第8話(裏)


「眠い」

「がんばれ」

「静、ここは頼んだ。眠るのは僕に任せて」

「待ちなさいよ」

 ソファーから立ちあがろうとした怜は、手首を掴まれ、しぶしぶ座り直した。

 あくびを噛み殺して、膝の上に広げた本に再び目を落とす。紙は黄ばんでおり、もとは淡い緑色だったのだろう装丁も薄汚れ、あちこちが禿げている。綴られている文字はアルファベットだ。

 ロン・ティータの著書である。

 発行された彼の著書は四冊。そのうちの二冊は双子それぞれの手の中にあり、もう二冊はソファー前のローテーブルの上に積まれている。

 四冊の本は、それぞれ四大元素の地水火風がテーマだ。絶筆となった五冊目の原稿は「空」がテーマだと聞いているが、そちらは双子も読んだことがない。今、怜が読んでいるのが「地」、静が読んでいるのが「水」をテーマにしたものだ。

「ねー。何か手がかりになりそうなことある?」

「どうだろうね。こっちは水の恵みとそれを食いつくそうとする人間の傲慢への嘆きを綴ったって感じだけれども。そっちは?」

「おんなじようなもんだよ。大地から取れる植物、人もまた大地から生まれたものなのに、開発で土を痛めるのはけしからんって感じ。まー、もうわかりにくいわかりにくい。比喩が多過ぎるんだよ。子どもの頃の僕らが挫折したのも納得だ」

「あー。読みたいって言ったら、ばあちゃんから難しい本だよって言われて、むしろ気になっちゃったあの時ね」

「そうそう。あれ以来しばらく童話の本も読めなかったんだから。ロン爺さんもひどいものだよ」

「それに関しては冤罪だと思うなー」

 けらけらとひとしきり笑い合って、双子は再びロンの本を読み始めた。

 曽祖父といえども、とうの昔に鬼籍に入った人間だ。双子も、噂を聞く機会はあったが、自ら興味を持つことはなかった。

 だが、今回はあの占い師の件がある。老婆と呼べる年齢の彼女なら、生前のロンと面識があってもおかしくはないと最初は思った。しかし、考えてみれば、ロンが日本と英国を行き来していたのは明治時代なのだ。ロンの息子であるフェイも亡くなり、生き証人と呼べるのは、フェイより十歳若い祖母のアイナのみ。その彼女でさえ、すでにこの国で言うところの米寿を迎えている。

 ロンとは、それほど昔の人間なのだ。現在生きている人間が面識を持っているとは考えにくい。

 しかし、本なら別だ。

 数十年前どころか、数百年、ともすれば千年前の人間の言葉にさえ触れることができるのが、本というものである。この紙の束の中では、空間も時代も容易に飛び越えることができる。

 あの占い師は、ロンの著書を読み、そこで感銘を受けて心酔した。そうあたりをつけた双子が次に思ったのは「なぜ」だった。

 ロンは確かに哲学者でもあったが、その功績などないに等しい。もっと高名で、かつ人間の精神性や人類の存在意義、あるいは社会の目指すべきところを提示した哲学者はいくらでもいる。

 双子は、人間に人の意見を計ることはできない、という考えだ。だから「この人はすばらしい」と思ったとしても、大半の場合、それは単に功績を見て「これだけすごいことができるのだから、正しい人に違いない」と推量しているだけに過ぎない、と思っている。仮に功績がない人間に対して、意見自体をすばらしいと感じたのだとすれば、それは、相手の言葉が、当人の価値観や思考と似ていたというだけの話だ。ほとんどの場合、人は、合理的な意見ではなく、共感できる感情論をこそ信じるのだと——双子は考えている。

 だから、あの占い師も、ロンの本に綴られた何かに共感したに違いないと考えた。それはどの部分なのか、今の段階では確証を得ることはできないが、とにかく曽祖父の著書を読み返そうという話になったのである。

「……ダメ。眠い。頭痛い。いま何時? もう二時? 丑三つ時じゃん嘘だろ寝ようよ」

「丑三つ時は日本の俗信だろ。ロン爺さんには関係ないと思うよ」

「僕らが今いるのはその日本だよ。あと夜の二時が夜中なのは世界共通だよ。静は眠くないの?」

「超眠い」

「寝ようよ」

「うーん……」

 静はいかにも眠そうな目をこすり、しかし紙上から目を話そうとしない。怜はそんな片割れの肩をぽんと叩いた。

「下手の考え休むに似たり、だよ。睡眠は、生き物が編み出した最高の能力のひとつだ。活用しないのは、生命の進化への冒涜じゃあないかな」

「寝たいってだけの話をそこまで壮大に語れるのもすごいと思うけどね。僕だって寝たくないわけじゃない。どうしても考えがまとまんなくて、このままベッドに行っても寝れる気がしないんだよ」

「眠くてぼうっとしてるからじゃない? ちなみに、何が気になるの」

「この本に、ルサールカが出てくるんだよ」

「スラヴ圏の水の妖精の、あの?」

「そう、そのルサールカ。ロン爺さん、別にスラヴの血が入ってるわけじゃないだろ? イングランド……というかヨーロッパで水の妖精って言ったら、ケルピーとかニンフとかヴィヴィアンとかウンディーネあたりが有名だと思うんだけど……なんでスラヴの妖精が出てくるのかなあって。そっちはどうだった?」

「あーっと、ちょっと待って。……レーシーが出てくるね。家を守る妖精のブラウニーに関する記述の方が多いから見過ごしてたけど、確かに変だな。レーシーもスラヴ神話にある森の精霊だ」

「ブラウニーなら、間違いなくイングランドのものなんだけどね。変だろ?」

「変だね」

「ロン爺さん、もしかして、スラヴ圏と何か縁があったのかな。幼少期をそっちで過ごしてた、とか」

「そうだとすると、だいぶ過酷な子ども時代だったんじゃないかな。明治の大人の小さい頃、だから……日本で言うところの、江戸時代くらい? 西暦だと千八百年代の終わりくらいじゃないかな」

「じゃあ十九世紀末か。南北戦争があったりパリ万国があったり、いろいろ騒がしかった時代だね。ロシアだとクリミア戦争の末期に少しかかってるくらいかな」

「まあ、だからなんだって話だけど。流石にあの占い師とは関係ないだろ」

「そうだろうけど……なんだかなぁ。気になるんだよね」

「とにかく、一度寝ようってば。明日も仕事あるんだから」

「……そうするかぁ」

 片割れがあくびまじりにそう言ったことで、怜はようやくソファーから立ち上がることができた。

 双子は曽祖父の著書をローテーブルに置き、明かりの落ちた寝室へと向かう。

「……いっそ、本当にロン爺さん呼んでみようかなぁ」

 それがどちらの呟きかは、もう瞼の重かった二人は気にしなかった。



 その日の仕事は、とあるバラエティ番組のコーナーの収録だった。コーナー名が「全国心霊スポット」であることからもわかる通り、イロモノ系の番組である。放送時間は深夜だが、コアな視聴者がいるらしく、それなりに続いているコーナーだ。

 双子が呼ばれたのは、ロンという心霊系の話題で名前が上がったことが大きい。いかにもな廃校を前に、その歴史と心霊スポットとしての噂を紹介し、あとは中を多少散策すれば終わる簡単な仕事である。

「……うっわぁ」

「怜、本音出てる」

「出るだろこれは」

 廃校を前に、双子はこっそりとそんな話をした。使われなくなってから二十年以上経つというその校舎は、玄関は鍵の意味をなくし、窓は割れ、外壁のアイボリー塗装はボロボロに剥げてコンクリートがあちこち剥き出しになっている。

 ガラス扉を失った玄関と、その向こうは、昼間だというのに真っ暗だ。その暗闇を眺めながら、怜は思わず苦笑した。

「中、入らないとダメなの? あれ」

「仕事だからね」

「ロン爺さんと関係ないのに」

「仕事だからね」

「……悪趣味だなぁ」

「仕事だからね」

「静、適当に返事してるだろ」

「仕事じゃないからね。怜との会話は」

「このヤロウ」

 監督に呼ばれて、廃校舎を眺めていた双子は重たい足取りでカメラの方へ向かった。


「この学校が子どもたちで賑わっていたのは、もう二十二年も前になります」

「廃校になった理由は、表向きは地域の少子化と言われていますが、実は校内で事故死した教師の祟りのため、人が寄り付けなくなった、という噂が地元ではまことしやかに囁かれています」

 台本にあったセリフを並べながら、双子はカメラを意識しつつ、廃校の玄関を示す。

 引き戸は壊れ、ガラスは割れ、靴箱は倒れている。そんな光景の向こう、昼間だということを忘れるほどの深い闇の中に、うっすらと輪郭が浮かび上がっている。天井からぶらさがる、人のような何か。

 それを、カメラは捉えていない。捉えているのは——。

 双子は、密かにため息をついた。

「では、中の様子を見てみましょう」

 帰りたい。そう思ったのは、怜だけではなかった。



 ひどく神経を使う仕事だった、というのが怜の感想だ。無事、何事もなく収録が終わったことに心底安堵する。

 これで一段落、と、町の裏通りをぶらつきながら怜が伸びをしていると、静のスマホが鳴った。着信を知らせるメロディに、双子はその画面を覗き込む。

 そこには「星野(不思議さん)」と表示されていた。以前取材を受けた『スピリチュアル☆アナリズム』というネット媒体の記者である。

 双子をして、強烈なキャラクターと言わざるを得ない人物だ。

「静、こんな登録の仕方してたの?」

「我慢できなかったんだよ」

 外部との連絡は、主に静が担当している。だから、双子が持っている名刺に載っている番号も静のものだ。そういえば取材の時に交換していたな、と、電話に出る片割れを見ながら、怜はその光景を思い出した。

「はい。萩野です。はい、ご無沙汰しております。……ああ、以前の取材の記事が公開された。それはご丁寧にありがとうございます。……ええ、ぜひ拝読させていただきます」

 若干棒読みになっている静の言葉と、その手に持っているスマホから微かにもれてくる星野の声。またあの取材の時のようなテンションなのだろうと怜は苦笑していた。

「……はい、はい。え? 新企画?」

 だが、ただの報告電話ではなかったようだ。

「対談? ネットで生配信……あの、恐れ入ります。誰とでしょうか。ああ、そちらの顧問だという占い師……しかし急に言われましても……ん? トレンド? すいません。もう少し落ち着いて話していただけませんか」

 スマホから漏れる向こう側の声はハッキリとは聞こえない。怜には何の話なのかわからなかった。静は神妙な表情で何度か頷き、「ではお願いします」と言って電話を終えた。

「……ねえ、何の話だった?」

「大収穫」

「え?」

「星野さんとこ、顧問の占い師がいるって話だっただろ」

「あ、あー。あの心理テストっぽいのを考えたっていう人?」

「そう。それ、トリニタスだって」

「は?」

「だから、ロン爺さんを掘り起こして、司くん蹴っ飛ばしたあのババア。伝手があるからって、その人との対談企画してくれるってさ。どうする?」

 問われた怜は、何度かまばたきして、思わず声を上げて笑った。

「行くっきゃないじゃん。当たり前だろ」

「じゃ、決まりだね。マネージャーに伝えるよ」

「うん。よろしくー」

 再び電話を始めた片割れの横で、怜は空を見上げた。

 吹き抜けていく風の中を、小さな羽の主たちがくすくす笑いながら通り過ぎていく。それを視て、怜はうっすらと目を細め、微笑んだ。

 ただ、和んでばかりもいられない。まだ問題は残っているのだ。

 隣から、片割れと、マネージャーの会話が聞こえてきた。

『対談……ですか。話は承知しました。大変キャッチーで、面白い企画だと思います。が……病院と、警察の許可については、どうでしょうかね……? 先方はそれについては?』

「伝手がある、とは仰っていました。詳細は追って連絡してくださるそうなので、詳しいことがわかったらまた連絡します」

『はい、お願いします』

 マネージャーとの電話を終えた静と、傍に立っていた怜は目を見合わせた。

対談企画、とは言っても、事を運ぶのは簡単ではない。相手は入院中の病人、そして逮捕寸前の容疑者だ。その容疑者への取材、ましてネットへ生配信など、通常許可されることはありえない。

 そこをクリアできる伝手とは、一体何なのか。双子にもわからなかった。

 病院関係者か警察関係者、またはその両方に強い影響力を持つ縁者がいる。予想できるのはそれくらいだ。だが、そのような権力者と、取材の際に見聞きした星野の印象はどうにも結びつかない。もちろん、人は見かけによらない、ということは双子も重々承知しているが、どうにも「解せない」という感想が消えなかった。

「……とりあえず、星野さんからの連絡待ちだね」

「だね。その間どうする? 腹ごしらえでもする?」

「じゃあ、どっか適当な店入ろうか」

「あ、あの喫茶店よくない?」

 怜が指したのは、色褪せた赤い看板を掲げた小さな喫茶店だった。若干薄汚れたレンガ風の外観は、町の風景に溶け込みそうな雰囲気を持っている。窓には赤・青・緑・黄色といった色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれていた。

 ただ、飲食店であることがわかるよう、店の前にはメニュー表が掲示されている。ピラフやカレーなど、お腹が膨れる料理も提供しているようだ。

 外開きの扉を開ければ、カランカランと音が鳴る。中は色の濃い木目調で統一されており、今は、ステンドグラスから夕日が差し込んでいた。レトロでノスタルジック、という形容が似合いそうな光景だ。店の中にはどこかで聞いたBGMが流れており、クラシカルな雰囲気を彩っている。

 まだ夕飯時には少し早いせいか、他に客がいる様子もなく、静かな店内の中で、双子は窓際のソファー席に向かい合って座った。

 中年の女性店員に注文を告げた後は静かだ。

 双子は頬杖をつき、目を閉じていた。お互いがお互いの鏡像のようだ。

 耳に届く音楽がサビの部分に入った時、ステンドグラスから差し込む夕日の光が消えた。日没ではない。誰かが外に立っているのだ。

 双子は同時に目を開けた。

「やあフェイ爺ちゃん」

「久しぶり」

 ステンドグラスに、背の高い男性らしい影が映り込む。しかし、双子はそちらに目を向けず、ただお互いの顔だけを見つめていた。

「言いたいことがあるなら聞くよ」

「頼みがあるなら融通するよ」

「孫だからね」

「爺ちゃんだからね」

 端から見れば、双子が顔を突き合わせて仲良くしゃべっているようにしか見えない光景。その向こうで、ステンドグラスに映った影が、空気を吸い込んだ炎のようにぶわりと揺れた。

「……オークを落とせ、って?」

「またそれか。それ、ロン爺さんが日本に持ってきたっていう木のこと?」

「知らない、じゃないだろうよ。じゃあ何で切り落とせ、なんて言うのさ」

「あれが、楔?」

「はいはい、それはおいおい何とかするよ。それより、あの占い師とロン爺さんのことだけれども」

「……許せない、赦していないって?」

「爺ちゃんはあの婆さんを許せないし、ロン爺さんはそもそも赦す気がない、と」

「うーん、あの婆さんはもうどうでもいいけど、司くんが巻き込まれそうなのがな。爺ちゃんから説得できない? 親子だろ」

「ダメかあ」

「すまんが頼むとか言われましても、ねぇ」

「僕らにだって限界はあるよ? 一応人間ですから」

「一応、ね」

 くすくす笑い合っていると、注文したピラフとカレーが運ばれてきた。その時には、ステンドグラスからは夕日が差し込んでおり、あの影は跡形もなく消えていた。

 店員が去っていくと、双子はそれぞれスプーンを持った。

 食事中は会話もなく、ステンドグラスに目を向けることもなく、再びBGMのみが流れていた。

 先に食べ終わったのは怜の方だ。カレーの皿にスプーンを小さく放り、うんと伸びをする。その間に、ピラフを食べ終わった静もスプーンを置いた。

「爺ちゃんも、困ってるみたいだったねぇ」

「まあ、そりゃ困るだろうね。あんな他人に引っ掻き回されたら」

「困る困るって、爺ちゃんは本当に人がいいよねぇ」

「ねぇ」

「ここは、怒るところだろうに」

 声を揃えた双子は、そのまま立ち上がり、レジへと向かった。

 日はもう落ちていて、ステンドグラスの向こうは暗かった。



 星野から連絡が入ったのは、翌日の朝一番のことだった。

『もしもーし! スピリチュアル☆アナリズムの星野でーす! おはようございまーす! 早速ですが、昨日話した件、無事アポとれましたぁー! 持つべきものは、敏腕弁護士ってやつですねぇ! 病院側にもぉ、お話してくれてぇ、トリニタス先生の心を安心させるため、ロンさんの縁者と話すチャンスは有用だって、お医者さんから警察に言ってもらえたそうでーす! あ、あと、生配信の件ですけど、大丈夫! 事件の話はしないこと、あくまでロンさんの話に限ることって条件で、許可出ましたぁー! あ、使うのはトリニタス先生の端末で、先生が隠し撮りで配信してたって体にすることになったので、お二人には迷惑かけませーん! ご安心くださーい! じゃ、当日、よろしくお願いしますねぇ! って言っても、今夜ですけどぉ! スケジュール調整、お願いしまぁす!』

「あ、はい」

 怒涛の情報の波に、寝起きの静はそう返すのが精一杯だった。

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