第19話 衝突

 食事を終え、車に戻った頃には、雨は本降りになっていた。車のフロントガラスを細かく叩く雨粒の音が、まるで胸の奥を洗い流すように響いていた。助手席に身を預けながら、淳一はゆっくりと口を開いた。


「琢磨、さっき話した、みさきさんのことだけどな」

 ハンドルを握る琢磨が、軽く頷く。

「うん」

「彼女のことを、大切に思っている。なぜか、会うたびに心が落ち着くんだ。自分でも、こんな感情になったのは、何十年も無かった。お前に笑われるかもしれないが、これは恋なのか、執着なのか、よく分からない。・・・でも、彼女に会えなくなって、初めて、本当はどれだけ支えられていたか気づいた」


 言葉にすることで、自分の想いが輪郭を持ちはじめる。そんな感覚があった。さすがに父親のこんな話を鼻で笑うかと思っていたが、琢磨は驚いた様子もなく、静かに前を見据えたまま答えた。


「うん。なんとなく、わかってたよ。最近、父さん、どこか変わったから。前より少し若返ったんじゃない。今までと違って、目がちゃんと“今”を見てる」

 信じられないような言葉だった。だが、それが嬉しかった。


 信号で車が止まり、車内に静けさが広がる。ワイパーの動きだけが、一定のリズムで時を刻んでいた。


「姉さん、父さんとみさきさんが一緒にいるところを見たらしいんだ。図書館の近くのカフェかな。ちょっとショックを受けてたよ。母さんのこともあるし」

 琢磨は口調を崩さず、淡々と話す。

「でも、俺は思うんだ。そのみさきさんと会うこと自体は、何も悪くない。父さんとみさきさんが、互いにそれで救われてるなら、それでいいじゃないか。歳が離れていても、相手も承知で会っているんだし」


 淳一は、何も言えなかった。言葉にならない感情が、胸の奥でじんわりと広がっていく。息子に、そんな風に言われるとは想像していなかった。

「ありがとう、琢磨」

 ようやく、それだけを搾り出すと、琢磨は前を向いたまま、ふっと笑った。


「俺さ、ずっと父さんが“父親”のままでいてくれると思ってた。でも、今はちょっとだけ“男”としての父さんを見た気がするよ。母さんがいなくなって、父さんは一人になった。別に不倫してるわけでもないし」

 その言葉に、淳一は思わず苦笑した。


 信号が青に変わる。車は静かに走り出した。雨の音はまだ続いていたが、淳一の胸の中に、少しだけ温もりが宿っていた。


**********


 雨が降りしきる中、佳子は一人自宅の玄関を開けた。合鍵は琢磨も佳子も持っていた。数か月ぶりの実家だった。男一人の生活にしては、整理のされ、綺麗に片付けられている。


 和室に入ると、仏壇の前に置かれた小さなテーブルに、優子の遺影が置かれている。いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。仏壇の戸をそっと開けると、そこには母の位牌。佳子は黙って膝をつき、線香に火を灯す。煙が静かに立ち昇り、湿った部屋の空気がふわりと変わる。


 遺影の横には綺麗にたたまれた母の形見のスカーフがあった。春の終わり、風の強い日に母がよく巻いていた、水色の柔らかな絹。まだわずかに母の香りが残っている気がして、佳子はそれを手に取り、胸に抱いた。


 「・・・お母さん」

 かすれた声が、静かな部屋に落ちた。

 「父さん、誰かと会ってる。若い女の人。図書館の近くのカフェで、二人で話してた。父さん楽しそうに・・・笑ってたの」

 その目には涙が浮かんでいた。けれど、それを拭うことなく、佳子は母に語りかけるように続けた。


 「私ね、母さんがいなくなったとき、父さんのことも守らなきゃって思ってた。強くなきゃって、ちゃんとしなきゃって。でも、ここに居てたら、母さんとのことを思い出す。一緒に生活していた頃のことを・・・本当は、ここで、父さんと暮らしたかった。そんな気持ちも知らずに、父さんは、もう別の人を見てる」


 言葉を重ねるうちに、心に蓋をしていた悲しみが溢れてくる。

 「母さんのこと、あんなに好きだったくせに・・・。どうして? どうして、もう他の人を。忘れたの?私たちのことまで、置いていくの?」

 佳子はぎゅっとスカーフを握りしめた。まるで、それが母との唯一の繋がりであるかのように。


 「ねえ、教えて。私が間違ってるの? 悲しんじゃいけないの? 責めちゃいけないの?」

 そのとき、玄関の方から車の音が聞こえた。父が帰ってきたのだ。佳子は仏壇の前で父の帰りを待った。スカーフを手にしたまま。


 「ごめんね、母さん。ちょっとだけ、怒らせて」

 そして、佳子は覚悟を決めたかのように、淳一が部屋にやってくるのを待った。


**********


 自宅前に着いたとき、見慣れない車が一台、家の前に停まっていた。

 「・・・佳子だな」

 琢磨が助手席の父に目をやる。淳一は頷くと、静かに車を降りた。


 玄関のドアは、鍵がかかっていなかった。中に足を踏み入れると、微かに線香の香りが漂っていた。仏間の戸が開いていて、その前に、佳子が膝をついて座っていた。手には、亡き妻の形見のスカーフが握られている。いつか妻が春の風の日に巻いていた、水色の絹。


 淳一と琢磨が部屋に入った瞬間、佳子はゆっくりと立ち上がり、そのまま家を出て行こうとした。

 「佳子」

 その名を呼ぶと、娘はぴたりと足を止めた。そして、ゆっくりと振り返った佳子の顔には、抑えきれない怒りと悲しみが入り混じっていた。


 「・・・母さんの前でも、あの女の話ができるの?」

 声は震えていた。けれど、目は鋭く父を射抜いていた。

 「パパ活でもしてるの?若い女に貢いで、何をしてるの?いい歳して・・・恥ずかしくないの?」


 まるで溜め込んでいた感情が堰を切ったように、佳子は言葉をたたみかけた。

 「母さんが死んだの、そんなに昔じゃないのに・・・!それなのに、もう他の女に心奪われて、なに?恋愛?一人になったから、自由になったからって、父親でいることも放り出して、そんなことして」


 その勢いに、さすがの淳一も言葉を失った。佳子は淳一をそのように見ていたのだ。父親を。その横で、沈黙に耐えかねたように、琢磨が口を開いた。

 「姉さん、それは言いすぎだよ」

 佳子が振り向く。

 「何よ、琢磨もグルなの?父さんを庇うの?」


 「庇ってるんじゃない。ただ・・・父さんも、さみしいんだよ」

 その一言に、佳子の表情が少し揺らいだ。

 「若い子と話してるだけで、救われることだってある。母さんを失ったのは、父さんも俺達も同じなんだから・・・姉さんだけが悲しいんじゃない」


 佳子は唇を噛み、視線を床に落とした。手にしていたスカーフが、ゆるりとほどけて垂れた。

 「そんなこと、わかってるよ。わかってるけど・・・」

 声が震える。佳子の心の怒りが、悲しみに変わる。


 「忘れられるわけないよ・・・母さんのこと、誰よりも大事にしてたじゃない。なのに、なんで、他の人を・・・」

 その言葉に、淳一が初めて前に出た。佳子の前に立ち、低く、静かな声で言う。

 「忘れてなどいない。母さんのことは、今でも毎日思い出す。けれど、それでも、残された者たちは、生きている。生きていかなきゃいけない。辛いさ、さみしいさ、でも、いつまでも悲しんでいても仕方ないんだよ。それは、母さんもわかっているはずだ」

 

 佳子は泣き出す寸前だった。淳一はその姿に手を伸ばしかけたが、結局、触れることはできなかった。

 「・・・お父さん、変わったね」

 佳子はそう言って、スカーフを仏壇の前に戻し、靴を履いて出ていった。玄関の戸が静かに閉まる音が、家の中に重く響いた。

 暫くして、車の遠ざかる音が、雨音の中に溶け込んでいった。


 残された父と息子の間に、深いため息のような沈黙が流れた。琢磨が、ぽつりとつぶやいた。

 「でも、きっと姉さんも、いつかわかると思うよ」

 雨はまだ、静かに降り続いていた。それは、佳子の癒されない哀しみのようでもあり、淳一の満たされない孤独でもあった。

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