次にキャベツと高野豆腐の卵とじを食べてみる。高野豆腐からだし汁がじんわりと溢れ出す。頬が落ちて心がほわほわ蕩けていく。思わず頬を押さえてついていることを確認した。


 翔くんは短く息を漏らして笑う。何が可笑しかったんだろうと不思議に思って首を傾げるけれど、翔くんは首を横に振る。口元が緩んだままの表情をじーっと見つめてみる。



「そんなに見ないでくださいよ」


「だって、なんで笑ったのか、気になるじゃん」


「なんでもないですよ」



 翔くんは口元を左手で隠す。そしてはぐらかすようにハンバーグを口に放る。話す気がないことは分かったから、私も食事に意識を戻す。


 美味しい食事に舌鼓を打っていると、翔くんが手を止めた。



「来月のライブ、当落出ましたよね? どうでした?」



 ライブ、というのは私たちの共通の推しのライブの話。私が高校生のときに全盛期を迎えたユニットで、七つ年下の翔くんも彼らの曲が好きらしい。



「当たってたよ。翔くんは?」


「落ちました。もう、ほんと、当たらなすぎです」



 翔くんは頬を膨らませる。これまで一度も当たったことがないと嘆いていたから、今回こそはと私も一緒に祈っていた。



「美穂さん、楽しんできてください」



 肩を落としている翔くん。私はニヤッと笑ってみせる。



「翔くん」


「はい?」



 翔くんは私の表情から話を推測しようとしているよう。顔色が変わることはないけれど、瞳がきょろきょろとあちらこちらに動く。じっくり顔を見られる人にしか分からない感情の機微。私はこの姿を見られただけで儲けものだと思った。



「チケット、二枚当たったの。一緒に行こう!」



 私がニコッと笑いかけると、翔くんはぽかんと口を開いたまま固まった。そして目をぱちぱちと瞬かせて、それから静かにガッツポーズした。



「良いんですか?」


「うん。いつものお礼だよ」


「お礼だなんて。お小遣いはもらっているんですから、気にしなくて良いんですよ」



 お小遣いというのは、材料費と光熱費の足しになるように手間賃も含めて渡しているお金のことだ。お給料のようなものだけど、雇用しているわけじゃなくて彼の好意に甘えているだけだから、お小遣いと呼んでいる。



「翔くんへの感謝はもっと表さないとだからねぇ」


「いつも感謝してくれてますよ?」


「じゃあ、手洗いを忘れる分の謝罪ということで」



 私が苦し紛れに言うと、翔くんはふっと息を漏らした。それから頷いてくれた。



「それじゃあ、有難くいただきますね」


「うん。一緒に楽しもうね」


「はい、楽しみです」



 翔くんは押入れにちらりと視線を送る。私は知っている。翔くんはあの中にライブ参戦グッズを溜め込んでいるということを。毎回ライブグッズだけコツコツと購入しては参戦できる日を楽しみにしていた。


 DVDを観ながらペンライトの振り方を練習したり、合いの手の練習をしたり。一緒に夕食を食べるようになってからは時々私も一緒に練習する。初めてのときはライブ参戦の先輩だから、と言って質問攻めにあったことも懐かしい。



「何着ていくかも悩みますね」


「Tシャツは通販するでしょ? ズボンは黒が定番かな」


「なるほど。認知を狙うなら、髪を染めてみましょうか」


「えっ」



 翔くんがあまりにも真剣な顔をするから、私はその後に続けようとした言葉を押し殺した。認知されたいがために染めることにも、認知されたいという気持ちにも驚いてしまった。


 私はあまりそういうことを考えないから。単純に音楽を楽しんで、空気を楽しんで。あー楽しかった、で満足してしまうタイプ。


 そういう楽しみ方があることは知っていた。けれど実際にそれをしようとわくわくして準備をするところを見るのは初めてだった。



「んー、私も髪染めようかなぁ」


「え、美穂さんもですか?」


「うん。なんか、やってみたくなった」



 私の言葉があまりに意外だったのか、翔くんは瞳をきょろきょろとあちらこちらに動かす。そして、おずおずと口を開いた。



「美穂さんって、やる気になること、あるんですね」


「いや、それは失礼すぎるから」



 全く心外だ。私だってやるときはやる。やらないときはやらないだけ。じゃなきゃ主任まで昇進できないでしょ。



「分かりました」


「何が?」


「美穂さんは仕事しかできないと思っていましたけど、好きなことしかできない、の間違いでしたね」


「失礼、と言いたいけど、間違ってないから、何も言えない、かも」



 ぐぬぬ、と押し黙る。確かに仕事は好き。バンドのことに関わることも好き。だからどんな労力だって惜しまない。


 翔くんは小さく口角を上げた。そして私から視線を逸らすと考えるように上を見て、また私を見る。口角を大きく上げている。



「美穂さん、家事は嫌いですもんね」


「ぐぬぬぅ」



 何も言い返せない。おかしい。私の方が年上なのに。物凄く子ども扱いされてる気がする。


 だけど、凄く心地良く感じるのは、なんでなんだろう。



「大丈夫ですよ。これからも、お隣さんである限りには俺がお世話しますから」


「ありがとう。頼もしい弟ができた気分だよ」


「厄介な姉ですね」



 翔くんは苦笑いして、私にデコピンした。全然痛くなかった。


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