第8話 種が芽吹く

 泣き疲れたアリアが、時計を見たのは、もうすぐお昼になろうという時間だった。看護師に泣いているところを見られたら、と想像して、アリアは急いで涙を拭った。鈍い痛みを訴える頭は、しかしどこか冷静で、今の状況を静かに拾い上げていく。

 占い師が病院にいるということは、仮にアリアが退院しても、すぐに仕事には戻れないということだ。

 息子が今どうしているのかも、何もわからない。

 家賃と光熱費。そしてこの入院費。お金はいくらあっても足りないのに、頼る先だけが消えていく。

 この世界は、アリアから、仕事だけでなく、安寧だけでなく、未来だけでなく、息子までも奪おうと言うのだ。

——なんて理不尽なんだろう。

 左手でベッドシーツを握り込む。涙が止まり、代わりに強烈な怒りがわなわなと湧き上がってきた。

 何もかもうまくいかない。大事なものは手に入れた先から失われていく。唯一、確かな揺るぎない事実だった「母親」という肩書きも、このままではなくなるかもしれない。そんな不安と予感が、すべて怒りへと変換されていった。

「……どうして」

 湧き出した怒りは、その問いへと集約された。

 アリアには、悪い行いをした覚えはない。母親に対して複雑な罪悪感はあれど、今となっては「悪いのは向こうだ」という憎悪が勝っている。

 世間では往々にして、悪いことが起きるのは、本人が悪いことをしたからだと言われる。アリアの中にも、自覚は薄いがそのような価値観が確かにある。そして、その考え方は、逆に言えば「うまくいかないのは全て自己責任」という感覚に繋がるものだ。

 すべて私が悪いんだ。

 私は何も悪くないのに。

 相反する感情が同時に湧き上がり、それもまた全て怒りへと集約されていく。そうして怒りだけが膨れ上がるが、その行き場はどこにもない。

 誰のせいだ。誰のせいだ。誰のせいだ。

 私の不幸は誰のせいなんだ。

 その問いに確かな答えはないと、頭ではわかっている。それでも落ち着かない心のまま、意味もなく病室の中をぐるりと見回した。

 病室の隅、窓際に、小さな女の子が一人立っていた。

 アリアはびくりと肩を揺らし、息を呑んだ。いつからいたのか、気配をまるで感じなかった。少なくとも警察がいた時にはいなかった。泣いている間に、こっそり入ってきたのだろうかと考えて、急に羞恥心がぶわりと沸騰した。

 子どもの前で泣いてしまった。見ず知らずの子どもの前で、大人なのに泣いてしまった。

 その気まずさのまま、目を逸らそうとしたが、女の子はアリアの方を真っ直ぐと見たままだ。その顔には何の表情も浮かんでおらず、心のうちは窺い知れない。

 アリアは、その沈黙にすぐに根を上げた。

「……こ、こんにち、は」

 恐る恐る声をかける。そうしながら、改めて女の子の姿を確めた。

 小学校低学年くらいの、淡い水色のワンピースを着た子ども。距離があるから顔立ちの細部は分からないが、目鼻のバランスは整っているように見えた。あと数年もすれば「美少女」と呼ばれるだろう、そんな印象を持たせる。

 未来の美少女は、アリアに声をかけられると、無言のまま歩き出した。

 窓を背に歩み寄ってくる小さな体。その主と視線を合わせたまま、アリアは硬直していた。

 先程の怒りはどこへやら、今は不安と恐怖が勝っている。泣いたことを笑われてしまうだろうか。子どもらしい無遠慮さで嫌なことを言われるのだろうか。悪戯をされたら叱らなくては。叱れば帰ってくれるだろうか。でも下手なことをしたら親が出てくるかもしれない。

 怖い。その感情が、アリアの心を支配した。

 女の子は、アリアのベッド脇に立った。その小さな口が、おもむろに動く。

「ねえ」

 子ども特有の、舌足らずでどこか間延びした声。抑揚が大袈裟で、感情がよく読み取れない。女の子は無表情で、怒っているようにも見える。しかし、幼い子どもは、表情をうまく作れないことがよくあるのだ。アリアはそれをよく知っている。

 母親だからだ。

「ねえ」

 女の子が、再び抑揚のない声を上げた。

「どうしてだとおもう?」

 綺麗な声だと、アリアは思った。川のせせらぎのように落ち着いた、小鳥のさえずりのような愛らしい声。

 アリアが知らず知らずのうちに聞き惚れていると、小さな頭がガクンと右に倒れた。

「どうして、あなたは、じぶんは、ふこうなんだとおもう?」

 見知らぬ他人、まして子どもの問うことではない。しかしアリアは、それを疑問に思わなかった。

「どうしてって、それ、は……」

「わからない?」

 女の子の頭が、今度は左側に倒れる。

「たすけてあげる」

「……え?」

「めをだそう。はをのばそう。えだをのばそう。はなをさかせよう」

 何を言っているのかわからない。これは夢かもしれないと、アリアは思った。

「たねが、めぶくよ」

 小さな手が差し出される。透き通るような白い肌と細い指。みずみずしい肌。愛らしい顔立ち。誰からも愛され、守られる、幼い姿。

 すべて、アリアが失ったものだ。

「————」

 握ったその手は、真冬の水のように冷たかった。



 児童相談所の職員と名乗る女性が現れたのは、昼の三時を過ぎた頃だった。歳の頃は四十前後に見えた。メガネをかけたショートヘアに、黒いブラウスと白いズボンを身につけている。松井智子よりも、幾分穏やかな印象を受けた。

「生野と申します」

 そう名乗った彼女は、挨拶もそこそこに本題を切り出した。

「司くんは、現在、私どもの施設で預かっております。怪我も軽い打撲で、後遺症などが残る心配もありません。まずは、それをご報告いたします」

 アリアが曖昧に頷くと、生野の目がすうっと細くなった。

「いくつか聞き取りを行いたいのですが、よいでしょうか」

「……はい」

「まず、あなたの怪我の経緯を確認させてください」

「……覚えていません」

「司くんを他人に預けた経緯は?」

「入院することになって……他に頼れる相手がいなかったので……」

「相手のどのような面を見て、子どもを預けようと思いましたか?」

「……私にとてもよくしてくれていて……仕事もくれて……優しい人たちだと、思った、ので……」

「わかりました。……今は、渡貫さんのお怪我のこともありますし、司くんは当分こちらでお預かりします。面会を希望しますか?」

「……あの、当分とは、どれくらい、ですか?」

「現状ではお答えしかねます」

「…………」

 アリアは目を伏せ、生野から目を逸らし、病室の天井を見た。

 腰の骨を痛めているから、起き上がることも難しい。横になったままでは、どこか夢を見ているような気分が消えなかった。

 生野が再び問うてきた。

「司くんとの面会希望は、いかがなさいますか?」

「面会、は」

 会いたい、という気持ちが湧き上がる。だが、同時に頭の中で、ごぼごぼと泡が弾ける音がした。

「……今は、いいです」

 気づけば、アリアはそう答えていた。

 生野がいかにも驚いた表情を浮かべた。

「いい、のですか? お怪我の具合もあるでしょうが、退院後の面会予約を取ることも可能ですが」

「いえ。今は、いいです」

「……めずらしいですね。ほとんどの親御さんは、面会を強く希望されるのですが」

 アリアは一度まばたきをした。

「今、会っても……仕方がない、ので」

 仕方がない。何がだろう。アリアは心の中で自問する。生野の困惑したような、不審がるような表情は、もう見えていない。

 自分のうちから湧いて出た“仕方がない”という言葉の意味を考えて、無意識にみじろぎしようとする。同時に痛みが走り、顔が歪んだ。動けない、何もできない。今は、しゃべることすら負担だ。

 ——ああ、そうか。

 かちり、と何かがハマった感覚があった。

 今は母親らしいことが何もできないから、会う意味がないのだ。

 生野が不審そうな表情のまま「承知しました」と言った。

「本日は、これでおいとまいたします。またお話をお伺いすることになると思いますので、よろしくお願いします」

 その言葉に頷いてみせると、生野はそそくさと帰っていった。その背中を見送って、閉じられた病室の扉を見つめていると、スマホがバイブレーションを鳴らした。メッセージが来たことを知らせる通知だ。

 画面を見ると、三森の名が表示されていた。



『渡貫さん

 三森です。メールでのご連絡をどうかお許しください。色々と想定外のことがあり、こちらもごたごたしている為、直接うかがうことが難しく、この形式をとらせていただきました。

 まず占い師のトリニタス先生ですが、体調を崩し、今は渡貫さんとは違う病院に入っています。その為、お仕事の方はしばらくお休みということになります。ただ、渡貫さんの逼迫した事情も承知しておりますので、よろしければ私から援助させてください。近いうちに当面の金額を振り込ませていただきます。

最後に、司くんは安全なところにいるので、どうかご安心ください。お体の一日も早い回復を祈っております』

 メールを読み終わったアリアは、無言のままスマホを置いた。

「…………」

 アリアの心は凪いでいた。頭痛を覚えるほどに渦巻いていた疑念も不安も怒りも、今は何もない。かと言って幸福感や高揚感があるわけでもない。あるいは、それは凪というよりも虚無というべきものかもしれない。不思議な心地だ。

 まぶたを一度閉じて、開く。

 やっぱり視える。それを確認して、アリアは微かに微笑んだ。

 その視界は、ほんの数時間前とは一変していた。

 目の前を横切る鮮やかな赤い魚に、笑みが深まる。

 手のひらほどの小さな魚がたくさん泳ぎ、天井はまるで湖の水面のように光が揺れている。

 まるで水の中だ。

 ぼこぼこと、どこから泡の弾ける音がした。

 まばたきをする。

 水の世界に、アリア以外の誰かがいる。水鏡のように揺れているその姿は、おそらく医師と思われた。

 医師の言葉は泡の音にかきけされ、看護師の姿も輪郭が判然としない。

「大丈夫ですか?」

 辛うじて聞き取れたその言葉に、アリアはにっこりと頷いた。

 悪い言葉は聞こえない。嫌なものはもう見えない。

 ただ黙って微笑んでいれば、それで全てうまくいく。

 楽園だ。

 一度失ったと思ったものが、前よりもよっぽど素晴らしい形で戻ってきた。

 そう思うアリアの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。

 優しい世界。暖かな世界。何も考えなくていい、何もしなくていい。そうすれば全てうまくいく——否。うまくいくかどうかすら、もうどうでもいい。

 夢見心地の中で、アリアは歌を口ずさんだ。

「レディバード、レディバード、フライアウェイホーム……」

 知らない歌のはずなのに、するする歌うことができる。

 それがとても心地よくて、幸せな気分になった。



 かわいい虫、かわいい虫、

 おうちまで飛んで行きなさい。

 あなたのおうちが燃えているの。

 あなたの子どもたちはもういないわ。

 残っていたのは一人だけ。

 鉄鍋の下に隠れていた、小さな彼女の一人だけ。

 


 音がする。

 じゅうじゅうと肉が焼ける音。野菜が焦げて黒くなる音。

 料理。食事。ごはん。

 小さい頃は、まだ母も料理を作ってくれた。

 けれど、それはアリアの好物ではなかった。

 母親が作りたがったのは凝った料理だ。だから時間がかかる。それなら早く作り始めればいいのに、だらだらと夕方までゲームをして、結局夕食はいつも夜の十時を過ぎていた。

 じゅうじゅう。じゅうじゅう。

 それでもお腹が空いていたから待っていた。勝手に何かを食べたら怒られるから、黙って我慢して待っていた。

 できたご飯はおいしくなかった。たまに母が「疲れたから」と言って出してくれたレトルトのカレーがいちばん嬉しかった。

 肉が焼ける音。野菜が焦げて黒くなる音。

 フライパンが鳴らすあの音が、アリアは今でも大嫌いなのだ。

 

 

 入院してから、三日が過ぎた。

 怪我の痛みは、主観の中ではマシになっている。医学的に見ればそれは鎮痛剤のおかげだが、アリアの中ではこの素晴らしい夢のおかげだということになっている。

 今日も医師の話は、泡の音、水が流れる音にかき消されて、よく聞こえない。

「……とにかく、お子さんのこともありますから」

 その言葉だけが、辛うじて水底に浸る意識に届いた。

 子ども。息子。小さな子。我が子。

 取り戻さなくては、と、一人になった病室で、ふと思った。

 耳元で、誰かが囁く。“子に執着しない母など母ではないぞ”と。

 アリアはずっと、いい母親になりたかった。そうすることで、自分の母親を見返したかった。自身の母とは違うやり方で、子どもを立派に育てれば、彼女の間違いを証明できると思った。

 しかし、今のアリアにとって、そんなことは些細なことだ。

 病室の天井を見遣る。ゆらゆら揺れる水面のような美しい光。ここは夢のような世界だ。完璧な世界だ。

 完璧を完成させるためには、アリアのものは、何ひとつとして欠けてはいけない。

 取り戻さないと、と、アリアは初めて強くそう思った。

 けれど思っただけで、具体的な方法などわからない。体が動けば迎えに行けたのに、と歯痒くなる。親から子どもを奪うなど許されることではない。それは誘拐だ。犯罪だ。こちらは被害者だ。だから守ってもらわなくてはいけない。

 アリアの脳裏に、以前ここを訪れた二人の刑事の姿が浮かぶ。

 警察はダメだ、と思った。奴らは敵なのだと、また耳元で囁く声がした。

 では誰だろう、とまた考えた。守ってくれる人、助けてくれる人。それは警察ではなく、一瞬浮かんだ三森の顔もすぐに打ち消した。

「……そうだ」

 三森に関連した記憶として、ひとりの女性の姿が脳裏に蘇る。

 いるじゃないか。

 あの人に助けてもらおう、と思い、アリアは松井智子の名刺を取り出し、スマホを手に取った。

 スマホを耳に当て、呼び出し音が鳴る間、アリアの心は静かだった。凪いだ湖面に石を投げ入れ、その波紋をゆったりと眺めているような心地だ。

『はい』

 電話の向こうからしたのは、男性の声だった。

「あの、松井、智子さんはいらっしゃいますか?」

『松井……はい。恐れ入りますが、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?』

「渡貫、と言います」

『渡貫様、ですね。少々お待ちください』

 電話が保留になり、メロディが流れる。クラシックのような落ち着いた曲だ。どこかで聞いたことがある気もするが、今のアリアには思い出せなかった。

『はい。お待たせしました、松井です』

 電話口から、聞き覚えのある女性の声が響く。心臓が跳ねたのは一瞬で、すぐにまた泡の音と共に、静かな凪が帰ってきた。

「突然すいません。渡貫ですが」

『ああ……こちらこそ、先日は突然失礼しました。いかがなさいましたか?』

「実は、」

 息子を取り返したい、と言うつもりだった。

「——三森を訴えたいのですが、どうしたらいいでしょうか」

 それなのに、口から出たのは、全く意図しない言葉だった。

『……詳しく聞かせていただけませんか?』

 電話越しに聞こえる松井智子の声は真剣だ。アリアはどこか戸惑いながら、しかし冷静に語った。

「息子が、傷つけられたんです」

『息子さんが? お怪我をなさったんですか?』

「はい。幸い後遺症のようなものは残らないそうですが、でも、暴力は暴力です」

 すう、と息を吸った。

「許せないんです」

 すらすらと出てくる言葉に、アリア自身おどろいていた。まるで、自分が自分ではないような、冷ややかで、静かな声だ。

「母親の方は逮捕されるみたいですけど、でもこのままだと、三森さんは逃げ切れてしまいそうで」

 頭は冷静な一方で、心の中にはふつふつと怒りが湧き上がる。

 許さない、許さない。

 私の世界を壊すなんて、許さない。

「なんとかできませんか」

 電話の向こうで、松井智子はしばし沈黙していた。

『……確認したいのですが、それは、三森親子を訴訟したい、という意味でしょうか』

「はい、そうです」

『でしたら、私の一存ではお答えできません。いえ、もちろん、できる限りの協力は致します。ただ、訴訟には弁護士が動かなければなりません。先生に確認してみます。少々お時間をいただきますが、よろしいでしょうか』

「はい、構いません」

『承知しました。では、後ほど此方から掛け直します』

「お願いします」

 電話を切り、暗くなったスマホの画面を眺めて、アリアは一人微笑んだ。その頭には、幼い息子の顔が浮かんでいる。

 すぐに、会えるからね。

 そう思う彼女は、怪我の痛みが消え始めていることに気づいていなかった。



「うん、経過は順調ですね。これなら、退院しても問題ないと思います」

 アリアがその言葉を医師から受け取ったのは、入院してから実に一週間が過ぎた日だった。ヒビとはいえ腰の骨折である。本来はもっと入院が延びてもおかしくなかったが、アリア自身は既に痛みを感じていない。検査でも、入院は必要ないとの診断が出た。

「栄養のあるものをしっかり食べてくださいね。それから、お子さんのことも……」

「はい、わかってます」

「ああ、それと……警察の方から、退院後にお話したい、と言われているのですが、連絡してよろしいでしょうか」

「構いません」

「では、連絡しておきます。おそらくすぐに返事がくると思いますので、しばらく院内でお待ちいただけますか」

「わかりました」

 医師の言葉が、するすると頭に入っていくる。一方で、その姿はどこか遠くて、まるでガラスを隔てているようだ。

 そんな不思議な心地のまま、アリアは診察室を出て、ロビーの長椅子に腰を下ろした。

 この市民病院は広い。いくつもの診療科が入っていて、入院施設も整っている。アリアの住んでいるところから見れば、隣町に位置する立地だ。この地域では一番の大病院だと言っていい。

 あの占い師は、どこに入院しているのか。

 ふと、アリアはそんなことを考えた。連鎖的に、病室にやってきた二人の刑事の姿を思い出す。彼らは、件の占い師も入院しているが、ここではない、というようなことを語っていた。

 この病院でないのなら、もっと県の中心地に近づかなければ、入院できるような場所はない。警察病院、という単語を思い出して、そこだろうか、と、知識がないままぼんやりと想像した。その想像は、やがて“彼女が本当に逮捕されたら”という予想に形を変えた。

 もしも、あの占い師が逮捕されたらどうなるか。少なくとも、アリアはまた失業することになる。家賃も光熱費も払えなくなる。食費も、息子にかかるお金も、何もかもが足りない。貯金は、とっくに尽きているのだ。

 どうしようかな、と考えれば、頭の中で泡が弾ける音が響く。それがとても心地よくて、アリアは一人うっすらと微笑んだ。

 なんとかなるという安心でも、どうにでもなれという自棄でもない。誰かが助けてくれるという甘えとも、自力で解決するのだという奮起とも違う。

 空っぽだ。しかし、澱んだものが渦巻いていた時よりも、ずっと楽なのだ。

 このまま、この時間が続けばいいのに。

 病院の天井に広がる、水面のような光を幻視しながら、アリアはただそれだけを願った。

「渡貫さん」

 しかしその願いは、すぐに潰えた。

 名前を呼ばれ、目を向けると、そこには心配とも不安ともつかない表情を浮かべた年配の看護師が立っている。

「警察の方と連絡が取れました。もうすぐこちらにくるそうなので、もう少しお待ちいただけますか」

「はい、わかりました」

「その……あまり、深刻にならないでください。きっと、大丈夫ですよ」

「ええ、ありがとうございます」

 そう返せば、看護師は安心したように微笑んで、病院の奥へと戻っていった。

 その後ろ姿を見送って、アリアはふと会計をしなくては、と思い立つ。しかし、財布の中にお札はない。仕方なくロビーにあるATMへと向かった。

 通帳を開き、機械の中へ入れる。ただそれだけの動作が、果てしなく面倒に感じられた。最近は紙の通帳も減り、同じ役割を持ったアプリに移行しつつあるという。そっちにしてもいいかもしれない、と思っていながら暗証番号を入力すれば、画面が切り替わった。残高はいくら残っていただろう、と思った時、アリアは何度かまばたきをした。

 残高を示す欄には、五十万を超える金額が表示されている。

「……?」

 もう貯金はほとんどなかったはずだ。何でだろう、と思いながら、ひとまず三万円を引き出して、出てきた通帳を手に取った。

 見れば、昨日の日付で五十万円が振り込まれていた。その欄には“ミモリ ヨシキ”と表記されている。

 ああ、と、アリアは納得の声をこぼした。

 当面の額を振り込むと、三森からのメールにあったことを思い出したのだ。

 この状況で、五十万もの大金が手に入った。助かるという次元ではない。命がつながる、飢え死にの心配が遠くなる。それはもはや救済とすら呼べるものだ。

 以前のアリアなら、涙をこぼすほど喜んだだろう。

 しかし、今は。

「…………」

 ただただ、凪いでいる。

 通帳をしまい、受付で精算を済ませる。その後、再びロビーの椅子に腰掛けた。

 受付の上にかけられた時計を見上げた。もうすぐお昼になる。

 カチコチ、カチコチ。

 聞こえるはずのない針の音が頭に響く。そこに、泡が弾ける音、雫が跳ねる音が混ざり合う。

 時計からさらに上、天井の方を見上げれば、そこには水面の光が揺らいでいる。

 綺麗だ。

「渡貫さん」

 名前を呼ばれたアリアは、視線だけをそちらに向ける。くたびれたスーツを着た二人の男性が、すぐ近くに立っていた。眉間に皺の寄った、三十代から四十代くらいの二人組。

 以前やってきた刑事たちだった。

「お待たせしました。お時間はよろしいですか?」

 アリアは無言で頷いた。

「ありがとうございます。ここでは何ですので……署でお話を伺いたいのですが」

「はい、わかりました」

 そう答え、アリアは長椅子から立ち上がった。

 不思議なほど体が軽かった。



 アリアが通されたのは、会議室のような場所だった。ドラマで見る取り調べ室をイメージしていたアリアは、何となく肩透かしを食らった気分になった。

 座るよう促され、パイプ椅子の一つに腰掛ける。その正面、長机を挟んだ向こう側に、二人の刑事が座った。

「では、いくつかお話を伺います。最初に申し上げておきますが、形式上のものなので、緊張しないでください」

「単刀直入にお聞きしますが、あなたは、子どもを預けた相手に対して、どの程度ご存じでしたか」

「……三森さんは、いい方だと思っていました。私の相談に乗ってくれて、仕事を休んだり、早退したりしてまで、駆けつけてくれて……すごく親切にしてくれたんです。息子の面倒も見てくれていて……あの子も、懐いているようでした」

「失礼ですが、保育所などのご利用は?」

「金銭的な事情で、難しかったんです」

「なるほど。生活保護などは検討されましたか?」

「しませんでした」

「何故ですか? 生活保護とまではいかなくても、小さな子どもがいるシングルマザーなら、様々な公的支援がありますが……こちらで少々調べましたところ、あなたはそれらの制度をほとんど全く利用していませんよね?」

「自分が頑張らないと、と思ったんです。母親ですから」

「……わかりました」

 目つきの鋭い刑事は、言いたいことを無理矢理飲み込んだような顔をした。

 アリアの心は一貫して穏やかで、何の感情も湧かない。怒りも、焦燥も、恐怖も、不安も、何もなかった。

 それなのに、言葉だけは滔々と溢れ出る。

「私、知らなかったんです。三森さんも、あの占い師の先生も、私にはとても親切でした。いつも優しくしてくれました。仕事をくれて、食事もくれて、息子の面倒も見てくれていたんです。私たち親子が今日まで飢えずに済んだのは、あの人たちのおかげなんです」

「それは、彼女……三森千秋さんを、恩人と認識していた、と受け取って構いませんか」

「みもりちあき」

 刑事の問いには答えず、アリアは首を傾げた。

「それはどなたですか?」

 アリアがそう問い返すと、刑事たちは驚いたように目を見開き、お互いに顔を見合わせた。

「……今あなたが仰った、占い師の先生……ですが」

「ああ……そんな名前だったんですね」

「ご存じ、なかったのですか?」

「先生、としかお呼びしていませんでしたので」

「つまりあなたは、本名も知らない相手を信じて、子どもを任せていたと、そういうことですか?」

「私も、あの人たちに下の名前は教えていませんでしたから」

 刑事の一人が、皺のよった眉間に指を当てた。頭痛をこらえるような仕草だ。

「……名前を教えなかった、その理由を、お伺いしても?」

「私、自分の名前が嫌いなんです。母が自分の趣味だけでつけた、意味も願いも何もないふざけた名前。いや、ありましたね。私のお人形になってねっていう、そんなふざけた願いなら嫌というほど伝わります。だから嫌いなんです。人に言いたくないんです。名乗りたくないんです。おかしな名前だなって、刑事さんたちも思ったでしょう?」

「いや、まあ、そういうことは、時代の流行りもありますから。それに、お母さんのことをそんな風に言っては、かわいそうですよ」

「かわいそう?」

 刑事の言葉が、凪いだ水面に落ちた。それによって生まれた波紋は波となって、アリアの自我を飲み込んだ。

「あなたも、あの人の味方なんですか?」

「え? いや、そうではなくてですね、ええっと、今はお子さんのことを」

「ずるい」

「はい?」

「ずるい。あいつばっかりずるい。どうしてみんなあいつの味方をするんですか? あいつはあんなにひどい親だったのに。私はあいつが大嫌いなのに。それをわかってほしいだけなのに。私は私が傷ついたことを認めてほしいだけなのに何でみんな否定するんですか何で聞いてくれないんですか何で私じゃなくてあいつの味方をするんですか私が言えば言うほどあいつの味方は増えるんです私の味方は減るんです何でですか何でですかずるいずるいずるい親なら子供の悪口言ってもいいんですよね親なら子どもを殴っていいんですよね親なら子どもを侮辱していいんですよね親なら子どもの気持ち無視していいんですよね親なら子ども殺していいんですよね殺したって子どもがわがままでしたって言えば無罪なんだからずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい」

「ちょ、すいません。落ち着いて、落ち着いてください。我々はあくまで中立ですから。あと、無罪はないです。ないですから」

「渡貫さん。今はあなたのお母様の話ではなく、司くんに関する話をですね」

「私はいい母親になりたかったんです」

 刑事たちは、すっかり困惑したような様子で、一人は額に指を当て、もう一人は面倒そうに後ろ髪をかきむしった。

 アリアには、もうその動作も見えていない。

「あの子は私が産んだんです。私が育ててきたんです。私が母親なんです」

「ええ、ですから、保護責任に関する確認が必要でして」

「でも、違いました」

「は?」

「私がなりたかったのは、あの子にとってのいい母親じゃなかったって、ようやく気づいたんです」

「……それは、どういう意味でしょうか?」

「人がカミサマになれる、一番の近道って、なんだと思います?」

 刑事たちは、もはや顔を引き攣らせ、苦笑いに似た表情を浮かべている。

「親になれば、いいんです」

 アリアの表情は恍惚としていて、視線はうっとりとどこか遠くへ向けられていた。

「人を支配して、見下して、侮辱して、踏み躙って、それでも全て許される、怒ろうが八つ当たりしようが文句を言われない、すべて受け入れてもらえる。大人はダメです。反論してくるし、逃げられる。でも子どもは違います。反論できない、逃げられない。だから、好きなだけ怒りたいって思った時、子どもが一番ターゲットになるんです。私もそうでした。私も母のターゲットで、サンドバッグで、お人形でした。私はそれでも許されている母が羨ましかった。娘という自分専用のおもちゃを持っているあの女が妬ましかった。私を支配して見下して侮辱して踏み躙って、それでも母親というだけで全肯定されているあの女が心底羨ましくて妬ましくて、だから」

 アリアの視界は揺らいでいる。水の中から、太陽を見つめている時のように、もはや明確な輪郭をもった存在など、そこにはない。

「私は、きっと母親(かみさま)に、なりたかったんです」

 自我を飲み込んだまま、波紋が消えていく。

「……承知、しました。これから、専門の者に代わりますので、もう少しお時間ちょうだいします」

「はい」

 刑事たちが、恐怖とも不安ともつかぬ表情を浮かべている前で、アリアはにっこりと微笑んだ。

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