Cocktail.
葛城 雨響
1
カクテルグラスを、君は揺らす。そんな君がひどく愛おしく思える。店主が俺に目配せをしたから、俺は君の手に触れた。
鮮やかな歓楽街の裏路地に、ぽつねんと光る電灯だけが扉の所在を示している。キィ、と音を立て開いた先には、艶やかな夜の世界が広がっている。初めて扉をくぐった時、俺はまだ二十歳だった。どうしようもなく世界に絶望して、どうにでもなってしまいたかった俺を友人の伊崎がここに引き連れてきた。甘い夜の世界は、ささくれた俺を染め上げるには十分すぎる程に濃い世界だった。俺をこんなにしてしまった、そう思う。
「甘いのしか飲めないんだ」と、君は俺に言った。君の手にはピンク・レディ。コルクで出来たコースターは既に水滴を吸い込んで、暗く染まっている。俺は飲みかけのグラスを置き、君の方を見た。君は蕩けた眼で空を見つめている。その瞳が妙に懐かしく思えた。俺も、昔はこんな目で世界を眺めていた気がする。
あれはいつだったか。鏡を見れば、うつろな目をした男がこちらをにらみ返す。風呂上がりの俺の髪はずぶ濡れで、長い髪がさらに重く見えた。洗面台に滴る水滴は、滞りなく流れてゆく。もうずいぶん外に出ていない。出前とネットスーパーさえあれば人間は生きていけるのだと思う、人間らしいかは別だが。もう人間として生きる気も失せている。俺は、化け物なのかもしれない。
二十歳になって半年経った頃、母親が死んだ。母親はあれよあれよという間に燃やされ、家に残ったのは俺だけ。死体を見つけた時、夕飯になるはずだったコンビニのラーメンが今もそこにある。死に場所の寝室には入れない、あの日を思い出すから。
一週間ぶりに大学に行ったとき、いつも一緒に授業を受けている友人、伊崎友樹が俺に声を掛けた。暇なら飲みにいかないかという話だった。俺は乗り気ではなかったが、彼の目が輝いていて断る気も失せた。授業後、俺たちは有名な飲み屋街へと足を運ぶ。ここからだと近いんだよ、と言った彼は裏路地をずんずん進んでいく。彼の後ろを追っていくと、突如現れた扉を慣れた手つきで彼は開けた。そこらへんの壁の色と同化して見えていなかった扉は俺の頭を打つ。彼はごめんと笑うと店内に俺を案内した。
彼の叔父が営む小さなバー。店主である彼は「マドカ」と名乗った。円、と書いてマドカらしい。女みたいな名前。黒光りしたボブヘアに小ぶりのピアスをしている。実際に女みたいな風体をしているからそういう客にもウケるんじゃないか、そう思う。
「死ぬんじゃないよ」
マドカは、俺を見て言った。ふわりとした笑顔を浮かべながら。俺は何も言っていない、見た目に出ていたのか。それほどまでに俺はどうにかなっていたのか?
「俺は、死にはしませんよ」
答えた。ほんとかなぁ、と言ってマドカはシェイカーを振り始めた。賑やかな店内で微かに伊崎の声がした。
「円、すげぇんだよ。イメージカクテルってやつ作るのが趣味で、ここはそれが席料みたいな感じになるんだ。面白いでしょ」
へぇ、と言うと既に作ってもらっていたであろうカクテルを伊崎は口に運ぶ。そのカクテルはきれいな赤色をしている。
「これ俺のお気に入りなの」
彼はふへへ、と笑うとカクテルグラスをくるりと回した。彼の手に嵌ったリングがきらりと光って、眩しかった。マドカが俺の前にカクテルを差し出したのを見て、口をつける。滅多に口にしない度数に、頭が眩んだ。
時間が経つにつれ、客が一人また一人と店を出ていく。いつの間にか残った俺たちは、ぼやけた頭で中身のない会話を続けていた。
「学校もっと楽しくならないかな、新しい授業とか」
「同じレベルが集まったところで、何も生まれないよ」
「大学、なんで入ったの?」
「ん? んー」
マドカは様々なカクテルを差し出してくる。赤、緑、白。グラスを満たす色とりどりの液体を眺めていると、美術館にいるのではないかという錯覚を起こす。マドカの作るカクテルは色も様々なら度数も様々。頭に響くようなアルコールを感じた後には、さっぱりした鼻を抜ける香りを持つジュースのようなものが出てくる。どれもこれも、美味い。
「これ、美味しいでしょ」
俺の飲んでいるグラスを指し、マドカは言う。えぇ、と返すと酔った伊崎が鼻高々に語り始める。
「これ、チャイナ・ブルーっていうんだよ。甘くて美味しいやつ、俺は飲めないんだけどね。俺が飲める甘いのは、これだけ」
俺の方を見て、伊崎はグラスを揺らした。赤く火照った顔がやけに魅力的に思えて、酔いが回ったことに気付く。
「友樹が飲んでるのは、ピンク・レディだよ。初めて飲ませたカクテル、僕も好き」
マドカは微かに笑いながら言う。笑った目が、伊崎によく似ている。チャイナ・ブルーの青い甘さが口に広がり、夜の世界に飲み込まれていく。そんな俺を見てマドカは言う。
「カクテルって、自由なんだよ。甘くても、辛くても、ピンクでも青でも透明でもいい。誰にも縛られない」
マドカの言葉に、ふと気づく。俺は、縛られている、かもしれない。
「文斗は、何に縛られてるの?」
横から伊崎が言う。ぽろりと、本音が漏れる。
「俺は、母親に」
裏切られた。そう言ってからが早かった。何もかもを吐露する、吐き気が止まらない。大卒の母親に憧れて大学入学を決めたこと、実際の母親は高校中退の負債持ちだったこと、その負債で俺の祖母は首を括ったこと。そんな人間を、俺は信じてしまっていたこと。それを、それらを、本人が死んでから知ったこと。彼らは、何も言わなかった。俺の身体から、力が抜ける。その日の俺の記憶はそこまで。翌日、いやに胸が苦しく、便所から出られなかった。止まない嗚咽を処理した後は、堪らなく気持ちが良かった。その日を境に、母親に固執することは、なくなった。
さて。あれから何年経ったか。俺は適当な会社に入り、適当に仕事をし、適当な人生を送っている。時代の波に揉まれ、世界には多様な人間がいることを知った。それでも俺は、マドカのことを忘れられないまま。シャツの襟がくたびれている。
「お」
扉を開いた先、マドカはいなかった。その代わりに、パリッとした背広に身を包んだ伊崎がカウンターに立っている。
「久しぶり」
「あ、文斗。ねぇ、あの、大学時代にさ」
伊崎は端に座る客に語った。それは紛れもなく記憶に染み付いていた彼で、彼も驚いた様にこちらを見る。彼の風体は未だ変わらずボブヘアの隙間からピアスが覗く。女のようだった。
「生きてたんだ」と、マドカは言う。はい、と返すと、彼はまたあの時のふわりとした笑みを浮かべた。
「隣、空いてるよ」
俺は少しだけネクタイを緩め、彼の隣に座る。甘い香水がかぐわしい。
「生きててよかった」
そう聞こえた。甘い香りと耳馴染みのいい言葉、そして伊崎の出したチャイナ・ブルーの甘さに酔いが回る。ふと、あの時の言葉がフラッシュバックする。
「マドカさん、は、何かに縛られていたりするんですか」
マドカは、傾けていたグラスを戻し、つぶやく。
「縛られてない、ふりをして生きてるかなぁ」
微笑む眼の奥に、光は無い。あの時の俺と同じ目をしている気がした。偽物の笑みを浮かべたマドカの目元に、前は無かった皺が見えた。
「マドカさん、何か飲みますか。おごりますよ」
俺の言葉にマドカは驚く。
「言うねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて」
「ピンク・レディで、いいですか」
「……記憶力いいんだね」
俺の歩んだ人生は、一般的なものではない。だけどそれは抱えるものの種類の違いなだけで、特別稀有なものでもないのだ。
「はい、どうぞ」
差し出されたグラスを揺らして、マドカは遠くを見つめている。潤んだ瞳に、吸い込まれていく。
「やっぱり、好きなんですね。俺、あの後マティーニにハマっちゃって」
「そうなんだ、大人だね」
後で飲みますか、と言うとマドカは、遠慮しとくよ、と言った。
「甘いのしか飲めないんだ」
横髪を耳にかけ、マドカが言う。漂う彼の香りに、惑わされる。俺はもう、縛られない。そう心に決める。
「マドカさん、この後あいてますか」
伊崎が驚いた様にこちらを見て、微笑んだ。俺は、彼の手に触れた。右手の薬指をなぞると、ピクリとマドカの手が動く。彼は何も言わず、ただ微笑んで。
この世界はカクテル。混ざったり混ざらなかったりして、世界は進む。どうなっても、怖いものはない。そう教えてくれたのはマドカだった。それを今は、俺が教えなければいけない。そう思った。
「ねぇ、色々教えてくださいよ」
俺の色に、してしまいたいと思った。
Cocktail. 葛城 雨響 @1682-763
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