うちの雛人形は

柚城佳歩

うちの雛人形は

──うちの雛人形は特別なのよ。


お雛様を飾る時、母はいつもそう言った。




我が家の雛人形はお内裏様とお雛様だけじゃなく、三人官女に五人囃子、右大臣と左大臣、更にはあまり知名度が高くなさそうな仕丁(三人上戸ともいうらしい)までいる、七段飾りの豪華フルセットだ。

客間に段を組み、赤い布を敷いて、一つ一つ丁寧に並べていく。


段が少しずつ埋まって賑やかになっていく様子はとてもわくわくしたし、人形たちはどれもそれぞれ綺麗な顔立ちだなと思ってはいたけれど、表情が今にも動き出しそうなくらいあまりにもリアルで、正直なところ小さい頃は怖くてあまり近付けなかった。


驚く事にこの人形たちは、曾祖父が全て作ったらしい。私が生まれた時には既に亡くなっていたから会った事はないけれど、曾祖父は無名ながらも腕は確かな人形師で、母が生まれた時、それはもう喜んだという。


でもいくら孫が可愛いからって、雛人形一式(しかも手作り)を贈るとは流石にやり過ぎじゃないかと思ったけれど、自身が男ばかりの七人兄弟、子どもも同じく男四人と、男ばかりの中で生まれ育ったと聞いたら、初めての女の子の孫には何でもしてあげたくなる気持ちはわからないでもなかった。


余談になるが、母の名前は咲姫さきという。

曾祖父が名前を考えてくれたらしいけれど、”姫“の字を入れるあたり、女の子の誕生が本当に嬉しかったんだろうなというのがこういうところからも想像出来る。


ところで曾祖父が作った雛人形たち。

母が口癖のように言っていた“特別”というのは、曾祖父が手作りしてくれた世界にたった一つのものだからという意味だと、高校生のあの日までずっとそう思っていた。




「これまでの人生の中で一番辛かった思い出は?」


と聞かれたら真っ先に思い浮かぶくらい、あの時は大変だった。


高校の卒業式を無事終えた翌日。

あまりのだるさに熱を測ると、体温計は三十九度という数値を表示した。こんなの人の体温じゃない。頭の先まで熱いお湯に浸かっているみたいにぼうっとしていた。


熱は急に上がったわけではなく、実のところ数日前から不調を感じていた。でも卒業式間近という事もあり気付かないふりをしていたのが、気が抜けて一気に疲れが出たんだと思う。


その日のうちに病院で診てもらったけれど、翌日も翌々日も熱は高いまま下がらず、咳まで出始め、体力は削られるしご飯は食べられない。

寝返りを打つのもしんどいくらいに体は重くて、わりと本気でこのまま死ぬんじゃないかと思った。


夜、布団でうんうん唸っている私の耳許で、布が擦れるような物音がした。

最初は気のせいかと思ったけれど、人の話し声のようなものまで聞こえる。

重い瞼をなんとか開けて様子を窺うと、カーテン越しの薄ぼんやりとした明かりの中、どこか見覚えのあるシルエットが動いていた。


えっ、あれって……。


刀を手に部屋の中を動き回っているのは、客間に飾ってあるはずのあのお内裏様だった。

しかも動いているのは一体だけじゃない。

少し離れた所では胡簶やなぐいを背負った白髭のおじいさんと、色白の若者が弓を構えている。


人形が動いているなんて、熱のせいで幻覚でも見ているんだろうか。

もうこの際、気が紛れるなら夢でも何でもいい。

彼らは黒い何かと戦っているようだった。

あの黒いものはどこから出ているんだろうと目を動かして探ると、靄は自分の体と繋がっていた。


「わっ、何これ」


ずるりずるりと地面を這うように、体から靄が滲み出ている。

体から離れた靄は空中で人の形を取り、お内裏様たちを攻撃していた。


……違う、あれは人じゃない。

黒い何かの頭には、人にはない尖った角のようなものが生えている。その姿はまるで鬼だった。

鬼は大きな体で長い腕を振り回している。

お内裏様はその全てを俊敏な動きで躱していく。


すごい。綺麗だ。

戦っているはずなのに、どこか舞を舞っているような、つい目で追ってしまう優美さがあった。


昔、病やわざわいは鬼のせいとされていたという話を聞いた事があるけれど、もしかしたらそれは本当なのかもしれない。


そんな事をぼんやりと考えているうち眠気が襲ってきて、私は再び目を閉じた。

意識が途切れる直前、化け物の叫び声を聞いたような気がするけれど、あれも熱のせいだったのかもしれない。




翌朝、あれだけだるかったのが嘘みたいに体が軽い。熱もすっかり下がっていた。

ふと、昨夜見たものが気になって、雛人形が飾ってある客間に行ってみた。


襖を開けると人形が動いている、なんて事はなく、記憶と変わらない配置で並べられた人形たちが静かに佇んでいるだけだった。


「やっぱりあれは幻かぁ……、ん?」


お内裏様の頬に、何か付いている。

まるでひっかき傷のような一筋の線。

そっと指で触れてみる。

こんな線、前からあったっけ……?


「おはよう桃花ももか、熱は下がったの?」

「うん、もうすっかり元気」

「それは何より。じゃあそんなところに立ってないで早く顔洗って……」


言葉の途中で、私の手にあるお内裏様に気付いたらしい。

小さい頃から怖いと言ってあまり人形たちに近付かなかった私が、手に取ってまじまじと見ていたのが珍しかったんだろう。驚いた顔をしていた。


「お母さん、どうしたの?」

「ううん、ちょっと昔の事を思い出しただけ。桃花こそ珍しいじゃない。どんな心境の変化?」

「……実は昨日、ちょっと変な夢を見てさ。というか夢かもよくわかんないんだけど」


少し躊躇った後、夜に見たものを話してみる事にした。

熱のせい、ただの夢。いきなりこんな話をしても信じるわけがない。でも母の反応は想像していたものと少し違って。


「やっぱりあれは夢じゃなかったのね」

「え?」


今度は私が驚く番だった。

そんな私の顔を見て、母は楽しそうに笑ってから、私を産んだ時の事を話してくれた。




「今だから言うけど、本当に大変だったのよ」


ただでさえ十時間以上掛かると言われている出産。

私はなかなか出てくる気配がなく、時間だけがただ過ぎていき、病院で母は死を覚悟したという。


「もうダメかもって思ったんだけど、この子だけはどうか無事に産まれてきてほしい。神様でも仏様でも、この際悪魔でも何でもいいから、誰か、どうかこの子を助けてあげてってそう強く願った時、お父さんが立っているのとは反対側の手を誰かが握ってくれたの。不思議な安心感があったのをよく覚えてるわ」


そこから少しして私は無事に生まれたらしい。


「赤ちゃんの産声を聞いたら安心して気が抜けたみたいでそのまま気を失ってしまってね、後からお礼を言おうと手を握っていてくれた人を探してみたんだけど、結局誰だったのかわからなかったのよ」


その後季節は過ぎて、雛祭りに合わせて雛人形を出そうとした時。お雛様の手に薄っすら跡があるのに気付いたという。

前に仕舞った時にはこんな跡はなかった。

大切に扱っていたからそう言い切れる。


いつ付いたんだろう。

なんだかちょっと人の指にも見えるような……。

跡を見ながら考えていると、ふと記憶に引っ掛かるものがあった。

苦しい時、力強く握ってくれた温かい手。

言葉はなくても確かに励まされた。

その手を強く握り返した気がする。


「あの時ずっと手を握ってくれていたのはあなただったのね!」


およそ現実味のない話だ。けれどパズルのピースがぴったりの場所に嵌るように、点と点が繋がった感覚があったそうだ。


人形師だった曾祖父が、母の健やかな成長を願い、心を込めて丁寧に作られた雛人形たち。

想いや魂の込められた人形の中には、稀に自我を持つものも現れると、どこかで読んだ事がある。

それは御伽噺なのかもしれないけれど、母と私が見たものはきっと夢や幻なんかじゃない。

母がいつも言っていた言葉も、今ならよくわかる。


うちの雛人形は世界に一つ、特別なんだよ!






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うちの雛人形は 柚城佳歩 @kahon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ