春の記憶

深海くじら🐋充電中🔌

ひなまつり

 はーるーかっ! ひなまつり行こうぜ!!


 隣家の修二が私の家の前で大声を張り上げている。

 見なくてもわかった。鮮やかだったオレンジ色が一度も洗濯しないまま風雨に晒されて汚い茶色になったヤッケを、裾を折り上げたぶかぶかのオーバーオールの上に着込んで、竹で作った釣竿を肩にかけたいつもの格好が。

 大声で、いま行くとだけ返し、目の前の漢字書き取り帳を乱暴に閉じた小学生の私も玄関に走る。


 春霞でぼんやりした水平線を前に、幼い私たちは閑散とした桟橋の先端で二組の釣り糸を垂らしていた。バケツには、まだなにも入っていない。


 は、あの地域でしか聞いたことのない近海魚だ。正式な名前も教わったことがあった気はするが、残念ながら覚えていない。

 干して良し、刺身でも良しという勝手の良さから、土地の人たちは皆、あの魚をと呼んでいたから。

 は春先の幾日かの間だけ、沿岸に現れる。他の季節にはどこでなにをしてるかもさっぱりわからないくせに、この時期だけは群れをなして海辺を回遊し、ゴカイやミミズといった単純な餌に馬鹿みたいに食いついてくるのだ。


 普段は首を絞めたくなるほど五月蝿い修二だが、釣り糸を垂らしているときだけは無口になる。

 ひとつしかない話題を口にする気になれない私も、なにも言わずに黙りこくっていた。


 当たりの予兆もない凪いだ海をぼうっと眺めていたら、修二が口を開いた。

 はるかんち、四月には都会にひっこすんだってな。

 私の顔も見ずにぼそりと告げる修二の声が、桟橋にあたる波の音で切れ切れになる。私には、うんとしか答えようがない。

 おまえも行くのか。

 修二が見ていないのを知っていて、幼い私は声も出さずに小さく頷く。

 と、修二の竿がしなった。

 かかった。

 自分の竿を横に放って、私はたも網を掴む。

 釣り糸が水面を滑っている。

 立ち上がった修二はズックを踏ん張って竿を押さえていた。

 波間に背鰭が覗いた。

 いつもよりも大きい。

 水面に描く曲線の勢いが無くなってきた。

 上げるぞ、と告げる声に合わせて、私も身構えた。

 海面に飛び出してジタバタする尾鰭目掛けて、私は網を差し出した。


 夕暮れ前、修二と私は家路につく。熟れ過ぎた柿のような太陽を背に、バケツを真ん中にした線対象のシルエットを成して。

 私は一度だけ立ち止まり、夕陽が沈む金色の海を振り返った。



 あの春ひなまつりに行ったのは、結局あの日の一度きりだった。

 もう二十年以上前のこと。

 修二がどんな大人になったかもなにしてるかも知らないし、あの土地にも一度も戻ったことはない。

 スーパーの鮮魚売り場でを見かけることはないし、そもそもその呼称だって、都会の人は誰も知らない。

 それでも私は、今日みたいな切ない気持ちで夕暮れ刻の西の空を見上げると思い出すのだ。小学三年生の春に隣の家の幼馴染と行ったひなまつりのことを。

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