鏡の向こうのあなたへ捧げます
藤泉都理
鏡の向こうのあなたへ捧げます
とあるところに、他の生物の住処ととても離れた場所にありながら、交流を絶つわけでもなく、細々と交流を続ける吸血鬼だけが住む村があった。
この村には悪しき因習があった。
数十年に一度。
桃の節句である三月三日。
常ならば枯れている桃の木に花が咲いた家に住む吸血鬼を一人、供物として神に捧げなければならなかったのだ。
神に捧げなければ平穏な日々は突如として消え失せ、災いに見舞われるという。
吸血鬼はその言い伝えを信じ続けて、数十年に一度にあたる今年もまた、桃の花が咲いた家に住む吸血鬼を一人、供物として神に捧げたのであった。
その吸血鬼の名前は、
すべてを吞み込んでしまいそうな漆黒の長い髪の毛と黒い瞳、無表情で少々怖い顔立ちが印象的な男性の吸血鬼であった。
はらりはらはら。
二種類の花びらが舞い散っている。
吸い取っているのはどちらなのか。
数えるのもばかばかしくなるほどに長く高く蛇行しており、一段が低く横幅も縦幅も狭く、重々気を付けなければ転げ落ちてしまいそうな危険性を孕んでいる石階段は紅の小さな鳥居と、そして、薔薇と桜に囲われていた。
はらりはらはら。
薔薇と桜の花びらが舞い散っている。
いついつまでも空中に留まっているように見えるのは錯覚だろうか。
はらり、はらはら。
はらり、はら。
吸い取っているのはどちらなのか。
それとも、共に吸い取り合っているのか。
枝も幹も絡み合う薔薇と桜の花の色はどちらともに桃色であった。
肩幅より一回り小さな紅の和傘をさして、気が遠くなるほどに長く高く危険な石階段を上った先に待ち受けていたのは、大きな漆黒の社であった。
旭は三段の階段を上っては社の扉を左右に引き開いて、靴を脱いで中に入り、蝋燭の灯火しかない薄暗い空間の中、ただまっすぐに待ち構えている紅の襖を次から次へと左右に引き開いては進んでいく。
「………鏡?」
いつまで続くのかと辟易していた旭が何百本目の紅の襖を開いた先には、アーチ形の全身鏡が一枚置かれていた。
旭はさしていた紅の和傘を畳んで片手で持つと、アーチ形の全身鏡に近づいた。
すれば先程までは自身の全身の姿が映っていたアーチ形の全身鏡には、頭からふさふさの三角耳を生やした見目麗しい顔立ちに、艶やかな着物を緩く纏った男性の全身の姿が映ったのである。
旭は僅かに目を見開いた。
「神様、ですか?」
「ああ。わしが神だ。おまえが今回の供物か。どれ。近う寄れ」
「私を食べるのですか?」
「ああ。喰らう。今までの供物同様におまえを喰らって、吸血鬼の源を抜き取り、只人にする。吸血鬼の源は美味であるからのう。どうしても喰らいたくなった時に、おまえたちの中から一番強い源を持つ者を呼び寄せておる。なに、吸血鬼から只人になったとて、困る事などひとつもなかろう。いや。寧ろ喜ばしい事であろう。吸血鬼は迫害を受けておるゆえ、只人になった方が生きやすいというものよ」
「何十年前の話をしているのですか? もう吸血鬼は迫害を受けていません」
「なに? 迫害を受けておらぬのか?」
「ええ。全生物協議会により漸く吸血鬼も迫害してはいけないとの採決を受けまして。まあ、今までと変わらず他の生物から少し離れた場所で過ごし、他の生物との交流は細々とだけしか続けていませんけどね。なので、昔の吸血鬼はどうだったか知りませんが、今の吸血鬼は只人になっても喜びません。寧ろ、怒り狂います。吸血鬼である事に誇りを持っていますから」
「ふむ。そうか。それならば、わしがおまえを喰らったら、おまえは怒り狂うのか?」
「ええ。そうですね」
「ふむふむ。そうか」
神は傍らに置いてある桃色の薔薇を模したチョコレートの花びらを一枚抜き取ると、口の中に招き入れた。
「では、致し方ない。喰らったわしも喜び、喰らわれた吸血鬼も喜んでもらわぬと困るゆえ、帰ってよいぞ。致し方ないゆえ、これより吸血鬼の源を喰らうのは止めて、チョコレートで我慢する」
「………我慢し続けた結果、我慢できないと吸血鬼に襲いかかったり、よくも神に我慢を強いたなと怒り狂って災いを振り撒いたりしそうなので、私はここであなたを監視する事にしました」
神は片眉毛を跳ね上がらせた。
「わしを愚弄するのか? 吸血鬼」
「私の名前は旭と申します。以後、私の命が尽きるまでよろしくお願いします」
「なに? おまえ、ずっとここに居るつもりなのか?」
「ええ。何をしでかすか分からないので。幸い、鍛えに鍛えまくって腕っぷしには自信がありますので、命と引き換えにあなたを止める事はできるでしょう。まあ、他の吸血鬼も吸血鬼としての誇りを忘れないようにと鍛えまくっているので、あなたにどうこうされないとは思いますが念の為に」
「いや。よい。はよう帰れ」
「嫌です。留まります」
しっしっ。
神は気だるげに片手を振った。
ぶんぶん。
旭は勢いよく頭を振った。
「嫌です。帰りません」
「………そうか。好きにせよ。どうせ退屈ですぐに帰るに決まっておる」
いちまいにまいさんまいと、桃色の薔薇を模したチョコレートの花びらを立て続けに抜き取っては、口の中に招き入れ続けた。
「帰りませんよ。寧ろ、退屈とは無縁の生活になりそうですし。そう言えば、神様。その鏡の中からは出て来られないのですか?」
「………いいや」
「そうですか」
「………おまえ。吸血鬼の源を喰らわれた仲間の敵討ちの為に、わしを喰らおうと考えておるのではあるまいな?」
「………いいえ。今はただ一目惚れしている状態なので、もう少し冷静に状況を見極めてから、あなたを食べるか食べないかを判断しようと思います」
「………………今、おまえ何を言っ。いや。よい。何も言わずともよい。うむ。さっさと帰れ。わしは眠る」
「帰りません。ここで心身魂共に鍛え続けて、あなたが鏡から出てくるのをいついつまでも待っています」
「わし、鏡から出ないゆえ。さっさと帰れ」
「あっ」
神は姿を消し、アーチ形の全身鏡には旭の全身の姿が映った。
「………少し待ってから、チョコレートで釣ってみますか」
よし。
小さく頷くと、旭はまず腕立て伏せを始めるのであった。
「な。なんじゃ。いきなり一目惚れ………いや。聞き間違いじゃ。うむ………うむ」
神を名乗る九尾の妖狐は頭に生えているふさふさの三角耳を両手で強く押し付けたのち、酒の入ったチョコレートを食べ過ぎたかと呟いた。
「………あつい」
(2025.3.4)
鏡の向こうのあなたへ捧げます 藤泉都理 @fujitori
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