第2章 2つの曲名
名前というのはいつも大事な意味を持つ。人間は概念や事象に名前をつけることで他のものと区別を行い、その対象を正確に認識しようとする。それが人の名前であった場合、アイデンティティーを形成する手助けになるし、相手の名前を口にすることで信頼感を得るきっかけになったりもする。
というのは私の大学で学んでいることの受け売りだとしても、とにかく名前を知ったり口にしたりすることは、とても大事だというのは誰しも感じたことはあると思う。
「いらっしゃいませ」
繁華街から一本だけ離れた路地にある、隠れ家的な喫茶店「ファンティーヌ」。だんだんと通い慣れてきた足でそこの入口をくぐると、元気な声で出迎えてくれるのは店員の「ユイちゃん」だ。
「あ、景さん。今日も来てくれたんですね」
人の良さそうな笑顔と愛嬌が特徴のユイちゃんは、私の名を呼んでにこにこと微笑んでくれる。このお店に来た回数はまだ片手に収まるくらいで、常連というには少し心もとないくらいだけれど、そんな私の名前を気さくに呼んで親しくしてくれる彼女は、まさしく接客の名人だと思う。
「うん、時間があったから。柊さんはいる?」
「もちろんですよ。じゃあカウンター席へどうぞ」
ユイちゃんに案内されるまま店の奥の方へ進むと、カウンターの中には既に見覚えのある女性が座っているのが見えた。彼女はこの喫茶店のマスターで、謎多き美女の柊さんだ。下の名前は奏(かなで)なのだとユイちゃんに教えてもらったけれど、さすがにまだ名前で呼ぶ勇気は私にない。
「また来たの。学生は暇そうでいいわね」
足音でわかったのか、あるいは入口での会話を聞いていたのか、柊さんはこちらを見ようともせずにそう口にする。
「いや、院生って結構忙しいんですよ。今日も朝からずっと大学にいたんですから」
私は都内の大学院に通っていて、心理学を専門的に研究している。それは以前にも柊さんに説明したのだが、彼女からすると学生は遊んでいるものらしい。
「そう」
私がそう言い訳をしても、柊さんは興味をまるで示そうとしない。彼女はカウンターの側に積み上げた音楽雑誌を読んでいて、今は「80年代の名盤」と表紙に書かれた本のページをめくっているところだった。
一般的な喫茶店のマスターというのがどんな仕事をするのかは知らないが、この人はいつもカウンターの中でこうして雑誌や本を読んでいたり、あるいはスピーカーから流れる音楽に耳を傾けていたり、コーヒーやお茶を静かに飲んでいたりと、ほとんどお客さんと変わらないような過ごし方をしている。けれどそんな様子はこのお店ではごく普通のことで、常連さんも含めて誰も柊さんの時間を邪魔しないし、それに彼女のような美人がカウンターの中に座っているというだけでも、なんとなく店内の雰囲気が良くなる感じがするものだった。
「それで、今日は何の用?」
私が注文したエスプレッソを用意しながら、柊さんがそうたずねてくる。あまり愛想はないけれど、こうして頼んだ飲み物はしっかりと自分で用意してくれるあたり、やはり彼女は本質的には優しい人なのだと思う。
「いや、用ってほどのことはないんですけど。ほら、お店にいつでも来ていいって、前に言ってくれたじゃないですか」
少し前のこと。このお店に偶然立ち寄った私は、祖母の残してくれた遺品と音楽にまつわる謎について、この柊さんの力を借りて解決してもらったばかりだ。それ以来、私はこのお店とメニューを気に入っていて、そして音楽の奥深さとこの柊さんという不思議な女性のことに興味を持っているのだった。
「いいとは言ったけれど、店の邪魔にならない程度に。あなたの声がうるさいってレビューが書き込まれたら出禁にするから」
「そんなあ」
頼んだエスプレッソの濃厚で鮮烈な苦みが、疲れた体に染み渡る。柊さんはこちらが積極的になるとするりと逃げてしまうタイプの人で、掴みどころのない魅力がまるで猫のようだと思う。喫茶店の看板猫というのが、実態に近いだろうか。
「あ、そういえば」
レビューの話をしたことで、私は以前にネットで見たとある記憶を思い出す。
「ここのお店の口コミを見たんですけど、普段から『曲探し』をしてるんですか?」
私が柊さんに解決してもらった謎というのは、祖母が好きだった曲を少ない情報から探してもらうことだった。そしてそういった曲を探すサービスは、他のお客さんにもしたことがあるらしく、ネット上の口コミにもいくつか感謝の声があったのだ。
「頼まれれば、協力してあげないこともないけれど。興味がなければしないわ」
と、柊さんは実に彼女らしい態度でそう答えてくれる。
「依頼は結構多いんですか?」
「そこまでは。今どきネットで調べれば見つかるケースが多いし、鼻歌から曲を探してくれるアプリもある」
ただ、と柊さんは自分の分のエスプレッソのカップを持って座りながら、続けて口を開く。
「マイナーな曲だとネットで見つけにくいし、メロディーがうろ覚えだとアプリは使えない。あとはそう、あなたみたいに壊滅的な音痴も使えないでしょうね」
「うぐ」
音痴なのは事実なので仕方ないが、柊さんの言葉はぐさぐさと容赦なく私を刺してくる。
「ただ、音というのは記憶や思い出と密接に関わっているから。その人にとって大切な曲があるなら、探す手伝いくらいはしてあげたいと思うだけよ。同じ、音楽を愛する人間として」
そう言いながら、柊さんはお店の中を静かに見渡す。棚や壁にCDやレコードが飾られていて、スピーカーから静かに音楽が流れて、テーブル席にいるお客さんたちが楽しそうに音楽の話をしている光景を。その横顔にはわかりにくいけれど微かに優しさが含まれていて、この人は音楽とこのお店を大事にしているのだなというのが伝わってくる。
「つまり、柊さんは音楽の探し屋さんなんですね」
話をまとめようと思ってそう口にすると、途端に柊さんの表情はまたツンツンした冷たさを取り戻してしまう。
「なんてありえないセンス。あなたに音楽の才能が一欠片もなくて本当に良かったと心の底から思ったわ、今」
「ええっ」
自分の中では褒めたつもりだったのだが、柊さんには伝わらなかったらしい。彼女は呆れたような表情のままカップを置くと、おもむろに立ち上がってカウンターから出てきて、すぐ側に設置された電子ピアノの鍵盤に手を伸ばす。
「無知なあなたに教えるけれど、そもそも音楽というのは探されるのを待っているの」
「探されるのを、待ってる?」
ぴんとこない言葉に首を傾げると、柊さんはこくりと頷く。
「鍵盤の数は、88。人間の耳で音程として聞き取れるこの範囲の中で作り出せるメロディーのパターンなんて限りがあるわ。けれど、この狭いようで広い宇宙の中で、今も毎日どこかで新しい曲が作られ続けている。おかしいと思わない? つまり音楽の方が人間より先にできていて、私たちはそれを一つずつ確かめながら探している最中なの」
柊さんはそう言いながら、戯れのようにピアノを演奏し始める。低いところから高いところまで無作為に押していったかと思うと、それらが少しずつ規則性を生み出していって、短いメロディーになって、それから私たちの出会いのきっかけとなったいくつかのクラシック曲の触りが再現される。それは私のように楽譜さえ読めないような人間からするとまさに魔法のような瞬間そのもので、ほんの短い間の気まぐれな演奏であったとしても強く感動することができた。
「すごい、柊さんってピアノの天才なんですね」
彼女が楽器を演奏するのを見たのはこれが初めてだったので、私は素直にそう称賛する。今の演奏がどのくらいの難しさなのかはわからないが、すごいものはすごいのだ。
「へえ、あなたも音と雑音の区別はできるようになったのね。偉大な進歩だわ」
せっかく褒めたというのに柊さんはまたそんな皮肉を言って、なんでもないことのように演奏を終わらせる。
まあ難しい話はともかく、柊さんは音楽の知識が豊富で、ピアノも弾けて、誰かの探している曲を見つける手伝いもしてくれる、素敵で優しい人だということは間違いない。ちょっと愛想がないし、口を開けば冷たい皮肉が飛んでくるけれど、それでも素直じゃないだけで本当は温かい心の持ち主なのだ。
さて、こうして私たちの些細な日常を紹介したからには、実際に起こった出来事も説明していくべきだろう。まさに私が口にしたように、柊さんへの曲探しの依頼はそれほど珍しいことではなかったのだ。私がお店に通い詰めているというものあるが、その場に立ち会うことは何度もあった。
例えば、ある日お店にやってきたのは大学生くらいの若い真面目そうな女の子。彼女はネットで口コミを見たと前置きした後に、探している曲について教えてくれる。
「全く同じ曲のように聞こえる、日本語の曲と英語の曲があったんです。どちらもお店のBGMとかで聞いたもので、曲名も歌手名もわからないんですけど。演奏もメロディーもほぼ同じなのに、違う人が違う言語の違う歌詞で歌っていて。私の聞き間違いだったんでしょうか」
その説明を聞く限り、私にはちんぷんかんぷんというのが第一印象だった。別に今の時代、日本語と英語で歌う人がそれぞれいても何もおかしくないような気がして。それこそ、動画サイトで検索すればいくらでも見つかりそうなものだ。
しかし柊さんはそこに短い質問を足して、あっという間に曲を見つけてしまう。
「それは古い曲?」
「多分、そうだと思います。なんとなく音やアレンジが古い感じがしたので」
「サックスが入っていた?」
「あ、入ってた気がします。ソロパートがあったような」
「じゃあケアレス・ウィスパー」
柊さんがタブレット端末を操作して、曲を再生してくれる。始まってすぐに印象的なメロディーが流れ出して、女の子が大げさに反応を示す。
「あっ、この曲です。でもこれは、英語ですよね」
「オリジナルはこれで、1984年のジョージ・マイケルの曲。ところが同じ年に日本では日本語版のカバーが三種類もリリースされているの。『抱きしめてジルバ』とタイトルまで変えたものまであるわ」
そう言って次に柊さんが聴かせてくれたのは、今流してくれた曲と全く同じメロディーの曲。ただしこちらは日本人の歌手が日本語で歌っていて、事前にオリジナルを聴いていなかったら普通に日本の曲だと思ってしまいそうだった。
「当時は日本の歌手が洋楽をカバーするのはよくあることだったわ。特にこの曲はオリジナルもカバーもそれぞれの国でヒットしたから、今でも耳にする機会が多いということ」
「そうだったんですね。知りませんでした」
女の子は柊さんの知識と手腕に感動した様子で、それからも「歌詞の意味は同じなんですか」「他にも有名なカバーはあるんですか」などと続けて質問した後に、最後にこうたずねてくる。
「あの、ここのお店って、最近私と同じくらいの年の子は来ませんですか」
「いいや、この最近常連ぶってる暇人もわりといい年齢だし」
「ちょっとちょっと、まだ22歳の院生ですから。そういう柊さんは何歳なんですか」
「女性に年齢を聞くなんて、学もデリカシーもないのね」
「ひ、ひどい」
女の子はそんな私たちのやり取りを見て愛想笑いをしたあと、満足そうな様子でお店を去っていった。
「簡単すぎる」
女の子が店を去った後、なんと柊さんは小さくそうつぶやく。
「いや、本人にとっては難問だったんですよ。私だっておばあちゃんの曲を探すの大変だったんですから」
慌ててそうフォローをしてみるものの、柊さんは興味がなさそうにカウンターの奥の定位置へ戻っていくだけだった。
他にも、二、三の問い合わせがあったが、いずれも柊さんはあっさりと解決していった。
「こういうフレーズの曲ってありませんでしたっけ。吹奏楽で聞いた記憶が」
「君の瞳に恋してる」
「CMで聞いた曲なんですけど、有名な映画の主題歌でも聞いたことあるはずなんですよ」
「The Power of Love」
その度ごとにいくつかの問答がありはしたけれど、どれも柊さんの曲を見つける時間は早く、そしてたずねてきてくれた人は皆すごく嬉しそうに帰っていくのが印象的だった。それに、私と出会った時はクラシックの知識が豊富だという印象だったのに、こうして洋楽にも詳しいらしいのがまた興味深いところだ。確かによく見ると彼女が読んでいる雑誌は邦楽、洋楽、クラシック、ジャズと幅広く、店内のCDにも統一感は特にない。一般的な音楽好きがどのくらいの知識量を持っているのかを私は知らないが、それにしても柊さんはかなり多いのではないかと思ったりする。
そうして私が柊さんのお店を訪れた回数が十を超えた頃。今までとは少し毛色の違う一つの謎が持ち込まれたのは、ちょうどそのタイミングだった。
祖母の遺言が関わっていた私は例外として、基本的に曲を探している人というのはあまり深刻そうな様子はない。ほとんどの人はちょっとした日常の引っ掛かりやモヤモヤを解消したくて、その手助けを求めて雑談も交えて話してくれるからだ。だから相談の雰囲気はいつも穏やかで、たずねてくれる人々も明るくて好奇心の強い人が多かった。ついでにお店の飲み物や流れている音楽も楽しんでくれているようだし、柊さんに愛想がない分ユイちゃんのようなしっかりした店員さんが多いので、その点もお店にとっては良い影響だろう。
ところが、ある日の夕方にお店をたずねてきたその若い女の子は、いつになく深刻で緊張した様子だった。
「あの、突然たずねてきてしまってすみません」
礼儀正しいその子はカウンター席へ座ると、まずは柊さんにそう挨拶をしてくれる。年齢は大学生くらいだろうか。今どきの子らしくオシャレで垢抜けていて、一方で素直で真面目そうな印象も受ける。
「実は、困っていることがあって。ここのお店のマスターさんが相談に乗ってくれるかもしれないと、知人から聞いて来てみたんです」
今まで見てきたお客さんたちとは違って、彼女はただ曲を探しているというわけではないようだった。何か複雑な事情があるのだろうなと、側で聞いている私にも想像ができる。
「内容による」
ところが愛想のない柊さんは、そんな事情など知ったことかという態度だ。
「私にできるのは音楽の話だけ。それ以外のお涙頂戴の人生相談なら、そこにぼけっとした顔で座ってるお人好しにした方がいい」
「ごめんね、この人素直じゃなくて。本当は優しい人だから安心して、とりあえず話してみてよ」
急カーブで自分に飛んできたキラーパスを受け流し、私はその子の緊張を解せるようなるべく優しく話しかける。実際の内容次第ではあるが、最悪自分がフォローを入れなければいけないなというのは覚悟を決めつつ。
「すみません、なるべく手短に話します」
そう言って、その子が説明してくれたのは実に奇妙な話だった。
まず、彼女は友人と二人で音楽ユニットとしてネット上で活動していたらしい。主に動画サイトや配信サイトが中心で、最近少しずつ再生数やフォロワーが増えてきたところなのだという。ところがこのタイミングで、相方である友人が突如姿を消してしまったのだと彼女は言った。
「ネットで知り合った関係ではあるんですけど、仲の良い友だちだったんです。ずっと二人一組で協力して活動してて、特に喧嘩をしたこともなかったのに、ある日急に連絡先をブロックされてて」
友人同士の仲違い、というのは難しい話だ。片方の言い分だけではわからないこともあるし、どちらかが悪いわけでもない場合だってある。しかも彼女たちのように音楽グループやバンドみたいなものは、些細なことで喧嘩別れしてしまうようなステレオタイプなイメージがなんとなく私にもあった。
「そういうのは大抵の場合、引き抜きか抜け駆け」
そして案の定空気の読めない柊さんは、深刻そうなその子を気遣う様子もなくそんなことを言ってしまう。先程言っていた人生相談に興味がないというのは、言い訳じゃなくてかなり本心に近い話だったらしい。
さあこれはフォローが大変だぞ、と身構えた私をよそに、その子はなぜか首を横に振る。
「いえ、その逆なんです」
「逆?」
私が驚いて思わず横から口を挟むと、その子はこくりと頷く。
「今まで作ったり発表した曲が、全部私の単独名義になってて。ネットのアカウントとかもそっくりそのままで、まるで最初からその子がいなかったみたいになってるんです」
たしかに柊さんの言うような引き抜き行為や抜け駆け行為だとするならば、それは不自然な現象だ。どのくらいの共同名義や協力体制だったのかは知らないが、普通ならそこから自分の手柄と痕跡を消すというのは違和感がある。引退したかっただけだとしても、仲の良い友人同士なら相談の一つはあってもいいはずだ。
「本題まで長くなってしまったんですけど、マスターさんに聞いてほしかったのはこれなんです」
そう言って、その子は持ってきたノートパソコンをカウンターの上で開く。画面の中にはフォルダーが表示されていて、たった一つのpdfファイルだけが中身の全てのようだ。クリックして開かれたその中身は、短い五線譜の楽譜だった。
「この知らない楽譜だけが、共有フォルダに残されてたんです。私たちが作った曲じゃないので、間違いなくその子の書いたものなんですけど、意図がわからなくて」
この話でますます謎が深まって来た印象を受ける私だったが、柊さんは画面をのぞき込むとすぐに小さく頷き、あっさりとその楽譜の正体を当ててしまう。
「WhamのFreedom」
そう言って、柊さんはタブレット端末のピアノアプリで短いフレーズを演奏して見せる。それはどうやら楽譜に書かれたフレーズらしいが、読めない私にはさっぱりだった。次にその端末を操作すると、カウンターに設置されたディスプレイに動画が再生される。それは少し昔の海外のテレビ映像で、スピーカーから流れ始めたのはまさに今弾いたフレーズから始まる元気な英語のポップソングだった。
「この曲、だったんですか」
その子は呆気にとられたような表情で、動画を見て目を丸くする。その反応の理由には私にもなんとなく伝わっていて、というのもその曲はあまりに明るすぎたのだ。無知な私でも数秒でわかるほどハッピーで楽しげな曲調に加えて、画面の中ではハンサムな二人の男性が演奏者たちと一緒に歌いながらダンスまで踊っている。これが別れのメッセージだとするならば、一体何を伝えるつもりだったのだろうか。
「ワムは知っている?」
音量を少し下げながら、柊さんはその子に対してたずねる。
「すみません、洋楽は詳しくなくて」
「クリスマスによく流れるラストクリスマスを作ったイギリスの二人よ。ジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーの同級生二人組で、80年代を代表する音楽ユニットだったの」
二人組の音楽ユニット、という説明で私は急に身が引き締まる。確かに画面の中で歌い踊っているのも二人組で、そして相談に来ているこの子も元は二人組だったと話していた。
「デビューアルバムがいきなりイギリスの音楽チャートで一位を記録。そこからアメリカでも人気に火がついて、数多くのヒット曲を連発した」
柊さんはそう言って、一度言葉を切ってディスプレイの中のエネルギッシュな若者二人を見る。まさに人気の頂点、スターの貫禄だ。
「そして、解散した。デビューから解散までたった四年。人気の絶頂だったにも関わらず、二人はソロ活動になったわ」
そこまで説明されると、さすがに私も険しい表情を隠せななくなった。今の話が本当ならば、この曲はまさに二人組が分裂することの象徴のようだ。Freedom(自由)という曲名すらも、そういった意味に思えてくるほどに。
「心当たりは?」
残酷なことに柊さんがそうたずねると、その子はショックを受けた表情で頷く。
「実は、心当たりはあったんです。最近私たちの曲がネットで急にバズって。でもそれは私が一人で弾き語りした時の動画だったせいで、広まったのは私の名前と顔だけだったんです」
ああ、と私は思う。点と点が繋がった。これはあくまでも想像でしかないが、二人組の片方だけが有名になってしまった時に、もう片方ができることはそう多くない。受容するか、拒絶するか。ましてやそれが仲の良い間柄だったのであれば、もっと切ない選択肢が生まれてしまうわけだ。
「それなら、別々の道を歩むときが来たということでしょう」
柊さんはそう言って、動画の再生を一時停止する。よく見ると画面の中心にいるのはいつも二人のうちの片方だけで、もう片方のメンバーはあまり多く映ることはない。もうこの当時から、きっと人気の差があったのだ。
「そっか、そうですよね。仕方ない、ですよね」
女の子は泣きそうな顔で、小さくそうつぶやく。それは自分に言い聞かせるようで、どこか祈りに似たような言葉だった。
「名義を全て放棄したのは、その子なりの気遣いでしょう。あなたはその思いを背負って、活動を続けなければいけないわ」
「はい」
断定的な強い言葉ではあったけれど、私はそこに割って入る覚悟はなかった。柊さんも、その子も、音楽の世界で生きている二人だ。アーティストとして進んでいくためには、楽しいことや綺麗なことだけではきっとだめなのだろう。今画面の中で輝いている二人が、解散してしまったように。
「ココアは飲める?」
「あ、えっと、はい」
「じゃあこれをゆっくり飲んで。気持ちが落ち着いたら、帰りなさい。代金はいらないから」
そう言いながら、柊さんは温かいココアの入ったカップをその子へ差し出す。言葉はそっけないけれど、なんだかんだこういうところは優しい人なのだ。
「ありがとう、ございます」
その子は少しだけ無理に微笑んで、そのカップを受け取る。けれどその横顔はやっぱり今にも泣き出しそうで、私はなんとかその子を慰めてあげたくなってしまう。私の時は、柊さんがいてくれた。けれど今のこの子は、まさしく一人ぼっちだから。
何でもいいから話すきっかけを作ろうと思って、私はその子が開いたノートパソコンを片付けるのを手伝ってあげようと手を伸ばす。そしてまだ画面に表示されたままのフォルダを見て、あることに気がついた。
「この90っていうのは、何の番号?」
先ほどは気が付かなかったが、楽譜が入ったフォルダには90という名前が割り振られていた。わざわざ付けた名前にしては、なんだか不思議な感じを受ける。タイトルをつけたくないならば他の候補はあったはずだし、これが90番目の曲とかなのだろうか。
「そういえば、楽譜ばかり注目して気にしていませんでした。これは、私も心当たりがないかもしれません」
どうやらその子にも理由はわからないらしい。まあただの適当な数字で意味は特にないのだろうか、と私が思ったその時、柊さんが急に口を開く。
「ああ、そっちのfreedomってこと。これはまた、ずいぶんひねくれたメッセージね」
「え?」
柊さんは納得したように頷くが、私にはさっぱり話が見えてこない。それは渦中のその子も同じようで、困ったような顔で私たちの顔を見つめるばかりだ。
「『Freedom! '90』の90よ、それは」
そう言って再びタブレット端末を操作すると、画面の中には新しい動画が表示される。それはどこか映画のような雰囲気のミュージックビデオで、先ほどの底抜けに明るく若い曲とはまた違った陽気さがあり、スタイリッシュで大人なポップ曲のようだった。映像に出てくるのもモデルのような女性たちばかりで、都会的でダンサブルな印象もある。
「これはワムを解散したあとにジョージ・マイケルが作った曲で、同じ曲名にならないようにわざわざ90という番号をつけたの」
「えっ」
驚いて柊さんの方を見たのは、私もその子も同じタイミングだった。まさか先ほどの二人組が解散して、片方が同じ曲名の曲を作っているだなんて。たしかにそれならば90という謎の数字にも意味が生まれる。最初にfreedomという曲名にたどり着いた後で、本当に聞いてほしかったのはこっちということだ。
でも、なぜかこんな回りくどいことをしたのだろう。その答えは、次の柊さんの言葉でますますわからなくなる。
「ワムは二人組だという話は覚えてる? ソロデビューしてこの曲を作って歌ったのがジョージ・マイケル。じゃあアンドリュー・リッジリーはワムで何をしていたのかしら」
「何って、二人組なんだから力を合わせて協力してたんじゃ」
思ったままにそう返すと、柊さんは呆れたようにため息をつく。
「もっとその少ない脳細胞を使いなさい。具体的な担当パートよ」
「それは、歌とか」
「アンドリューはワムで歌っていないわ」
「あれ?」
私が疑問を抱くのと同時に、柊さんがディスプレイに先ほどのワムの動画をまた表示してくれる。そこには確かに、歌っている二人組がいるのだが。
「パフォーマンス映像ではコーラスで歌っているふりをしているけど、ワムの実際の曲の中ではアンドリューは歌っていないの」
言われてみれば、ジョージというらしい男性はメインボーカルとして堂々と歌っているが、アンドリューという男性はギターを持ちながらたまに声を出しているだけだ。
「そ、そうなんだ。じゃあギター担当ってこと?」
歌っていないならば担当は演奏だろうと思ってそうたずねると、柊さんはまたも首を横に振る。
「アンドリューはギターも弾いていない。その映像は弾いているふりをしているだけ」
「ええ?」
持っているのに弾いてないなんてことがあるんだろうかと思ったが、確かに映像をよく見るとギターに触れていないときも音が出ている。それに素人目に見ても、その手つきは演奏というよりはパフォーマンスに近い大げさな感じだ。
「ちなみに作詞作曲もほぼジョージが全てやっていたわ」
「じゃあ、アンドリューは何をしていたの?」
私が困惑の中でそうたずねると、柊さんはようやく真相を説明してくれる。
「アンドリューは当時は珍しい演出方面の担当メンバーだった。服装やパフォーマンスのビジュアル面や、ステージのコンセプトや、ブランディングの方向性。あとはこういった生出演時の盛り上げ役ね」
映像とのギャップに驚いてしまうが、そう説明されると彼の役割はプロデューサーやパフォーマーに近いものだったということだろう。今でいうとダンス担当のメンバーとか、映像やアートワーク担当のメンバーみたいなもので、そう考えるとすんなりと受け入れることはできた。
「もともとジョージは内気な少年で、ギリシャ系だったこともあって学校で孤立していた。そこに声をかけて親友になったのが、当時みんなの人気者だったアンドリューだったの」
柊さんはそう言って、二人の歴史を教えてくれる。
「二人は音楽という共通の趣味ですぐに意気投合し、そしてアンドリューがジョージをミュージシャンの道に引き込んだ。ハンサムでオシャレで明るいアンドリューに影響されて、ジョージもどんどん自分を磨いていき、秘められた自分の魅力や音楽の才能を開花させる。アンドリューはそんなジョージのポテンシャルを活かせるようあの手この手でバックアップする。そうして成長した若者二人はついにワムとして成功を掴む」
そこからは、説明されなくても私にもわかっていた。人気絶頂での、解散。そしてジョージのソロデビュー。どういったやり取りがあったのかは知らないが、おそらくジョージの才能は当時もうアンドリューの手を離れてしまったのだろう。
そして、この楽譜に込められた本当の意味も、これではっきりする。
「そっか、私が、ジョージだったんですね」
ココアのカップを持ったその子は、小さくそうつぶやく。その横顔は先ほどの張り詰めた表情から少し変化して、切なさを噛み締めて成長した大人の顔に近づいていた。
これは想像でしかないが、きっと相方の子は片方がバズったのを見て自分が身を引くべきだと思ったのだろう。詳しいところはわからないものの、二人組の中ではポテンシャルの偏りも多少あったのかもしれない。だから二人の活動への思いを込めたのが、2つのfreedomだったというわけだ。
「ジョージはFreedom! '90の中でワム時代の成功の思い出と決別し、真の自分の姿をさらけ出すことを歌詞にしているわ。あなたにも、それができるかしら」
柊さんの言葉に、その子は返事をしなかった。若者にとって、それは難しい選択だ。強さと覚悟がなければ、それを簡単に言い切ることはできない。
と、そこで私はあることを不意に思い出す。それはジョージ・マイケルという名前について。つい最近、私はこの名前をどこかで学んだはずだ。
「ケアレス・ウィスパー」
「1984年のジョージ・マイケルの曲」
「あの、ここのお店って、最近私と同じくらいの年の子は来ませんですか」
「簡単すぎる」
頭の中で、点と点が今度こそ線になる。少し前に店を訪れた、若い女の子。あの子は、ちょうど目の前にいるこの子と同じくらいの年齢の見た目だったはずだ。そしてジョージ・マイケルの名前。さらに、わざわざ他の来訪者を確かめるような質問。簡単すぎるとつぶやいた、柊さんの感想。
最初から、あの子は相方をこのお店に導く計画だったのだ。先にジョージ・マイケルの話をしていれば、柊さんがすぐに二つのfreedomにもたどり着くと計算して。知人から聞いてこの店に来たというのも、そこから既に仕込みだったのだろう。
そして私が気がついたことを柊さんが気づいていないはずもなく、不意に彼女の手が私の手の上に重なる。はっと驚いてその顔を見ると、柊さんの表情には「言うな」と書いてあった。
なんて不器用なのだろう。相方の子は、自分の正直な思いをはっきりと伝えることはできないまま、けれど最大限の努力で感じ取ってもらうための計画を組んだのだ。音楽という二人の共通言語を使って、責任感と決意を自覚してもらうために。一方的で自分勝手のように見えるかもしれないが、それはきっとその子なりの背中の押し方だったのだと私は思う。
でも、本当にこのまま終わらせていいのだろうか。わざわざ第三者である柊さんを巻き込んだ理由まで考えてみよう。その相方の子は、何か違うイレギュラーが起こることを承知でこの計画をしたはずだ。例えば、全く無関係である私がこうして立ち会うような偶然が。
「ねえ、柊さん」
私は息を小さく吸い込んで、そう話を切り出す。
「ジョージとアンドリューの解散後の仲は、どうだったの?」
すると柊さんは迷惑そうな表情を一瞬浮かべたあとに、口を開いて説明してくれる。
「幼い頃からの親友同士だから、仲は良いままだった。解散も二人で話し合っての結果だったし、アンドリューが少し遅れてソロデビューする時には、先にデビューに成功していたジョージが手伝った。その後もジョージのライブにゲストとしてアンドリューが登場したこともある。再結成はなかったし公の絡みは少なかったけれど、二人が互いの歩みを害するようなことは一度もなかった」
それと、と柊さんは付け加える。
「ジョージはワム時代よりもさらにソロで成功したけれど、一方でスターのように振る舞う自分と本当の自分とのギャップに苦しんだ。アンドリューという最高の相方がいたからこそ、ワムが持つ底抜けの明るさはあったのは間違いない。さらにアンドリューもジョージと比べるとスター性が欠けていて、ソロでは全く成功できなかった」
ディスプレイの中では、肩を組んで楽しそうに歌うジョージとアンドリューの姿がまだ映っている。まさに若さゆえの万能感と、信頼する相方がいるという全能感に満ち溢れた表情だ。解散を決めた時に、お互いの脳裏に不安がよぎらないはずがない。けれど二人は、解散をしなければならなかったのだ。
「じゃあ、なんとかして連絡して、もう一度声をかけたほうがいいよ」
私がそう言うと、残された少女ははっと目を見開く。
「このまま別れて、後悔しない? その子がこのメッセージを残してくれたのは、きっとまだあなたに伝えたいことがあったからな気がする。ジョージとアンドリューみたいに、解散する前に話し合おうよ」
するとその子は決意を秘めた眼差しで頷き、荷物をまとめてすぐに立ち上がる。
「ありがとうございました。私、その子に連絡とってみます。絶対に方法はあるはずなので」
「うん、頑張ってね」
何度も感謝を述べたあと、その子は急ぎ足でお店を去っていく。その足取りと表情には、暗さではなく明るさがあったと、私は思う。
本当に大事なことはそのまま言葉にはできないと、前に柊さんが教えてくれた。姿を消した相方の子も、きっと似たような境遇だったはずだ。もし一切の再会を拒絶するつもりならば、こんなにヒントを残すはずがない。足取りを追う手がかりも、おそらく二人だけにはわかるようにあるはずだ。
「お節介ね」
一連のやり取りを無言で見守ったあと、柊さんがようやくそう口を開く。
「本人が覚悟して決別しただろうに、あなたの勘ぐりじゃない?」
「まあ、そうかもしれませんけど。一応、心理学専攻なので。私なりの考察ですよ」
そう説明すると、柊さんは不満そうに鼻を鳴らしたあと、ココアのカップを持ってカウンターの奥へ下げに行く。その途中で、小さくこうつぶやいて。
「孤独は仕方ないことなのに」
「え?」
私が思わず聞き返すと、柊さんは無視してそのままカウンターの奥へ行ってしまう。
「なんでもないわ。あなたのお人好し度合いに呆れただけ」
去り際に残された言葉は、まあいつもの柊さんそのものだった。
最後に。
カウンター席に戻ってきた柊さんと共にワムの映像を見ながら、私はふとつぶやく。
「でも、こうやって一緒に高め合っていける友達って素敵ですよね。絶対仲が良かったんだろうなって、見てるだけでも伝わりますもん」
楽しそうに踊ったり歌ったりするジョージとアンドリューを見てそう口にすると、柊さんは何かが気に入らなかったようでわざとらしくため息を付く。
「それは友人が少ない私への当てつけ? インスタグラムのフォロワー数が多いことの自慢かしら」
皮肉っぽくそう言う柊さんに、私はちょっと驚いてこう言葉を返す。
「え、でも私たち、もう友達ですよね?」
「は?」
連絡先を交換してからというもの、何度もこのお店に通い詰めたり、こうしてたくさんの会話を交わしてきたが、それは本当に楽しくて満足のできる時間の積み重ねだった。柊さんも愛想はないし口を開けば棘のあることを言うけれど、いつも私との会話は楽しそうだった。だからとうの昔に私たちは友達だと思っていたのだが、それはもしかして私の一方的な勘違いだったのだろうか。
少し迷って柊さんの顔をじっと見つめていると、彼女は慌てて目を逸らしてしまう。そして珍しいことに困ったような照れたような表情を浮かべながら、小さくこうつぶやくのだった。
「まあ、あなたがそう思うなら、それでいいんじゃない」
それは不器用ではあったけれど、確かに同意の言葉だったから、私は嬉しくなって音楽に合わせて体を揺らしてしまう。
「あ、そろそろ名前で呼んでもいいんですよ。柊さんいつも私のこと呼んでくれないじゃないですか」
「あなたの名前なんて忘れたわ」
「和嶋景ですよ。知ってるくせに。ほら、景って呼んでみてください」
「和嶋」
「なんで名字なんですか、もう」
まあそんな調子で、私たちはまた名前を確かめ合うのだった。
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