後編

 失意のまま終業時間を迎えた結衣は、デスクにうなだれながら自分の小箱を見つめていた。


 あれから何度か航にスイーツを渡そうと試みた。


 だがその度に、先ほどの後輩から航がスイーツを受け取っていた場面の記憶が蘇り、告白すると豪語していた結衣の勇気はあっけなくしぼんでしまうのだった。


 定時になっちゃったし、今日は残業もないし、もう渡せないな……。


 よし。諦めよう。


 もう今日は駄目だと悟った結衣は潔く諦めて、カバンと紙袋を持って立ち上がり、周囲の同僚に声をかけてオフィスから出た。


 エレベータで一階のロビーまで降り、ビルの出入り口に向かっていると、後ろから腕を引かれた。


「ちょっと待った」


 振り返ると、そこにいたのは航だ。


「ちょっとこっち」


 そのままロビーの端まで連れていかれる。


「どうしたの?」


 突然のことに驚いた結衣が聞くと、航は少しむっとした顔で、結衣が下げている紙袋を指差した。


「それ」

「え?」

「昼休みに渡しに来ようとしてただろ。その後もなかなか来ないから、それで……」


 気づかれていたのだと知って、カッと結衣の顔が赤くなった。


 結衣を見下ろしている航は、怒ったような顔をしている。 


「ごめん、迷惑だった?」

「そんなわけないだろ。むしろ、待ってたんだよ」


 航はむっとした顔のままだ。だが耳がわずかに赤くなっていた。


「えっと、じゃあ……」


 結衣は意を決して紙袋を差し出した。中には、先ほどまでひっそりと温存していた例のカップケーキがそのまま入っている。


 航の顔を見る勇気はなくて、紙袋をじっと見つめたまま言う。


「実はこれ……バレンタインのとき、渡せなかったから。ひなまつりにかこつけて、作ってみたんだ。私、ずっと航のことが――」

「ストップ」

「あ……」


 思い切って言おうと言葉を遮られた。目にじわりと涙が浮かぶ。


「そこから先は俺から言わせて」

「え?」


 視線を上げると、航は真剣な顔をしていた。


「好きだ。俺と付き合ってほしい」


 * * *


 沙奈はもやもやとした気持ちに耐えられずに、定時と同時に会社を飛び出してしまった。


 結局、拓海に自分のスイーツを渡すどころか、拓海の気持ちすら分からずじまいだ。何をやっているのかと自分に腹が立つ。みんなに配った拓海の手作りお菓子が想像以上に美味しかったことも、なんだか妙に腹が立った。


 すると、スマホが振動した。画面には拓海の名前が表示されている。戸惑いながら電話に出ると、少し息を切らした声が飛び込んできた。


「先輩……どこにいるんですか? 今、会社の前にいるんですけど……」

「もう駅に着くところよ」

「待っててください。俺、先輩に言いたいことがあるんです」


 駅前で待っていると、拓海が駆けつけてきた。沙奈に向かって深く頭を下げる。


「先輩、昼はあのクッキーは皆さんでって言ったけど、本当は……先輩のために作りました。いつも僕の仕事、フォローしてくれるし、優しくて……僕、先輩のことが好きです」

「え……」

「バレンタインのとき、先輩からチョコがもらえたらいいなってなんとなく期待してたんですけど、義理もなかったのが思ったよりもショックで、ああ先輩のことが好きなんだなって気づきました。告白しようと思ってお菓子を作ったのに、緊張して変な言い方になっちゃって。ごめんなさい」


 沙奈の目に涙が浮かぶ。


「本当に、わたしのことが好きなの?」

「はい! 先輩のことが好きです!」

「嬉しい。……わたしも好き」

「本当ですか!?」


 うん、と沙奈が頷くと、拓海は沙奈に抱き着いた。


 * * *


 夜、美咲は自宅のキッチンで落ち着かない気分のまま、お茶を淹れていた。


 森田に渡したスイーツはどうなったのだろうか。食べてはくれただろうか。手作りのお菓子なんて気持ち悪いと思われて、捨てられてしまったかもしれない。あの森田ならやりかねないと思ってしまった。


 するとLINEの通知が鳴る。画面を見ると森田の名前があり、思わず息が止まった。


『家に持ち帰って食べたが、美味かった。来年も食べられると嬉しい。』


 来年も?


 美咲は思わず通話ボタンを押していた。


「もしもし? どうした?」


 森田の声が聞こえてきて、初めて自分が音声通話をかけていたことに気づく。驚いてスマホを落としそうになった。


「あ、あのっ、さっきのメッセージって……!」

「ああ。食べたよ。美味かった」

「それはよかったです。……じゃなくて、来年もって、ど、どういう意味ですか!?」


 思い切って聞いてしまう。


 森田は、何とも思っていない部下に、そんなねだるようなことを言うような性格ではないはずだ。だとすると、もしかして――。


「君こそ、あのカップケーキ、どういう意図でくれたんだ?」

「えっと、それは、その、日ごろの……感謝の気持ち、と言いますか……」


 逆に聞き返されて、しどろもどろになる。


「昼に聞いたひなまつりのスイーツについてネットで検索したら、興味深い話があった。ひなまつりの日にスイーツを渡すと意中の人と――これ以上言うとセクハラになるだろうか……?」


 朗々と話していた森田が、急に声をしぼませた。


 いつも強気の森田から出た弱気な声に、きゅんとする。


「なりません!」

「じゃあ……そういうことでいいか? それなら、来年は二人で贈り合おう」

「はい!」

「じゃあ、そういうことで」

「はい、そういうことで!」


 言いくるめられるように通話を終えてから、美咲は我に返って首をひねった。


 そういうことって、そういうこと……だよね? え、本当に?


 決定的な言葉を何も言われなかった。


 自分の勘違いだったとしたら痛すぎる。でも、課長は両想いになるジンクスを知っていて、その上で来年は贈り合おうって……。


 ええい!


 美咲は思い切ってLINEに打ち込んだ。


『さっきのって、恋人になるってことですよね?』


 既読はすぐについた。


 が、そこから何も返ってこない。


 やっぱり私の勘違い!? 呆れて既読無視!?


 後悔してももう遅い。もう読まれてしまったのだから、今さら取り消せない。


 たった数分が地獄の数時間に思えて、美咲は固唾かたずを呑んで返事が来るのを待った。


『そう。』


 やっと入ってきたメッセージは、句点も入れてたったの三文字だったけど、美咲にはそれで十分だった。



 * * * * *


 

 翌日、昼休みにカフェで待ち合わせた三人は、強張った顔を突き合わせていた。


「二人ともどうだった? 私は危うく航に渡しそびれるところだったけど、何とか帰りに渡した」

「わたしは逆に拓海くんから貰ってしまったの。その後、わたしからも渡したわ」

「私はすんなり渡せたよ。でもリアクションがすごく薄かった」

「じゃあ、三人とも渡せたんだ。よかった」


 それぞれの報告を聞いて、ひとまずほっと息をつく。


「それで、私、二人に報告があるんだけど……」

「わたしも」

「同じく」


 三人で目くばせをし合う。


 それぞれ、自分だけ両想いになってしまったのではないか、と心配しているのだ。


 だが、もし仮に幸せをつかんだのが自分だけだったとしても、他の二人は祝福こそしてくれど、恨んだりねたんだりすることはないだろう。


 三人は、それだけの信頼を築けている。


「じゃあ、言うね、実は――」

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ひなまつりのジンクス 藤浪保 @fujinami-tamotsu

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