早く就寝させることにした。

途中、行き違いで優香さんと早紀さんが乗った車とすれ違う。窓を開けて挨拶をする。楽器店も音楽教室も軌道に乗ったと聞かされ安心する。2人は温泉に入った帰りだと言い、日曜日に戻るとのことだった。

宿の精算は終わっていることを告げるとお礼を言われたがあまり気にしなくても構わない旨を伝えた。


翌朝、今日は家に戻る日だ。

りすくんたちに最後の落花生をあげる。泣きながらりすくんたちと接する娘たち。「りすくんたちはこれから冬眠だから沢山の落花生に囲まれて安心して眠れると思うよ。」そう言って3姉妹を慰労した。りすくんたちがいつもと違って何度も振り返っている様に見えたのは気のせいだったのだろうか。

まだ寝ている優香さんと早紀さんに気遣いながら7人でロッジを後にする。レストランは朝一番のお客さんだと思ったが、今まで知らなかったのだが、ゴルフのお客様のために土日は6時から営業しているとのことだ。これには全員が驚いた。

最後のモーニングビュッフェを楽しむ。美穂と里穂のスペシャル盛も復活し何時もの様に賑やかな朝食となった。デザートはチョコレートフォンデュと特製おぜんざいを食べまくる3姉妹に私たち4人は呆れてしまうほどだった。その時、信子の電話が鳴った。春子おばあさんからだった。帰る時に自宅に寄って欲しいとのことだった。

朝食が済んでレストランの皆様にご挨拶をしてロビーへ。フロントの皆さんにもご挨拶をして外へ出る。

すると高原高校の皆さんを始め、大勢の皆さんが見送りに集まってくださっていた。皆さんにお礼を言いながら窓を開けた3台の車がゆっぅり進んでいく。

「ありがとう!」「またきてねえーっ!」皆さんの掛けてくださる言葉一言一言が胸に響く。そんな皆さんの声に見送られて春子おばあさんのお宅へ向かう。

お宅に着くと既に玄関先で小春さんと待っていてくださった。全員で車から降りてご挨拶をする。「皆さんのおかげでお店も最後のひと花を咲かすことが出来ました。そして何より嬉しいのは可愛い孫が4人も出来たことです。」と言って涙ぐまれた。小春さんがそんな春子おばあさんにヴァイオリンケースを手渡した。それを受け取った春子おばあさんは優太君に手招きをした。

「優太君、これを使って頂戴ね。お店のもので申し訳ないけど予備でも良いから持っておいて頂戴な。」そう言ってそのヴァイオリンケースを渡してくれた。

「本当によろしいんですか?」優太君と優太ママが口を揃えて尋ねる。

「良いの、良いの。うちでは誰も弾いてあげれないから、優太君に弾いて貰えるとその子もきっと喜ぶと思うわ。」そう言ってくださる春子おばあさんのご厚意に甘えることとした。最後にもう一度皆でお礼を言って帰路に就いた。

帰りの車内では私の後ろの席で優太君と優太ママが早速ヴァイオリンケースを開けてヴァイオリンを手に取っていた。

「ひええーっ!嘘でしょ!」優太ママの悲鳴が上がった。それに驚く優太君と私。

「ママ、大声上げてどうしたの?」優太君が優太ママに尋ねる。

「ゆ、ゆ、優ちゃん!これ!これえっ!」声も身体も震えている優太ママ。

「どうしたんですか?虫か何かが入っていたんですか?」私も運転しながらルームミラー越しに優太ママに尋ねた。

「こ、これってベルギーの有名メーカーの・・・いっ、1000万円クラスのヴァイオリンなのよっ!さすがに頂けないわ!」そう興奮する優太ママに「まあ、一旦家に戻って春子おばあさんに詳しく経緯を聞いてみましょうよ。」と私はなだめる様に言った。

途中のサービスエリアでの休憩時でもこの件は話さないよう約束した。他人に聞かれるとまずいと思ったからだ。私たち3人は代わる代わるお手洗いへ行った。

勘の良い美穂が何か言いたそうだったが笑ってごまかした。超貴重品を積んで無事にわが家へ到着。

優太ママはヴァイオリンケースを抱きかかえて小走りでピアノルームのヴァイオリン保管ケースへ向かう。さすがに信子も何か変だと気が付いたようだ。

皆が荷物を運び込んでいる最中もヴァイオリンケースの前から動こうとしない優太ママ。皆それを不思議に思っていた。

荷物を運び終えて新しく出来た地下レッスン室への入り口を開けて見学へ向かう3姉妹と優太君。信子が不思議そうに優太ママに近づく。「さっきからどうしたの?」そう優太ママに小声で尋ねるとヴァイオリンについて話してくれた。「えっ!それって本当なの?」信子も信じられないといった顔をした。

地下からは美穂と里穂がそれぞれのピアノを弾き始めた。ドアを開けているため2台のピアノの音が入り乱れる。私は地下へ降りてドアを閉める様に言った。

すると音は全く聞こえなくなった。しばらくすると遥香さんと優太君がリビングに戻って来た。地下への入り口と階段を設けたためリビングはかなり狭くなったがそれでも従来のソファーや椅子は余裕を持って置くことが出来た。ピアノルームでは信子が春子おばあさんと電話で話をしていた。話を聞くと、形見のヴァイオリンがあまりにも高価過ぎて製造メーカーの博物館に寄付したそうだ。そのお礼に頂いたものとのこと。そうは言ってもあまりにも高級過ぎて頂けないと電話を代わった優太ママが話している。私は優太ママと電話を代わり春子おばあさんと交渉をした。

「優太君がお借りするということでどうでしょう。」私がこう話すと春子おばあさんは納得してくれたので優太ママにも確認した。ヴァイオリンの価値にこだわっていた優太ママだが最後は折れてくれた。春子おばあさんはどうしても優太君にこのヴァイオリンを譲りたいらしく遺言まで書くと言って笑ってくれた。さすがにこの騒ぎを気にして全員が集まって来た。そこで優太ママから事の経過の報告があった。3姉妹は目を丸くして驚いていた。3億円のピアノと1000万円のヴァイオリン。ピアノルームの防犯設備を強化するしかなさそうだ。ホームセキュリティーとは契約をしているのでまあ安全だとは思うが。

嬉しい騒動の後、美穂と私は結婚式場へ向かう。残りの皆は各部屋の換気を行うということでお留守番となった。

今日は15時からの披露宴会場での何時もの仕事だ。美穂はもうすっかり慣れて式場のエースとして活躍している。ますます磨きがかかった演奏を披露してくれるだろう。

帰り際にマネージャーさんに言われた。「最近、演奏が艶っぽくなりましたね。美穂ちゃん、さらに上手くなっていくわ。今、うちの中でも一番人気は美穂ちゃんなの。これからもよろしくお願いしますね。あと、今回からお給金が上がりますのでご確認ください。」

お礼を言って結婚式場を後にする。マネージャーさんに褒めていただき美穂は上機嫌だった。

家に帰って信子にお給金を渡しながらその話をすると大変喜んで美穂をハグしてくれた。

美穂はその足で地下のレッスン室へ降りていく。1号室で練習していた遥香さんに飛び付く美穂。「わあーっ!な、何?」驚く遥香さん。今度はその足で隣の里穂の元へ。そして同じようにいきなり飛び付いた。「うわっ!お姉ちゃん!お姉ちゃんちょっとどうしたの?」慌てふためく里穂。後から駆け付けた遥香さんと一緒に美穂を見つめている。「うふふ。良いことがあったの。」美穂はそう言うばかりで2人はさっぱり理由が分からないままだった。

「美穂の収入が増えるといよいよ確定申告ね。」そう言ってため息をつく信子だった。


翌月曜日。今日から2学期が始まる。何時も通り家を出る美穂と里穂。2人で一緒に歩いて登校する。途中で知り合いの子たちが合流する。皆“天使の3姉妹”の話がしたいようだが余りにも2人が普段通り過ぎてなかなか切り出せずにいた。

それはお互いの教室でも同じだった。何時もの様に教室の入り口で「おはよう!」と声を出して入る。皆意識して2人を見る様だが肝心の2人は知らぬ存ぜぬのスタイルを通す。何時もと変わらない2人にいつしか周りの子たちは2人が“天使の3姉妹”であることを忘れてしまうのだった。私は2人が分別をわきまえているからこその態度だと思った。

放課後、久しぶりの音楽室で健君を待つ里穂。ピアノを弾きながら聞き耳を立てていた。

やがて足音が聞こえてきた。演奏を止める里穂。

「ごめーん!遅くなっちゃった。」お掃除係だった健君が急ぎ足で里穂の元へ。

「ううん。お掃除お疲れさま。」里穂はそう言ってにっこりと微笑む。

お互いの夏休みの報告をし合って話が弾んだ。

「里穂ちゃんに渡したいものがあるんだ。」そう言いながらズボンのポケットから何かを取り出した。

「えっ!うれしい!なあに?」里穂がそう言いながら健君が握っている右手を見つめる。

「じゃああーん!これ!お揃いなんだ!」そう言って右手を広げる健君。その手には小さな金色のコインがひときわ目立つ金色のネックレスだった。

「わあーっ!綺麗!ありがとう、大事にするね!」そう言いながら早速身に纏う里穂。胸元で輝くコインが眩しい。

「里穂ちゃん!似合っているよ!」健君に褒められて満面の笑みを浮かべる里穂。

「ありがとう健くん。実は私も、そう言って純白のお守りを差し出す里穂。「これ高原神社のお守りなの。健くんがケガをしないようにと思って。」

「わあ!ありがとう!俺のことを想ってくれてたんだね!」健君はお守りを受け取ると自分のシャツの胸ポケットに大事にしまった。「試合の時は必ず持っていくよ。」そう言ってにっこりと笑ってくれた。

「ねえ、里穂ちゃん。」そう言って里穂に近づく健君。

里穂は身動きもしないで健君を見つめる。健君の唇が近づいてくる。里穂は目を閉じて健君の唇を受け入れた。2人のファーストキスはドキドキの甘酸っぱい味だった。

「うれしい。」里穂はそう言って黙って健君を見つめた。健君もじっと里穂を見つめていた。

そして、下校の時刻を知らせるチャイムが鳴るまで2人は無言で見つめ合っていた。

2人で手を繋いで職員室へ向かう。音楽室の鍵を返すためだ。鍵を戻して職員室を出ようとした時だった。担任の小林先生に声を掛けられた。「里穂ちゃん、お母さんが車でお迎えに来ていらっしゃるわよ。」

2人で「さようなら。」と先生方に挨拶をして学校裏の給食室脇へ向かう。そこは職員用の駐車場でそこに信子が運転するワゴン車が止まっていた。「健君も一緒に!」と信子に手招きをされて2人が乗り込むと既に美穂と優太君が最後部座席に座っていた。

「こんにちは。おじゃまします。」そう言って挨拶する健君。2人も「こんにちは。」と挨拶をする。

「うふっ。かわいい。」美穂はそう言ってシート越しに2人に話しかける。あっという間に4人が仲良しになった。車は優太君と健君の住むマンションに着いた。

「ありがとうございました。」そう言って車を降りる健君を見送る3人。「またあしたねえーっ!」里穂がそう言って手を振った。健君も笑顔で手を振り返してくれた。

家に戻ると優太ママが沢山の洗濯物と格闘していた。

7人分の溜まった洗濯物を2人のママが洗濯機と乾燥機をフル稼働させて洗ってくれていたのだ。帰って来た4人も洗濯物の片付けに加わった。

その時、信子の電話が鳴った。千夏さんからだ。電話に出て話す信子。「うん、うん。」と頷いている。

「里穂、かほちゃんって子、知ってる?里穂のサイン色紙と“天使の3姉妹”と一緒に写った写真を持っているみたいだけど・・・。」信子が里穂に尋ねる。

「あっ!その子ってオープニングセレモニーの時に最後にサインをした子だわ。」そう答える里穂。

信子は何やら深刻な表情で千夏さんと話している。

他の4人は聞き耳を立てるがなかなか話の全体像が聞こえてこない。

「わかりました。今から伺うわ。」そう言って信子は電話を切った。「千夏さんから、駅で女の子を保護したそうなの。たった一人で高原町から来たみたい。里穂のサイン色紙と“天使の3姉妹”と写った写真を大事に持っているそうよ。児童保護施設から抜け出してきたみたい。施設の職員さんも来てくださるそうだから取り敢えず私も行ってみようと思って。里穂、ごめん。付いて来てくれる?」そう言ってワゴン車で鉄道警察署へ向かった。

「どうしたんだろうね。」信子と里穂はそんな話をしながら鉄道警察署へ滑り込んだ。

受付で氏名と住所を記入し免許証で確認してもらう。

勝手知ったる鉄道警察署だが手続きは厳重だ。2人で広報課へ向かう。

応接室には千夏さんと若い婦警さんが女の子と話をしていた。どうやら交通事故で父親が急死し、親戚からも引き取りを拒否され保護施設に入れられたらしい。しかし、乱暴な子供たちに馴染めず、宝物にしていたサイン色紙と写真を取られそうになったため思わず逃げ出してきたようだ。

「かほちゃん。私、里穂だよ。」里穂は半分泣きながら両手を広げた。

「お姉ちゃん!」そう言って椅子から立ち上がったかほちゃんは走り寄って里穂の腕の中に飛び込んだ。

「まあ!里穂ちゃんにちゃんと接して貰えたことがとっても嬉しかったのね。」千夏さんがそう言って目頭を押さえた。そんな2人を見ていた信子が千夏さんに言った。

「かほちゃんをうちの子にする!」

驚く千夏さんと里穂、そして婦警さん。

「施設に帰ってもこの子には良い未来は無いわ!」続けてそう力強く話す信子。

「ママ、ありがとう。かほちゃん、お家に来てくれる?」里穂は、今度は嬉し涙を流しながらかほちゃんに問いかけた。かほちゃんは小さく頷いた。

ドアをノックして到着した職員さんが入ってきた。

「皆さんこの度は・・・あっ!演奏家の!」そう言って絶句する職員さん。さすが高原町では有名人だということが分かった千夏さんと婦警さん。

職員さんから経緯の説明があった。

職員さんが尋ねても帰る意思は無いとはっきりと答えるかほちゃん。

「うちの子として養子縁組をします。」そう言ってかほちゃんを見つめる信子。「水曜日に高原町を訪れますのでその時に養子縁組の手続きをお願いします。」

「それでは円満に解決ということで。」千夏さんが笑顔で両者を見つめた。職員さんも笑顔でそれに答えた。

かほちゃんを乗せた2人は家へとワゴン車を走らせる。途中でハンバーガー店のドライブスルーにより里穂とかほちゃんのハンバーガーセットを買った。後部座席で美味しそうにハンバーガーをほうばる2人。

「美味しい。私初めて食べました。」そう言って大喜びのかほちゃんの様子に驚きながらも安心する信子と里穂だった。

里穂はかほちゃんの手を引いて玄関に入る。待ち構えていた3人が出迎えてくれた。

「いらっしゃい。さあ、はやくあがってちょうだい。」美穂に促されてリビングへ。今まで感じたことのない温もりに思わず涙するかほちゃん。「泣かなくても大丈夫だよ。皆がついているからね。」優太君が優しく声を掛ける。涙顔で頷くかほちゃん。

「ホットココアはいかが?」優太ママが温かいココアを入れてくれた。どうやらココアも初めてのようだ。

「おいしい。」そう言いながらふうふうとココアを飲み進めていくかほちゃん。どうやら相当貧しい生活を強いられていたようだ。夜も更けてきたので美穂と里穂と3人でお風呂に入ることにした。

やがてお風呂場から3人のはしゃぐ声が聞こえてきた。これで一安心だ。かほちゃんの持ち物は赤い新しいランドセルだけだ。衣服は里穂のものを貸してあげることにした。少し大きいがしばらくは仕方がない。

高原町の職員さんに渡されたかほちゃんの“身辺報告書”によると名前は“歌穂”で小学校1年生と記されている。

「歌穂ちゃんかあ。偶然だね。3人とも“穂”の字が一緒だわ。」優太ママが何やら運命的なものを感じると書類を見ながら言った。

「明日は学校に行って転入手続きをするわ。」信子はそう言って紅茶を飲み干した。

「水曜日はどうする?歌穂ちゃん連れていく?」優太ママが信子に尋ねた。

「いや、連れてはいかないわ。子供たちだけで通学させる。お迎えは遥香さんにお願いするわ。丁度ボイストレーニングの日だし。」そう言って遥香さんに電話する信子。

信子の電話が終わるころ3人がお風呂から出てきた。3人とも完全に打ち解けたようで笑顔ではしゃぎ合っている。そんな歌穂ちゃんを見て優太君が言った。

「歌穂ちゃんって可愛いですよね。笑うとすごく可愛い。」確かにそうだと2人のママも思った。

3人娘はお風呂上がりのオレンジジュースを飲んでいる。歌穂ちゃんも一緒にオレンジジュースを楽しんでいる。

「はーい、3人とも、ジュースを飲んだら歯を磨いておやすみしてくださいな。」信子の言葉に嬉しそうに返事をする歌穂ちゃん。姉妹として認められたという嬉しさからの笑顔だった。わあーっと3人で洗面所へ走って行く。それを見送る3人。

「もうすっかり3姉妹ね。」優太ママが嬉しそうに言った。歯磨きを終えた3姉妹が戻って来た。

「皆さん、おやすみなさい!」3人で声を合わせてのおやすみのご挨拶だ。「かほちゃん、私と一緒に寝ようね。」里穂がそう言うと美穂が「ずるーい!私も!」と言い出した。どうやら3人で寝ることになる様だ。

4人の小学生が眠りに就いた頃、私が帰宅。

早速信子から事情の説明を受ける。

「うん、うん。そうか。可愛い娘が増えたのか。」私は嬉しくて笑みがこぼれた。だが、歌穂ちゃんの“歌”の字が気になった。それは信子も同様だった様だがそのうち分かるだろうからとあまり気にも留めてはいなかった。私は転勤に備えて衣服の整理を始めた。

事前に航空便で送るためだ。信子は勝手が分かっているのであれこれとアドバイスをくれる。有難く、非常に心強い。衣服の整理があらかじ終わった時点でリビングに下りてコーヒーを入れて一休みする。丁度信子がお風呂から出てきたので、再び歌穂の話をした。

明日の転校手続きのこと、明後日の養子縁組の手続きのことなどを話し合った。ふとリビングのテーブルに目を遣ると真っ赤なまだ新しい歌穂のランドセルが眩しく目に映る。土曜日まで、なかなか会う機会が持てないのが残念でならなかった。

「あら、お帰りなさい。」ピアノルームから出てきた優太ママだった。「こんな時間まで練習ですか?」と尋ねると水曜日の音楽スクールの下調べをやっていたとのことだ。そうか明後日水曜日は信子と高原町へ出かけるんだった。信子と2人で春子おばあさんにお土産をと話をしていた。「物よりも2人で良い講師として実績を残すのが一番じゃないかなあ。」というと「やだ!酔ってるの?」と信子と2人で突っ込んでくる。「コーヒーで酔える訳ないだろう。」と返すといつの間にかお風呂を出ていた優太君に大うけだった。


翌日、信子は優太君と3姉妹をワゴン車に乗せて学校へ向かった。報道関係の方々が詰めかけてくるためだ。

一応まだ小学生なのでと取材などはお断わりをしているのだが。加えて熱狂的なファンの方々も待ち伏せる様に隠れ潜んでいるかも知れないからだ。

何時もより早めに学校に着き、歌穂と一緒に転入手続きを行う。保護事務所から預かった書類を添えて提出する。歌穂はじっと信子の隣でその光景を見つめていた。事務のお姉さんは終始ニコニコ顔で2人に接してくれた。そして新しく担任になる田中先生を呼んでくれた。2人で立ってお迎えし、しっかりと信子に習ってご挨拶が出来る。田中先生はにっこり微笑んで歌穂に言った。

「田中です。歌穂ちゃん、よろしくね。そうかあ、美穂ちゃんと里穂ちゃんの妹さんなのね。お母さまも楽しみですね。あのね、お姉さん2人は下級生にとっても優しいのよ。だから皆、2人のことが大好きなの。」

そんな話を聞くと何だか嬉しくなる信子と歌穂だった。明日から登校させますと言う信子に教科書を手配してくださる田中先生。教科書と時間割、給食のメニューも一緒に2人に渡してくださった。目を輝かせる歌穂。

「田中先生、ありがとうございます。よろしくお願いします。」としっかりお礼の挨拶も言えた歌穂に拍手をくださる田中先生。思ったよりしっかりして明るい子だと信子は思った。

学校を出ると2人で大型スーパーへ出向いた。歌穂の身の回りの物、特に通学用の服と体操服だ。2人の姉は白い丸襟のブラウスに濃紺の吊りスカートといった出で立ちで通学している。歌穂もそれに合わせて2セットを、そしてカーディガンを購入した。その足で体操服も2セット購入。後は私服と下着だ。一旦荷物を車にしまって再度子供服売り場へ。歌穂に似合いそうな服を数着選んで下着と靴下も一緒に揃えた。

「歌穂、ここの楽器店に行ってみようか。ママはね、店長さんにお礼を言いたいの。」そう言う信子に「うん、ママ。」と明るくはっきりと答えてくれた。

「ありがとう、歌穂。」そう言ってうれし涙を浮かべて歌穂と手を繋いで楽器店に向かう信子だった。

楽器店で店長さんに2台のピアノのお礼を言って歌穂の紹介をする信子。店長さんは終始笑顔で歌穂に話しかけてくださった。

そんな店長さんにしっかりお礼を言って車に戻る。

信子は優太ママに電話を掛ける。「お昼どうする?」

そう電話で話しながら歌穂にも同様に尋ねる。歌穂はあまり色んなものは食べたことが無い様で返事に困っていた。「歌穂、この近くは色んなお店があるから沢山連れて行ってあげるね。」幼い歌穂の心を読み取った信子の言葉に笑顔で頷く歌穂だった。

取り敢えず優太ママを迎えにマンションへ行く。

「こんにちは、歌穂ちゃん。」「こんにちは。」

優太ママを助手席に乗せて出発する。「お昼何食べようか?」優太ママが歌穂に聞くが明確な答えが返ってこない。「歌穂、お寿司にしようか?」信子がそう言うと「うん、ママ。食べてみる。」と答える歌穂。このやり取りで歌穂のこれまでの食生活を悟った優太ママだった。

回転すし店に入る。テ-ブル席に案内されると回ってくる色んなお寿司に目を輝かせる歌穂。恐らく初めて見る光景なのだろう。

「好きなお寿司を取って良いんだよ。」信子と優太ママに言われて真っ先に取ったのはかっぱ巻きだった。

「これはどうかなあ。」優太ママが鉄火巻きを取って歌穂の前に差し出すと恐る恐る1つを器用にお箸で摘まんでお醤油につけ口に運ぶ。瞬く間に歌穂の顔が笑顔になった。「美味しかったでしょ。お顔は正直だからね。これ全部食べても良いのよ。まだまだ、ほーら。あんなに沢山やって来るからね。」優太ママはそう言ってサーモンと玉子をテーブルに並べた。

「うふっ、歌穂、好きなもの、気になったものを取ってみたら?」信子に言われてこくんと頷く歌穂。

「こうやって取るのよ。」と言ってお手本を見せる優太ママ。早速流れて来たエビアボカドを器用に取ってみせる歌穂。「おっ、歌穂ちゃん、上手い、上手い。」2人のママに褒められて嬉しそうな歌穂だ。今取ったエビアボカドと鉄火巻き、かっぱ巻きを3点食いする歌穂をじっと見つめる2人のママ。3皿を食べ終えるとテーブルに並んでいるサーモンと玉子にも箸を伸ばす。「そうそう。沢山食べて。」優太ママにそう言われて頷く歌穂。そして意外なことに熱いお茶をふうふうとすする。小学1年生の子とは思えない渋さを見せる歌穂に思わず顔を見合わせる2人のママ。

お腹一杯にお寿司を食べて幸せそうな歌穂の様子に笑顔の2人のママだった。

お寿司屋さんを出ると同じ敷地にある大型スーパーで晩ご飯のお買い物だ。歌穂は初めて見る巨大スーパーに驚きを隠せなかった。「何時もは何処でお買い物していたの?」信子の質問に「近くの商店街。」と答える歌穂。

見るもの全てが新しく、きょろきょろ見回す。

大きなショッピングカートも初めてだ。

「今日は唐揚げにしようかと思うの。そして明日は美穂にカレーを作ってもらおうかと。」そう言う信子の言葉を聞いてタマネギを選ぶ歌穂。

「えっ?歌穂ちゃん、お野菜の目利きが出来るの?」

驚いた優太ママが歌穂に尋ねた。「うん。八百屋のおじさんと仲良しで色々教わったの。」そう言って選んだタマネギをカートに入れるとニンジン、ジャガイモを次々に選んでいく。周りに居合わせた奥様方が感心して歌穂を見つめていた。

「歌穂、サラダを作るからキャベツとレタス、レッドオニオンもお願いね。」信子に言われててきぱきと品定めをしていく歌穂。美穂同様になかなかのしっかり者だ。

「カレーのお肉はどうしようかなあ。」お肉売り場でそう言う信子に「ママ、私は何でも大好きだよ。だからママが決めて。」という歌穂。「そうかあ。それじゃあみんなが好きなビーフカレーを作って貰おうかな。」そう言って歌穂を見つめる信子。「うん。」歌穂はそう言って牛肉コーナーへ向かう。そしてカレー用の牛肉を選んでいく。「3パックお願いね。」「うん。」

そんな2人のやり取りを見ていた優太ママが言った。「女の子がいると良いなあ。」それを聞いて微笑み合う2人だった。

カレールーは美穂が使うものを選ぶ。「美穂お姉ちゃんのカレーを食べてみて。きっと気に入るから。」優太ママに言われて「はい。」と元気よく答える歌穂。

「あっ!肝心の鶏肉を忘れていたわ!」慌てる信子に顔を見合わせて笑う優太ママと歌穂。

その他の買い物を済ませレジへ。ここも歌穂の初めての場所だった。お姉さんがものすごい勢いでレジを打つ姿に驚く歌穂。じっとレジのお姉さんを尊敬の念で見つめる歌穂だった。

買い物を済ませて家へ戻る。買ってきたものを冷蔵庫などにしまい込むとティータイムにしようということになった。歌穂はココア、2人のママは紅茶を頂く。

「ママ、お願いがあるの。明日施設に寄って赤いピアノを持って来て欲しいの。」歌穂の真剣な顔に「分かったわ。」そう言って電話を掛ける信子。施設の職員さん宛だ。赤いピアノを引き取りたいとの連絡を入れる。そしてすぐに現物の確認が出来た。その旨を伝えると歌穂はすごく喜んだ。

「ひょっとして、ひょっとするかも!」2人のママは思わず顔を見合わせた。

「歌穂、良いところに案内してあげる。」信子は歌穂の手を引いてピアノルームへ入った。

「うわあーっ!」広々とした部屋に大きなグランドピアノと普通のスタンダードピアノが置いてある。大きなケースには数台のヴァイオリンが収納されている。

「歌穂、ピアノを弾いてみない?」そう言われた歌穂はスタンダードピアノに前に座ろうとした。

「ごめんなさい。それは美穂お姉ちゃんのピアノなの。まだ使って良いかと聞いていないから今日はママのピアノを使って頂戴ね。」そう言う信子に「うん。」と明るい返事が返ってくる。「でも、ママのピアノって?」

信子はグランドピアノの前に座り歌穂を自分の膝の上に抱え上げた。「わあーっ!弾く処がいっぱいある!」幼い歌穂の正直な感想だった。

「歌穂は赤いピアノで何を弾いていたの?」そう聞く信子に明るく弾むような声で答えた。

「お歌の絵本を見て「ぞうさん」とか弾いていたの。あと、最近「猫ふんじゃった」も弾けるようになったんだよ。嬉しそうに答える歌穂の頭を撫でながら信子は歌穂の両手を支える様に鍵盤に置いた。

「さあ、弾いてみて。」信子に言われた直ぐに歌穂の指が動く。まだ右手だけだが「猫ふんじゃった」を演奏していく。的確な演奏に驚く信子。「楽譜通りに演奏してるわ!」傍で見ていた優太ママが驚く。「しかもこのピアノを見て緊張しないなんて!」確かに緊張して指が動かないなど微塵も感じさせることなく歌穂の演奏は終わった。

「次は「ぞうさん」を弾いてみて。」信子のリクエストにやはり右手だけで演奏する歌穂。リズムも音階も完ぺきな演奏だ。指使いも子供ながらエレガントだ。

「歌穂、誰に習っていたの?」信子の問いに少し間をおいて小さな声で「ママ。」と答え下を向く歌穂。

「大丈夫よ。正直に答えてくれてありがとう!」そう言って後ろから歌穂を抱きしめる信子。「ママごめんね。」そう言いながら振り向いて信子を見つめる歌穂。

「良いのよ。気にしなくて。ママは今歌穂が居てくれるのが幸せだから。」そう言う信子にしっかり抱き着く歌穂だった。

再び右手で演奏する歌穂に合わせて信子は左手で演奏をする。左手の使い方を教えるためだ。そして左手だけを何度も練習する歌穂。「今度は両手で弾いてみて。」信子に言われて初めて両手で演奏を始める歌穂。少したどたどしいながらも演奏を終える。

「歌穂ちゃんすごーい!もう両手で聴けるようになっちゃうなんて!」優太ママが大きな声をあげ驚いていた。「ほんと!すごいわ、歌穂!」信子も後ろから歌穂を抱きしめた。

3人で感激に浸っていると信子の電話が鳴った。美穂からだ。「あっ!いけない!お迎え忘れていたわ!」信子は慌てて出かける準備をするために歌穂を抱えたままピアノルームを飛び出した。歌穂は突然の信子の行動に驚いて言葉も出なかった。「あっ!歌穂ごめん!抱っこしたままだったね。」そう言って歌穂を降ろした。「ついてくる?それとも優太ママのヴァイオリン聴いてお留守番している?」信子の問いに「ヴァイオリン聴いてる。」と答える歌穂。信子が出かけるのを見送ってきちんとドアがオートロックされるのを不思議そうに確認してピアノルームへ入る。

「見学させてください。」そう優太ママに告げると優太ママは喜んでくれた。丁度音楽教室の初心者用楽曲の練習をする予定だったので歌穂には丁度良いかもと思った。ヴァイオリンで童謡を次々に弾いていく優太ママ。歌穂は目を輝かせて聴いていた。そして思わぬ言葉を口にした。

「優太ママの音ってとっても綺麗で優しい音だね。私のパパの音はうるさかったの。」歌穂は何かを思い出したかのように話した。

「えっ!歌穂ちゃんのパパってヴァイオリンを弾いていたの?そしてママはピアノを?」突然の告白に驚く優太ママ。「と、いうことは、パパはヴァイオリニストでママはピアニスト?」そう思った優太ママは自分のヴァイオリンを歌穂に持たせてみた。歌穂は自然とヴァイオリンを構えた。「あら素敵。決まってるわね。」そう言いながら弓を渡す。すると歌穂は「ちょうちょ」の曲を弾き始めた。しかも子供の頃に良く観られる耳障りな音の濁りもなく演奏が出来る。優太ママは居ても立ってもいられなくなった。急いで信子に電話を入れた。そんな優太ママを不思議そうに歌穂は見つめていた。

「他に何か弾けるかなあ。」という優太ママのリクエストに頷く歌穂。すぐに「花」を弾き始めた。「嘘でしょ!なんでそんなに弾けるの?」もう驚きを通り越して感動するしかなかった。優太ママがさらに尋ねると衝撃の真実がわかった。何と!歌穂は幼稚園に行っていなかったという。1日中父とヴァイオリンを弾いていたというのだ。決して裕福な暮らしぶりではなかった様だがヴァイオリンを弾くことが唯一の幸せだったという。優太どころの話ではないと優太ママは思った。

丁度信子が3人を乗せて戻って来た。すぐに4人はピアノルームに入ってきて歌穂に色々と学校の話を始めた。

瞬く間に賑やかになったピアノルームを出て優太ママは信子に留守中の出来事を話した。信子も目を丸くして驚いた。「歌穂ちゃんの本当のご両親って・・・。」優太ママの発言を途中で遮る信子。「私悪いことを思い出させちゃったのかなあ・・・。」少し落ち込む優太ママ。「大丈夫よ。ほらあんなに元気じゃないの。それに、明日高原町に行けばはっきり判るわ。」そう話す2人のママの元に4人が駆け寄ってくる。

「ママ、今日のおやつはなあに?」4人で口を揃えたように聞いてくる。歌穂もすっかり溶け込んでいる。それが2人のママにとって何よりのことだった。

「今日のおやつはドーナツだよ。」2人のママが大きな箱を4人の前に置いた。中には色んな種類のドーナッツが並んでいる。歌穂はびっくり顔でそれを見つめていた。「歌穂、好きなものを取りなよ。」美穂にそう勧められるがなかなか決められない。すると里穂がドーナツを一つ一つ説明してくれた。「今日はどんな気分?」里穂にそう聞かれて「クリ-ムの気分。」と嬉しそうに答える歌穂。それを指差して「じゃあこれだね。」と教えてくれる美穂。優しい姉たちに囲まれてとても幸せそうな歌穂を見て微笑み合う2人のママだった。まだカフェインを摂取するのには少し早い里穂と歌穂のために優太ママがホットミルクを作ってくれた。皆の手元にドーナツとドリンクが揃ったところで「いただきまーす!」と声を揃える。

「おいしいね。」と笑顔でそれぞれが選んだドーナツを頂く。幸せな時間が流れる。


翌日、朝早くに信子は高原町へ向かった。子供たちの送りは優太ママに、迎えは遥香さんに任せての出発だった。途中で特急から普通に乗り換えて高原町に着く。

もう通勤時間も終わる10時少し前だった。そこからタクシーに乗り保護施設へ向かう。中に入ると先日お会いした職員さんが出迎えてくださった。

応接室で細かい説明を受ける。歌穂の両親についてはこうだった。両親が離婚し母親は出て行ったため父親と生活をしていたそうだ。だがその父親が突然の交通事故で亡くなり身寄りもないため児童保護施設へ入所したとのこと。信子が両親の仕事に就いて尋ねるとあまり言わないで欲しいと言われていた様で、聞かなかったことにして頂けますか?と逆に念押しされた。

「大丈夫です。歌穂の話を概略するとお父さんは○○さん、お母さんは△△さんですよね。」と先に答える信子に驚く職員さん。「よくご存じで。」と言われてしまった。さらに町営住宅で使われていた生活用品が町役場の倉庫に手つかずで残っているとのことだ。その中には赤いピアノもあるという。

一通りの手続きを終え、お礼を言って養子縁組のために町役場へ向かう。保証人の優太ママが到着するまでまだ時間があるため遅めの朝食を地下の喫茶室で頂くことにした。

しばらく経って優太ママが到着。2人で福祉課へ向かう。既に児童保護施設から連絡が行っていたようでスムーズに手続きと必要書類を頂けた。戸籍は転出が記載されたのを確認する。そして「こちらの戸籍は抹消しますか?」の窓口の職員さんの問いかけに「いいえ。歌穂がこの地で生まれた証ですからそのままにしておいてください。」と答えた。これが後ほど思わずして功を奏することとなる。

要件を終えて観光課へご挨拶に伺うと丁度出来上がった観光大使の名刺を各自分頂いた。お礼を言って、最後に保管倉庫へ案内してもらう。地下2階にエレベーターで降りる。

「いやあ、良かったです。歌穂ちゃん。本当に良かった。担当職員さんが何度もそう言ってくださった。

「どうぞご覧になってください。ご了承を頂かないと処分が出来ないもので。」担当職員さんが扉を開ける。

想像以上に荷物が少ない。目的の赤いピアノはすぐに見つかった。可愛らしいおもちゃのピアノだが歌穂が大事にしていたものというのが良く分かる。

「信ちゃん、見てこれ!」それは大小のヴァイオリンケースだった。小さい方は歌穂のものだろう。大きいケースを持った優太ママの手が震えた。

「こ、これ、優太が譲っていただいたものと一緒だよ!」

それぞれケースから出してみる。正しく優太君が譲っていただいたベルギーのメーカーのヴァイオリンと同じものだった。若干使い込まれて入るがさほどの痛みは感じられなかった。

思わず2人で顔を見合わせる。しかも小さいほうのヴァイオリンも同じメーカーのものだ!とんでもないものが残されていた。更に、ダンボールに入った大量の楽譜が出てきた。その中に歌穂が言っていた童謡の絵本と思われる楽譜集が出てきた。「これを毎日見ながら練習していたのね、歌穂。」2人のママの目に涙が溢れてきた。

結局持ち帰るのはヴァイオリン2挺、赤いピアノ1台、楽譜入りダンボール1箱だけとなった。

後の荷物は処分していただくことにして両手を合わせて扉を閉めてもらった。

タクシーに乗ってレンタカー屋さんへ向かう。

2人のママが持ってきたヴァイオリンと合わせると4挺のヴァイオリン、赤いピアノ、ダンボール箱1箱ととても手に持って帰れる量ではないからだ。

レンタカーを借りて荷物を積み、駅ビルの楽器店と音楽教室へ向かう。

お互いにヴァイオリンを2挺ずつ持って楽器店へ。

春子おばあさんと小春さんとの久しぶりの対面だったが2人は真っ先に大小のヴァイオリンの話をした。実物を見たお2人は大変驚かれ早速店の奥のロッカーに入れて鍵を掛けてくれた。

お2人に事の経緯をお話しすると孫が増えて嬉しい!と言ってくださりありがたかった。

これから15時から19時までの4回の教室を担当する。

付添いの保護者の方が見守る中でのちびっ子たちへの教室は大変でもあるが楽しい事の方が多い。

なかなか音が出せない子もいて泣いてしまう子、上手に出来て大喜びする子など様々だ。そしてさすがはプロ。どの教室でも1時間もするとどの子もドレミが弾けるようになっていく。最初は心配していた保護者の皆さんもレッスン時間が終わる頃には皆さん笑顔になっていた。

一方、子供たちは何時も通りに車で送って貰って登校した。美穂と里穂は歌穂を連れて職員室へ。「おはようございます!」と3人で声を揃えてドアを開ける。

「あらあーっ!おはようございます!」と先生方から挨拶を頂いた。お揃いの出で立ちの3姉妹に皆くぎ付けになっていた。2人の姉は歌穂を田中先生の元へ連れて行き「妹の歌穂です。よろしくお願いします。」と言って頭を下げた。歌穂も「歌穂です。今日からよろしくお願いします。」としっかりと挨拶が出来た。

2人の姉が職員室から出ていくと授業が始まるまで田中先生とおしゃべりをして過ごしていた。周りの先生方も集まり賑やかな雰囲気に歌穂の緊張も和らいでいった。

授業が始まる前に先生方はそれぞれの教室へ向かう。

田中先生も歌穂と手を繋いですぐ傍の教室へ向かう。

チャイムが鳴る頃に教室の入り口に到着するのだ。

ドアを開けて田中先生と一緒に教室に入って行く。

突然の転入生に沸く児童たち。皆の目は歌穂を見つめている。そんな中、田中先生の歌穂の紹介が終わりいよいよ歌穂の自己紹介となった。「歌穂と言います。特技はドーナツを食べることです!」と言って教室内を沸かせた。よほど昨日のドーナツが美味しかったのだろう。席に着くと早速周りの子たちから何のドーナツが好きなのかと話しかけられていた。

給食も残さず頂いて午後の授業が終わると1年生は終業となる。皆が帰る中、歌穂は席に座ったままだ。

「歌穂ちゃん、一緒に帰ろう。」と複数の女の子たちに声を掛けてもらってとても嬉しかった歌穂だったが「お姉ちゃんたちを待っているの。ごめんなさい。」と断らざるを得なかった。「そうなの。わかったわ。それじゃあまた明日ねえ!」そう言って皆、次々と先に帰って行った。

一人でいるといろんなことが脳裏をよぎる。しかし今の幸せな気持ちを考えるとそれがちっぽけなことに思えてくるのだった。そしてその幸せに包まれていることに感謝をすると嬉し涙が溢れてくる。

「そうだ!「音楽室で待っていて!」と言われたんだ!」急に思い出した歌穂は音楽室を探す。すると微かにピアノの音が聴こえた。その方向へ歩いていく。渡り廊下を通り隣の校舎の階段を上っていく。3階の一番奥が音楽室だ。耳の良い歌穂の場所の探し方だ。

あいにくまだ音楽の授業中だった。ふと窓の外を見ると大きな木がすぐ傍にあった。小鳥たちの声が騒がしい。「あっ!」歌穂は鳥の巣を襲おうとしているへびくんを見つけた。「えいっ!」歌穂は思わず背負っていたランドセルをへびくんめがけて投げつけた。ランドセルはへびくんに命中し、へびくんはランドセルと共に木の下へ落ち慌てて退散していった。小鳥たちは突然のランドセルの飛来に慌てて逃げて行ったが直ぐに巣に戻って来た。それを見た歌穂は安心してランドセルを拾いに降りて行った。

「ごめんね。でも、小鳥さんを助けてくれてありがとう。」ほこりを払いながらランドセルにお礼を言う歌穂だった。

再び音楽室まで戻って来るとチャイムが鳴り5時間目が終わった。ぞろぞろと上級生たちが歌穂の脇を通り過ぎて行く。

「歌穂ちゃん。」いきなり声を掛けられた。優太君だ。

「あっ。優太お兄ちゃん。」思わず笑顔になる歌穂。

「あら、妹さん?」音楽の先生に声を掛けられた歌穂は元気に「初めまして。歌穂と言います。」とご挨拶をした。「ひょっとして、美穂ちゃんと里穂ちゃんの妹さん?」そう尋ねる音楽の先生に「はい!」と元気に答える歌穂。「まあ、そうなの。学校は楽しい?」そう尋ねられて「はい。楽しいです!」と答える歌穂を優しく見つめる優太君だった。音楽の先生に「さようなら。」と挨拶をして音楽室に入ると美穂が黒板を消していた。「あら歌穂。さすがに1年生は終わるのが早いのね。ここで待って居て頂戴ね。もうすぐ里穂と健君が来ると思うわ。」そう言って急いで手を振って音楽室から出て行った。

再び一人になった歌穂はランドセルを机に置くと壁に掛けてある作曲家の肖像画を見て回った。どの顔も威厳のあるおじさんに見える。この先、このおじさんたちの名曲を自分が演奏することになるとは夢にも思っていなかった。

やがて里穂と健君が音楽室にやって来た。初めての対面に少し照れる健君。歌穂はそんな健君にしっかりと挨拶をした。直ぐに2人は打ち解けて少し心配をしていた里穂を安心させた。

帰りは里穂が歌穂の手を繋いでくれた。2組で手を繋いで歩く4人を見て歌穂は自分も早くボーイフレンドが出来れば良いなあと思った。

職員駐車場に行くと遥香さんが車の外で待って居てくれた。何と遥香さんは若葉マークの付いたワゴン車で迎えに来てくれたのだ。すぐに遥香さんは歌穂に挨拶をしてくれた。歌穂もそれに答えてきちんと挨拶が出来た。

「一度運転して見たかったんだ。」そう言いながらワゴン車を運転する遥香さん。「バスみたいで見晴らしも良いし乗り心地も最高!」遥香さんは車の運転の楽しさを覚えてきている様だ。

無事に家に着くとボイストレーニングの美里先生がいらっしゃるまでまだ時間があった。優太君はピアノルーム、美穂と里穂は地下のレッスン室へと入って行く。

残った遥香さんは内線電話で美穂に電子ピアノを借りる旨連絡した。

テーブルの上に電子ピアノを置き横にいる歌穂に「エレクトリックパレード」のテーマ曲を弾いてあげた。

一生懸命遥香さんの指の動きを見つめる歌穂。その眼は真剣そのものだった。

「どう?歌穂ちゃん、何か弾いてみる?」そう言われて頷く歌穂。そして弾き出したのはたった今遥香さんが弾いた「エレクトリックパレード」のテーマ曲だ。

「えっ?うそ!何で弾けるの?」驚き慌てふためく遥香さん。「さっき、遥香お姉ちゃんが弾いてくれたから・・・。」演奏しながらそう答える歌穂を唖然とした表情で見つめる遥香さん。

「あっ!最初に会った美穂ちゃんもそんなこと言っていたわ!」

「他に何か弾ける?」遥香さんの問いに「うん。昨日ママに習った曲。」そう言いながら「猫ふんじゃった」を弾き始めた。しかもさわりだけでなくフルコーラスで弾いてのけた。遥香さんは拍手で歌穂の演奏を褒めてくれた。「遥香お姉ちゃん、ありがとう。」歌穂は嬉しそうに微笑んだ。

「歌穂ちゃん、疲れたでしょ。甘いココアでも作ろうか?」そう言って席を立った。「ありがとう、遥香お姉ちゃん。」歌穂は電子ピアノから離れた席に移動した。2人で並んでココアを頂く。遥香さんともどんどん打ち解けていく歌穂だった。

「歌穂ちゃんは他に何か楽器は弾けるの?」遥香さんの問いかけに「ヴァイオリン。」と答える歌穂。

「えっ!ヴァイオリンも弾けるの?」再び驚く遥香さん。

そうこうしている内にボイストレーニングの美里先生が駅に着く時間が近づいていた。「歌穂ちゃんごめん。私出かけるね。一緒に来る?」

2人で駅に着くと直ぐに電車が滑り込んできた。

「良かったあ。間に合ったわ。」そう言って喜ぶ遥香さん。

すると若い女性が車に近づいてきた。遥香さんと歌穂は車の外に出て待っていた。それに気付いて女性は早歩きで車に近づいてきた。

「美里先生おはようございます。」遥香さんが声を掛ける。「おはようございます。1か月ちょっとぶりだね。あら、こちらのお嬢さんは?」歌穂を見て遥香さんにそう尋ねる美里先生。「はい、美穂ちゃんと里穂ちゃんの妹で歌穂ちゃんです。」そう言って歌穂を紹介する遥香さん。「はじめまして。歌穂と言います。よろしくお願いします。」1年生らしからぬしっかりした挨拶に感心する美里さん。

歌穂は後ろの席に乗り家へ向かう。車の中では高原町での合宿の話で盛り上がった。特に里穂の演歌が最高だったと聞いた美里さんは大喜びだった。

家へ着くと3人が美里さんを出迎えてくれた。

しばらく談笑してピアノルームでボイストレーニングを行う。今回から歌穂も加わることとなった。

大きく口を開けての発声などは普段大声を出さない皆にはストレス発散にも役立っていた。歌穂も生まれて初めて大きな声を出して自分の声に驚いていた。

ボイストレーニングが終わると夕食のカレー作りだ。

美穂の手伝いに歌穂が名乗りを上げる。最初は驚いていた美穂だがピーラーや包丁の使い方の見事さに驚かされた。2人の息の合ったコンビネーションで何時もよりかなり早くカレーを完成させた。

美里さんも一緒に6人でカレーライスを頂く。

「ううーん!美味しい!2人ともすごいわね。とても美味しいわ!」美里さんに褒められてとても嬉しそうな2人。遥香さんを始め優太君、里穂も「美味しいよ!」と褒めてくれる。美穂と歌穂はハイタッチをして喜び合った。

「それにしても歌穂ちゃんはお料理が上手なのね。」美里さんにそう言われて歌穂は少し恥ずかしそうに俯いた。

「ごちそうさまでした。」皆で口を合わせてそう言うと遥香さんと里穂が後片付けを担当してくれる。

その間にお茶の準備をする美穂。湯呑みを6つ並べて急須で次々に注いでいく。ポットのお湯を何度も急須にそそぎお茶の濃さを均一に注いでいく。

キッチンでの後片付けを終えた2人がテーブルに戻って来た。それと入れ替わりに美穂が台所へ。しばらくするとレンジの音がして美穂が取り皿を持ってきた。里穂が気付く。「ドーナツがあったんだ!」そう言って台所を覗くように身を乗り出す。「お待ちどうさまあーっ!」美穂が大きな箱をテーブル中央に置いた。「美里先生。昨日の冷凍物ですがよろしかったらお取りください。」美穂に勧められ「どれにしようかな?うーん、決められないから私最後にするわ。」そう言って歌穂に順番を譲ってくれた。歌穂も少し迷っていたが一つを自分の取り皿に置いた。最後は遥香さんと美里さんの2つが残った。

「美里先生、どちらがお好きですか?私どちらも好きで決められないんです。助けてください。」やはり遥香さんが一番お姉さんだと皆は思った。

1時間ほど楽しいお喋りが続いた。美里さんが遥香さんに小声でそっと声を掛けた。

「それじゃあ、美里先生を送って帰るね。おやすみ。」遥香さんが立ちあがった。美里さんも一緒に「ごちそうさまでした。おやすみなさい。」と微笑んで玄関へ。「今日はありがとうございました。2人ともお気を付けて。」と言いながら玄関先でお見送りをした。リビングに戻り明日の学校の準備をする4人。里穂は歌穂の時間割を見てランドセルの中身を確認する。「ありがとう里穂お姉ちゃん。」歌穂は嬉しそうに里穂にお礼を言った。「ううん。お礼は要らないわ。これは歌穂の姉として当然のことだから。」そう言って歌穂の目を見つめた。歌穂は「お姉ちゃん!」と言って里穂に抱き着いた。美穂と優太君はその2人の姿を見て微笑んでいた。

「2人とも、明日の準備が終わったらお風呂に入って頂戴な。」まるで信子の様に美穂が里穂と歌穂に言う。

「はーい!ママ!」2人で笑いながらお風呂場へ走って行った。

優太君はヴァイオリンの練習をするとのことでピアノルームへ。「美穂ちゃん、後片付けが終わったら一緒に練習しよっ。」そう言われて「うん。」と二つ返事の美穂だった。

2人で練習をしていると内線が入った。お風呂からあがった里穂と歌穂が顔を並べてモニターに映っていた。「美穂ちゃん、先に入ってきなよ。」優太君にそう言われて小さく手を振りながらピアノルームを出ていく美穂を見送る優太君。そしてまたヴァイオリンの練習を続けるのだった。

一方、美穂は里穂と歌穂に歯磨きが済んだかを確認しミネラルウォーターをコップに注いで2人に飲ませると「早く寝るのよ。」「はーい、おやすみなさい。」「おやすみ。」と2人と言葉を交わしてお風呂場へ向かった。そんな美穂の耳に2人が階段を上がる音が聞こえた。

湯船に浸かりながら2人のママの帰りが遅いいことが気になってきた。

お風呂から出て歯を磨く。そして濡れた髪を乾かしてリビングへ。すると携帯に着信履歴のランプが点いているのに気が付いた。直ぐに折り返して電話を入れる。

電話に出たのは信子だった。どうやら車で帰ってきている様だ。遅くなるから先に寝ていなさいとのことだった。

優太君にお風呂から出たと内線で連絡をする。しばらくすると優太君がピアノルームから出てきた。2人のママの帰りが遅くなると告げると置きっ放しの優太君の携帯にも優太ママからの着信履歴が残っていた。

「お互い置きっ放しで気が付かなかったね。」二人でそう言って反省をしたものの何だかおかしくなってきて笑い合った。お風呂へ向かう優太君を見送り、美穂も冷たいミネラルウウォーターを飲む。火照った身体に心地よい感覚が走る。一息入れると、今度は美穂がピアノルームでピアノの練習を始めた。

やがて優太君もお風呂からあがってきた。やはり冷たいミネラルウウォーターを頂き食堂の椅子に腰を下ろす。しばらく考え事をしてピアノルームへ。もう少し美穂との練習をしたいと思う優太君だった。

私が家へ戻ったのは子供たちが寝入ってしばらくたた頃だった。一人ずつ部屋を確認していくと美穂は机の前で眠り込んでいた。五線譜に音符を書き込みながらいつのまにか寝てしまった様だ。私はそっと美穂を抱きかかえた。ずっしりと重たい。いつの間にかこんなにお姉さんになっていたのかと改めて感激してしまった。いつも皆のお世話をしてくれる美穂に感謝をしてベッドに寝かせた美穂に布団を掛けてあげた。

台所に下りていくとカレー皿が3つ置いてあった。

カレーの鍋を温めながら今週末の芸能プロとの管理契約のことを考えていた。

カレーを頂いていると玄関前に車の停まる音がした。

直ぐに玄関のドアが開き2人のママが入ってきた。

2人でそれぞれ2挺のヴァイオリンケースを抱えている。「おかえり。お疲れさま。」そう声を掛けるが早いか信子が少し興奮した面持ちで私に今日の経緯を話してくれた。歌穂のヴァイオリンと不幸にして亡くなった父親のヴァイオリン。ダンボール箱と赤いピアンを運んできた優太ママも加わり早速じっくりとヴァイオリンをケースから出して調べてみる。

「やはり間違いないわ。2挺とも優太が頂いた同じメーカーのヴィンテージ物だわ。」そう言って息を弾ませる優太ママ。「それじゃあ単純計算で2000万円ってことかい?」私の問いに大きく頷く2人のママ。明日にでも鑑定の依頼を香織さんにするという。

この他の荷物は赤いピアノと楽譜の入っているダンボール箱だ。信子がその中から歌穂が言っていた絵本というものを取り出して見せてくれた。それは良く使い込まれた幼児用の楽譜集だった。「これねえ、ピアノ用じゃあないの。ヴァイオリン用なの。」ページをめくりながら中を見せてくれる優太ママ。この楽譜集、どうやって手に入れたのかしら?スイス製なのよ。」

「ちょっと待てよ。文字が読めなくてここまで使い込んでいることって歌穂は楽譜が読めるってことじゃないのかい?」そう私が言うと2人のママは思わず顔を見合わせた。


翌朝、起きてリビングに下りてきた歌穂の目に真っ先に飛び込んできたものは赤いピアノだった。

「ママ、おはよう!」と言うが早いかまっしぐらに赤いピアノに向かった。それを見て美穂と里穂も歌穂に続く。歌穂は赤いピアノを手に取りしっかり抱きしめる。友達もいない中、唯一の友達はこの赤いピアノだったのだろう。里穂はそんな歌穂を見て涙をこぼした。それを気遣う美穂の目にも涙が浮かんでいた。

「良かった。歌穂の大事なお友達だったのね。」信子は優しく歌穂に話しかける。

「うん。いつもこの子と一緒だったの。」そう言って笑顔で答える歌穂。そんな歌穂を美穂と里穂が左右からぎゅっと抱きしめる。「これからは歌穂とピアノさんは私たちが守ってあげるね。」そう言う2人の姉に「ありがとう、お姉ちゃんたち。」と嬉しそうに答える歌穂。

「あと、小さいヴァイオリンは歌穂のなの?」そう言われて小さく頷く歌穂。「大きいのはパパのなの。」そう答えて一緒に持ってきた弓に目を遣る歌穂。そしてヴァイオリンケースを開けると小さいながらも立派なヴァイオリンが現れる。

「わあ!すごい!」2人の姉たちが思わず声をあげる。「歌穂ってヴァイオリンが弾けるんだあ!」その声に「うん。」と頷く歌穂。

「学校から帰ってゆっくり聴かせて頂戴ね。」信子に言われて嬉しそうに頷く歌穂。

「優太君、まだ寝ているのかしら?」信子に言われて2階へ起こしに行く美穂。部屋の前まで行くと優太君と優太ママがじゃれ合っている声が聞こえた。

「優ちゃん、誰が好きなの?ママに教えなさい。」そう言ってくすぐってくる優太ママに思わず美穂の名を口走る優太君。それを聞いた美穂の身体が熱くなる。

美穂は慌ててリビングまで戻り内線電話で「優太君、起きて頂戴!学校に遅れるよ。」と言って受話器を置いた。そして朝食のテーブルに着いた。

「牛乳が結構余っているの。3人とも沢山飲んでね。」信子にそう言われてもそんなに飲めるものではない。

「余った牛乳はどうするの?」美穂が尋ねると「そうねえ、牛乳で寒天を作って、ミルクプリンとミルクババロアを作ろうかな。」と信子が答える。食事中ずっとニヤニヤしている美穂に里穂が尋ねる。「お姉ちゃん。さっきから変だよ。」そう言いながら美穂の顔を覗き込む里穂。「やだ、ミルクプリンとか沢山食べれるなあ!と思っただけだよ。」慌ててそう返す美穂だったが顔からにやにやが消えることは無かった。

子供たちを学校へ送り、その足で市役所へ向かう信子。

無事に入籍も終わり歌穂は晴れてわが家の3女となった。

家へ戻ると優太ママが歌穂の楽譜を整理してくれていた。殆どが父親の楽譜だという。「それでさあ、これが出てきたんだけど。」優太ママが信子に見せてくれたのは高原町の質屋さんの質券だった。期限は切れており流れてしまったと推測された。併せて5枚ほどありどれも500万円とか300万円とかの値段が付いていた。恐らく今残っている2挺のヴァイオリンを買うための資金としたのだろう。早速質店に電話を入れる。

質草に入れた現物が残っているかの問い合わせだ。電話に出てくれた老店主は残念そうに話してくれた。

「実は専門の業者へ売却したんです。そした直ぐに5台とも売れたというじゃあありませんか。何でもプレミアが付いたと喜んでいましたよ。」それを聞いて嬉しいような寂しいような気になる2人のママだった。

暫らくすると折り返しの電話がかかってきた。先ほどの質店の店主さんからだった。

「お話を伺って業者に聞いたんですが、子供用の物が1台売れ残っているとのことでした。」それを聞いて喜ぶ2人のママ。

「それ、買いたいのですが。」

「わかりました。業者さんの電話番号をお教えしますので直接お尋ねください。」そう言って電話番号と業者名を教えてくれた。改めて業者さんに電話を入れる。

「いやあ。売れなくて困っていたのです。得体の知れない外国メーカーのものだし、お引き取り頂けるなら5万円で大丈夫ですよ。」そう言われて即決する2人のママ。さっそく明日にでも伺うことにした。

「きっと同じメーカーのものだわ!」2人のママはそう言って小躍りした。「車も返しにいかなきゃあと思っていたから丁度良かったわ。」

その後、15時過ぎに子供たちを迎えに車を走らせる。その間に優太ママは牛乳を使ったおやつ作りに腕を振るっていた。しかしそれらは直ぐ美しく食べれるものではなかったのでミキサーでミルクセーキを作って子供たちの帰りを待つことにした。

やがて賑やかな3姉妹と優太君が帰ってきた。

順番に手を洗いうがいをする。そしてテーブルの自分の席に座る。順番にミルクセーキが配られると「うわあーっ!」歓声が上がる。遅れて入ってきた信子の手には大きな箱が。そう、帰りに立ち寄ったケーキ屋さんの箱だ。中には一人一人が選んだショートケーキが並んでいた。ケーキ皿に取り分けていく。最後に残ったのは同じケーキだった。2人のママも嬉しそうにそのケーキをお皿に乗せる。「いただきます!」そう言ってミルクセーキとケーキを頂く。「ううーん、美味しいね。」皆笑顔でのおやつタイムだ。

おやつタイムが終わると全員ピアノルームへ集まる。

歌穂のヴァイオリンのお披露目会だ。皆がソファーや椅子に座ると信子がヴァイオリンと弓を手渡す。まだ6歳の歌穂がどんな演奏をするのか皆楽しみにしていた。楽譜立てに歌穂の言う絵本を乗せる。歌穂がキリっとした表情と姿勢で身構える。

「あっ!」優太ママと優太君が思わず声をあげた。それがプロの出で立ちそのものだったからだ。

直ぐに歌穂の持つヴァイオリンから音楽が流れる。

見事な「花」の演奏に驚く一同。幼児期のたどたどしさなど微塵も感じられない演奏だ。そして美穂が気付く。「優太君のヴァイオリンの音色と似ている!」

曲が終わると皆からの拍手に照れまくる歌穂。

「歌穂ちゃん。そのヴァイオリンって。」優太君が少し興奮気味に尋ねる。「他所行きのヴァイオリンなの。」そう答える歌穂に続けて優太ママが説明をした。

驚く優太君と美穂と里穂。

「歌穂、練習で使っていたヴァイオリンと弓は明日ママたちが貰ってくるわね。」信子がそう言うと歌穂は満面の笑顔になった。

次の曲は「おぼろ月夜」だ。童謡だけでなく文部省唱歌も弾き熟せるようだ。誰が聴いても小1のレベルではない。「優太だって小1の時はこんなに上手じゃあなかったわ。」優太ママも感心する程だった。

更に信子の口から衝撃的な言葉が飛び出す。

歌穂は2歳から先月までヴァイオリニストの父親に英才教育を受けていたこと、そして幼稚園にも通っていなかったことを皆に告げた。

そして優太ママが続く。「歌穂ちゃんは既に基本が出来上がっているの。後はレパートリーを増やす様に練習をするだけ。来年の春のコンクールにはぜひ参加させたいわ。」そう言って絶賛した。

「私、歌穂の伴奏が出来るようにもっと練習するわ!」里穂はそう言って歌穂を熱く見つめた。歌穂は涙を浮かべてゆっくり頷いた。「里穂お姉ちゃん、ありがとう。私もっともっと難しい曲を練習する!」そう言って里穂をじっと見つめる歌穂だった。

「僕も歌穂ちゃんの力になれるよう頑張るよ。」優太君もそう言って歌穂に約束してくれた。美穂も里穂に伴奏のことなら色々聞いてと言ってくれた。

今まで一人で練習をしてきた幼い歌穂にとって、とても嬉しい出来事の始まりだった。2人の姉と1人の兄が自分を支えてくれるという現実が信じられないという気持ちだった。「もう1人じゃあないんだ!」という幸せをしみじみと実感した時だった。

全員で小休憩を楽しんでいるとチャイムが鳴った。

鑑定をお願いしていた香織さんと鑑定士さんだ。

早速リビングに案内して現物の2挺を見ていただく。

「おお、これは!ベルギーのメーカーのものですね。現行のモデルで最上位のものではありませんがその次のクラスのものです。2挺ともその同じクラスですが子供用の方が生産量が少ないため値が上がります。

子供用で1700万円、大人用で1100万円と言ったところでしょうか。」そう説明してくださる鑑定士さん。

「現物は今手元にはないのですがこの形式はいかがでしょうか?」優太ママがそう言ってメモを渡す。

「これは、現在市販され続けているモデルで新品で50万円と言ったところでしょう。子供用の方がやはり割高になるんです。大人用で40万円と言ったところですね。」そう教えてくださる鑑定士さんにお礼を言う2人のママ。改めて香織さんと鑑定士さんに歌穂を紹介する信子。子供用のヴァイオリンが歌穂のものだと聞かされ驚く2人。一方で、先ほど歌穂が弾いてくれたヴァイオリンが1700万円と知り呆然とする小学生3人。当の歌穂も何も知らずに弾いていたようで一番驚いていた。

再び玄関のチャイムが鳴る。今度は楽器保管庫の配達だ。優太ママが対応する。どうやらピアノルームで組み立てるようだ。3人の作業員の方がパーツを運び込み作業を始めていく。その間、お2人との会話が弾む。楽器の話はとても興味深く4人の小学生たちは熱心に聞き入っていた。

やがて楽器保管庫の組み立ても終わり作業員の方々は帰って行かれた。

信子は香織さんに歌穂の練習用のヴァイオリンの弦を、鑑定士さんには2挺の鑑定書をお願いした。そして2挺のヴァイオリンと優太君のヴァイオリン1挺を楽器保管庫に収納し鍵を掛けた。さらに、2挺のヴァイオリンに保険を掛けるのを忘れなかった。

夕食までは皆レッスンに励む。歌穂はピアノルームで優太君の練習を見学することになった。「歌穂、私のヴァイオリンとピアノ、自由に使っても良いわよ。」そう言って貰えて歌穂はすごく嬉しかった。美穂と里穂は地下のレッスン室での練習だ。信子は今日の夕食の準備に取り掛かる。何時もの夕方が戻って来た。


今日は歌穂のヴァイオリンを取りに行く日だ。教えられた住所は高原町の隣の市内にあった。子供たちを送った後レンタカーに乗り換え、優太ママと一緒に隣の市内へ向かう。途中のサービスエリアで場所を地図帳で確認する。街外れにある質流れ品を専門に扱う業者さんだと看板を見て分かった。店の近くの駐車場に車を停め店内に入ると様々な物が異常な安値で売られている。

それらを眺めながら店の奥まで進むとカウンターがあり、そこで声を掛けると奥から若い女性が出迎えてくれた。どうやら店主さんが話をしていてくれたようで直ぐにヴァイオリンを見せてくれた。

やはり優太君が練習で使っているのと同じ型式のものだ。早速5万円を支払いそのヴァイオリンを買った。

お礼を言ってお店を出て高原町のレンタカー屋さんへ向かう。駅前商店街の外れにあるレンタカー屋さんで車の精算を済ませるともうお昼を過ぎていた。

長い商店街を歩いて「樹林」へ向かう。マスターご夫婦は久しぶりの訪問を歓迎してくださった。早速小さなヴァイオリンケースを抱えた2人のママにヴァイオリンのことを尋ねてこられた。信子は歌穂と言う末娘が家族になったことを報告した。「ほう。そのお嬢さんがヴァイオリンを?」マスターの一言をきっかけに歌穂の話に花が咲いた。特に優太ママは歌穂のヴァイオリンの技量について褒めたたえていた。お2人は終始にこにこと2人のママの話を聞いてくださった。「樹林」でチーズトーストと紅茶を頂きながらしばらく話が弾んだ。やがて数人の女子高生たちが入ってきた。どうやら“天使の3姉妹の”ファンが集まるようになり商売が絶好調だと奥様が小声でそっと教えてくれた。

それから次々と高校生たちが店を訪れ多忙となったため「来週の水曜日にまた。」と言って「樹林」を後にして楽器店へと向かう。毎日のように顔を出していた楽器店が妙に懐かしく感じられる。駅ビルの商店街も蛍光灯を変えただけで明るく清潔感が増したように思えた。

カウンターに座る春子おばあさんと小春さんに挨拶をする。突然の訪問に驚く2人。ヴァイオリンを見せながら歌穂の話にまた花が咲いた。春子おばあさんの話では、“プロが教える水曜日”と言って大好評だと言う。「お2人のおかげです。本当にありがとう!」そう言いながら見送ってくださる2人に手を振って店を後にする。電車を乗り継いで早く戻らなければ子供たちのお迎えに間に合わなくなる。それにしてもさすがに特急は早い。少し遅れてしまったが子供たちは音楽室でピアノを弾いて待っていてくれた。駐車場から里穂の弾くピアノの音がする音楽室へ電話を入れる。しばらくして3人娘が車に乗り込んできた。職員室に音楽室の鍵を返しに行っていた優太君もすぐに合流した。

車内で早速ヴァイオリンを歌穂に見てもらう。

嬉しそうに、懐かしく「お帰り。」と言ってヴァイオリンを抱きしめる歌穂の姿がいじらしく美穂と里穂が両脇から歌穂を抱きしめてくれた。

今日はお迎えが遅くなったため外食をすることになった。真っ先に歌穂に何が食べたいかと尋ねる美穂と里穂。歌穂は即座に「お寿司が食べたい!」と言った。

夕食には少し早かったが回転すし店に入る。テーブル席に案内されるとレーン寄りに歌穂と里穂が座る。2人とも流れてくるお寿司たちをじっと見つめている。

歌穂は真っ先に海老アボガドのお皿を取る。皆のリクエストのお皿を次々に取ってくれる歌穂と里穂。たちまちテーブルはお寿司だらけになった。「いただきまーす!」と元気な声が店内に響くほどだった。レーンの中の職人さんたちから笑みがこぼれる。

明日の老人ホームでの歌唱曲目を話し合う3人。明日は遥香さんと信子が推薦入学試験に備えての練習を遥香さん宅で行う予定のため3人での演奏会となる。

その翌日の日曜日は芸能プロでの全員参加の打ち合わせとなる。マネージャーさんと運転手さんとの初顔合わせだ。話題には事欠かなかった。最大の関心事はどんなマネージャーさんだろう、どんな運転手さんだろうかという話題だった。そんな中で初めての参加となる歌穂は楽しみ半分心配半分だった。しかし2人の姉と1人の兄が付いていてくれる。それが一番心強かった。「ごちそうさまでした!」と一人ずつ職人さんや従業員さんたちに声を掛けると職人さんたちから威勢の良い「毎度ありがとうございます!」と言う返事が返ってくる。このやり取りが歌穂のお気に入りの一つだった。

家へ戻るとしばし休憩だ。緑茶を入れて雑談を交わす。

一息入れたらそれぞれの練習に取り掛かる。特に来月にコンクールを控える美穂と優太君はまさに正念場だ。また、里穂は「白鳥の湖」の各小節の練習に余念が無かった。そんな中、歌穂と優太君は優太ママの指導の下、ピアノルームで練習となった。信子のピアノに合わせて「カルメン幻想曲」を弾いていく優太君の指使いをじっと見つめる歌穂。その姿を横で見守る優太ママは歌穂と美穂の共通点を見出す。「ひょっとして美穂ちゃんみたいにあっという間に曲を覚えて演奏してしまうのではないか?」と思った優太ママ。

優太君の演奏が終わると歌穂に言った。

「歌穂ちゃん。優太お兄さんの今の曲、さわりでも良いからちょっと弾いてみる?」そう言って今日手に入れた歌穂の練習用のヴァイオリンと弓を渡した。信子と優太君も密かに同じことを思っていた様で微笑みながら歌穂の様子を見つめていた。

「うん。やってみる。」そう言って構える姿はプロ顔負けの堂々たるものだった。淀みなく演奏が始まる。

スラスラと第1楽章を演奏していくことに驚く3人。

皆にこにこと演奏する歌穂を見つめていた。

「第2楽章はこの楽譜を見て弾いてみて。」優太ママはそう言って譜面立てに楽譜を置く。それを凝視する歌穂。直ぐに演奏が始まる。そう、歌穂はやはり楽譜が読めるのだ!楽譜通りの歌穂の演奏が続く。優太君は動揺を隠せずにいた。信子と優太ママはお互いに頷き合っていた。天才を英才教育が作り上げた!と2人のママは思った。亡くなられた父親と母親の遺伝子はしっかりと受け継がれ、父親の英才教育で見事に花を咲かせたのだ。

「すごいよ!すごいよ!歌穂ちゃん!」真っ先に優太君が手を叩いて褒めたたえた。それに続く2人のママ。

「あ、ありがとう。」そう言ってはにかむ6歳の歌穂を思わず抱き締める信子だった。

「歌穂ちゃん「カノン」の練習をしましょう。」楽譜を広げる優太ママ。「うん。」そう言って楽譜を読む歌穂。何と!一通り弾いてしまう。

「歌穂ちゃん、ここはこういう気持ちを込めて。」と弾いて見せる優太ママ。それに習って弾いていく歌穂。

「来年の4月のコンクール、歌穂ちゃんも里穂ちゃんも素晴らしい演奏を披露出来るかもしれないわね。」そう言う優太ママに大きく頷く信子と優太君。

やがて練習を終えた美穂と里穂がやって来た。2人とも歌穂の演奏に驚いた様子でじっと聴き入っていた。

「明日の老人ホームでデビュー出来そうだね。」そう言う2人に「でも、歌穂は人前で弾いたことが無いと思うの。こんなに上手でも大勢の前だとどうかしら。」信子が言うと「うん。それは未知数で歌穂ちゃんが出来るかどうかは分からないね。」優太ママも信子の慎重論に賛成だった。

小休憩の間も歌穂のことで会話が弾んだ。自分の事を色々褒められる歌穂は恥ずかしそうにしていた。

「歌穂の演奏に合わせて皆で歌おうよ。」美穂の提案に全員頷く。「歌穂、何時も通りに「春」と「おぼろ月夜」を弾いて欲しいの。皆で歌いたいの。出来るかなあ?」美穂にそう言われて「うん。」と頷く歌穂。


翌日、遥香さんの推薦入学での筆記試験に付き添う信子が不在の中、小学生3人と歌穂の陣営で老人ホームでの演奏会に臨む。初めて訪れる歌穂の手をしっかり握る。最初に事務室でご挨拶。歌穂を紹介する。

その足で、掲示板へ。皆へのメッセージが溢れる掲示板を驚きの表情で見つめる歌穂。「入居者の皆さんがこうして応援してくださるの。」里穂が歌穂に説明する。美穂と優太君はそれらのメッセージに一点ずつ目を通し返事を書いていく。そしてリクエストも自分のメモに控えていく美穂。「こんなに沢山の人に応援されているなんて!お姉ちゃんたちって凄い!」歌穂は感激していた「自分も皆と一緒に演奏してみたい!」

強くそう願う歌穂だった。「美穂お姉ちゃん、里穂お姉ちゃん、優太お兄ちゃん。」そう話しかける歌穂に3人の手が止まる。「歌穂、皆と一緒に演奏したい!」

そう言ってくれた歌穂を3人で囲んで抱きしめた。

優太ママはそれを微笑ましくじっと見つめていた。

更衣室で衣装に着替える。歌穂には美穂のお下がりを用意していた信子。優太ママに手伝ってもらい着替えを終えた歌穂。姉たちとお兄ちゃんは歌穂の憧れでもある。そんな里穂姉ちゃんの衣装を着せてもらって歌穂は嬉しかった。思わずターンをしてしまう。それがまた可愛くて2人の姉たちに拍手をしてもらう。「歌穂、可愛いよ。」そう言われてはにかむ歌穂。その様子がまた可愛いとはしゃぐ2人の姉たち。

5人でステージ裏へ向かう。電子ピアノを抱える優太ママを助ける様にヴァイオリンは各自で、譜面立ては里穂が運ぶ。会場は相変らずの盛況ぶりだ。特に“天使の3姉妹”のCMが流れている為か認知度が上がっているようだ。

「歌穂、私に付いて来て。最初に紹介するからね。」そう言って歌穂に告げる美穂。緊張を和らげるように歌穂の両手を握る里穂。「大丈夫!みんなが一緒だからね。」そう声を掛ける優太君。しっかり頷く歌穂。

「はい!時間だよ!」優太ママの掛け声で舞台へ出ていく子供たち。美穂は歌穂の手を引いてマイク片手での登場だ。先ずは会場に向けてのご挨拶だ。そして歌穂の紹介をする。

「私たちの末っ子、歌穂でーす。皆さんよろしくお願いしまーす!」そう紹介されて美穂と一緒にお辞儀をする歌穂。会場は騒然となる。余りにも歌穂が可愛いからだ。「歌穂ちゃーん!かわいいよーっ!」あちこちから声援を頂き照れた表情を見せる歌穂。それがまた可愛いと盛り上がる会場。入居者の皆さんも自分の孫を見ているかのように身を乗り出して歌穂を見つめていた。

「それでは、最初は私たちの歌でお楽しみください。皆さんも一緒に歌ってくださいね。「花」と「おぼろ月夜」の2曲です。」美穂の曲紹介の間に優太君がヴァイオリンと弓を歌穂に渡す。「おおーっ!」と会場から歓声が上がる。恐らくこの時までは「たどたどしく一生懸命弾くのだろう。」と会場の皆さんは思っていたのだろう。「いやあ、可愛いですなあ。」と入居者の皆さんもお互いに笑顔で話し合っていた。

歌穂はヴァイオリンと弓を受け取ると会場に一礼して演奏に入るためのポーズをビシッ!と決める。

その出で立ちにあっという間に静まり返る会場。予想だにしなかった歌穂の演奏ポーズに一瞬で飲み込まれた様だ。

歌穂の澄んだ前奏が流れる。それに驚く会場。たどたどしいどころではない!まるでプロのヴァイオリニストの様な演奏だ。そして3人の歌唱が始まる。

「はーるのうらあらあの、すうみいだーがわー」それに続いて入居者の皆さんが歌い出す。それは会場内に広がっていく。歌穂のよどみのない演奏に引き寄せられるかの会場全体の合唱だ。それを舞台袖から見守る優太ママ。歌穂の見事なまでの演奏に嬉しさのあまり涙を浮かべていた。

こうして恙なく本日の公演は大盛況の内に終わった。

控室に戻るとお母さまがいらしてくださった。

皆でご挨拶をすると真っ先に歌穂のヴァイオリンの演奏を褒めてくださった。それを自分の事のように喜ぶ姉たちと優太君。

「歌穂ちゃん、はじめまして。ヴァイオリン、とても良く弾けていましたよ。まだ小さいのにしっかりとした演奏が出来るのね。あと、優太君と同じ音だったわ。良い楽器を使っているのね。」何とお母さまはヴァイオリンの音色まで聴き分けていたのだ。さすが元音大の理事長さんだと優太君は思った。

褒めて頂いた歌穂は少しはにかみながらお母さまにお礼を言った。「まあ!可愛い子!どうしてあなたたちはそんなに愛らしいのかしら。」そう言って一人一人を微笑みながら見つめてくださった。

家に帰ると直ぐにお昼ご飯だ。今日は美穂と歌穂がスパゲッティを作ってくれるという。2人でフライパンをそれぞれ振る。ナポリタンだ。歌穂は美穂のフライパン捌きに負けない位に上手にフライパンが使いこなせた。「小さな身体で良く使いこなせるなあ。」と優太君が感心する。しかも調理方法まで美穂に合わせている。全く同じタイミングでナポリタンを仕上げていく。まるで美穂が2人いるようだと驚きの声をあげる優太ママ。料理が苦手な里穂は大喜びだ。何といっても料理から解放され、食べることに専念出来るからだ。

何時でも美味しい料理が味わえる。そう思うと自然に笑みがこぼれた。

美味しい夕食の後も皆それぞれ練習に入る。美穂と優太君は来月に迫ったコンクールへ向けての練習だ。

「私、歌穂と一緒に演奏がしたい。」里穂が信子に直訴した。何時もと違う里穂の目に頷く信子。しばらく優太ママと話をしていたが里穂と歌穂にこう告げた。

「無理と思うかもしれないけど、「チゴイネルワイゼン」を演奏することを目標にしましょう。優太ママには歌穂のレッスンをお願いするわ。目標は今年中。老人ホームのクリスマス会で披露しましょう。2人とも頑張れるわよね?」信子に言われて「はい!」と元気の良い2人の返事が返ってきた。

「優ちゃん、申し訳ないけど地下の里穂ちゃんのお部屋でレッスンしてね。」優太ママは優太君に優しくそう告げた。「うん。歌穂ちゃん、僕が手こずったところを後で教えてあげるね。」そう言う優太君に「ありがとう、お兄ちゃん。」と明るく答える歌穂に2人のママの優しい眼差しが降り注いだ。

「ちょっとママ。同じ部屋でヴァイオリンとピアノの違う音が響けば自分の演奏に集中出来ないのじゃない?」美穂の疑問はもっともだった。

「うふふ。美穂、それは大丈夫。一緒のパートを2人同時に練習するから。2人にはそれだけの技量があるから。」そう言って美穂を安心させる信子。

「出だしはピアノからよ。」そう言ってピアノを弾き始める信子。それに合わせて優太ママのヴァイオリンが続く。プロ同士の演奏に目を見張る里穂と歌穂。英才教育を受けてきた歌穂であったがピアノとの競演は初めてだったのでとても新鮮で刺激的だった。

一方の里穂も美穂が優太君とペアで演奏するのをいつか自分も!と心に秘めていた。それ故、難しい課題曲ではあるが挑むことにわくわくしていた。

一方、美穂はコンクールの自由曲をビバルディ―の「春」に決めていた。自分で編曲をした今までにないバージョンだ。見せ場は右手と左手で違う楽器のメロディーを表現するところだ。これは美穂にしか出来ない芸当だ。

その一方、優太君は自由曲の「カルメン幻想曲」の高速演奏を何度も繰り返し練習していた。小学5年生にはハードな部分だがウエイトトレーニングを密かに続け乗り切れる体力を付ける程の入れ込みようだった。美穂にしろ優太君にしろトップを維持するプレッシャーに負けまいと一生懸命だった。


翌、日曜日。遥香さんも一緒に芸能プロへ赴く。

立派なグランドピアノが置かれた会議室へ通され遥香さん、美穂、里穂の3人はそのピアノに釘付けだった。首を伸ばして3人でピアノを眺め続けていた。

「お待たせしました。」ノックの後そう言って入って来られたのは社長さん、副社長さん、管理部長さんのお3方だった。立ち上がってお迎えする私たちに「お気遣いなく。」と着席を勧められる。お3方が座られるのに合わせて私たちも着席した。社長さんと副社長さんから高原ホテルでの最後の公演へのお褒めのお言葉を頂戴した。そして初対面となる歌穂が気になられたようで「お嬢さん、お名前は?」と歌穂に尋ねられた。

「歌穂と言います。よろしくお願いします。特技はヴァイオリンです。」はきはきとした自己紹介に思わず微笑んでしまうお3方。「お歳は?今何年生ですか?」副社長さんに聞かれて「はい。小学1年生で6歳です。」と答える歌穂。それに笑顔で頷くお3方。

「3姉妹の下にもうお一人の妹さん。4姉妹ですな。

しかも皆さん素直で愛らしい。これからが楽しみですね。」管理部長さんの言葉に恐縮する4人。

早速本題に入る。今の皆の活動状況、通学手段、移動手段の説明を私が行った。特に美穂の結婚式場でのアルバイトにはお3方共に驚かれていた。

「私共といたしましてはアイドルとして直ぐにでもデビューしていただきたいのですが、学業、楽器のレッスンの時間を考えると今の技量を削ってまでアイドル活動を行うのは皆さんにとって大きなマイナスとなると考えております。特に遥香さんは音大志望と伺っておりますのでなおさらです。遥香さんだけでなく皆さんはピアノ、ヴァイオリンに限らず多才でいらっしゃるので今はそちらに力を入れていただきたいと思っております。」副社長さんから嬉しい言葉を掛けて頂き皆、軽く頭を下げた。

「そこで、マネジメントのみを担当させていただくのですが、仮にスポット的なお仕事が入った場合のご対応はいかがでしょうか?」管理部長さんからの問いに信子が答える。「学業、レッスンの支障にならなければ喜んでお受けいたします。」

「そうですか。ありがとうございます。現在は交通音楽隊と楽器メーカーさんのCMに出演されていますがなかなかの高評価を頂いておられますね。報道記者や週刊誌の取材も増えてくると思いますがきっちりと対応させていただきます。そして私どもの担当マネージャーと運転手さんには2週間前からお出かけ先に同行させていただきたいと考えております。」管理部長さんはそう言って内線電話の受話器を取って何処かへ連絡を入れた。

ノックの音がして「失礼します。」と男女お2人が入って来られた。

「ご紹介します。マネージャーの若菜と運転手の伊藤です。若菜は副社長のお嬢さんと同じ大学出身で、しかも同期です。隣の伊藤は重役付運転手として長年の経験があり適任かと思います。」そう言って紹介してくださる管理部長さん。

「初めまして。この度マネージャーとして担当させていただきます若菜と申します。早紀さんとは同級で今でも仲良くさせて頂いております。よろしくお願いいたします。」そう言ってにこやかに挨拶をしてくださった。

「はじめてお目にかかります。伊藤と申します。今まで役員さんの送迎、ロケバスなどの運転を担当してまいりました。安全運転をモットーとしております。どちらへでもお連れ致しますのでどうぞよろしくお願いいたします。」そう言って最敬礼される。

律儀そうなお方だとお見受けできた。

雑談になると直ぐにお2人とも娘たちと打ち解けてくださった。歌穂に至っては“若菜お姉ちゃん”“伊藤のお兄ちゃん”と呼ぶほどだった。

大人同士では楽器店の売り上げについての話題で大いに賑わった。早紀さんから話を聞かれたのだろうか、とても感心されて、親としても少し鼻高々だった。

家に戻って私は初めて歌穂とゆっくり話をした。せっかく我が家の一員となってくれたのに来月から居なくなってごめんと言うと歌穂は首を横に振って「ううん。離れていても私はパパの子だよ!」と言って抱き付いてくれた。私は歌穂の髪を撫でながら「ありがとう。」と何度も繰り返して歌穂を抱きしめた。


翌週の土曜日、9時に芸能プロの若菜さんと伊藤さんがわが家に来てくださった。今日は保育園での公演ということでご同行願う。

少し遅れて遥香さんが到着。まだ朝食が済んでいないという遥香さんのためにバナナセーキを作る美穂。

「ありがとう!」と言って美味しそうに頂く遥香さんをお2人は優しい目で見つめる。

「皆さん、本当に仲が良いんですね。」伊藤さんがそう言って微笑む。

美穂の着替えが終わると即出発だ。

今日は演奏会のため、2人のママは外出中だった。そのためお留守番は里穂、歌穂、優太君の3人だ。何も言わなくても、3人は自分が何をやれば良いかを良く分かっている。「美穂お姉ちゃん、レッスンルーム借りるね。」玄関へ向かう美穂に歌穂が声を掛けると「うん。」と返事をして手を振る美穂。里穂もそれに答えて手を振る。3姉妹で手を振り合う姿に「まあ!」と感嘆の声を漏らす若菜さん。

助手席に伊藤さんに乗ってもらい保育園までの道を覚えていただく。さすがにプロの運転手さんだけあって道もこのワイド幅のワゴン車の運転も大丈夫のようだ。一番後ろの3人はもう既にワイワイキャッキッキャとおしゃべりに夢中だ。

保育園に着くと早速園長さんと保育士さんたちにご挨拶をする。そして体育館へ向かう。賑やかなちびっ子たちの声が漏れ聞こえる廊下を通って体育館へ入る。中には既に保護者の皆さん方が待機されていて2人を拍手で迎えてくださった。

若菜さんと伊藤さんには私と一緒に舞台袖の椅子に座っていただく。私は持ってきた電子ピアノの設定を遥香さんと行なう。美穂はピアノの調子を確認するため「禁じられた遊び」を弾いていく。

「わあ!さすが美穂ちゃん、お上手ですね!」伊藤さんが手を叩いて褒めてくださった。「ほんと!コンクール1位のコンビってことが良く分かる演奏だわ。」若菜さんもそう言って手を叩いてくださった。

美穂が突然「カルメン幻想曲」を弾き始めた。すると遥香さんがヴァイオリンのメロディーを弾き始める。

笑顔で顔を見合わせながら楽しそうに演奏する2人に釘付けの皆さん。

「見事だわ!どれだけ練習したのかしら?」そう言う若菜さんにそっと教える。

「練習なんかしなくてもこの2人は息がぴったりなんですよ。今も楽譜なしで弾いています。恐らく何時もの優太君のヴァイオリンのメロディーを遥香さんは覚えているのでしょうね。元々は優太君のヴァイオリンに美穂の伴奏と言うコンビメーションの曲なんです。」私の説明に大きく頷かれるお2人。

2人の演奏がフェードダウンしていく。いよいよ開演の時間だ。遥香さんが体育館の入り口で待機する。大きく手を振って美穂に合図を送る。美穂の「さんぽ」の曲が流れ始める。お決まりの入場曲だ。やがて賑やかな歓声が聞こえてくる。年少さんたちの入場だ。

どの子も大きく手を振って元気いっぱいの入場行進だ。それを手拍子で迎える館内の皆さん。お2人も一緒になっての手拍子だ。皆で迎えてくれている遥香さんに手を振って入場して来る。年長さんの入場が終わると美穂がマイクを持ってご挨拶を始める。少し騒がしかった子供たちが静かになる。これにはお2人はびっくりだった。その理由はすぐに分かったようだ。

美穂の子供目線での優しい語りかけは保育士さん、いや歌のお姉さんも顔負けだったからだ。まだ5年生だというのに!そう考えると副社長さんが言われていた様々な才能が開花しつつあるという表現が適切であると思う若菜さんだった。それに遥香さんの甘いアニメ声が加わるとすっかりちびっ子たちを魅了していく。さっそく遥香さんの童謡メドレーが始まる。

それが終わると今度はアニソンを交互に歌っていく。ちびっ子たちは大喜びだ。

「ピアノだけじゃあないんだ。歌もすごく上手だよ、この2人は!」そう言って絶賛してくださる伊藤さん。

横でその言葉に大きく頷く若菜さん。ピアノ、歌唱、司会とどれをとっても遜色はない。「副社長のおっしゃる通りだわ!」

公演が終わると遥香さんに見送られてちびっ子たちが教室へ戻っていく。館内の手拍子が拍手に変わると遥香さんのご挨拶で閉演となる。遥香さんの挨拶と美穂が演奏する「さんぽ」の曲の終わりがぴったりと合う。それにまた拍手が巻き起こる。お2人も立ち上がっての拍手を送ってくださった。

ピアノカバーをかけ「ありがとう。」とピアノに声を掛ける美穂。その様子に感動されるお2人。「美穂ちゃんって感謝の気持ちを忘れない子なんだね。」伊藤さんが感心して若菜さんに話しかける。「本当に優しいお嬢さんなんですね。」若菜さんはそう言ってハンカチで目頭を押さえた。

園長さんを始め皆様方にお礼を言って老人ホームへ向かう。次の公演は来月の第1土曜日なので私はもういない。そのためお2人をお連れしてのご挨拶に伺うのだ。指定の場所に車を停め事務室へ向かいご挨拶をする。そして掲示板のチェックをする2人を見学する。

専用の掲示板に貼られたメッセージを1枚1枚と読んで返事を書いていく。メッセージカードに埋め尽くされた掲示板に圧倒されるお2人。

車に戻って家へ向かう。今日はお2人を迎えての歓迎昼食会だ。食事が終わると美穂の結婚式場でのお仕事に立ち会っていただく予定だ。

お昼ご飯は優太君が何時ものお寿司屋さんで出前を頼んでくれた。さすがにお酒は飲めないので全員で煎茶を頂く。お2人の歓迎会だ。皆でワイワイとお喋りをしながらお寿司を美味しく頂く。お2人は特に、美穂の忙しさに驚かれていた。午後から出向く結婚式場での演奏の仕事に強く興味を持たれていた。

歓迎会が終わると直ぐに出発する。結婚式場までの道は比較的分かり易い。伊藤さんも直ぐに覚えてくださった。

式場に着くと従業員出入り口から中へ。事務室へ出向きフロアマネージャーさんとチーフマネージャーさんにお2人を紹介する。これからの違いは、仕事の連絡方法がマネージャーの若菜さん宛になることくらいだ。毎回頂く美穂の報酬は美穂の口座への振り込みに変えて頂いた。「その方が安心です。」と若菜さんは笑ってくださった。

チーフマネージャーさんの案内で一旦控室へ向かう。

豪華絢爛な高級感あふれる内装に圧倒されると言って辺りを見回すお2人。特に伊藤さんは出先では運転手控室で待機することが多かったと言い訪問先の建物内に入ることが余り無かったそうだ。「娘たちのお世話係として堂々と入ってください。」私がそう言うと「わかりました。」と心強い返事をくださった。

参考のため、今回美穂がピアノを担当する披露宴会場へ案内される。既に着々と宴の準備が進んでいた。

スタッフの皆さんに挨拶する美穂。それに明るく答えてくださるスタッフの皆さん。「ここでも美穂ちゃんは慕われているんですね。」若菜さんがチーフマネージャーさんに言葉を掛けると「はい。美穂ちゃんはスタッフ全員から慕われ、可愛がられているんですよ。」というありがたい返事が返ってきた。

「こちらのお仕事は美穂ちゃんだけなんですか?」若菜さんが私に尋ねてきた。「時々連弾で遥香さんと一緒の時もありますが、基本は美穂だけです。」私の返事に頷くお2人。披露宴会場を出て控室へ入る。ここで各披露宴の様子を見ながらお開きになるまで待機する。飲食自由で自販機も備わっている。ただし喫煙は喫煙室へとチーフマネージャーさんからの案内があったがお2人とも喫煙はされないとのことだった。

通常の移動は裏口に当たる従業員専用通路にて事務室へ行き来すると教わって、美穂とチーフマネージャーさんを見送る。後はモニターにて美穂を見守る。

3人でお茶を飲みながら2時間近い披露宴を見つめる。絞られたモニターから美穂の演奏する「白鳥の湖の「情景」が演奏されると招待客の皆さんが入場される。そして着席が終わると司会者さんの開宴の挨拶とピアノ演奏者として美穂が紹介される。美穂が小学生だと知り一様に驚きの声が上がる。しかし経歴が紹介されると今度は称賛の声に変わる。

新郎新婦の準備が整うと美穂に合図が送られ「結婚行進曲」が流れる。こうして宴が始まる。

順調に美穂の演奏と共に宴は進んでいく。途中、花嫁のお色直しの際にはフリータイムとなり演奏する美穂のピアノの周りには多数の招待客が集い、誰もが美穂との写真撮影に臨んでいた。その際にも男性スタッフ数名が美穂の近くに控えて美穂を守ってくれていた。美穂は演奏しながらカメラに向かって微笑んで写真に収まっていた。モニターでそんな様子を見ていたお2人からは「すごい!プロ根性!」との言葉も飛び出して美穂の対応に感心されていた。こうして宴はご両親への花束贈呈というハイライトを迎え美穂の力量が存分に発揮された。感動の場面を演出する美穂の演奏に感謝の意を付け加えるスピーチが流れると一斉に美穂への拍手が起こった。それを感謝のメロディーでお返しする美穂。これにまた沸き起こる礼賛の嵐。

会場が涙から笑顔に変わっていく。そしてお開きとなり、招待客は席を立つと美穂に向かって手を振って新郎新婦のお見送りを受けながら退場するのだった。

「素晴らしいわ!」若菜さんはそう言って椅子から立ち上がった。今まで担当した皆さん以上の対応能力だと美穂を絶賛してくださった。「何と言っていいのかよく分からないのですが、一方的ではなく自然発生的なエンターテインメントが出来る人なのですよ、美穂ちゃんは。いいえ、美穂ちゃんだけではないと思います。遥香さんも里穂ちゃんも、そして歌穂ちゃんも。早速見たままを副社長と管理部長に報告します。」そう言って小躍りして我が事のように喜んでくださった。「いやあーっ!こんな素晴らしい結婚式は初めてです。美穂ちゃんの魅力が爆発していましたね。」伊藤さんもベタ褒めの美穂の演奏だった。

結婚式場の皆さんに挨拶をして家へ戻る。車内でお2人に褒められ照れまくる美穂。そして来月のコンクールの話で盛り上がっていた。来週の土日からは定期的な仕事は美穂の結婚式場でのものと次の土曜日の遥香さんの実技試験だけになる。そこで来週の土曜日はまたお2人にお付き合いいただくこととした。

家に戻ると、全員がまだ練習中だった。先ずはお2人をピアノルームへお連れした。丁度遥香さんが実技の練習をしていた。結婚式場での美穂の演奏に勝るとも劣らない演奏に感心されるお2人。一緒に居る美穂も聴き惚れるほどの演奏だ。次はレッスン室へ案内する。

「えっ!地下があるんですか?」若菜さんが驚く。

入り口のドアを開けると階段が下へと続いている。それを下りきると廊下になっており、左右に部屋の入り口がある。向かって左が美穂のレッスン室だ。今は優太君がヴァイオリンを弾いている。反対側は里穂のレッスン室だ。歌穂のヴァイオリンとセッションの練習中だ。里穂のピアノもそうだが、歌穂のヴァイオリンも小学生レベルではないと絶賛してくださった。「才能がある子がこうして努力するから皆さんの演奏に結び付くんですね。このことも副社長に報告します。」

一旦リビングに戻り、美穂がお茶を入れてくれた。

4人で頂きながら来週土曜日の遥香さんの実技試験の話になった。「来年4月から授業やレッスンで忙しくなって会えなくなりそうです。」美穂がそう呟くと皆もゆっくり頷いた。「素人目では今の演奏で十分だと思うんですが、音大にはもっと上手な人がいるのですか?」伊藤さんの素朴な疑問だった。残念ながら私も美穂も的確な返答を持ち合わせなかった。「うふっ、後でママに聞いてみてください。」美穂はそう言うと台所へ向かった。「夕食までお付き合いいただけますよね?」私の問いに「はい。喜んで。」と二つ返事を頂いた。

美穂はエプロン姿で夕食の準備に取り掛かる。

「美穂ちゃんは何でも出来るのね。私なんか外食ばかり。」そう言って笑う若菜さん。「そう、私も外食が多いんですよ。」伊藤さんもそう話してくれた。「お2人とも不規則なお仕事でしょうからそうなりますよね。私も定刻に会社を出たことが無いんですよ。」私がそう言うと「はい。良く分かります。」とお2人に同意していただいた。そんな中、美穂はお米を仕込み、キャベツを千切りにし始めた。トントントンとリズミカルな包丁の音が台所に響く。その音を聞き「美穂ちゃんはスーパーレディーなんですね。」と感心する若菜さん。

美穂の携帯が鳴る。「パパあーっ!出てえーっ!」台所から美穂の依頼が飛んでくる。電話は信子からだった。遅くなりそうだから夕飯は済ませるとのことだ。

「ママと優太ママの晩ご飯はキャンセルだよ。」美穂に告げると「了解でーす!」と元気な返事が返ってくる。手際よく夕食を作り続ける美穂。やがて練習を終えた里穂と歌穂が美穂に合流する。賑やかさが増す台所。さすがに3人が揃うと華やかとなる。

美穂と歌穂がフライパンで何かを焼いている。里穂はお皿にマカロニサラダを盛り付けて焼けるのを待っているようだ。

「お待ちどうさま。」里穂が持ってきたのはポークピタカだ。ライスとサラダのお皿も並んでいく。

「わあっ!すごーい!」見事な出来栄えにお2人が感心する。「これなら料理番組にも出演出来るわね。」若菜さんはそう言って目の前の料理を眺めていた。


今日は土曜日。遥香さんの実技試験の日だ。

若菜さんと伊藤さんも到着して付添いの信子と計5人で音大へ向かう。10月にはピアノとヴァイオリンのコンクールがあるので音大ホールへの入り方などを知っていただくためにご同行頂いた。

音大入り口の守衛さんにお2人を紹介する。するとお2人の身分証を確認し、入校許可証を事務局で発行してくれるという。信子と遥香さんを見送り、私たち3人は事務局へ。いつもお世話になっている皆さんにお2人を紹介する。入校許可書の依頼書を提出すると直ぐに発行して頂くこととなった。また、ここ事務局ではファンレターが多数届くためその整理分類の仕方をお2人にレクチャーして頂いた。

2人が実技試験へ出向いている間に鉄道警察署へ向かう。ここで千夏さんと面会しご挨拶をする。入って直ぐに美穂と優太君のポスターが目に飛び込んでくる。これに見入るお2人。11月に続編の撮影を予定していると千夏さんから話があった。同じ11月には楽器メーカーさんのCM撮影も予定されているので結構スケジュール的には忙しいかもしれない。そう話すと「新人タレント、子役さんでもここまでは忙しくはないです。やはり皆さん売れっ子なんですね。」そう言ってしっかりスケジュール帳にメモしていく若菜さん。

鉄道警察署を後にして再び音大へ戻る。ホールの駐車場で車を降りて控室への通路を確認する。コンクール当日は通路手前での見送り、出迎えとなることを知っていただく。特にピアノコンクールは朝の小学生の部から最終審査まで若菜さんに付き添っていただくことになる。付添いは1名だけの制限があるため伊藤さんはホールの喫茶店などで1日過ごしていただくことになる。

丁度お昼頃に遥香さんの実技試験が終わるので学食で待ち合わせることにした。学食に行くとチーフのお姉さんが話しかけてくれた。お2人を紹介すると、正門前に遥香さんを取材しようと数社の取材陣が待機していると教えてくださった。音大内でも遥香さんの話題で持ちきりだという。「どうしましょう?取材を受けますか?」若菜さんが私に尋ねる。「遥香さんの意思と信子の意見を待って決めましょう。」と言う私の返事に軽く「はい。」と頷く若菜さん。

私の携帯が鳴り信子が今終わったと連絡をくれた。

やがて信子と遥香さんが現れた。2人ともにこにこ顔なので実技試験が無事に終わったと思った。

改めて食券を買い料理を受け取る。遥香さんは食堂のお姉さんたちから早くも入学してからのおすすめメニューを教わっていた。笑顔で雑談する遥香さんを見ているとすっかり大人になったのだなあと感じる。

「信ちゃん、また個室使いなよ!」とチーフのおばさんにそう言っていただき有難く個室に収まった。

思い思いのものを注文していただく。信子のお勧めは音大時代によく食べていたという日替わり魚定食だ。

やはり和食が落ち着く。伊藤さんと私も和食が好きになるという年齢になっているのだろうか。とにかくサバの味噌煮が美味しくてたまらない。

ふと見ると遥香さんも私たち2人と同じサバの味噌煮を食べていた。遥香さんも外食が多いせいだろうか、久しぶりの和食を楽しんでいるように思えた。

実技試験の出来については聞かずとも分かった。信子と楽しそうにピアノの演奏について話している。

食後のお茶を頂きながら遥香さんと信子に取材の話をした。少し驚いた様子を見せた遥香さんだが取材に応じるとのことだった。信子も特に反対はしなかった。

音大の正面入り口には数社の記者さん、テレビカメラが待ち受けていた。「ええーっ、本当に私なのかなあ?」とまだ信じられないといった様子の遥香さん。門を出ると記者さんたちとテレビカメラ、マイクを持ったレポーターの皆さんたちが寄ってきた。

「皆様、お疲れ様です。本日は“天使の3姉妹”の長女遥香のためにおいでいただきありがとうございます。」そう言って取材陣を仕切り始める若菜さん。伊藤さんもぴったりと遥香さんの傍に付きガードをする。落ち着いた雰囲気で取材が進んでいく。質問の内容は推薦入試についてのことが殆どだった。愛らしい声で丁寧に答えていく遥香さんに取材に訪れた皆さんは好印象を持たれた様で皆さん終始笑顔だった。最初は身構えていた守衛さんたちも緊張が解けいつしか笑顔で見守っていてくれていた。

来月のコンサートについての質問が一通り終わるタイミングで遥香さんの口から思わぬ発言が飛び出す。

「来月のコンクールが最後となるかもしれません。」

この発言に色めき立つ取材陣。

「まだ分かりませんが、4月から音大生になるともう音大主催のコンクールには出れないという規定があるのです。」遥香さんに代わり信子がそう説明する。

「でも、里穂とその妹の歌穂が出場すると思うので楽しみに待っていてください。」そう言ってカメラに向かって笑顔で手を振る遥香さん。

「それではこの辺で取材の方は終わらせていただきます。」若菜さんの幕引きの言葉に思わず取材陣から拍手が起こる。お互いに「ありがとうございました。」とお礼の言葉を交わしホールへ向かって歩き出した。

さすがプロのマネージャーさんと運転手さんだ。

私も心置きなくアメリカへ旅立てる。そう思った。

そして、その数日後、私はアメリカへ旅立った。

見送りは平日と言うこともあり、信子と優太ママの2人だけだったが涙などしんみりしたものは何も無かった。逆に笑顔で見送ってくれた。

2人のママに明るく手を振って私は機上の人となった。

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ああ!昭和は遠くなりにけり! @dontaku

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