猫と旅人の記録。

ニニ

クルーズ・ホテル

 ネオンが渦巻く街を通り抜けて、郊外にあるそこを目指して歩いていた。海の無い街にも関わらず波の音がして、船のように揺れるクルーズ・ホテル。なんと一部屋一匹猫がいて、コーヒーや紅茶、各種のスティック飲料は飲み放題で朝ご飯までついてくるらしい。旅人はやや浮足立って、青く光る看板の下の自動ドアをくぐった。

「こんばんは。今宵はクルーズ・ホテル玄関口、ボーダー港にお立ち寄りいただきありがとうございます。当ホテルの客室は、一般の客室と船室の二種類がございまして、船室には猫がおります。猫は船室の先住猫でございますので、立ち退かせる場合別途五百円の料金をいただいております。プラスして立ち退かせると船室として機能しなくなる場合がございますので、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。そのため同行されている方とよくご相談の上お決めになってくださいませ。予約をされていた場合は氏名と合い言葉をお願いします」

 襟が開いた長袖のシャツを着た青年がにこやかな笑顔で旅人を出迎えた。少々面食らった旅人は、コートの右ポケットに入っている小さな猫と目を合わせる。くにゃあ、と小さい声で鳴いて、細く目を細める猫を見て、旅人はほっと息をついた。

「先日予約していた者です。氏名はカルカマヒロ。合い言葉は『モーテルは残念なことにおよびじゃない』三泊、よろしくお願いします」

 ぼそりと告げられた言葉を聞くが早いが、一枚のバインダーを取り出した店員が素早く紙を指でなぞっていく。カルカの文字を見つけたのか、顔を上げた店員は満面の笑みでカウンター下のケースから鍵を取り出した。

「はい。確認が取れました。白耀丸の五号室になります。黒い靴下を履いた青目の白猫さんです、あちらにエレベーターがございますのでどうぞご利用ください。チェックアウトのお時間守りませんと、嵐がやってまいりますのでどうかお時間厳守でお願い申し上げます。それでは、波に揺られるよい旅を。」

 鍵を受け取ったカルカは、軽く会釈をしてから、小ぶりなトランクを携えてエレベーターに向かう。店員が礼をする気配を背中で感じて、だれもいないエレベーターに乗り込む。中に敷かれた青海波のカーペットは毛足が長く、ふかふかとした良い踏み心地をしていた。静かながらも存在感のある低い音を立てて、階を示すランプが点灯する。海洋に浮かぶ真っ白な太陽の絵柄で、ボーダー港を一階とするなら四階にあたるのだろう。降り立ったところからは真珠のような目に優しい白色のカーペットが敷かれていて、カルカは戸惑ったように自身の靴に目を向ける。恐る恐る踏み出し後ろを確認するも、不思議と足跡は一切ついていなかった。

 ぐらり、と廊下が、いや全体が傾いた。

「なるほど、だから階を言うときに船の名前を言ったんだ。面白いね、リオ」

 右ポケットから顔を出した猫が低く鳴いた。どうやら今のところお気に召さなかったようで、茶色の耳がイカ耳になっている。エレベーターから順に部屋番号が振られていて、想像した通り三番の次に五番があった。猫がいるので、念のためノックをして立ち入ることにする。

「お邪魔します。今日から三泊お世話になります、カルカマヒロと申します。こっちの子はリオと言います。猫の立入りオーケーと伺ってはいるんですが、この子大丈夫でしょうか……?」

 おずおずとドアを開いて尋ねると、気前良さげな高い鳴き声が返ってきた。ひとまず安堵して部屋に入り靴を脱ぐ。柔らかなクッションが置かれた椅子にトランクをかけて、ポケットに入り込んでいたリオを抱える。手のひらサイズから一気に大きくなって、リオはカルカの両手に収まりカルカは先程の声の主を見据える。少し高いところにある小さなティーテーブルの横に置かれた座椅子に、彼女らしき猫は座っていた。

「私はハク。白耀丸五号室に居ついている霊猫だよ。カルカさん、四日だけだけども仲よくしてくれると嬉しいね。そっちの……リオ君は化け猫になる途中かい?」

 子猫特有の、舌っ足らずで甘い声がくるくると響く。見かけはもう少しで成猫のようだが、この世の理を外れた猫としてはまだまだ未成熟のようだった。

「そうかいそうかい、よかったねえ、一緒に居られて。カルカさんとこれからも仲よくすんだよお」

 きゅう、と目を細めたハクはにこにこと機嫌よさげに尾をゆったりと振って見せた。大きく一旦伸びをした後、靴下を履いた黒い足を惜しげもなく晒して歩き、小さなキッチンにカルカを連れていく。

「やかんはこの一番大きな引き出しの下に入ってて、飲み物は右っかわにある小さい引き出しの中だよ。スプーンは隣、後付けされた戸棚のバスケットだ。他の調理器具、フライパンとか鍋とかその辺はやかんと一緒の所に入ってて、ヘラとかおたまとかは飲み物が入ってる引き出しの左。マグカップや他の食器は上の食器棚だよ。私たちは割り当てられた部屋から一時退去依頼が来ない限り出られないからね。何かわからないことが合ったら聞いてほしい」

 にっこりと笑ったハクが、小さな冷蔵庫の上に飛び乗った。カルカとちょうど視線が噛み合う位置に座り、くるくると喉を鳴らす。

「布団はそこの仕切りの向こうに敷かれてある。まあ、好きにすると良いさ」

くわあ、と大きなあくびをしてから、ハクはそこで丸まってしまった。どんな猫も変わらず気まぐれなものである。

「リオ、荷解きをするから、好きにしてくれて構わないよ。ただ、部屋からは出ないでくれ。あと部屋や調度品に爪を立てないで」

 そう言ってからカルカはリオを床に下ろした。フローリングの床はひんやりとしていたらしい。うなん、と胡乱気な鳴き声を上げた後、先ほどまでハクが座っていた座椅子に座ったリオは、ゆうらりゆらりとゆっくり揺れる、クルーズ船にいるような感覚をやや楽しみ始めているようだった。酔わないかを心配していたカルカとしてはありがたい限りである。

 荷解き、と言っても大したものは詰め込んでいないのですぐに終わる。二日分の衣類、虫よけや常備薬や絆創膏、保険証の類、財布にパスポートに充電機器。バスセットやらティッシュやハンカチ。小さめの鞄と筆記用具、ミニサイズのスケッチブックにノート。ざっくりこのくらいしか入れていない。そもそも長く住むわけでもないので荷解きと呼べるほどの作業ではないのである。精々トランクから肩掛け鞄を出して、財布と筆記用具とスケッチブックとハンカチと……まあ色々詰めなおすくらいのものだ。元より帰る場所を持たないカルカは旅に慣れている。作業が速いのは当たり前だろう。肩掛け鞄を身に着けたカルカは、静かにリオに問うた。

「リオ、終わったよ。しばらく君は波に乗っておくのかい?」

 ちゃぷちゃぷと音がしても可笑しくないほどリアルな揺れだが、もうすでにリオはとろとろと微睡んでいた。ここは温かいので無理も無いが、最初は怯えていたのにもうここまで馴染んでいることにカルカはわずかに苦笑する。クッションに頭が落ち切る前、顎の下を掻くと喉を鳴らしながら前足で押し返して拒否される。

「そっかあ、邪魔しちゃあ悪いね。すまない」

 そう言いながらカルカはスケッチブックを開いてさっきまでトランクが置いてあった椅子に腰かける。向きを調整してリオの方を向くと、さらさらと鉛筆を走らせ始めた。猫二匹と人間一人、長い旅の中で、また一つ新たな休息の形を得る。

波に揺られ、穏やかな船旅気分を味わえるクルーズ・ホテル。猫が一匹いて、飲み物は飲み放題朝食付き。是非あなたもいかがですか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫と旅人の記録。 ニニ @shirahahumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ