第15話 父として男として
会社の帰り道、いつもなら真っ直ぐ家へ帰るのに、なぜか足がドラッグストアの前で止まった。
明るい店内には、仕事帰りの客がちらほらといる。特に用事があったわけではないが、何かに引き寄せられるように、自動ドアをくぐった。
店内には、薬や食品、日用品が整然と並んでいる。視線を巡らせるうち、ふと【ヘアケア】のコーナーが目に入った。
(白髪染めか…)
淳一は、白髪染めの棚に何気なく近づく。どこがどう違うのかは知らないが、女性用とは別に男性用が分けて置かれている。
こめかみに混じる白髪が、最近とくに目立つようになっていた。優子がいた頃は、『そのままでも渋くて素敵よ』と笑われ、特に気にしたことはなかった。だが、彼女がいなくなってからというもの、自分の身なりなどどうでもよくなっていた。
しかし、みさきに会ってから、少しだけ考えが変わった。
彼女がどう思っているかは分からない。それでも、無意識のうちに『もう少し若く見えた方がいいのではないか』と思っている自分がいた。
(バカみたいだな、俺も…いい年をして、今更若い子に好かれようなんて)
そう思いながらも、手は自然と商品へと伸びる。
【ナチュラルブラック】【ダークブラウン】と並ぶ箱を手に取ってみる。どちらが自然に仕上がるのか、自分にはどちらが似合うのかもわからない。こんなふうに、髪の色ひとつで悩むなんて、何十年ぶりだろうか。
後ろを通った女性の店員が一瞬こちらを見た気がして、少し気恥ずかしさを覚える。
(何を恥ずかしがってるんだ、俺は。)
無難そうな【ナチュラルブラック】を手に取ると、そのままカゴへ入れた。
次に向かったのは、オーデコロンのコーナーだった。
(コロンなんて、いつ以来だろう。)
若い頃は、それなりに身だしなみにも気を使っていたが、結婚してからは、使うのを止めてしまった。優子が亡くなってからは、身だしなみにもすっかり無頓着になった。そもそも、誰かに『いい匂いだ』と思われたいという気持ち自体が、ずっと薄れていたのだ。
棚には、さまざまな香りが並んでいる。甘いもの、爽やかなもの、ウッディなもの。どれが自分に合うのかなんて分からない。
適当にテスターを手首につけ、そっと香りを嗅いでみる。
(…悪くないな。)
柑橘系の爽やかさに、ほのかにウッドの落ち着いた香りが混じる。派手ではなく、さりげなく香るタイプ。これなら自分にも合うかもしれない。
「たまにはこういうのもいいかな…」
小さく呟いて、カゴに入れた。
レジへ向かうと、隣にはスキンケア用品を買う若い女性が並んでいた。彼女の手には化粧水や美容液があり、対する自分は白髪染めとオーデコロン。
(結局俺も、若く見せようとしてるってことか。)
そんな自分に少し苦笑した。
「お会計、○○円です」
財布から紙幣を取り出しながら、みさきの言葉を思い出した。
『誰かを大切に思った時間は、きっと消えたりしませんから』
この気持ちは何なのだろう。彼女のことをどう思っているのか自分でもわからない。けれど、久しく感じなかった『もう少し自分を良く見せたい』という欲求が芽生えたのは事実だった。
ビニール袋を片手に、店を出る。夜の空気はひんやりと冷たく、頬を撫でる風が心地よかった。
(次に会うとき、みさきは気づくだろうか。)
そんなことを考えながら、ゆっくりと帰路についた。
静かな夜だった。
リビングのソファに腰を下ろすと、テレビの音だけが部屋に響いていた。ニュースキャスターの低い声が流れ、画面には桜前線の話題が映し出される。だが、その内容は淳一の耳には入らず、ただ背景の音のように通り過ぎていった。リモコンを手に持ったまま、彼は焦点の定まらない視線をテレビに漂わせていた。
街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、床に淡い影を落としている。時計の針が十一時を回り、遠くで車の音が一瞬聞こえた後、再び深い静寂が部屋を包んだ。春の夜とはいえ、冷えた空気がソファの布に染み込み、背中に微かな寒さが触れる。テーブルの上には冷めた湯呑が置きっぱなしになり、かつての湯気が消えた表面が寂しげに佇んでいる。
淳一は湯呑を手に持ったまま立ち上がり、窓辺に寄った。カーテンを開けて外を見ると、街灯の下に桜の花びらが薄く積もり、風に揺られて小さく舞っている。窓を開けると、春の風がそっと吹き込んできた。桜の散る時期特有の甘い香りが漂い、近くの公園から風に運ばれた花びらが舞い込んでくる。春の訪れを感じさせるその光景に、みさきの面影が重なり、なぜか胸が締め付けられた。佳子と、みさき。歳の差は、ほとんどない。それなのに、なぜ彼女に会うとこんなにも心が揺れるのか。
淳一はソファに戻って目を閉じ、背に頭を預けた。娘に対する気持ちとは明らかに違う何かが、自分の中に生まれている。それは温かく柔らかく、だがどこか落ち着かない感情だった。58歳の自分には、それが何なのか、まだはっきりと名付けられない。
指先でリモコンを軽く叩きながら、胸の奥に渦巻く思いを整理しようとしたが、言葉にならないもどかしさが残る。テレビの音が遠ざかり、部屋の静寂が一層深まった。開けたままの窓から、風がカーテンを揺らし、その音がまるで心のざわめきを映しているようだった。
思い出すのは、三回忌で佳子と会った日のことだった。春の初め、3月の肌寒い日に法要が終わり、親戚たちが帰った後、彼女はろくに目も合わせず、『じゃあね』と短く言って玄関を出ていった。黒いコートの背中が遠ざかり、足音がコンクリートの階段を下りていくのを聞きながら、淳一は何も言えなかった。あの冷たい視線と、無表情に閉じた口元が、今でも目に焼き付いている。法要の間、佳子は仏壇の前で手を合わせていたが、その瞳はどこか遠くを見ていた。琢磨が『お姉ちゃんも父さんのこと心配しているんだよ』とフォローしてくれたが、佳子が『お父さんも、元気でね』と小さく呟いた声は、温もりというより義務感に満ちていた。
かつては、もっと素直に笑い、甘えてきた娘だった。佳子がまだ小さかった頃、仕事で帰りが遅い日、彼女が玄関先で『お父さん、おそい!』と頬を膨らませて待っていた。靴を脱ぐ間も待てず、『今日ね、絵で賞もらったの!』と、小さな手で画用紙を差し出してくれた。優子が、『佳子ったら、あなたが帰ってくるまで待つって聞かなくて』と笑いながら台所から出てきたあの夜が、鮮やかに蘇る。
運動会では、恥ずかしがりながらも私に向って、一生懸命に手を振ってくれた。小さな手がリレーのバトンを握り、ゴールで『見ててくれた?』と笑った顔が、記憶の中で輝いている。中学生になると、佳子は『お父さん、数学教えてよ』とノートを広げ、二人で居間に座って問題を解いた。優子が『淳一、厳しくしすぎないでね』と笑いながら、お茶を淹れてくれたあの時間が、家族の温もりを確かに感じさせていた。
しかし、優子が胃がんで倒れ、家族が崩れたとき、佳子との関係もまた変わってしまった。2年前、琢磨が高校を卒業した春、優子が『健診を受けようかと思う』とぽつりと言った時、淳一は特に気に留めなかった。それまで彼女が具合を悪そうにしているのを見たことがなかった。ただ、気付かなかっただけかもしれない。初めての人間ドックで胃がんが見つかり、手遅れだと宣告された時、淳一は仕事に逃げた。残業を言い訳に、家に居る時間を減らし、電話越しの佳子の『お母さん、どうなるの?』という震えた声を聞かないふりをした。
優子の病室で、佳子が『お父さんを待ってたのに』と泣き崩れた日、淳一は仕事の電話を切れず、病院に着いた時には彼女の息が止まっていた。優子の手を握り、『ごめん』と呟いた時、佳子は冷たく目を逸らし、黙って部屋を出ていった。あの時、もっとそばにいてやれば良かった。
「佳子に嫌われるのは、当然かもしれないな…」
淳一は小さく息をつき、湯呑をテーブルに戻した。冷めたお茶の表面が揺れ、街灯の光を弱く反射する。佳子への気持ちは、愛情と後悔が混じった複雑なものだ。父親として家族を守れなかった罪悪感と、これからの娘の幸せを願う思いが、いつも胸に重く沈んでいる。
彼女が笑顔を取り戻す日を願いつつ、それが自分と離れた場所で叶うのかもしれないと思うと、寂しさが募る。窓の外で桜の花びらが舞い、春の風がその儚さを運んでくる。
けれど、みさきに対して感じるものは、それとは違う。娘を想うような保護者としての気持ちとは、明らかに別のものだ。みさきを見ていると、胸の奥に柔らかいものが広がる。彼女の穏やかな笑顔や、静かな声が心に残り続ける。医療センターで初めて会った時、『佐藤淳一様ですね』と柔らかく言った声が、耳に残った。図書館で再会し、『雨の日に読むと気持ちが落ち着くんです』と詩集を見せた笑顔が、頭から離れない。雨上がりの道を並んで歩いた時、彼女が『詩は記憶と似てる気がするんです』と言った声が、心に響く。
公園のベンチで『誰かがそばにいてくれることが貴重なんです』と告白した瞳が、胸を締め付けた。
佳子と同じくらいの年齢のはずなのに、なぜこんなにも違うのか。単純に『自分の娘ではないから』というだけでは説明がつかない。
みさきを見ていると、どこか懐かしさを覚える。それは、彼女の仕草や言葉の端々に、優子の面影を感じるからかもしれない。優子の笑った声や優しく接する姿が、みさきの穏やかさと重なる。優子が病室で『あなたが元気でいてくれれば』と弱々しく笑ったあの瞬間が、みさきの『後悔しないでくださいね』という言葉と重なった。けれど、それだけではなかった。
みさきの笑顔には、「生きている」という響きがあった。彼女が桜の花びらをつまんだ細い指先や、風に揺れるマフラーを触る仕草が、鮮やかに心に刻まれている。それは、優子の記憶とは異なる、新しい温もりだった。
「これは、何なんだろうな」
淳一は目を閉じ、心の中で自問した。みさきに対する感情には、もっと別の、もっと根源的なものがある。父親として娘を守る気持ちとは違い、ひとりの男として、彼女のそばにいたいと思う気持ちだ。それは、優子が死に、二年間凍りついていた心が、初めて溶け出すような感覚だった。
図書館で『またお会いできたら嬉しいです』と言った彼女の声が、耳に残る。公園で『また会えますか?』と尋ねた瞳に滲んだ不安が、胸を締め付ける。本当は、もっとみさきの事を知りたいと、みさきと話をしていたいと思う自分がいる。
彼女の告白を聞いた日から、みさきの存在が余計に頭から離れなくなった。短大時代に恋人に裏切られ、ひどい目に遭ったという話が、淳一の心に重く沈んだ。『それでも佐藤さんとは安心できるんです』と語った彼女の声が、なぜか優子の『そばにいて』という願いと重なり、だがそれを超えた何かを感じさせた。
みさきは、淳一のひとりの男としての眠っていた本能を引き出した。彼女の瞳に宿る穏やかさと、どこか遠くを見ているような影が、彼の心に波を立てる。
だが、同時に、それが許されるのかという葛藤も生まれる。佳子と同じ位の女性に、こんな感情を抱く自分を、どう受け止めればいいのか。58歳という年齢で、家族以外の誰かに心を動かされることがあっていいのか。みさきと過ごした時間が、凍りついた日常に小さな風を吹き込んだ。それは、優子の記憶を裏切るのではないか。優子が生きていたら、怒るだろうか、愛想をつかされるだろうか。もしかしたら『淳一らしいね』と笑ってくれるかもしれない。
だが、佳子が知ったらどう思うだろう。父親が、娘と同じ歳の女性に心を寄せるなんて、許されないことだろうか。佳子が『お父さん、気持ち悪い』と冷たく背を向ける姿が、頭をよぎる。彼女の冷たい視線が、三回忌の日のように胸に突き刺さる。
「俺は、父親という役割で終わってしまうのか?」
そんな問いが頭をよぎる。優子が生きていた頃は、家族を守る父親であり、妻を支える夫だった。16歳で父を失い、母と弟たちを支えるために大学を諦め、地元の企業に就職した。男子校で育ち、女性に慣れていなかった自分が、優子と出会い、彼女の優しさ、行動力に惹かれて結婚を決意した。優子との結婚後、佳子と琢磨が生まれ、仕事優先の人生を送ってきた。週末には家族を連れて公園に行き、優子と並んでベンチで缶コーヒーを飲んだ。佳子が『お父さん、もっと早く走ってよ』と笑い、琢磨が小さな手で木の枝を拾ったいたあの時間が、家族の形だった。
だが、優子が去り、佳子と琢磨が離れ、今はただ一人で生きている。リビングの隅に置かれた家族写真が、埃をかぶっている。写真の中で、佳子は笑い、優子は穏やかに微笑んでいる。だが、その笑顔は遠く、今の自分には届かない。
けれど、みさきとの時間は、それとは明らかに違った。彼女と歩いた雨上がりの道、公園のベンチで聞いた告白が、確かに自分を癒している。彼女が桜の花びらを指でつまんだ瞬間、風に揺れるマフラーをそっと触れた仕草。なぜかその光景は、優子の記憶とは違う鮮やかさで、心に刻まれた。それは、今を共に生きる誰かとの繋がりだった。
最近、彼女に会うたびに身だしなみに気を使うようになり、白髪を染め、コロンを手に取る自分に気づく。それは、老いていく自分に抗う気持ちなのか、それとも、彼女に良く見られたいという思いなのか。
ソファから立ち上がり、淳一は仏壇の前に座った。優子の遺影が穏やかに微笑んでいる。線香立ての横には、彼女が使っていた緑のショールが畳まれて置かれている。佳子が『お母さんの形見だから』と置いていったものだ。淳一はショールを手に取り、その柔らかな感触を指で確かめた。
「優子なら、どう思う?」と心の中で呟いた。優子が生きていたら、『淳一らしいね』と笑うだろうか。それとも、『佳子が可哀想よ』と静かにたしなめただろうか。答えは返ってこない。ただ、みさきと過ごした時間が、確かに自分に新たな息吹を与えていると感じていた。
テレビが深夜番組に切り替わり、低い笑い声が部屋に響く。淳一はリモコンを手に電源を切り、静寂が再び戻った。みさきにまた会えば、この葛藤に答えが見つかるのだろうか。それとも、もっと深く迷うだけなのか。父親としての感情と、ひとりの男としての感情。その狭間で、淳一は静かに葛藤していた。
部屋の電気を消し、仏壇の線香の火が小さく揺れるのを見つめた。優子の笑顔が、暗闇の中で静かに見守っている。みさきとの時間が、凍りついた日常に小さな風を吹き込んだ。それは、再生への一歩なのか。あるいは、新たな後悔の始まりなのか。窓の外で桜の花びらが舞い、春の夜が更けていく。淳一は寝室に向かい葛藤を抱えたまま、静かに眠りに落ちていった。冷えた部屋に、ただ彼の息遣いだけが小さく響いていた。
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