第10話(裏)

 双子が産声を上げたのは、イングランドにある祖父母の家だった。そこはいわゆる田舎であり、病院まで車で数時間、という世界だった。だから、双子を取り上げたのは祖母のアイナ・ティータだった。

 どちらがどちらか、家族でも顔立ちだけではわからず、最初の頃は衣服で区別するしかなかった。しかし、それも最初だけだ。双子は、生まれてから間も無く、それぞれの個性を見せ始めた。

 一人は元気だったが、もう一人は死にそうだった。

 一人はよく笑ったが、もう一人は常に泣いていた。

 親といえども、人間だ。元気でよく笑う子どもと、いつもぐったりして、ずっと機嫌の悪い子どもが並んでいれば、どうしても後者への比重が重くなる。医師から「異常はない」と太鼓判も押されていたとはいえ、やはりぐったりしていれば、親は心配するものだ。もう一人は元気なのだと思えば、余計に具合が悪そうな方を抱きかかえる時間が伸びていった。それは確かに愛情だが、同時に心と体を削る負担でもある。双子の母は、片方が笑うたび、もう片方も笑ってくれればと望んだ。片方がミルクを吐き出すたび、もう片方のようにたくさん飲んでほしいと願わずにはいられなかった。

 その願いは、紛れもなく愛だ。子を思う母の愛だ。しかし、叶わない時間が長引けば、愛が深いほど、色濃い闇がそこには生まれる。

 双子の母は、まるで我が子——その片方——に引きずられるように、どんどん具合を悪くしていった。

 ある時、母は、ぐったりとしている方の子を抱くのをやめた。代わりに、元気な方の相手をした。母に遊んでもらえたその子はとても喜び、はしゃぎ回った。母親の目に、それはどれほど愛らしく映ったことか。

 そして、母親は、双子の片方、元気な方に構うようになっていった。

 双子の両親は、陽気な人たちだった、というのが、二人の祖母の話だ。

 純イングランド人である祖父と、イングランドと日本のハーフである祖母。その二人の間に生まれた母は日本のクォーターであり、その彼女と夫婦になった父は純日本人だった。

 双子が現在使っている萩野姓は、父のものだ。

 当時、父の仕事の都合があり、家族はイングランドで暮らしていた。

 母の故郷であり、静かな田舎であるそこは、不安定になりやすい産後を過ごすには、適した環境だったと言える。

 しかし、一方でそれは、孤立しやすい場所、ということでもある。双子を育てるため、当時、母は仕事を休んでいた。家族以外と話さない生活が何ヶ月も続いた。その間も、双子の間に生まれた個性の差はどんどん大きくなる。

 活発な片方は、どんどん元気に愛らしく。

 鈍重な片方は、どんどん陰鬱に憎らしく。

 双子の母も、苦悩したことだろう。夫とも、自身の両親とも、何度も話し合っただろう。それでも双子の個性は変わらず、どうしても愛情の天秤が傾いてしまうことを止められない。

 それに苦悩したのだ、と、後に祖母が語った。

 西洋には、チェンジリング、という言い伝えがある。妖精の取り替え子、という伝説だ。

 育てにくい子どもは、実は妖精がこっそり入れ替えた人外の子である、と伝えられる。現在は、知恵遅れの子どもが生まれた時、こう呼んだのだ、との説もできた。

 伝説は伝説。ただの言い伝え。知識として知っていても、理性で理解していても、追い詰められた人間は、ただの藁にさえもすがるのだ。

 妖精が取り替えた子どもを、取り戻すおまじないがある。双子の母は、それを行った。まだ双子が物心つく前、二歳にもならない頃の話である。

 ただのおまじない、ただの気休め、ただの現実逃避。

 それだけで終わるはずだった。

 しかし、そのおまじないをした日を境に、よく泣く子だった双子の一人が、打って変わって明るくなったのだ。

 赤子であるから、ころべば泣く、空腹になれば泣く。しかし、それだけだ。今までのように、四六時中泣き続けることはなくなった。元から活発だった片割れとも、絡み合って遊ぶようになった。今までは、片割れが近づいてきただけでも泣き叫んでいたのに、だ。

 よかったな、と双子の父は安堵したという。祖父母もまた、子どもは日々折々変化成長していくものだと知っていたから、ただ喜んだそうだ。

 しかし、おまじないをした母だけは、そうではなかった。

 産みの母は、双子の片方を指して、叫ぶようにこう言った。

「The child is Elf's daughter.」

 その時、母が指していたのが、双子のどちらだったのか。

 それはもう、どうでもいい話だと、当の二人は笑うのだ。



 海に還った人魚のように、アリアの姿は泡となって消えた。

 それが「帰れた」ことだと正しく認識している双子は、一度だけ安堵の息をつき、すぐに視線を巡らせた。

 カエルはぴくりとも動かない。こちらを注視しているようにも見えるが、そもそも興味がないのかもしれない。

 アリアが吐き出した黒い泡の塊は、宿主を見失ったからか、広がっては集まりを繰り返している。耳をすませば、女性の金切り声のようなものも聞こえる気がする。だが、あえて双子は耳を閉じた。

「潰し合わせるか」

「無理だろう」

「片方が消えても片方残る」

「残ったのがどちらにせよ、僕らを狙ってくるだろう」

「じゃあ倒す?」

「倒せる?」

「無理だ」

「無理だね」

「じゃあ逃げる?」

「それも駄目だ」

「ルサールカは、また渡貫さんの方へ流れていく」

「ヴォジャノーイは、また次の棲家を探すだろう」

「あーあ」

 重なった二つの声は、落胆と気だるさに満ちている。

「巻き込みやがって」

「恨むぞジジイども」

「やってやるよ」

 ヴォジャノーイが、のそりと一歩踏み出した。

 巨大な蛙としか言いようのない姿。その双眸は、双子ではなく、いまだ水中を揺蕩っている黒い泡の塊へと向けられている。

 ぬう、と巨体が動いたかと思えば、大きな手が泡の一部を掴み取り、それを口へと運んでいく。黒い泡の塊はそれに抗議するかのように、ヴォジャノーイの周りを取り囲んだ。

 それを意にも介さず、黒い泡はどんどんと蛙の腹へと入っていく。双子はそれを黙って見ていた。

 黒い泡は減っていく。ヴォジャノーイの腹は膨らんでいく。鮮やかな緑色だったその体が、どんどんと薄汚れていくのが見てとれた。

 双子はすうと目を細めた。

 やがて、ヴォジャノーイは、黒い泡をすべて腹に収めた。そうしてようやく、その眼が双子へと向けられる。のそり、のそりと近づいてきた。両者の距離はそこまで開いてはいない。この世界で、現実の単位は役に立たないが、あえてそれを使うならばおよそ数メートルの距離だ。

 双子は一歩後ろに下がって、腕を上げた。右手は何かをつまむような形で顔の横に、左手は何かを掴むような形で体の前にまっすぐと突き出す。

 それは、弓矢の構えだ。しかし、ここには弓も矢もない。

 ヴォジャノーイがまた一歩踏み出した、その時。

 その巨体が止まった。両のまなこはそれぞれ左右反対を向き、次いでグルグルと回り出した。大きな口が開き、体は震え、いかにも苦しそうだ。

 ——出てくる。

 双子が確信した瞬間、ヴォジャノーイの体は弾けた。同時に、双子の右手から、視えない矢が放たれた。

 その矢が、蛙の腹を破って現れた真っ黒な女の頭を捉えた。

 仕留めたか?

 双子は鋭い瞳で、射抜いた女を凝視する。

 全身を墨で塗りつぶしたような真っ黒な女は、頭を抱え、よろよろとその場でふらついている。足元には、ヴォジャノーイだったものが転がっていた。もう、空気の抜けた風船のように、ペラペラになっている。

 真っ黒な女の頭には、真っ白な細長いものが突き刺さっていた。

 双子が放った矢である。

 あれを射てるのは一度だけ。二射目は命を削る。三度も放てば死ぬかもしれない。それが、境界に在る双子の限界だ。

 還ってくれるか、と期待した側から、憎しみのこもった視線を感じ、無理かと悟った。

「……ィ、ヒ……dォ……ィ」

 逃げる算段を立てていると、真っ黒な女が何某か呟いていることに気づいた。

 それは悲痛な泣き声のようでいて、聞くに堪えない金切り声のようでもある。

 時間を稼ぐか、と、双子は一歩下がって口を開いた。

「あなたの望みはなんですか?」

 黒い女は答えない。

「あなた、アリアさんのお母さんでしょう? なんでこんなことをするんです」

 黒い女は動かない。

「あなた、ヴォジャノーイを内側から食ったじゃないですか。もう満腹でしょう。眠りませんか」

 黒い女が、首から上だけを動かして、双子を見た。

 真っ黒な顔の中に、真っ白な瞳だけが浮かび上がっている。

「アリアさんを殺したいんですか?」

 黒い女の体が、ふらふらと揺れている。

「それとも、飼い殺したかったんですか?」

 黒い女は、何かを探すように、辺りを見回している。

「もしかして、それすらも考えていなかった?」

 黒い女が歩き出そうとして、しかし膝から崩れ落ちた。

「ただ、ただ、安心できる寝床がほしかった?」

 黒い女は這いずるようにして、それでも双子の方へ向かってくる。

「この世界、元はあなたの世界でしょう。あなたが作ったものでしょう。大した力だ、大した執着だ、大したエゴだ」

 黒い女の指先が、双子の足元に届こうとしている。

「でも、何もないですよね」

 黒い女が、動きを止めた。

「ここはまっさらな水の中。自分を傷つけるものがない代わりに、楽しませてくれるものものない。危険がない代わりに娯楽もない。義務がない代わりに成長もない。いいえ、あなた自身にそんなつもりはなかったんでしょうよ。だけれどね」

 黒い女が掴みそうだった片足が、すうと上がった。

「——不愉快だ」

 真っ黒な指先が、二つの重なった足に踏み潰された。

 黒板を削った時のような音が耳をつんざく。同時に水の世界が揺れ、あちこちに渦が生じ始めた。

 この世界の主が、ここを放棄しようとしている。

 潮時だ、と双子は思った。仕留めることはできなかったが、弱らせることはできた。あとは対処療法で臨機応変にやるしかない。アリアを救えるかはわからないが、最後は彼女自身に踏ん張ってもらうしかないのだ。

 こちらは、あくまで部外者なのだから。そう割り切り、地に伏せた黒い女を一瞥して、双子は踵を返した。

 この世界では、双子である二人の境界はより曖昧になる。魂だけの世界、体がなくなれば、双子はより一人に近づく。しかし、決して一つにはならない。どれだけ似ていても、どれだけ境が曖昧になっても、やはり双子は二人いるからだ。二つの姿が重なっているのは、完全に一つにはなれないが故の揺らぎなのだ。

 だから、あまりに長く止まれば、どちらがどちらなのか、自分達にさえわからなくなる。

 今回は長居をした上、矢まで使った。そろそろ戻らなければ、と、目を閉じようとした時だった。

「…………は?」

 目の前に、緑のTシャツを着た、小さな子どもが立っていた。

「つかさ、くん?」

 名前を呼ばれた幼い少年は、その大きな瞳で、重なり合う双子の姿を見上げた。

「The work is not done yet.」

幼い少年の口から、しわがれた老人の声が流れ出る。

動けないでいる双子は、足首を掴まれる感覚で我に帰った。

見下ろすと、黒い女がそこにいる。

「ゆ、ル し テ」

 悲痛な、しかしエゴに満ちた声が耳に届く。

 ——ああ、ちくしょう。

 双子は二射目の構えをとった。



 水は流れ、海に至り、蒸気となって空へ昇り、雨となって地上へ還る。川も、海も、空の雲も、雨の雫も、すべて繋がっている。

 昨日の雨粒は、その昔は川を流れていたかもしれない。

 今日波立った海の水は、未来には雨となって山を潤しているかもしれない。

 誰が計画した訳でもない、自然とそうあるように帰結した、循環の円。

 決して途切れることのない繋がり。それによって世界を巡り、種々の命を潤し、その生の糧となるもの。

 一方で、水の恵みは時に、土地を飲み込む災厄にもなりうる。洪水や津波による被害は、毎年世界のどこかで必ず起きる。

 水はなくてはならないものだ。水は恐ろしいものだ。人は、水がなければ生きてはいけず、ひとたび牙を剥かれれば、敵う生物などいない。人間程度にできるのは、ただひたすらに逃げることのみ。真の恐怖とはそういうものだ。

 どれだけ境界に近づこうとも、その上に立とうとも、人は人。その限界など知れている。

 水底に伏せて、うめき声と共に蠢いている黒い影。

 それを見下ろす双子。その息は乱れ、両肩は上下に大きく揺れている。

 ここが、その限界だ。

 黒い影が迫ってこないことを確認して、双子は後ろを振り向いた。

 先程そこにいた子どもは、もういない。子ども——司と、その中にいるであろう曽祖父のロン。二人とも、そもそもここに来れるような力は持っていない。相当無理をして割り込んできたに違いないのだ。

 そうまでして、伝えてきた言葉は。

『The work is not done yet.』

 ——仕事は終わっていない。

 あの黒い影を倒せとでも言うのかよと、双子は密かに歯噛みした。

 矢を二回受けても、まだあの影は動いている。今で、既に限界だ。すぐにでもここを立ち去って休まなければいけない。このまま三度目を射てば、その先にあるのは死の淵だ。

 飛び込む気は、ない。

 一歩、二歩と後ずさる。黒い影は蠢いたまま、追ってくる気配はない。

 双子は、さあ戻ろうと目を閉じて、また開く。

 舌打ちが鳴った。

「戻れないな」

「戻れないね」

「どうしてだ」

「爺さんの言ってた仕事のせいか?」

「仕事ってなんだよ」

「知らないよ」

「言うならそこまで言ってから消えろよクソジジイ」

「ルサールカもどきを倒し切れと?」

「そもそも、ロン爺さんは現状をどこまで理解している」

「ルサールカの正体を知っていたのか?」

「あれは元々アリアさんの中にいた」

「爺さんが司くんに入った時、あの親子は別々の場所にいた」

「ロン爺さんがルサールカに気づくチャンスはなかった?」

「ならこの状況は爺さんにとっても想定外か」

「仕事ってなんだ」

「ルサールカとは無関係?」

「でも爺さんはここに現れた」

「————」

 そういうことか、と双子は忌々しげに、蠢く黒い影を睨め付けた。

 影の輪郭は崩れ、頭が二つあるようにも見える。

 否。

 こちらが、正しい姿だ。

 双子が、この世界では二つで一つになるように、あのルサールカもまた、異なる個が混ざり合った存在としてここに在る。

 アリアの母と、もう一人。

「かあさん」

 双子が呼べば、黒い影の動きが止まった。

 それを見て、確信を得る。曽祖父が出張ってくるわけだ、と納得し、ため息が出た。

「まーだ彷徨ってたのかよ」

「十年前も五年前も、きっちり送ってやったのに」

「どうして戻ってくるのかなぁ」

「もういいって何度も言ってるだろうに」

 黒い影は蠢きながら、腕と思しき細長いものを双子の方へ伸ばしてくる。そのうめき声は、耳を済ませば何かを言っているようにも聞こえた。

 それは音ではあれど、言葉として成立していない。辿々しい外国語の発音を聞いているようだった。

 双子はまた一歩後ろに下がり、問いかけた。

「あなたは命を何だと思う?」

 黒い影は答えなかった。

「尊いもの、唯一のもの、大切なもの、失ってはいけないもの、守らなくてはいけないもの。まあ色々な表現があるけれども、僕らの意見はちょっと違うんだよね」

「たとえば、道端でネコが死んでいたとする。動物好きの人は大いに悲しい気持ちになるだろうね。でも、動物嫌いの人が見ても、同じ気持ちには中々ならない」

「虫嫌いの人が羽虫だろうが蝉だろうがカブト虫だろうがいっしょくたに追い払おうとする一方で、虫が好きな人は“かわいそうだ”と言うだろうね」

「おかしくないかい。命が普遍的な何かなら、どうしてこんなに意見がバラバラになるのだろうか」

「しかも、大事だ、大事じゃないと判断する時、人は自分に疑問を持たない。当たり前のように、虫嫌いは虫を殺すし、動物好きは動物を可愛がる」

「気持ち悪いと羽虫を潰した指先で、ペットを優しく撫でることを、矛盾と呼ばずに何と言う」

「でもね、この矛盾を説明できるものを、人間は皆もっているんだ」

「感情だよ」

「命、って言葉が示すものは、物質とか、概念とか、そういう普遍的なもの、説明できるものじゃあない」

「命とは“大事にしたい”という感情の名前にすぎないんだ」

「つまり、逆なんだよ」

「命だから大事なんじゃない。大事だから命になるんだ」

「だったら、大事だと思わなければいいじゃないか」

「大事に思うことで苦しいのなら、その感情を捨てればいい」

「その方がこっちもありがたい」

「いい加減、解放されてくれないかな」

「こっちはとっくに割り切ってるんだ」

「何度も何度も蒸し返しやがって」

「殺されかけたことくらい、僕らはもうどうだっていいんだよ」

 泡が弾ける音がする。黒い影が、水底の中に溶けていく。

 双子の耳に、老人の声が届いた。

 ——Take her home.

「連れて帰れ、って?」

 双子は思わず笑った。

「やなこった」

 世界にヒビが入る。足元が揺らぐ。視界が霞む。

 本当に、もう限界だ。

 なおもこちらに伸びてくる黒い影を振り払って、双子はその世界から脱した。



 ドン、と、重いものが落ちる音がした。体に響いた衝撃や、皮膚越しに伝わってくる感触から“戻ってきた”と怜は正しく認識した。

 内側から殴られるような痛みが走り、頭を抑える。ズキズキという痛みすら、現実の証と思えば、ありがたく感じた。

 周りから誰かの声がするが、くぐもったようにしか聞こえない。目もチカチカとしていて、視界もはっきりしなかった。

「いったぁ……」

 靄がかった意識の中で、ひとつだけ明瞭に響いた声。片割れのものだ、と気づき、名を呼ぼうとした瞬間、ひゅっと喉の奥を冷たいものが横切った。

 片割れの名前は、どちらだったか。

「……怜、大丈夫?」

 片割れからの問いかけに、怜は靄が一挙に晴れていくのを感じた。

「——大丈夫。静、は?」

「……平気」

 視界が徐々に輪郭を取り戻し、聴力も戻ってきた。病室にいる、ということを再確認し、今までの経緯を記憶の糸を辿って確かめる。

 この病室に入ってきたところから、老婆との会話まで、しっかりと覚えていることを自覚して、怜はようやく息をつけた。

 立ちあがろうとした時、ぐいと顔を覗き込まれた。

「大丈夫ですかぁー? すいませぇん、こんなことになるって思ってなくてぇ」

「え、あ……星野、さん?」

「はーい! 萩野さんたち、ずーっと立ったまま気絶してたんですよぅ。病院の人も誰もいないし、どうしようかと困ってたんですけどぉ……意識が戻ったようで、何よりですぅ!」

「ああ……はい。あの、もう病院の人、帰ってきてると思いますよ」

 そう告げれば、星野はアイラインのくっきりした目をパチパチとさせた。

「本当ですかぁ!? やったぁ! 見てきまーす!」

 止める間もなく、星野は病室の扉に手をかける。思い切り開けようとしたのだろうが、その動きは中途半端な体勢で止まった。

「……あれぇ?」

「どうしました?」

「鍵、かかってます」

 星野がそう告げたと同時に、渇いた音が響いた。振り向けば、ベッドの向こうにある窓ガラスが割れている。破片は部屋の内側に落ちていた。

 ベッドには老婆が腰掛けている。その手前、老婆を隠すようにして立っている人物がいた。

「——渡貫さん?」

 怜が呼び掛けると、アリアがゆっくりと振り向いた。

 その表情はどこか虚ろで、しかし目は真っ直ぐと怜を捉えている。頬にうっすら残る跡は、涙のそれのように見えた。

「わ、たし」

 アリアが何か言おうとした瞬間、再びガラスの割れる音がした。

 窓の向こうは暗い。とうに日は落ちていて、町の灯りも月の明かりも届いていなかった。

 バチバチ、と、電気が走り、病室内の光が消える。星野の「きゃっ」という悲鳴がした。

 人工の灯りも、自然の明かりも何もない、真っ暗な闇が訪れた。

 その闇の中に、居る。

 輪郭は夜の中に溶けていて、それでも風になびく長い髪が確かに存在を主張している。腐った水のにおいが鼻を撫で、怜は息を止めたまま立ち上がった。その隣では、静も窓の向こうを睨みつけている。

唖々。

 カラスの鳴き声のような音がして、それが人の声だと気づいた時には、老婆がベッドの上に立ち上がっていた。

 人にとってはただの闇でも、怜は多少なりとも夜目が効く。それは静も同じだ。

 双子の二対の瞳が捉えたのは、ベッドの上に立ち、窓の外へ向かって手を伸ばす老婆の姿だった。

 窓の向こうには、依然として黒い影が佇んでいる。

 何か言おうとした片割れを、怜は無言で押しとどめた。止めることは無意味だからだ。

 あの老婆は、とっくに境界を渡っていた。それが露わになるだけのこと。

 静もそれは分かっているのだろう、いつものように小言を言うこともなく、半歩下がった。

「れでぃーばーど、れでぃーばーど、ふらいあうぇいほーむ……」

 誰かが口ずさむマザーグース。怜は、老婆が歌っているのかと思った。しかし、それにしては声が若い。

 歌の主は、アリアだ。

 そう気づいた瞬間、鈍い音が鳴り、老婆の影がぐらりと揺れた。

「あんたのせいだ」

 アリアの冷たい声が闇に染み入る。突き飛ばされたらしい老婆は、そのまま窓の向こうへと消えていった。

「きゃー大変!」

 場違いなほど明るい声で、星野がバタバタと窓へ駆け寄る。しかし双子は動かない。その瞳には、夜に浮かぶルサールカが映っている。いくつもの存在が混ざった異形。その中身は、三森千秋と、渡貫まこと。そして。

 ——ミナーラ・ティータ。

 双子の母。

 三つの存在が混ざったルサールカが、霧のように消えていく様を、双子の瞳は見送った。

「……まだ満足しないのか」

「勝手だねぇ。本当に」

 双子がそう呟いた瞬間、バチっ、と、病室の明かりが戻った。

 廊下の方から、いくつもの足音がする。病院の人間か、あるいは警察が向かってきているのだろう。

 どう説明したものか。

 そう首を捻っていると、湿った空気のにおいを感じた。耳を傾ければ、ざあざあという音もする。

 雨が降ってきた。

 大きなため息をついた後、双子は同時に床へ崩れ落ちた。

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