第21話 追憶の旋律

 アストリアは控え室で楽器を慎重に片付けながら、心臓がまだ高鳴るのを感じていた。


「それにしても、すごい演奏だった」


 ロイドが、後ろから声をかけた。


「本当にそう思いますか?」


 アストリアは振り返り、少し不安げに微笑んだ。


「お客さんの拍手を聞いただろう?あれ以上の証明なんてないさ」


 ロイドが穏やかに言うと、アストリアの緊張した表情が少しほぐれた。


 その時、控え室の扉がノックされ、演奏を依頼してきた公爵家の執事が、静かに入ってきた。


「失礼致します。大広間の皆様が、アンコールをご希望です。もう一曲、演奏していただけませんか?」


 アストリアは目を見開いた。

 

「アンコール。ですか?」


「はい、皆様が心よりお待ちですので」


 執事は深々と頭を下げた。


ロイドがそっとアストリアの隣に寄り、尋ねた。


「どうする。行けるか?」


アストリアは迷いながらも、決意を固めた。


「弾きます。たとえ一人でも、私を待っているお客様がいらっしゃるなら、全力でお応えしたいです」


 ロイドは、彼女に微笑みかける。


「そうか。ならば、行こう。」


 アストリアが再びステージに立つと、大広間は温かい拍手に包まれた。彼女は深く礼をし、再びバイオリンを構えた。


「どの楽譜を弾くんだい?」


 ロイドが寄り添って、楽譜の束を彼女に示すと、アストリアは首を横に振った。


「楽譜はいりません。暗譜している曲で、ぜひここで弾いてみたい曲があります。以前、ロイドさんにも部屋でお聞かせした曲です」


 アストリアは視線を少し遠くに向けた。


「なぜだか分からないんですが、あの曲を、いまどうしても弾きたいって思うんです」


 ロイドはうなづきながら答えた。


「あの曲か。君が弾きたいなら、それがいい」

 

 アストリアは深く息を吸い込み、弓を弦に当てた。そして、静かに最初の音を奏でた。


 その瞬間、ステージから遠く離れた場所に座っていたエーベル王子の表情が変わった。演奏の進行と共に、彼の目は大きく見開かれた。


(この曲は……!)


 エーベルの胸に、記憶が鮮明に甦った。それは、失踪したアストリアが遺した、ビリビリに破られた楽譜のメロディそのままだった。


 エーベルにとってそれは、もはやただの楽譜ではなかった。この数ヶ月間、妹アストリアのことを思い出して、貼り合わせた楽譜のピアノパートを、何度も弾いては涙した。


 彼と妹の絆を象徴する、魂の旋律そのものであった。


(まさか、そんなはずはない。あの曲を知っているのは、アストリアと私しかいないはずだ)


 エーベルは動揺しながら、演奏者の顔をじっと見つめた。だが、ステージは宴席からかなり遠くに設置されており、まばゆい明かりに遮られて、顔の輪郭すらはっきりしない。


 彼は思わず立ち上がり、近くの貴族たちの驚きの声も気にせず、ステージの前まで歩いて近づいた。


 曲が終わると、大広間は静まり返った。数秒の沈黙の後、大きな拍手が巻き起こり、誰もが歓声を上げて演奏を称えた。


 しかし、エーベルだけは拍手をせず、ステージのそばに仁王立ちしたまま、目を凝らして演奏者を見つめ続けていた。


(間違いない……)


 彼は心の中で、ある確信を感じ始めた。


 演奏が終わり、アストリアが一礼してステージを降りようとすると、エーベルが声を上げた。


「待て!」


 大広間に響くその声に、観衆の視線が一斉にエーベルに向けられた。アストリアも足を止め、驚いて振り返った。


「君……」


 エーベルは震える声で言った。


「君はその曲を、なぜ知っている?」


 アストリアは動揺しながらも答えた。


「それは……なぜだか分からないんですが、体がこの曲を覚えていたんです。」


「本当に、君なのか?」


 エーベルはステージに上がり、アストリアのそばまで歩み寄って、その顔をじっと見つめた。


「君の名前は?」


アストリアは困惑しながらも名乗った。


「アスタ、と申します」

 

エーベルは一瞬言葉を詰まらせたが、やがて震える声で叫んだ。


「違う、違う!」


 エーベルは言葉を続けた。


「君は……アストリアだ!」


 彼女はその言葉に、動揺を隠せなかった。なぜエーベルが自分の名前をアスタではなくアストリアだと言い切るのか分からず、困惑の表情を浮かべた。


「頼みがある」


 エーベルの声には、切ない焦燥感がにじんでいた。

 

「君の右肩を、ちょっと見せてほしい。」


「右肩……?」


 アストリアの右肩には、記憶を失ってからもずっと、三日月形のアザが残っており、他の傷は治っても、そのアザだけは消えていなかった。アザを見られるのは少し嫌な気分だったが、アストリアは、王族の命令に従うことにした。戸惑いながら、服の肩をそっとずらして見せた。


「やっぱり……!」


 エーベルの視界に、三日月形のアザがくっきりと飛び込んできた。そのアザは、エーベル自身の肩にも同じものがあり、懐かしい妹の肩にも間違いなく存在していた。まさに、王家の印とも言えるアザだった。


 エーベルは息を呑み、感情を一気に溢れ出させて言葉を続けた。


「やっぱりアストリアだ。どうして、どうしてこんなところに……」


 アストリアは自分の肩を見下ろしながら、記憶が急速に蘇り始めるのを感じて、驚きで声も出せないまま、エーベルを見つめた。


「アストリアが戻ってきた。こんなにうれしいことはない。ずっと、探してたんだよ。私が分かるかい、アストリア? 君の兄さんだ。エーベルだよ」


 エーベルは目に涙を浮かべながら、アストリアにゆっくりと手を伸ばす。


「……エーベルお兄様?」


 アストリアは、ようやく全てを理解し、小さな声で問い返しながら、エーベルの手を握り返した。


 失われた記憶のすべてが、いま怒涛のように、アストリアの脳裏へと蘇ってきていた。


「そうだよ、アストリア。思い出してくれたんだね。兄さんだよ……」


 エーベルは声を震わせながら、アストリアの髪をなでた。


 こうして、国王夫妻を始め、出席者一同がどよめく中、エーベルとアストリアの兄妹はついに再会を果たした。感動と驚愕が、大広間全体に満ちていった。

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