最終期日は2月31日(月)です

陽澄すずめ

私の2月はまだ終わっていない

 よもや誰が予想しただろうか。今年のひなまつりを、このような気分で過ごすことになろうとは。



 話は2月27日(木)に遡る。

 2月末日の迫る中、私は自分のデスクでPCのキーボードを叩いていた。

 そこへ、上長から声がかかった。


「ごめん、ちょっと急なんだけどさ、月末までに次年度予算書って出せる? 月初の会議で使うこと忘れてて」


 月末と言うと、明日である。

 もう一人の事務員である山本さんと、残り業務を確認してみる。


「もう数字自体はまとまってますし、ひな形に打ち込むだけなんで大丈夫ですよ」


 他は月末支払の送金作業があるくらいなので、余裕で間に合うだろう。我々はそう確信していた。


 が。

 昼過ぎ、私のスマホが娘の通う小学校からの着信を告げたのである。


『ヒナさんが、給食の後に気持ち悪くなって、戻してしまいまして……お迎えをお願いします』


 そんなわけで、私は戦線離脱を余儀なくされた。


「ごめんね山本さん、こんな月末のタイミングで」

「そんなの仕方ないわよ。後はやっておくから、娘ちゃんお大事にね」


 頼りになる同僚である。

 暗に明日も来られるか分からないというニュアンスだったが、この業務量ならば山本さん一人で何とかなるだろうと思えた。


 娘は小児科で胃腸風邪と診断され、飲み薬をもらった。今ちょうど流行しているとのことだった。



 2月28日(金)。

 娘は腹の状態が不安定なため欠席。私も職場に欠勤の連絡を入れた。


『いいよー、こっちは任せといて!』

「ありがとう山本さん……!」


 しかし、昼過ぎ。

 上長から連絡があった。


『実は山本さんが急に体調を崩して早退しちゃってさ』


 何だって?


 続いて山本さんからLINEが入る。


『ごめん、私も胃腸風邪で。。。今、点滴受けてるの。送金作業はどうにか全部やったんだけど、予算書が間に合わなくて』


 戦友ともよ、なんということだ。


 予算書には上長の決済がいるので、上長に数字の入力をお願いするわけにはいかない。

 山本さんが戦闘不能状態の今、残る手段はただ一つである。

 私は二人に向け、メッセージを打つ。


『私が自宅から作業します』


 クラウド上の会計ソフトにアクセスして、予算書のひな形に決まった数字を打ち込むだけだ。2時間、いや1時間あればあっさり終わる作業である。


 が。


「ママ……気持ち悪いぃぃ……」


 娘の容態が悪化し、水を飲んだだけで嘔吐するようになってしまった。

 洗濯もそこそこに、再び小児科へ。点滴は2時間ほどかかるという。


「ママ、3月3日までに治るかなぁ……」

「ヒナの誕生日だし、ひなまつりだもんね。治るといいね」


 点滴チューブに繋がれてめそめそ泣き始める、小さな我が娘。

 さぞ辛かろう。代われるものなら代わってやりたい。いや、やっぱりあんまり代わりたくはないな。何にせよ早く治ってほしい。


 それにしても、なぜ2月は28日までしかないのだろうか。理不尽な怒りが湧く。2月だけあまりに短すぎやしないか。31日ある月から借りてきてならせよ。


 そうは思えど、現実的な対処をせねばならない。

 私はまた上長にメッセージを打った。


『すいません、予算書は週明けでも大丈夫ですか?』

『月曜の朝イチならギリギリ間に合うよ。でも無理しないでね』


 作業は土日にやればいい。

 私の2月はまだ終わっていない。最終期日リミットは2月31日(月)だ。

 休日ならば夫も家にいるので、仕事に割く時間もあるに違いない。



 が。



 3月1——否、2月29日(土)。

 なんと、今度は夫が胃腸風邪を発症した。

 娘もまだ目を離せない状態である。


「ご、ごめんよ……」

「ママぁ、まだ気持ち悪い……」


 仕方ない。仕方ないのである。誰も胃腸風邪なんて罹りたくて罹らない。

 終わらぬ洗濯。掃除と消毒。病人たちと私とで分けて作る食事。捌いても捌いても次々に家事タスクは湧く。

 サイドボードの上の親王飾りが、この戦場を穏やかな表情で見守ってくれている。


 私がたおれるわけにはいかぬのだ。


 PCの前に座る時間はない。

 ひな形に決まった数字を打ち込むだけなのに。

 ひな形に決まった数字を打ち込むだけで終わるのに。


「ママ……ひなまつりまでに治るかなぁ……」


 ひなまつりまでに終わるかなぁ……


 なお書式を意味する『ひな形』には、「実物をかたどって小さく作ったもの」という意味もあり、おひなさまに通じるものがあるらしい。

 明日から使えそうなトリビアが増えたところで作業できるはずもなく、今日という一日は敢えなく暮れていった。



 2月30日(日)。

 娘はかなり快復した。

 夫の方はしんどそうだが、大人なのである程度は自力でなんとかしていただく。


 洗濯をし、病人食を作り、元気になってピヨピヨまとわりついてくる娘の相手をしながら、私は会計ソフトへとアクセスする。そして各部署から上がってきていた数字を、次年度予算書のひな形へと入力していく。


 誰にでもできる簡単なお仕事だが、誰かがやらなくては終わらない仕事だ。


 小一時間ほど集中し、ついに最後の数字を打ち終える。

 一つ一つ、数字をチェックしていく。

 しかし。


「……合わんくね?」


 合計額が合わないのである。

 おかしい。間違いなく正しい数字を入れたはず。どこでミスをした。無数の数字の羅列で目がチラチラする。

 落ち着け。素数を数えろ。いや何の数字の話だ。


「ママ、明日はヒナのお誕生日とひなまつりできる?」

「……できるといいけどねぇ……」


 途中から入力の段がズレていたのが原因だと判明したのは、家族が寝静まった後だった。



 2月31日(月)。

 元気いっぱいの娘を小学校へと送り出し、夫に冷凍うどんを残して、私は出勤した。

 山本さんはまだ欠勤。「お大事に」とメッセージを打つ。

 朝イチで、昨日整えた次年度予算書を上長決済に回す。


「ありがとう! 助かったよ」


 間に合った。ようやく私の2月が終わりを告げた。

 この瞬間、脳内でカレンダーがめくれ、3月3日(月)が姿を現す。


 今日は楽しいひなまつり。

 愛しい我が娘の誕生日でもある。


 仕事帰りにケーキを買って帰り、プレゼントを用意して、夕食後に簡単なお祝いをする。


「ママ、ありがとう! ケーキおいしい!」


 娘のかわいい笑顔が何よりだ。夫はまだケーキを食べられる状態ではないが、いずれ快復するだろう。

 未来は明るく、世界は美しい。

 未だかつて、ひなまつりの日をこれほどまでに喜ばしい気持ちで迎えたことがあっただろうか。いや、ない。


 私は斃れなかった。戦場で最後まで立っていた者が勝者なのだ。


 我が家の親王飾りも、菩薩のごとき笑みをたたえている。

 そうして、祝福に満ちたひなまつりは過ぎていった。



 なおその晩、私も急に悪寒に襲われて嘔吐と下痢が止まらなくなるのだか、それはまた別の話——



—了—

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最終期日は2月31日(月)です 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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