沈丁花

遠部右喬

第1話

 春を想う。桜並木、鶯の地鳴き、少し霞みがかった暖かい風……人によって、様々な春があるだろう。

 私にとって、春と言えば「沈丁花じんちょうげ」。姿が見えなくても香りだけで存在が分かる、大嫌いな花。



 自分で言うのも何だが、私は美しい子供だった。道行く大人達が振り返る顔立ちと、祖母に厳しく躾けられた立ち居振る舞いが周囲にどう映っているか、既に本能的に理解していた。幼稚園の友達も、友達のお父さんやお母さんも、先生すらも私には甘かったし、それに胡坐をかくほど愚かでもない。誰からも愛されている自分に満足していた。

 だからだろうか、私は美しく華やかなものが大好きだった。綺麗な鳥の羽や、近所の図書館の窓のステンドグラスに揺れる陽の色を眺めている時間は、何よりも心が躍った。お絵描きの時間、クレヨンでそれらを丹念に描いては「上手だね」と皆から褒められる。綺麗なものを画用紙に閉じ込める作業はとても楽しかった。

 小学校に入学してからは、画材はクレヨンから色鉛筆、水彩絵の具へと変わった。描いたものは、いつも何かしらの賞を貰えた。


「綺麗で、勉強も運動も出来て、絵も上手」


 それが私への周りの評価。幼い自尊心を満たすには十分な言葉だった。



 それに気付いたのは、小学校高学年になったある日の帰り道のことだ。

 ポニーテールに纏めた髪を揺らす春風に混じる、清々しい甘さの上品な花の香りに蝶のようにふらふらと吸い寄せられた私は、通学路を逸れ、垣根に囲まれた大きなお屋敷の裏手に辿り着いていた。

 こんな処にお屋敷があっただろうか……訝しみつつ周囲を見回すと、丈の低い一本の木が目に付いた。こんもりとした樹形の枝先に、白地に薄紅を刷いた小さな花がまるで手毬の様に群れ咲いていて、あの上品な香りはそこから漂っていた。


 正直、がっかりした。素晴らしい芳香から、もっと美しく鮮やかな、大振りの花を期待していたのだが……ランドセルからスケッチブックを取り出し、可愛らしいが少し地味な花を模写し始めたのは、ほんの気まぐれからだった。


「上手ね。あなた、何処の子?」


 しばらく鉛筆を滑らせていると、頭上から声が掛けられた。細い声とスケッチブックに落ちた影に驚き顔を上げると、一人の女性が私を覗き込んでいる。あまり印象に残らないような平凡な顔立ちに、飾り気のない白いワンピース姿の若い女性だ。


「あの、ごめんなさい。良い匂いがしたから、つい……お姉さんは、このお家の人ですか?」

「いいえ。それにここは屋敷の敷地の中じゃないもの。気にする必要ないわよ」


 彼女は慌てて立ち上がろうとした私を手で制し、小さく笑った。俯いた私の手元を再び覗き込んだ彼女から、ふわりと香りが広がる。あの花と同じ、爽やかで華やかな、極上の、うっとりとしてしまう香り。香水にしてはやけに生々しい香りだ。


「ここに子供が来るのが珍しくて声を掛けたけど、驚かせちゃったわね……あら、あなた綺麗な子ねえ。花の精かと思ったわ」


 コロコロと笑う声と聞き慣れた筈の賛辞の言葉に、胸が騒めいた。香りのお陰か、見た目に反して印象的な彼女の笑顔に頬が熱くなる。それが何故なのか、自分でも分からなかった。


「お姉さんは、この花の名前を知ってますか?」

「沈丁花。見たことない?」

「家の周りでも、お花屋さんでも見たことないです」

「そうなの……ね、この絵、色は付けないの?」


 彼女がスケッチブックの線画を指さす。私はランドセルから色鉛筆を取り出すと、まだ白と黒しかない画面に色を載せ始めた。

 緑。茶。灰。青。紫。橙。

 葉を、茎を、忠実に塗っていく。


は塗らないの?」


 彼女の囁きに、私は少し迷ってから真っ赤な色鉛筆を選び、花びら――後にそれは花びらではなく萼片であると知ったが――を塗り始めた。群青、ピンク、黄、ハイライトに水色。わざと目立つ色ばかりを重ねていく。


「……どうして?」


 実際とはまるで違う色に染まった花に、彼女が不思議そうに首を傾げる。


「この花、見た目が地味でつまらないから」


 彼女が息を呑んだのを見て溜飲を下げた――同時に、何故彼女に褒められた時にあれほど恥ずかしさを覚えたのか理解する。

 私は悔しかったのだ。

 何よりも綺麗なものを愛する私が、こんな地味な見た目の花の香に、平凡な顔立ちの彼女が纏う芳香に、酷く心を揺さぶられたことが。つまらない、ぱっとしない人に褒められて、その微笑みに喜びを覚えてしまったことが。

 その苛立ちが、絵の中の花を自分好みの鮮やかな色で染めさせた。

 私の幼稚で昏い復讐心は彼女にも伝わったのだろう。彼女は私を睨むと、


「お嬢ちゃん、憶えておきなさい。あなたにとっての美しさなど、誰の魂にも届きはしないということを」


 私を汚した罪をあがないなさい……春の強い風に、芳香と冷たい声が散る。砂埃に瞑った目を開けると、彼女の気配は消えていた。私は怖ろしくなり、慌ててその場を後にした。

 不思議なことに、あの後、大きなお屋敷も沈丁花の木も見付けることは出来なかった。ふいに姿を消した彼女は、まさか沈丁花の精だったとでもいうのだろうか……そんな馬鹿な。あれは夢だったのか、現実だったのか。確かめようにも、くだんのスケッチブックはいつの間にか手元から消えていた。



 そんな、思い出とも呼べない記憶を抱えたまま、大学生になって二回目の春。


「上手な絵を描く綺麗な子」


 美術学部で学ぶ私への昔から変わらない評価に、心から満足していた。


 震える程美しいあの絵を知るまでは。


 展覧会を兼ねたコンテストに出品した私の油彩画の隣には、水墨画の小品が掛けられていた。

 皆が足を止めるのは、色鮮やかな画風の私の「上手な絵」ではなく、その隣。圧倒的な存在感を放つ墨染の「沈丁花」。

 白と黒のコントラストしかない、いや、だからこそはっきりと伝わる、存在の本質。


 無理だ。私にはこんな怖ろしいものは生まれ変わっても描けない。匂い立つような花の魂そのものなんて。


 並べられた絵の前で俯く私の耳に、コンテストの主催者とあの水墨画の作者らしき人物の会話が飛び込んで来た。のろのろとそちらに顔を向け、息を呑む。

 視線の先で、女性と美術雑誌でよく見かける紳士が談笑している。あまり印象に残らないような平凡な顔立ちに、飾り気のない白いワンピース姿の若い女性……私は直感した。あれは彼女だ。あの日、花の名を教えてくれた彼女だ。清しい香りはしないけれど、それはあの絵に閉じ込めているからに違いない。

 彼女が私の視線に気付いた。


「あの、顔色が悪いですよ」(どんな気分?)

「ねえ、大丈夫ですか?」(あなたが地味だと馬鹿にした私が)

「何処か具合でも?」(こんなにも注目されてるのは)


 青ざめているだろう私に声を掛けながら、彼女が近付いて来る。やめて、来ないで。私をこれ以上惨めにしないで……私は己の作品を無我夢中で壁から外し、彼女を殴りつけた。額縁が割れ、あちこちから悲鳴が上がる。周囲の人々に取り押さえられるまで、何度も何度も彼女を打ち据えた。

 床に押さえつけられた私のすぐ目の前、うつ伏せで横たわる彼女はもうぴくりとも動かない。血を含んだ白いワンピースが広がる様は、まるで沈丁花のようで、慌てて目を逸らす。


 くすくす。

 ふふ、うふふふ。


 喧騒のなか、忍び笑いがはっきりと届く。恐る恐る再び彼女に目を遣ると、人垣の隙間から血塗れの顔がぐるんとこちらを向き、


「本当につまらないのは、私? あなた?」


 勝ち誇ったように微笑んだ。

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沈丁花 遠部右喬 @SnowChildA

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