第18話 沈黙の席

 六月。雨の気配を含んだ空が、図書館の天窓越しに広がっていた。淳一は、静まり返った図書館の窓辺に、ひとり腰を下ろしていた。読みかけの本はテーブルの上にあったが、ページは開かれたまま、指先が動くことはなかった。開いたままの本を見つめていたが、内容は何一つ彼の頭に入ってこなかった。陽射しの角度が、季節の変わり目をゆるやかに告げていた。


 この半月、いつもの様に図書館に来ていたが、あれ以来、みさきの姿を見てはいなかった。彼女の姿は、今日もなかった。


 みさきとは、この場所でしか会わなかった。知っているのは、名前と、職場くらい。彼女がどこに住んでいるのか、電話番号さえ知らなかった。メールも、SNSも交換していない。ただ、ここに来れば、みさきがいてくれる——そう信じていた自分が、滑稽にさえ思えた。


——彼女にとって、私は何だったのだろうか。

 ただの話し相手?それとも、亡き妻の影を引きずる、どこか哀れな熟年?

 そんなふうに見られていたとしたら、それでもかまわない気がした。だが、時折彼女が見せたあのまなざし。ことばの端々に滲む、どこか同じ痛みを知っている者だけが持つ静かな共鳴——それが、錯覚でなければいいと願っていた。彼女と話をする中で、私に亡き父の未来像を見ているのかもしれないと気付いていた。


 そして、同時に、自分自身にも問いかけていた。 

——私は、みさきをどう思っているのか。

 娘の佳子が言った『母さんを忘れたの?』という言葉が、胸の奥で鈍く疼く。忘れてなどいない。妻を愛していたし、今も愛している。それなのに。


 なのに——

『みさきに、会いたい』と、心の底から願ってしまう。

 ただ、話したい。ただ、そこに居て欲しい。なのに、その『ただ』は、何処かで『欲望』と隣り合わせになっていることにも気づいた。会いたいと思う気持ちは、清らかな好意なのか。それとも、男としての身勝手な執着なのか。娘と年の違わない若い女性を性の対象としている汚らわしい男なのだろうか。


(父親として、これでいいのか)

 そんな問いが、心の奥から静かに這い上がってくる。娘の佳子は、自分をどう見ているのだろう。あの夜、電話越しに震えていた佳子の声を思い出すたび、胸の奥が鈍く軋んだ。


 だが、それでも。答えは出なかった。出るはずもなかった。


 あの人の声を、忘れられなかった。

 落ち着いていて、優しくて、時々遠くを見るように静かだった目。川辺の風に、スカーフが揺れる音までもが、今も耳の奥に残っていた。


 誰かを想うことが、こんなにも罪に近い感覚だったとは思わなかった。

 亡き妻への悔いや、父としての責任感が重くのしかかる。その一方で、男として——いや、ひとりの人間として——もう一度誰かを愛したいと思う気持ちが、確かに息づいている。


 時計の針が静かに進む。館内に人の気配はまばらで、ページをめくる音が、やけに大きく響いた。

 みさきのいない図書館は、少しだけ空気が冷たい気がした。彼女の姿を探すことが癖になってしまった視線が、無意味に入口の方を見やる。そこには、誰もいなかった。


 ——みさき、今、どこにいるんだ・・・。君に遭いたい。

 淳一の想いは、どこにも届かず、静かな館内に吸い込まれていった。


 ひとり、図書館を出た帰り道、淳一の足取りは重かった。

 心にぽっかりと穴が空いたような感覚が、胸の内をじわじわと蝕んでいた。あれから半月。季節と同じように、淳一の心は曇っていた。


 このままではいけない。どこかで彼女の姿を探し求めている自分に、あきれる思いもあった。それでも、何もしないまま時間に流されていくのが、耐えられなかった。


 会社の定期診断で受診した病院に行けば会えるかもしれない。気づけば、自分でも驚くほど自然に、足がそちらへ向かっていた。駅前から少し離れた市民病院。定期健診を受けた階で、エレベーターを降りると、明るい待合室が広がっていた。中では数人が静かに順番を待っていた。


 受付の女性に声をかけると、丁寧だが申し訳なさそうな笑顔が返ってきた。

「申し訳ありませんが、勤務している職員の個人情報に関しては、お伝えできかねます。ご用件がありましたら、こちらから本人にお伝えする形になりますが・・・」


 当たり前の対応だった。だが、その当然の壁に阻まれたことで、淳一は改めて、自分が彼女のことを何も知らなかったことを痛感した。名前と、声と、いくつかの言葉しか知らない。図書館の静けさの中、近くの公園で交わした、あの時間だけがすべてだった。


 (私は・・・いったい、何をしているんだろう)


 恥じるような気持ちと、焦燥と、諦めが入り混じる中で、病院を出て歩道に立った淳一は、ふと視線を上げて、見覚えのある車がゆっくりと目の前を通り過ぎるのを見た。


 ——琢磨だった。


 運転席の彼がこちらに気づき、ハザードを点滅させながら、車を脇に寄せる。助手席の窓が開いて、息子の声がかかった。


「父さん?こんなところで、何してたの?」

 淳一は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに苦笑して返した。

「ちょっと・・・人を探していたんだよ」

「へぇ。珍しいな、父さんがそんなふうに誰かを探すなんて」


 琢磨は、気軽な口調で言いながらも、どこか父の表情に違和感を覚えたようだった。淳一が黙ったまま立っていると、彼は軽くハンドルを叩いて言った。

「飯、まだだったら行こうよ。近くに気になってた店があるんだ」

 息子の言葉が、思いがけず救いのように響いた。

「ああ、そうだな。腹が減ってきたところだ」

 そう言って助手席に乗り込むと、車のドアが閉まる音が、どこか遠くに感じられた。


 車は、駅前の喧騒を抜け、やがて裏通りの静かなレストランの駐車場に滑り込んだ。煉瓦づくりの外観が、どこか懐かしさを誘う小さなイタリアンだった。窓辺に灯るオレンジ色の照明が、梅雨の空気を少しだけ温かく包んでいるように見えた。

「ここ、母さんが好きだった味に似てるって聞いてさ」

 琢磨がそう言って笑う。何気ないその一言に、淳一の胸に一瞬、冷たい風が通り抜けた。だが、それを悟られまいと、小さく笑みを返す。


 席につき、オーダーを済ませると、テーブルの上に静けさが落ちた。カトラリーの触れ合う音、近くの席の笑い声。どれも遠くに感じた。


「それより父さん、今日、誰を探してたの?」

 水のグラスに口をつけながら、琢磨がふと聞いた。その声音は柔らかく、だがどこか核心を突く鋭さも孕んでいた。

 淳一はしばらく言葉を探し、ゆっくりと吐き出した。


「図書館で、知り合った女性がいるんだ。名前は、みさきさんっていうんだが。何度か、図書館で出会うようになって、話すようになって。それだけなんだが、なぜか気になってね」


 琢磨の手が止まり、彼は父を見た。

「気になってるって、どういう意味で?」

 その問いには、すぐに答えられなかった。琢磨はそれ以上詮索するような調子ではなく、ただ確認するような表情で父を見ていた。

 淳一は視線を落としたまま、低く、静かに答えた。


「正直に言えば、自分でもわからない。ただ、彼女と話していると、不思議と心が落ち着いた。妻を亡くしてから、そんなふうに感じた相手は、初めてだったよ」

 それは、告白というよりも、呟きだった。

 琢磨は黙ったまま、淳一の様子を伺っていた。軽い沈黙が二人の間に漂った。淳一は続けるかどうか迷ったが、言葉は止まらなかった。


「彼女が、どこに住んでいるのかも、電話番号も、何一つ知らない。ただ、図書館に行けば会える——そう思っていた。けど、もう二度と会えない気がして、それが怖かった」

 言葉にして初めて、自分の中にあった孤独が、形を持って浮かび上がった気がした。淳一の言葉に、琢磨のまなざしが微かに変わった。どこか、何かに思い当たるような、それでいて言葉にできない戸惑いが見えた。


「そうか。姉さんがラインしてきたのは、そのことだったのか」

 琢磨が口を開く。だが、その続きを言う前に、料理が運ばれてきて、彼は言葉を引っ込めた。

 テーブルにパスタとサラダが並ぶ。湯気の立つ皿の香りが、空腹を呼び起こすはずだったが、淳一の食欲はどこか遠のいていた。


 やがて、琢磨がふっと笑うように言った。

「父さん、なんか若いな。正直、ちょっと驚いた。でも、嫌じゃないよ」

「そうか?」

「姉さんは、大分お怒りだったけど。母さんがいなくなったら、父さんにはもう誰もいない、って思い込んでた。でも、生きてるんだもんな、俺たちも。父さんも。人を思う気持ちに、歳は関係ないよ」


 その言葉に、淳一の胸の奥で何かが静かに動いた。自分を責め続けていた心に、ほんのわずかでも、許しの芽が差し込んだような気がした。

 だが、まだ話せないことがあった。みさきへの想いのすべてを語るには、自分でも整理がついていない。そして琢磨の中にも、何か言い出せない言葉があるようだった。


 外では、静かに雨が降り始めていた。このまま梅雨入りするのだろうか。淳一は、ふと、そんな事を思った。このまま、みさきを諦めたくなかった。






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