第4話(裏)

 アリアが病院に運ばれた日の話である。

 雨が上がり、綺麗な夕焼けが広がる空の下を歩きながら、怜は鼻歌を口ずさんでいた。すると、隣からくすくすと笑いが上がった。

「好きだねぇ、怜。ナーサリーライム」

「子どもの頃から何度も聞いたからね、マザーグースは」

「その呼び方も、相変わらず頑なだね」

「意味は大体同じなんだから、いいんだよ」

 ナーサリーライム。マザーグース。どちらも童謡の呼び方である。イギリスではナーサリーライム、アメリカではマザーグースと呼ぶことが多いとも言われ、言葉の原義にも多少の違いがあるのだが、そんなことは些細なことだ。

 言葉は、意味が通じるならそれでいい、というのが怜のスタンスである。

「レディバード、レディバード、フライアウェイホーム……」

 口ずさむ歌の中に、スーパーの袋の揺れる音が混ざる。先ほど買ったばかりの惣菜を気にしているのか、静がちらちらと視線を向けてくるのを感じた。

 そんなに気になるなら、と袋を渡すため、首を横に向けた怜が、ふと一箇所に視線を留めた。

「どうした?」

 それに応じて、静もまた同じ方向へ目を向ける。すると「ああ」という声をどちらかがこぼした。

「三森さん」

 二つの重なった声に反応して、道の先を歩いていた男性が振り返る。「ああ、どうも」と笑う彼は、小さな子どもを抱っこしていた。

 双子は時効の挨拶を述べながら、三森の横に並んだ。

「お子さんですか?」

「あれ、君……もしかして、この前の迷子くん?」

 静が顔を覗き込むと、子ども——司は大きな目をパチパチとして、「あ!」と声を上げた。

「もりのおにーさん!」

「うん、大体合ってる」

「覚えててくれたんだねぇ。ありがと」

「で、三森さんはどうしてこの子と一緒に? お父さん……じゃないですよね? 誘拐ですか?」

「この子のお母さんに頼まれたんです!」

 三森の必死な様子に、冗談混じりに問うた怜はけらけらと笑う。それを呆れたような苦笑で見ていた静が、問いかけた。

「お母さん、って、渡貫さんですよね? お知り合いだったんですか」

「ええ、まあ、ご縁がありまして……というか、萩野さんたちこそ、渡貫さんのことをご存知なんですか?」

「ええ、以前、この子が動物園で迷子になった時に、少し」

「迷子? 司くん、そうなの?」

「おねーちゃんとあそんだの」

「そっかー。知らない人についてっちゃダメだぞぉ」

 三森の言葉を理解しているのかいないのか、司の大きな目が双子の方へ向けられた。

「あのねー、おかーさん、びょーいんなの」

「病院? 美容院?」

「病院です。疲れが溜まっていたのか、倒れてしまったようで……今日一日検査入院になったので、僕がこの子を預かったんです」

「ああ、そういうことですか。渡貫さん、大丈夫そうでした?」

「いや、だいぶ憔悴していましたね。顔色がもうひどくて……今夜ゆっくり休んで、少しでも回復すればいいんですか」

「そうですか。それは心配ですね。司くんも、お母さんと一緒がいいよねぇ」

「まもりました」

 脈絡のない、しかし自信に満ちた司の言葉に、双子が同時に首を傾げる。三森が半笑いで補足した。

「病院の人から聞いたんですが、なんでも、司くん、倒れたお母さんにずーっとぴったりくっついてたんですって。守ってたんでしょうねぇ」

「なるほどぉ。司くん、ヒーローだね」

「それはきっと、お母さんも嬉しかったと思うよ」

 双子がそう言えば、司は子どもらしい満面の笑みを浮かべる。そして、得意そうにつたない声を上げた。

「おかーさん、ごはんないから、かってあげるの。カレー!」

「ん? お母さんの病院、ごはん出ないの?」

「いえ、今頃食べてると思います。ああ、そっか。あの時、ごはんは? って聞いてたの、お母さんの夕ごはんがないかもって心配だったんだねぇ。大丈夫、お母さんのごはんは、お医者さんたちが出してくれるから」

「ほんと? カレー?」

「カレーかどうかはわからないけど、お腹いっぱい食べれるよ」

「司くん、カレー好きなんだね」

「おいしいもんね」

 司が力強く頷くのを見て、双子も三森も自然と顔が綻んだ。

「では、我々はこの辺で。呼び止めてすいませんでした」

「いえいえ、萩野さんたちもお疲れ様です」

「通報されないよう、お気をつけてー」

「こら、怜!」

 三森の苦笑いと、司の無邪気な笑顔に見送られて、双子はその場を後にした。


「どう思った?」

「司くんは大丈夫そう」

「うん。でも、ねぇ」

「水の匂いだったねぇ」

「あの二人からは、残り香程度だったけど」

「逆に言えば、そういうことだからなぁ」

「種、もらっちゃったんだねぇ」

「心配だねぇ」

「心配、心配」

「次の雨はいつだっけ」

 二つの声は風に乗り、赤く染まった空の中に溶けていった。



Ladybird, ladybird, Fly away home

Your house is on fire And your children all gone;

All except one And that's little Ann,

And she has crept under The warming pan.     

『Ladybird, Ladybird : Mother Goose』



邦訳

 てんとう虫、てんとう虫、

 お家まで飛んでお行きなさい

 あなたの家が燃えているの

 あなたの子どもたちは誰もいない

 残っているのはただひとり

 小さなアンのただひとり

 鉄鍋の下に残っていたよ


  『てんとう虫:マザーグース』



 夕暮れの下、三森と司に行き合ってから二日後の今日。双子は芸能人としてのSNSに上げるため、水族館に来ていた。

「おいしそう」

 とある水槽を前にした、怜の第一声である。

 すると、おいおいと言いたげに軽く肩を叩かれた。

「せめて、鰯とかが泳いでる水槽の前で言いなよ、それは」

 水の中を、ペンギンがすいっと横切っていくのを見送って、怜はわざとらしく「あはは」笑った。

「かわいい子は食べちゃいたくなるから、困るよね」

「僕は怜に困らされっぱなしだよ」

「お、そんなに僕がかわいいって?」

「そういうところがかわいくない」

 けらけらと笑いながら、怜はペンギンの水槽に視線を戻した。

「不思議だよね。ペンギンって動物園にも水族館にもいるんだよ」

「水の動物だからねぇ。カワウソも、動物園にも水族館にもいるし」

「それ言ったらシロクマもか。水の動物って意外と多いよね」

「どっちつかずだからこそ、どっちにも行けるんだよねぇ」

 そんな会話をしながら、双子はペンギンの水槽の前を通り過ぎた。

「ところで、静。ちゃんと写真は撮れてる? SNS用のやつ」

「もちろん。怜とペンギンのツーショットもばっちりだよ」

「なるほど。煽り文は“今夜のおかず”で決定だね」

「炎上するからやめなさい」

 名前の通り、静はしずかな声でそう言い放つ。片割れから逸らした線は、壁に設置された電光パネルに止まった。

「ねえ怜。イルカショー、もうすぐやるみたいだよ。見る?」

「うーん。そうだね。せっかくだし、見ていこっか」

「イルカ、かわいいしね」

 二人同時にそう言って、くすくす笑い合いながら、双子は水槽の並んだ薄暗い通路を進んでいった。



 イルカが高く跳ねて、吊るされた輪っかの中をくぐり抜ける。同時に、観客席から拍手が上がった。平日の昼間だから満席ではないが、それでもそれなりに埋まっている。見渡せば、隠居であろう老人、休みなのだろう若い人、小さな子どもを連れた母親などが目に入った。

 水がかかるから、という理由で後ろの方、高い位置の座席に座った双子からは、会場の様子がよく見える。

「イルカも大変だよねぇ。こんな大勢の前でショーをしなきゃいけないんだから」

「ま、その代わり、家賃も食費もタダだし。なんならショーを失敗したってお客さんは笑ってくれるだけだろうし」

「あー、そっか。じゃあうらやましい」

「現金だな」

「社会人なら誰だって同じこと言うだろうに。……ん?」

 けらけらと笑っていた怜が、ある一点に視線を留める。「どうした?」と聞きながら、静もその先に目をやった。

 双子の視線が、観客席の最前列、水槽の目の前の席に座る、髪の長い女性で交差する。その女性の隣では、小さな子どもが座席の上でぴょんぴょんと跳ねていた。

「……渡貫さん?」

 双子の声が重なり、目を見合わせる。

「なんで」

「よりによって」

「水はダメだって」

 ショーのクライマックスである大ジャンプをイルカが決める。同時に、双子は席を立った。


「渡貫さん」

 アリアに話しかけた双子は同時に目を細めた。

「……あ、えっと……はぎの、さん?」

 彼女は、きょろきょろと視線を頼りなく巡らせている。その顔色は悪く、お世辞にも健康そうには見えない。双子は努めて明るく笑った。

「お久しぶりです」

「あの、どうしてここに……」

「今日、僕らオフなんですよ」

「それで水族館に遊びに来たら、お姿が見えたので」

「司くーん、二日振りー」

 怜が顔を覗き込むと、司はパッと明るい表情を浮かべた。自分の方に伸びてきた小さな手を、怜はハイタッチで迎える。

 ちらりとアリアの方を見れば。戸惑っていることが、ありありとわかった。

「あ、あの……」

「渡貫さん、お疲れですか? 顔色ひどいですよ」

「よかったら、僕たちと一緒に回りませんか? もちろん、お二人がよければ、ですが」

 強引だったか、と怜は少し後悔した。警戒されて避けられてしまっては、もうできることはなくなる。

 さあ、どうなるか、とアリアの出方を伺った。

「え、えっと……」

「いっしょー!」

 司くん、ナイス。

 双子の心の声が一致した。


 水族館の中が薄暗いのは、ガラスの前に立つ人間の姿が、魚から見えにくいようにするためだという。もちろん、明度の差を作ることで、人間側から魚を見やすくするためでもある。

 暗いところから明るいところはよく見える。しかし、明るいところから暗いところは見えないものだ。

 司はというと、普段見ることのない生き物に、大きな目を輝かせている。生き物が好きなのだ、と側から見ていてもわかった。

 怜は司を抱っこして、一緒に水槽を覗く。小さなその箱の中には、クマノミがいた。

 耳を澄ませると、後ろから、アリアと、片割れの会話が聞こえてくる。

「かわいい息子さんですね。——かわいいですよ」

「……ありがとう、ございます」

 アリアの声は掠れていた。疲れている、ということは、他人の目からも一目瞭然だ。

 その上。

 先程から漂っている水の匂いを、改めて確認し、怜はやれやれと思う。

 この匂いの元は、どの水槽でもないことは明らかだ。

 司がクマノミに夢中になっているのを確認し、怜は横目で後ろを窺った。

「あの……息子と、どこで会ったんですか? さっき、二日ぶりって言ってましたけど……」

「ん? あー……ほら、渡貫さん、この前、三森さんに司くんを預けたでしょう? その時に。僕たち、三森さんと知り合いなんですよ」

「え、そうなんですか?」

「はい。仕事で少々」

 そこはもう本題に切り込んでもいいのでは、と、片割れに対し、少々やきもきした気持ちになる。

 怜は司を抱っこしたまま次の水槽の前に移動した。

 その中には、色とりどりの熱帯魚が行き交っている。

 司が水槽に額をつけ、「おー」と子どもらしい声を上げた。

「くりすますみたい」

「ん? あー、そうだね。イルミネーションみたいだよね」

 いいセンスしてる、と、小さな子どもの発想力に感嘆する。同時に、足をトンと小さく鳴らした。

 話を進めろ、という、この世でたった一人にしか通じない合図だ。

 顔を見なくても、片割れが「やれやれ」と言いたげな表情をしていることがありありと伝わってきた。

「水、乾きました?」

「え?」

 ようやくだ。怜は、万が一にも司が飛び降りたりしないよう、腕に力を込め、耳をそばだてた。

「ほら、さっき、イルカショーで派手にかかってましたから」

「あ、ああ……もう大丈夫です。レインコートもありましたし」

「それはよかった。濡れてしまったら大変ですものね」

「ええ……」

 アリアの声が途切れた。しかし、様子が少し違う。疲労からくる沈黙ではなく、何か、切り出すタイミングを見計らっているような間だった。

「あの……実は、私、その時ちょっとだけ寝落ちしちゃったんです」

「ん? そうなんですか?」

 ああ、やっぱり。怜は確信を持って、ゆっくりと後ろを振り返った。アリアの表情からは疲労が抜けて、視線はうっとりと遠くを向き、どこか恍惚としている。

「はい。それで、そのとき見た夢が、とっても綺麗で……」

 広い場所に、一人だけ。

 悠々と泳ぐ、力強い命。

 きらきらと光り輝く水。

 その前に立った自分と。

 光の向こう。水の中に。

「誰がいました?」

 片割れが問いかけた。

「それは、」

 アリアは答えを持っているはずなのに、見ようとしていない。

「それは……あなたの、おかあさん、だったのでは?」

 静がそう切り込むと同時に、怜も踵を返した。


 *


Aina・Tita 著 篠山康彦 訳『人類への問いかけ(原題:Ask Someone)』(一九九五年八月刊行)より抜粋


 透明な水は、宝石のようだと思うのです。

 光を当てれば輝いて、身に纏えば心地いい。

 それでいて、人が手にすれば、あっという間に濁ってしまう。

 関わらないことでしか、真の輝きは守れないとわかっていても、手を伸ばさずにはいられない。求めずにはいられない。

 それは美しいからでしょうか。

 いいえ、きっと。

 ただ、思い込んでいるだけなのです。



 むせかえるような水の匂いは、水族館という場所故——ではない。

 立ちつくしたまま硬直してしまったアリアの前に立った怜は、彼女の顔を覗き込む。アリアの眼は薄ぼんやりとしていて、視線は定まらず、まるで魂が抜けたようにすら見えた。

「おかーさん?」

 怜の腕の中から、司が首を伸ばした。息子に呼ばれても、アリアはやはり何も返さない。そんな彼女の手を、静が握った。

「怜。場所変えよう。ここだと目立つ」

「そうだね」

「ねー、おかーさんどーしたの?」

「んー? なんか、むずかしいことを考えてるみたいだよ」

「ふーん?」

 司を抱きしめる腕に力を込めて、怜は背後に意識を向ける。

 水の匂い、雫の音、泡が弾けるような小さな振動。

 間違いなく、居る。

 タダ働きだなぁ、と、肩をすくめた。

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