第11話 妖精とは

 怒涛に過ぎていく時間は、アリアにとって、もはや自分事ではなく、映画を見ているような感覚だった。他の誰かを気に掛ける余裕などない。倒れた双子や、ロリータ服を着た未知の女性がどうなったのか、考えることができたのはずっと後だ。

 警察の事情聴取を受けている間も「何も覚えていません」と繰り返すしかなく、何故あそこにいたのか、どうやって措置入院先から逃げ出したのかを聞かれても「わかりません」と答える以外、できることはなかった。

 アリアには、最初に骨折で入った市民病院から退院した記憶がない。だから、警察が語る「病院」のことも、措置入院先のことだとはわからなかった。

 話が噛み合わないことに気づいた刑事が経緯を説明したが、それでもアリアの疑問は消えない。首を傾げながら「何もわからない」「何も覚えていない」と語るその様子を、警察は心神耗弱によるせん妄と混乱だと結論づけた。

 こうして、アリアは措置入院先に戻ることになった。

 混乱していたのは確かだが、それは度重なる理解不能な事象に対してのものだ。精神医学的な錯乱とは明らかに異なる。現に、アリアは医師の診察に際しても、以前より遥かにハッキリとした言葉で答えることができた。

 長期の入院は必要なし。

 医師のその判断によって、アリアの措置入院期間は、三日間に決定した。

 その間の出来事である。

 アリアは、割り当てられた病室で、一人ベッドに腰掛けていた。はめ殺しの窓には格子がはまっており、まるで囚人のような気分になる。

 頭はぼんやりしているが、意識ははっきりとしている。最初は何も思い出せなかったが、何度も反芻しているうちに、記憶がひとつだけ蘇った。

 最初の病院を退院した後に受けた事情聴取。あそこで、刑事に何か言われたのだ。それからの記憶は本当に存在しない。

 何を言われた、と考え続けて、ようやく思い出した。

『お母さんがかわいそうですよ』

 そう言われたのだと自覚したアリアは、ぎゅっと膝の上で拳を握った。

 警察も、母親の味方をした。怒りが燃えそうになったが、火がつくより先に、燻って、煙だけが上がり、不快感だけが残る。

 あの刑事は、様子のおかしい人間を宥めようとしただけだ。選んだ言葉に深い意味はない。頭ではそうわかっている。だからこそ、怒りを感じる自分自身が、非常に性悪な人間に思えてならない。

 アリアは考える。

 もしも、母が誰かに娘の愚痴をこぼしたのなら、その誰かもまた、母を宥め、アリアを庇うような言葉を言ってくれただろうか、と。

 ふ、と自嘲の笑みがこぼれた。

 そんなわけがない、とわかるからだ。親が「子どもがわがままで大変だ」とこぼしても、ほとんどの大人は「そうでしょうね」と頷くだけだ。大人と子どもが対立した時、子どもの味方になってくれる大人などいないのだと、アリアは知っている。

 何故なら、アリア自身もそうだからだ。

 今まで、一度だって、本当の意味で息子の味方をしたことがあったかと考えれば、ない、と言うしかない。

 ご飯を作って、洗濯をして、家を掃除して、話し相手をして、時にはわがままを聞いて、しかしそれは全てアリア自身のためにしたことだ。

 やっていることは普通のことじゃないか、と言われても、でも違う、と返すしかない。

 それは、例えるなら「いい人だし優しくしてくれるんだけど、何だか腹が立つ」というタイプの在り方に近いのかもしれない。

 相手の為の優しさと、自分の為のへつらいは、全く違う行いなのだ。

 息子の為に奉仕していたのではない。自分の不安の為に戦っていただけだ。

 それに夢中になっていたせいで、小さな子どもを振り回し、傷つけてきたのだ。

 今のアリアにも、最初に刑事から見せられた動画の記憶はある。優しい人だと思っていた相手が、幼い息子を蹴飛ばした映像。悪いのは、あの老婆か、それとも彼女に繋いだ三森か、安易に他人を信じたアリアか。

 少なくとも、自分は悪くない、とは言えなかった。しかしそれすらも、一度として娘に謝罪しなかった自身の母への反発だと、あいつと自分は違うと思いたいだけかもしれないと考えれば、ため息しか出てこない。

 なんだか、疲れた。

 格子越しでも空が見たくて、窓を見上げた。曇り空を眺めていると、ふと、ある人物のことが浮かんだ。

 須藤善司。

 元彼の父親で、アリアはまともに顔を合わせたことはない。しかし、この数年間の生活は、どうやら彼のおかげだったのだ。感謝や、謝罪や、お金や、家のことや、息子の将来について、話さないといけないことは山ほどある。しかし、須藤善司はイングランドへ海外出張に行ったきり、連絡がつかなくなったと聞いた。

 イングランド。

 大家も、確かイングランドと日本のハーフだ、と言っていた気がする。その記憶を思い返して、そこでアリアは頭痛を覚えた。

 何かがつながりそうな気はする。しかし、その何かを考えることができない。

 頭痛が耐え難く、ベッドに横になった。ここでは寝てばかりいる。眠っている間は何も考えなくていいからだ。

 それではダメだと分かっていても、眠る以外にできることはない。

 アリアはため息をついて、ゆっくりまぶたを閉じた。

 


 長いとも短いとも言えない三日が経った今日、アリアはようやく家に帰ることができた。

「…………」

 玄関を開けた先にあるのは、昼間だというのに薄暗い家の風景だ。見慣れたはずの家、ずっと自宅として使っていた家。だが、今は他人のものだと知っている。

 大家に連絡しようか、と思って、話すことなどない、と靴を脱いだ。リビングのソファーに腰掛けた時、ふと松井智子の顔を思い出した。スマホを手に取り、通話アプリを起動する。そこに登録されている彼女の番号をしばし眺めて、結局アプリを閉じた。

 話せることはないが、とにかく誰かと話したい。

 そんな悲しみにも苛立ちにも似た感情が渦巻いている。この際、対面や電話でなくても構わない。メッセージのやり取りだけでもいい、と思った時、以前よく見ていた占いアカウントを思い出した。メッセージを送れば、必ず丁寧な返信をくれるインフルエンサーである。

 あのアカウントを毎日見ていた日々が、もうずいぶん遠く感じられた。

 いそいそとアプリを開くが、そこに表示された「体調不良につきしばらくおやすみします」という文言を見て、アリアはため息をつき、スマホをソファーの上へ力無く投げ出した。

 ——これからどうすればいいんだろう。

 息子の顔が浮かんだが、鬱々とした気持ちは消えない。

 こんな人間が、母親を名乗っていいのだろうか。会わせてくれ、返してくれと、声高に主張する権利が自分にあるとは、到底思えなかった。

 このままどこかへ養子に行った方が、息子にとっても幸せかもしれない。それは、今までに何度も頭をよぎった考えだ。

 それでも、心の奥底に残った感情が、それは嫌だと叫んでいる。ただのエゴだから我慢しなくては、という感情と、あの子の親は私なのだと叫ぶ衝動がぶつかり合って、心を揺さぶる。

 これでは、今までと同じだ。

 重たい体を無理やり起こし、スマホを握りしめる。

 一人で悩んでいても、同じところを回るだけ。誰かの力が必要だ。息子を取り戻す、あるいは手放す。どちらの選択も、今のアリアにはできそうにない。相談できる人はいないかと考えて、あの双子の顔が浮かんだ。

 SNSのアカウントはフォローしている。ダイレクトメッセージを送ることはできる。

 友人とも呼べない希薄な関係、しかも相手は芸能人だ。直接言葉を届けることは恐ろしい。普通に考えれば、無視される可能性の方が高い。

 そうなったなら、もうしょうがない。

 アリアは再びスマホを手に取った。



【考察】ロン・ティータについて【しようぜ】

 

[結局、ロン本人の霊は未だに出てきてないわけか?]

[強いて言うなら、ババアが子どもを蹴っ飛ばした動画で降りてきてたのがそれっぽい。蹴られる前に、子どもが爺さんみたいな声でしゃべってた]

[また曽祖父じゃなくて祖父でしたー、とかいうオチじゃね。最初の動画で出てきてたのはロンじゃなかったんだろ?]

[双子へのインタビュー記事ではそうあるな。提供された写真には、確かに例の動画に出てきた爺さんが写ってる]

[写真はカラーだったし、ちっさい頃の双子らしい子どもが写ってるから、明治時代の写真じゃないとは思う]

[そういや、それ、家族写真みたいけど、双子のお母さんっぽい人がいないんだよな。たぶん父親だろうって人は双子の後ろに立ってるけど、なんでだろ]

[仕事が忙しかったか、離婚してたか、はたまた死別かのどれかだろうな]

[そもそもロンの情報が少なすぎるんよ。誰か英語読める人いない? ロンの本読んでほしい。あわよくば日本語訳してほしい]

[明治の、しかもイギリスの本じゃなー。図書館にも流石に置いてないみたいだし]

[稀覯本としてでも出回ってないかなー。古書マニアいない?]

[他力本願]

[仮に出回ってても、明治の絶版本なら結構な値段になってるのでは]

[朗報。本好きだった亡き祖父の蔵書にロンの本を一冊発見。おらむせび泣いて感謝しろ]

[マジで?]

[本当にあったのかよ]

[うp! うp!]

[ロンの本っていくつかあるんだろ。どれ?]

[表紙とタイトルからして、火をテーマにした本っぽい。結構分厚いから、とりま序章部分だけ上げるわ。明治の本だから著作権云々は大丈夫だろうけど、覚悟しろよ。全文英語だぞ。ほら]

[うっ! 持病のABCアレルギーが!]

[英語万年赤点の俺にできることなどなかった]

[そも、百年近く前の英文だろ? 今のビジネス英語とかとも違うんじゃね]

[詰んだ?]

[それ何の役に立つのー? って大学生時代から散々言われてきた英古文専攻の出番がついに来た。翻訳したるから少し待て]

[サンクス]

[有能]

[ハイスペック民がいたか]

[タイトルくらいは読めるぞ! 夜のなんとかかんとかの火!]

[読めとらんだろ]

[The night until the fire goes out.翻訳サイトによると、火が消えるまでの夜、って意味らしい]

[訳文マダー?]

[あんな長文なんだからしゃーない]

[気長に待とうぜ]

[保守]

[おら翻訳終わったぞ。感謝しろ、感謝しろ、感謝しろ]

[はい、俺の投げキッス]

[いらん]

[即レス過ぎて草]




Ron・Tita著『The night until the fire goes out』序文訳


 火とは光である。夜を照らし、寒さから命を守るものである。

 人類の歴史はどこから始まったのか。確かな起点を決めることは難しい。人類の先祖たる原人と、ホモ・サピエンスの境界はどこにあったのか。私が思うに、それは火を灯した瞬間にある。

 松明の灯りをかかげ、夜を照らした時、人類の歴史は始まった。

 未来を照らす篝火は、しかし、世界を焼き尽くす業火でもある。この星の誕生以来、火山が噴き出す溶岩に、どれだけの命が飲み込まれたことだろう。松明や蝋燭が倒れただけでも、人の住む家など簡単に消滅するのだ。

 それでも、人は火の恵みがなければ生きていけない。

 火を恐れ、火を求める。その矛盾を解決するため、人類は火を支配せんとする道を選んだ。

 斯様な心持ちで、果たしてサラマンダーの加護を得られるものか。信仰を貫き、激情に惑わされず、善を成し悪を淘汰することができるのか。

 できない。できるわけがないのだ。もしも、可能だと思うのならば、それ自体が傲慢である。

 火とは裁きの力である。己こそ善である、正義である、絶対の存在であると驕る者を、サラマンダーは決して許すことはないだろう。



 ファミレスの席に座るアリアは、双子を待つ間、ドリングバーのお茶すら喉を通らなかった。

 店の奥、テーブル席の窓側に座り、外を見ては俯く、という動作を何度も繰り返している。

 早く会いたい。会うのが怖い。正反対の感情が同時に湧き上がることにも、だんだんと慣れてきた。

 こういう時は、大抵疲れている時だ。だから、本当は休んでいた方がいいのだろう、ということもわかっている。

 ——何で余計なことをするの。

 頭の中で、母親の声が響く。それはいつかの日に言われた言葉だ。あのいかにも面倒臭そうな、忌々しそうな声は、今もなお生々しい傷跡として残っている。

 怒りの激情より、ぐったりとした疲労感が強い。母と会わなくなって何年も経つのに、記憶だけは鮮明だ。

 日常の些細な出来事が悉く嫌な記憶を呼び起こす。生活するだけで、嫌な過去と向き合うことを強制される。

 ただ生きているだけで、途方もない苦痛を伴う人生。

 そうまでして、生きる意味は何だろうか。

 そんな思いが頭をよぎった時だった。

「渡貫さーん、ご無沙汰でーす」

「お待たせしてすいません。お時間、大丈夫ですか?」

 声の方に目を向ける。

 一人は黒い半袖のパーカーに白いズボン。金色のペンダントをつけている。

 もう一人は白い薄手のニットに黒いズボン。灰色のベストを着ている。

 あの双子が、よく似た顔で笑っていた。


「あの、えっと……先日は、本当にご迷惑をおかけしまして……」

「いいんですよそんなこと。それより、渡貫さんの方は大丈夫でした? 警察とか」

「は、はい。私、何もわからなかったので……」

「ああ……。渡貫さんも大変でしたね。色々」

「いろいろ……まあ、はい」

 占い師とのこと、息子の件、三森の行方、アリア自身が抱える心の問題。

 それぞれをまとめれば、確かに「いろいろ」と表現するしかない。ぐるぐると渦巻く気持ちと感情にめまいを覚えながら、アリアは曖昧に頷いた。

 たくさんの出来事が次々起きて、アリアは疲れ切っていた。

 とにかく誰かと話したい。とにかく、誰かに聞いてほしい。

 その欲求のまま、アリアは「あの」と口を開いた。

「私の話、聞いて……くれませんか? アドバイスとか、ほしいわけじゃなくて……とにかく、吐き出したくて」

 母は、こんな時、必ずアリアの話を途中で遮り「そんなことは気にしちゃダメ!」と怒鳴るように言って、無理矢理話を終わらせていた。その記憶は、今でもアリアの心に恐怖と不信感としてこびりついている。今にも否定の言葉が降ってくるのではないかと怯え、アリアの肩は知らず知らずのうちに震えていた。

 しかし、目の前の双子は、あくまで穏やかに笑っている。

「もちろん、いくらでも聞きますよ」

「好きなだけ、好きなように話してください」

 その言葉に情けないほど安心して、アリアはぽつぽつと今までのことを語った。

 幼い頃から、母との折り合いが悪かったこと。高校生の時、家を飛び出し、当時の彼氏の家に居候したこと。

 二十歳になるかならないかくらいの頃、子どもができて、間もなく彼氏が蒸発したこと。

 息子が生まれてからは、育てるのに必死で、仕事も続かず、自分の心がどんどん追い詰められていったこと。

 最近になって、家賃や光熱費を、今も元恋人の父である須藤善司が払っているらしいことがわかったこと。しかし彼と連絡が取れず、否応なしに家賃の負担がアリアにのしかかったこと。

 何も頼る術がない中で頼った相手が、三森と、あの占い師だったこと。

「……占いのお仕事を手伝うようになってからは、記憶があんまりなくて……はっきり思い出せるのは、柳木病院の時からなんです。それまでの間に何があったのか、私には全くわからなくて……」

「本当に大変な思いをされたんですね」

 いつ否定の言葉を向けられるかと怯えていたアリアは、無意識のうちに俯いていた。しかし、かけられた優しい声に、体から力が抜け、なんとか顔を上げることができた。

 双子の片方が「ところで」と言いながら、コーラの入ったコップをテーブルの上に置いた。

「水の音は、止みましたか?」

 突然の問い。意味がわからないはずのそれに、何故かアリアの心臓が跳ねた。耳の奥に残る、泡が弾けるような、水が流れるような、涼やかで冷ややかな音色。ただ、実際に聞こえているわけではないことも、理解できる。

幻聴——否、記憶の中の音だ。

 現実を覆い隠すように揺れる、美しい水面の光。

 鮮明に思い出せるほど、深く刻まれたもの。その残像。

 アリアは手のひらで耳を覆い、天井を見上げた。

「わた、し」

 揺蕩う水の底に沈んだもの。かき乱せば水が汚れてしまうからと、目を逸らしていたもの。

「私は……どうなっていたんでしょうか」

 もとより、アリアの精神は不安定だった。母親に対する鬱屈した感情と、育児の負担で疲れきっていた。頼れる大人が一人もいなかった中で現れた三森に、半ば依存してしまった。

 占い師に言われたことも、疑うことなどしなかった。信じたのではない。アリアは考えることを放棄していただけだった。

 ただ、それでも、どうしても納得できない、おかしなことがある。

 まだ骨折で入院していた時、やってきた児童相談所の職員に、アリアは「息子には会わない」と言ったのだ。

 どうしてそんなことを言ったのか、今のアリアには全く理解できない。もしも再び同じことを問われたのなら、間違いなく「会わせてください」と懇願する。

 あの時も、確かに同じ気持ちが湧き上がったのだ。しかし、それをかき消したのは。

 ——泡が弾けるような、水の音。

「……まるで、何かに取り憑かれていたみたいだって、そう思うんです」

 言ってから、これでは責任転嫁のようだ、と気づいた。恐る恐る視線を戻したアリアの目に映ったのは、ひどく難しそうな顔をしている双子だった。

 一人は眉を寄せ、何かを考え込んでいるような表情。

 一人は眦を下げ、安心したような、憐れむような顔。

「渡貫さん」

 双子が同時に声を上げた。

「少々、僕らの話を聞いてくれませんか」

「突拍子のない話です。現実とは思えない話です」

「こいつらは何を言っているんだろうと思うでしょうが、ひとまず最後まで聞いてくれると嬉しいです」

「聞いて、いただけますか?」

 アリアが戸惑いがちながらも頷けば、双子はとても嬉しそうに微笑んだ。

「妖精、という存在はご存知かと思います。ファンタジー作品や童話でよく出てくる、あれですね」

「小人だったり、動物のようだったり、作品によって姿はまちまちですがね。渡貫さんは、何か好きな妖精とかいますか?」

「妖精……ですか? 私は、漫画やゲームは許してもらえなかったので……あ、でも」

 小説だけは「文学だから」と辛うじて読むことを許されていた。小学六年生の時、図書室で読んだファンタジー小説を思い出す。

 それは、外国の作品を邦訳したもので、小学生たちが、妖精の国に迷い込み、エルフと出会って、みんなで協力して魔物を倒すというストーリーだった。

「……エルフは、知っています。耳のとんがった、寿命の長い妖精ですよね」

 小説の表紙には、美しく着飾ったエルフのキャラクターが描かれていたのだ。

 双子の片方が、にこやかに笑いながら自分自身の顔を指した。

「それ、僕らの親です」

「はい?」

 アリアが固まっていると、双子のもう片方が大きなため息をついた。

「怜、直球すぎるよ。こういうことは順序が大事なのに」

「回りくどいのは嫌いなんだよ。渡貫さん、そういうわけで、結論から言いましょう。妖精は実在します。僕らはエルフと人のハーフみたいなもので、あなたに取り憑いていたのはルサールカっぽい水の悪精……えーっと、悪い妖精です。あ、ちなみに、動物園で司くんが迷子になったのは木の妖精であるドライアドに呼ばれたからですね」

「……えっと……」

「渡貫さん、すいません。これからちゃんと順番に説明しますから。怜、要点かいつまむのはいいけどつまみすぎだよ」

「だって、静。話は早い方がいいじゃない」

「早過ぎて渡貫さんを置いてけぼりにしてるのに気づけって言ってるんだよ。あーっ、と、渡貫さん。まず、ですね……えーっと…………妖精って、本当にいると思いますか」

「それ、は……宗教とかの話でしょうか?」

 アリアとしては、精一杯真面目に返したつもりだったのだが、問いかけてきた双子の片方は頭を抱え、もう一人はけらけらと笑った。

「ほら。順番守ろうとするとそうなるんだよ。もともと非常識な話なんだから、常識的に説明するなんて無理なんだ」

「うーん……」

「渡貫さん、静はとりあえず置いておきましょう。ひとまず、妖精の実在についてですが、断言します。彼の者たちは実在する。さあ、どうします?」

「どうする、って」

「仲良くなれると思いますか? 妖精たちと」

「……童話みたいに?」

「ええ。おとぎ話のように、人と妖精が手に手をとって、友情を育み、共に過ごす。時には恋に落ちるかも。そんな話があったら素敵だと思いませんか?」

「思い、ますけど……でも」

 現実は、おとぎ話とは違う。

 辛い辛いと孤独に泣いている人間に、手を差し伸べてくれる誰かなどいない。アリアはそれをよく知っている。

「でも……ありえないでしょう?」

「そう。ありえません。何故なら、実際の妖精は、おとぎ話に出てくるような人間味に溢れた情など持ち合わせていませんから。剥き出しの感情と欲動で、その時の気分次第であっちに行ったりこっちに行ったり。昨日愛しいと撫でた子ウサギを、今日になって汚いからと踏み潰す。朝には“もういらない”と捨てた宝石を、夕方になって涙ながらに探し回ったりする。そんな理屈の通らない存在です」

「……子どもみたいですね」

「ええ。ただ、子どもなら親が叱ることも止めることもできますが、妖精たちはそうもいかない。彼らに叱ってくれる誰かはいないんです。彼女らを止めてくれる誰かはいないんです。だから、時には災厄を振り撒く存在となる」

「それで……退治、するんですよね。おとぎ話だと」

「そうですね。まあ、最近の流れだと、退治じゃなくて説得して改心、という展開もありえます。でも、それこそおとぎ話だ」

「現実は、うまくいかない?」

「いきません。だから、渡貫さんも苦しめられたんです」

 アリアは、胸がつまる感覚を覚え、膝の上で拳を握った。

「……さっき、ルサルカ、と仰いました?」

「はい。ルサールカです。ヴィーラ、と呼ぶ地域もありますね。もっとも、ここはスラヴ圏ではないので、ルサールカのようなもの、という表現をしたいところですがね」

「それは、何なんですか?」

「ルサールカ自体は、スラヴ神話に伝わる、水の妖精です。水死した女性の霊の成れの果てだ、という説もありますね」

「幽霊……ってことですか?」

「そこの区別は曖昧です。呼び方の問題だ、と言い切ってしまえばそれまででもあります。ただ、僕らは明確に違う、と主張したい」

「どうして、ですか?」

「幽霊には、朧げでも生前の記憶があります。多少は崩れることもあるが、おおむね形を保ち、知り合いが見れば“おや去年死んだ佐藤さんだ”くらいのことはわかる。でも、妖精になってしまえば、生前のものなどほとんど何も残らない。記憶も、形も、人間だった頃のものは捨てて、ルサールカとして再誕する。先のたとえで言うなら、亡き佐藤氏の人生続編が幽霊、ルサールカとしての新連載スタートが妖精、と思ってください」

「…………私は、それに、取り憑かれていた、と?」

「ええ、そうです」

「それは……今は違っていても、元は人間なんですよね? 人間の生まれ変わりみたいなものなんですよね」

「まあ、語弊はありますが、そんな感じです」

「じゃあ、私に取り憑いていたそいつの、前世は誰なんですか?」

 アリアは記憶の糸を辿る。所々に残る水の痕。湿った感覚。それに触れるたび、ほとばしる怒り。それが答えだと知りつつも、アリアは明確な形がほしかった。他者からの言葉という形だ。

 今まで頭を抱えていた方も顔を上げ、双子は声を揃えた。

「あなたのお母さんです」

 アリアは目を見開いて、膝の上でぎゅっと拳を握り、肩をわなわなと震わせる。そして、大きなため息をついた。

「——やっぱり、そうなんですね」

「信じてくれますか。この荒唐無稽な話を」

「母親が悪霊じみた存在になったという、耐え難い話を」

「はい」

 そう答えたアリアの声は、自身も驚くほどに凪いでいた。

「昔から、悪霊みたいな人間でしたから」

 するりと出た本音。思わず、といった様子で、双子が噴き出すように笑った。

「では、今度は僕らの母親の話をしましょう」

「……お二人の?」

「はい」

「先に言っておきますが、これはオフレコでお願いしますね」

 アリアが頷くと、双子は、一人は頬杖をつき、もう一人は両肘をテーブルにつけて、指を顔の前で組んだ。

「僕らの母親は死んでいます。自殺でした」

「家の近くの池に飛び込んだんです。僕らが五歳の時でした」

 突然の告白に、アリアは息を呑んだ。下手なことを言ってはいけない、と口をつぐむ。何が地雷となって、怒りを買うかわからないからだ。

 しかし、当の双子は、怒りなどとは無縁のような微笑みを浮かべていた。

「自殺の動機ですが、罪の意識に苛まれたようです」

「我が子を殺そうとした罪に、耐えられなかったんでしょう」

 アリアは何も言えない。双子の言葉が指し示すのは、あまりにも残酷な過去だ。アリアが抱いている苦悩が霞んでしまうほどの暗い闇だ。

 それでも、双子は微笑みを崩さない。

「僕の母は、僕を殺し損ねたから死んだんです」

 二つの声が、音程も音量も全く同じに重なった。

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