第14話 過去


 最近、淳一は休日になると決まった時間に図書館へ足を運ぶようになった。みさきが先に静かなテーブルで本を開いている姿を目にすると、心が春の光に触れるようだった。同じテーブルに座ってしばらくはお互いの趣味の読書に没頭する。そして、頃合いを見計らってどちらともなくいつもの公園へと歩き出すのが常になっていた。


 二人が公園のベンチに腰を下ろすと、静かに風が吹き抜けた。桜の花びらが春風に舞い、淡いピンク色の影を地面に落としている。春の日差しが柔らかく木々の間を通り抜け、芝生にまだ残る朝露が小さく光っていた。ベンチの木の感触が冷たく、座面に染みた湿気がズボン越しに伝わる。遠くで鳥の声が小さく響き、風が枝を揺らす音が穏やかに耳に届く。淳一は隣に座るみさきを横目で見ながら、図書館での会話や散歩の余韻がまだ胸に残っているのを感じていた。


 みさきは指先でスカートの裾をつまみながら、小さく息を吐いた。彼女の髪が風に軽く揺れ、白いセーターに巻かれたグレーのマフラーがわずかに動く。しかし、その動きがどこか不自然に感じられた。風が吹いているのに、彼女の髪は他の枝や葉ほど揺れていない気がした。まるで、彼女の周りだけ風が流れを変えているかのように。


「佐藤さん」と、みさきが静かに口を開いた。

「ん?」と、淳一は視線を彼女に向けた。

「私は、恋愛って『そこにいること』だと思うんです」と、彼女は言った。

 昨日もみさきは、図書館で恋愛観を淳一に語っていた。恋愛とはお互いに『時間を共有すること』と言っていた言葉が、今日は少し変化したような響きに、淳一はゆっくりと首を傾げた。

「そこにいること?」と聞き返すと、みさきは小さく頷いた。

「ええ。好きとか、大事とか、そういうのって、言葉にしなくても伝わることがあるじゃないですか」

 彼女は自分の指先をじっと見つめ、スカートの布をそっと撫でた。その仕草に、どこか遠慮がちな慎重さがあった。

 

 淳一は少し考え、言葉を探した。

「確かに、そういう瞬間はあるな。私も、妻と一緒にいた頃は、黙っていてもお互いの気持ちがわかる時があった」

 優子が台所で料理をしている背中を眺めながら、何も言わずに湯呑を手に持つ。そんな何気ない時間が、確かに『そこにいる』だけで通じ合っていた気がする。だが、その記憶が今は遠く、胸に小さく疼くだけだ。


 みさきは遠くを眺めながら続けた。

「でも、それが本当かどうかはわからない。結局、人の気持ちは変わるし、どこかで途切れてしまうこともあるし」

 彼女の言葉の端々には、何かを押し殺しているような静けさがあった。風が桜の花びらを散らし、ベンチの前に淡い影が落ちる。みさきの瞳が、一瞬、深い影を帯びたように見えた。


(過去に、何かあったんだろうか)

 淳一はそう思いながら、彼女の横顔を見つめた。みさきの声には、穏やかさの中に隠された重さがある。無理に聞き出すつもりはなかったが、彼女が何かを抱えていることは、言葉の間から滲み出ていた。

「私はどうだろうな」と、淳一は静かに言った。

「私も、そういう時間は大事だと思うよ。ただ…気持ちって、ずっと同じままじゃいられないこともあるだろ」

「変わるのが怖いですか?」とみさきが尋ねた。 

 彼女の声は柔らかく、だがどこか鋭く胸に刺さった。淳一は少し考え、

「怖いというよりは…寂しい、かな」と答えた。


 優子が病室で『あなたが元気でいてくれれば』と笑ったあの瞬間が、今でも鮮明に蘇る。だが、その笑顔が遠ざかり、佳子や琢磨との距離が広がる寂しさが、今の自分を包んでいる。

 みさきはふっと笑った。

「佐藤さんは、そういうところが優しいですよね」

「そうか?」と返すと、彼女は小さく頷いた。

「ええ。寂しさをちゃんと知っている人なんだなって思います」

 その言葉が、妙に心の奥に染み込んだ。優子の死後、二年間の孤独が、確かに淳一に寂しさという感覚を刻み込んでいた。だが、それを誰かに言われることはなかった。


 彼女は膝の上で指を組み、遠くの桜を見ながら続けた。

「私は、誰かの特別になりたかったんです。だけど、それはただの幻想でした」

 声が少し低くなり、彼女の指がスカートをぎゅっと握った。淳一は黙って彼女を見守った。何か重い話が続く予感がした。

「…大学の時、好きな人がいたんです」と、みさきがぽつりと言った。

「昨日の話か?」と淳一が尋ねると、彼女は小さく頷いた。

「ええ。でも、それだけじゃないんです」


 みさきは少しずつ言葉を選ぶように話し始めた。

「最初は、普通の恋愛でした。彼は穏やかで優しくて、本を読むのが好きで…私とはよく似た人だったんです」

「付き合ってたのか?」と淳一が尋ねると、みさきは少しだけ間を置いた。

「…ええ。でも、それは私が思っていた恋愛じゃなかった」

 穏やかだったはずの彼女の表情に、かすかな曇りが落ちる。風が彼女の髪を少しだけ乱し、桜の花びらがベンチの足元に落ちた。

「彼は、最初は優しかった。私と同じ価値観の人だと思っていた。でもそれは私の幻想だったんです」と、みさきは静かに続けた。

「いつか、彼にとって私の気持ちは関係なくなっていました。彼が望むことに、私は従わなければならなくなっていって…」

 

 彼女の声が小さくなり、指が膝の上で震えた。淳一は言葉を挟まず、ただ彼女の話に耳を傾けた。

「最初は些細なことでした。彼の望みを強要されたり、私の趣味を笑われたり。でも、だんだんと…」

 そこから先を言おうとして、みさきは言葉をのみこんだ。彼女の瞳が一瞬潤んだように見えたが、すぐに目を伏せて隠した。淳一は黙って彼女の横顔を見つめた。

(それ以上は、話せないんだな)と心の中で思った。無理に聞き出す気はなかった。彼女が自分で話したいと思うまで、待つのがいい。


 みさきは小さく微笑んだ。

「ごめんなさい。暗い話になってしまいましたね」

「いや」と、淳一は首を振った。

「気にしなくていいよ」

 彼女は小さく息をつき、

「でも、そんなことがあったからこそ、私は“そこにいること”の大切さを知ったんです」と続けた。

「どういう意味だ?」と淳一が尋ねると、みさきは静かに桜の花びらを指先でつまんだ。

「誰かがそばにいてくれること。それが、どれほど貴重なことなのかって」


 その言葉に、淳一の胸が小さく締め付けられた。優子が病室で『そばにいて』と手を握ったあの瞬間が、頭をよぎる。あの時、もっと早く仕事を切り上げていれば。佳子や琢磨ともっと時間を過ごしていれば。そんな後悔が、みさきの言葉に重なった。

「だから、佐藤さんも後悔しないでくださいね」と、彼女が言った。

「誰かを大切に思った時間は、きっと消えたりしませんから」


 その声は、誰よりも自分自身に向けた言葉のように聞こえた。

 みさきの瞳はどこか遠くを見つめながら、ほんのわずかに揺れている。風が再び吹き抜け、桜の花びらが舞った。だが、彼女の髪はほとんど動かない。ベンチの上で足を組み替えた時も、その動きに音が伴わない気がした。まるで、ここにいるはずなのに、ほんの少しだけ別の世界にいるような感覚。淳一はその違和感を意識しながらも、口には出さなかった。


 しばらくの沈黙が流れた。公園の木々が風に揺れ、遠くで子供の笑い声が小さく聞こえる。みさきが再び口を開いた。

「私の家、母と二人暮らしなんです。父は、私が小学生の頃、突然いなくなってしまって」

 その言葉に、淳一は少し驚いた。

「そうなのか」と返すと、彼女は小さく頷いた。

「建設現場の事故だったんです。突然のことで、母はすごく大変だったみたい。私も、兄も、まだ小さかったから」

「兄がいるのか?」と尋ねると、みさきは苦笑した。

「ええ、二つ上の兄がいます。でも、高校を出てから家を出てしまって、今は都会で一人暮らししてるみたい。ほとんど帰ってこないんです」

 彼女の声に、微かな寂しさが混じる。

「母と二人で暮らしてたから、高校の頃からバイトして、少しでも家計の足しにしようって頑張ってたんですけど…」

 みさきは言葉を切り、小さく笑った。

「なんか、昔話ばっかりですね」

「いや、いいよ。聞いていて興味深い」と、淳一は言った。


 みさきの過去が、少しずつ彼女の穏やかさの裏にあるものを明らかにしていく。母子家庭で育ち、兄が家を出て、彼女が母を支えてきた。そんな背景が、彼女の静かな強さに繋がっているのかもしれない。

「短大に入ってからも、バイトしながら勉強してたんです。その頃に彼と出会ったんです」と、みさきが再び話し始めた。

「本が好きで、映画が好きで、私と似てるって思ってた。でも…」


 彼女の声が小さくなり、指がスカートを強く握った。

「付き合い始めて半年くらい経った時、彼が変わったんです。優しかった人が、だんだん冷たくなって。私が何を言っても、『お前が悪い』って言うようになって、自分の思うようにならないと、暴力も振るうようになっていた」


 淳一は黙って聞いていた。みさきの言葉が、どこか優子の病気の頃を思い出させる。あの時、佳子が『お父さんを待ってたのに』と泣いた声が、耳に蘇る。みさきは目を伏せ、

「ある日、彼に連れられて、友達の家に行ったんです。そこで…」と、言葉を止めた。彼女の肩が小さく震え、淳一は何か重いものが彼女を押し潰しているのを感じた。

「無理に話さなくていい」と、淳一が静かに言った。


 みさきは首を振って、

「いえ、話したいんです」と答えた。

「その日、彼と彼の友達に…心を踏みにじるようなことをされました」

 声が震え、彼女の指がスカートをぎゅっと握った。

「私が嫌がっても、誰も止めてくれなくて。結局、彼は『お前が悪い』って、私を置いて帰ったんです」


 その言葉に、淳一の胸が締め付けられた。彼女の穏やかな笑顔の裏に、そんな傷があったとは。

「…それは、辛かったな」と、淳一は静かに言った。みさきは小さく頷き、

「それから、男の人が怖くなってしまって。母以外、誰ともあまり話せなくなったんです」と続けた。

「短大を出て、医療事務の仕事に就いたけど、ずっと心のどこかで怖かった。でも、佐藤さんとは…なんか、安心できるんです」

「そうか」と、淳一は小さく笑った。

「私も、みさきさんと話してると落ち着くな」


 みさきの告白が、彼に優子の最期を思い起こさせていた。あの時、もっとそばにいてやれなかった後悔が、みさきの言葉に共鳴する。

「みさきさんは、強いな」と、淳一が言うと、みさきは首を振った。

「強くなんてないです。ただ、生きているだけなんです」

 

 風が再び吹き、桜の花びらが舞った。みさきの髪が少し遅れてさらさらと揺れるのを見ていると、淳一は、彼女の若さに自分の年齢を思い、誰かに見られていないかと気恥ずかしくなる。彼は、彼女の存在が現実と少しずれているような錯覚に陥った。


「佐藤さん」と、みさきが彼を見た。

「また、会えますか?」

 彼女の瞳には、ほんの少しの不安が滲んでいるように見えた。

「…ああ」と、淳一は自然と答えた。

 みさきはふっと微笑んだ。

「よかった。もし、父が生きていたら、佐藤さんみたいだったかも・・・」


 春の風が、二人の間をそっと吹き抜ける。それはまるで、二人を繋ぎとめようとするかのように感じられた。

 陽が傾き始め、公園の影が長く伸びる。みさきが立ち上がり、

「そろそろ帰ります」と言うと、淳一も立ち上がった。

「気をつけてな」と声をかけると、彼女は小さく手を振った。


 彼女の姿が遠ざかるのを見送りながら、淳一はふと足元を見た。自分の靴跡が芝生に残る中、彼女のいた場所に桜の花びらがそっと舞い落ちた。

(これは現実なのか?)

 そんな思いが頭をよぎったが、淳一は小さく首を振った。みさきの告白が、淳一の心に春の光を灯した。彼女の傷と強さを知った今、彼女ともっとそばにいたいと願う自分に気づいた。

 夕暮れの春の光が、公園を優しく包み込んでいた。

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