おひなさまの元カレ
秋犬
私、幸せになりたい
母は、3月4日になるとさっさとひな人形をしまってしまう。
「行き遅れになると困るからね」
苦笑いする母に私は尋ねる。
「行き遅れって何?」
「恥ずかしいことよ」
そう言う母の髪には白いものが目立っていた。
だから私は、早く結婚しなければならないと思っていた。
***
大学を卒業すると、父がすぐ縁談を持ってきた。
どこかの会社の御曹司で、結婚したら一生お金には困らないと言う。
お見合いもした。
多分、とってもいい人だ。
だから、私は彼と結婚することにした。
お母さんはとっても喜んでくれた。
それから毎日が忙しかった。
ドレスの色、お料理の内容、お花の種類。
そして優しい彼。
何でも私に買ってくれる。
何でも私の言うことを聞いてくれる。
初めては結婚式を挙げてからにしようと約束した。
そんな優しいところが、私は好きだった。
きっとそう、思い込むことにした。
お母さんが怖かったから。
***
結婚式が迫ってきた日、私は偶然カズヤに会った。
高校の時、雰囲気でちょっとだけ付き合っていた奴。
今思えば、夏祭りに一緒に行くだけの相手だった。
私は少なくとも、そう思っていた。
「なあ、結婚するんだって?」
立ち話もなんだからと入ったカフェで、カズヤは言う。
「うん。素敵な人」
「そうか、おめでとう」
そう言うカズヤの顔色は、とっても悪い。
「お前、そいつ好きなのか?」
「うん、素敵な人だから」
「どのくらい付き合ったんだ?」
「付き合ってないよ。お見合い」
「でも、結婚するなら寝たんだろう?」
「結婚前なのに、そんなことしないよ」
カズヤは変なことばかり聞いてくる。
「あのさあ、もしそいつが下手くそだったらどうするんだ?」
「へたくそ?」
「めっちゃ早漏とか」
失礼な話なのに、私は笑ってしまった。
「きっと、そんなことないよ」
「そうかもな、お前なら大丈夫なんだろうな」
カズヤの目はあの頃と変わらず、眩しい。
「あれから誰かと付き合ったか?」
「ううん。男の子興味なくて」
私は基本的に男が好きじゃない。
それでもカズヤと付き合ったのは、友達が「彼氏くらい作らないといけないよ」って紹介してくれたからだった。
いざ付き合ってみたけど、一緒に遊びに行ってご飯を食べて夏祭りに行っただけだった。
そして一度だけ、身体を捧げた。
ただ痛いだけだった。
カズヤは何度も謝ってくれた。
私はまだ、恋がなんだかわからなかったんだと思う。
それっきり、カズヤと連絡をとらなくなった。
友達には「別れた」と言っていた。
「じゃあ、今も興味ないままか?」
「なくは、ないかも」
なんだろう。
カズヤに見られると、あの頃よりも熱くてドキドキする。
そっとテーブルの下で手を伸ばすと、カズヤは握ってくれた。
「まだ私のことが好き?」
「あの頃から、ずっと好き」
その手のひらはとても熱かった。
「結婚したら、二度と会えなくなるよ」
手を握り返すと、体中がぎゅうっと熱くなる。
ああ、私はカズヤが好きだったんだ。
でも、今の婚約者の顔も思い浮かぶ。
そしてひな人形をしまい込むお母さんの顔も思い浮かぶ。
『結婚がね、女の幸せなの』
お母さんがそう言うから、結婚しようと思った。
結婚したら、幸せになれると思った。
でも、その結婚って幸せなの?
おひな様みたいに、ただお座りしていればいいの?
私はこの手を握っていてはいけないの?
「ねえ、この後連れてって」
「いいのか?」
「まだ、未婚だもの」
一度だけ。
私は一度だけ本気の恋をしようと思った。
***
昼間から私たちはシャワーを浴びる。
お互いのこと、何となくしか知らなかった。
でも今は、もっと見えないところを知りたい。
あれから時間が経っている。
カズヤも私も、大人になった。
恋の真似事じゃない、本気の恋だって出来る。
カズヤに抱かれて、とっても幸せだった。
この幸せがずっと続けばいいのに。
でもこれは一度だけ。
夢から覚めたら、私はおひな様になるから。
***
あの日から、私の心にはカズヤがいる。
結婚、やめにしようかな。
でも私の頭には婚約者ではなく、母の顔がある。
婚約者を裏切るんじゃなくて、母を失望させるのが怖い。
破談になった娘なんて、母にとって恥ずかしいものだろう。
婚約者は今となっては怖い。
本当に優しい人なのか、自信がなくなってきた。
ねえお母さん。
ちゃんとした結婚をしない女は恥ずかしいの?
破談になった娘はもう娘ではないですか?
***
今年でおひな様を飾るのも終わりね、という母の声が寂しい。
カズヤとはまだ連絡を取っている。
最後最後と言いながら、何度もカズヤに会いに行った。
ねえお母さん。
結婚式、終わっちゃったよ。
婚約者との約束の日が来てしまった。
ああ、私はカズヤを忘れられるだろうか。
もの言わぬおひな様の振りをできるだろうか。
***
ねえお母さん。
私、まだカズヤに会い続ける。
カズヤが好きだから。
本気の恋だから。
お母さんの知らない、私だけの幸せ。
私が不幸になったら
お母さんのせいだからね。
〈了〉
おひなさまの元カレ 秋犬 @Anoni
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