インタープレイ ~柊奏の音楽ファイル~

宇佐

第1章 手拍子と数列


 肌寒い風と喧騒に囲まれながら、私は冬の交差点をひとり歩く。繁華街の歩道はどこも混雑していて、気を抜くと誰かにぶつかってしまいそうになるから、地図を見るにはあまり向いていない。周囲の地理に自信がない者にとってはさぞ冷たく見えるだろうと、私は他人事のように思う。

 しかし目的地を探して歩いているという点で言えば、私もまた似たようなものだ。

 駅前から五分ほど歩いた先にある、大通りから一本奥に入った道。立ち並ぶビルの隙間の足元に、その店はあった。年季が入っているのか、あるいはあえてそう見せるデザインなのかわからない、モダンとアンティークが入り混じった店構え。スマートフォンで見た写真と同じ外観であることを確認して、私は改めて店先の看板を読む。

「ええと、ファンティーヌ」

 レストランにもブティックにも、あるいは雑貨店やバーにも見えるその店には、その名前以外の掲示は一切ない。メニューも、ポスターも、インフォメーションも存在しない代わりに、通りに面したガラス窓にある五線譜と音符のデザインが、そこが音楽に関係する場所であることを示唆してくれている。

「まあ、何事もダメ元かな」

 初めてそこを訪れる緊張を振り払うように、私は小さくひとりごとをつぶやく。いずれにせよ外の風は冷たく、このまま店の前で立ち尽くすことはあまりしたくなかった。

「よし。待っててね、おばあちゃん」

 私は決心を固めてそう祈ると、ピアノの鍵盤を模したドアを開けて、静かに店内へ足を踏み入れた。

 これは、私が忘れられない音と出会うまでの物語だ。


「いいかい、景。あなたは自分が綺麗だと思った直感を大事になさい」

 そう教えてくれた祖母が亡くなったのは、二週間ほど前のことだった。お別れもお葬式も終わったというのに、私にはまだ実感がわいていなくて、電話をかければすぐに祖母が出てくれるような気が未だにしている。

 私自身がおばあちゃん子だったというのもあるが、そもそも景という名前をつけてくれたのも祖母だった。響きがいいし字としても収まりが良くて、私としては満足している名前だ。

 そんな祖母は、この真冬の何でもない日に天へ旅立っていった。特に文句のつけようのない、ごく自然な大往生だった。突然の別れだったが、本人の穏やかな性格とさっぱりとした生前の過ごし方もあって、私たち親族も戸惑うことなく向き合うことができたと思う。

 ただ一つ、遺品整理で出てきた一つの謎を除けば。

「あんた、これを開ける方法を探しておきなさい」

 そう母から示されたのは、祖母が一人で暮らしていた家の納戸の扉。後から作り付けられたと思われる蝶番に、ダイヤル式の南京錠がぶら下がっていた。よくある0000から9999までの数字から、好きな番号を鍵にできるタイプのものだ。

「もしかして、誰も番号を知らない感じ?」

「そう。普通の鍵にしてくれればよかったのに」

 私がそうたずねると、母は小さくため息を吐く。故人のパソコンやスマートフォンのパスワードがわからないというのは最近よくある話と聞くが、こんな古風な南京錠でも同じことがあるとは。

 しかし開ける方法と言っても、この扉を物理的に壊してしまうというのを除けば、正攻法で暗証番号を探し当てるほかないだろう。組み合わせ的には一万通りなので、一つずつ試していけばいつかは開くはずだが。

「一応ね、おばあちゃんからの遺言なの」

「え?」

 母の思わぬ言葉に、私は驚きのあまり気の抜けた声で聞き返す。

「『納戸の扉は手拍子の曲で開くから、中のものは開けた人に全部あげる』って、最後に言ったんだって」

「手拍子の、曲? どういう意味?」

「それがわからないから景に頼んでるんじゃない」

 まず遺言があったというだけでも驚きなのに、その内容がこんな謎掛けのような言葉だなんて。映画や漫画ならまだしも、現実の自分の身の回りで起きているとはとても信じがたい内容だ。いつも穏やかに微笑んでいる印象しかなかった祖母に、こんな一面があるというのも知らなかったし。

 けれど。これはきっと、自分が解くべき謎なのだ、と私は直感で悟る。幼い頃、私が祖母の家へ遊びに行くと、彼女はよく一人で何か音楽を聴いていた。おぼろげな記憶だけど、結構なCDのコレクションを持っていたと思う。そしてそれに興味を示す私に、祖母が言ったのだ。

「これはね。景がもう少し大人になって内容がわかるようになったら、一緒に聴きましょうね」

 結局それから一緒に聴く機会はなかったが、成人して大人になった今、ついにあの約束を守るときが来たのではないかと、そんな予感が自分の中にふつふつと沸き起こる。

「わかった。この扉、私が開けるよ」

 遺品整理の途中で、幼い頃に見たCDは一度も出てこなかった。この閉じられた扉の向こうにこそ、祖母が大事にしていたコレクションが眠っているはずだ。

 こうして、私は「手拍子の曲」の謎を探し始めることとなった。


 そんなきっかけはさておき、話はまた現在に戻る。

 ファンティーヌというお店の扉を開けると、そこは予想と半分くらいは同じで、もう半分は違っていた。

 当たっていたのは、外観通りにアンティーク風でおしゃれで静かなお店だったということ。外れていたのは、そこが案外普通の喫茶店みたいな場所だったということだ。カウンターがあって、レジがあって、ソファ席があって、メニューや飲み物があって。

「おひとりですか?」

 そして、入口でぼうっと立ち尽くす私に、すぐに声をかけてくれる店員さんもいて。

「あ、えっと、はい」

 喫茶店だとは予想していなかったので、少しうろたえる私。若い女性の店員さんはそんな私を気にした様子もなく、笑顔で店内を指し示してくれる。

「よろしければ、お好きな席へどうぞ。全席禁煙なので、そこは安心してくださいね」

「わかりました」

 流れに身を任せる日本人の習性に従って、私は案内通りに店内へ足を踏み入れる。ソファ席やテーブル席には数人のお客さんがいるようで、逆にカウンターにはまだ誰もいない。長居するつもりはないので、とりあえずカウンター席の中ほどに恐る恐る腰を下ろす。

「メニューはこちらなので、ご注文が決まったら声をかけてくださいね」

 店員さんがそう言って、お水とメニューを渡してくれる。書いてあるものはコーヒーや紅茶にちょっとしたケーキセットみたいなもので、本当にごく普通の喫茶店といった感じだ。違いがあるとすれば店内のあちこちに設置されているスピーカーや、飾られているレコードやCDくらいのもの。ちょうど、古いドラマでこういう店を見たような記憶がある。きっとここは音楽を楽しむタイプの喫茶店なのだ。

 ちょっと予想と違ったなと思い、私は内心肩を落とす。

 このファンティーヌを訪れたのは、もちろん祖母の残した謎を解くためだ。手拍子の曲と言っても、もちろんそんな曲名は存在しない。では手拍子の入ってる曲ということになるが、コンサートとかライブで手拍子が起こるのはよくあることだし、それだけで絞り込むことはできなかった。

 実を言えば、私は音楽に関して全く詳しくないほうだった。昔から何を聞いてもあまりピンとこなかったし、音痴なせいで学校の音楽の授業は苦手意識の方が強い。流行の曲くらいは少し知っているが、それでも自分から聴いたりする習慣はない。祖母と一緒にあのCDコレクションを聴かないまま終わってしまったのも、幼い私があまり興味を示さなかったせいだろう。

 そうなると祖母の曲を探し当てるというのはなかなかの難関で、詳しい人を探して聞いて回るくらいしか方法はなくなってしまう。しかし運の悪いことに、友人たちに当たってみたものの結果は全滅。通っている大学にも音楽に関係する学部はなくて、八方塞がりだった。

 そこで思いついたのが、どこかのお店に行ってみるということだ。楽器屋さんとか、CD屋さんとか、音楽教室とか。そういうところにいる人なら、音楽に詳しいのは間違いない。けれど繰り返しになるが私にはまるで縁のないジャンルの世界となるため、まずは下調べでもとスマートフォンで地図を開いていた時に、見つかったのがここのお店だった。

 ファンティーヌ、という店名以外に地図に情報はなし。営業時間はあるが、何を扱っている店なのかも書かれていないし、ホームページもない。ただ地図サイトの口コミに、いくつか気になる言葉が書いてあった。

「マスターの音楽の知識がすごい」

「ずっと探していた曲に出会えました」

 経緯は不明だが、その口コミはまさに私にとって今必要なものだった。ちょうど用事があって近くの駅にいたこともあって、ちょっとした運命のようなものも感じていたのかもしれない。ここならきっと、祖母の曲を見つけられるのではないかと。

 そう思って勇気を出して来てみたものの、まさかただの喫茶店だったとは。

「ええと、アールグレイでお願いします」

 何も注文せずに出ていくのも気がひけて、私はとりあえず紅茶を店員さんに頼んで小さく息を吐く。雑然とした店内にはうっすらと何かの音楽がかかっているが、会話が許されないようなお店ではないらしい。テーブル席にいる常連らしい人々が小さく話したり、コーヒーを飲んでいるのが見える。けれどマスターらしき人の姿は見えないし、壁や棚に飾ってあるCDも自由に手にとっていい様子ではない。落ち着いた雰囲気は良いものの、期待していたような相談は難しそうだ。

 とりあえず紅茶を飲んで休憩したらまた別のお店でも探してみよう、と思いつつ、店員さんが持ってきてくれたティーカップに口をつける。

「うわ、美味しい」

 その紅茶があまりにも美味しかったので、つい口に出してそんなことを言ってしまった。何でも口にしてしまうのは私の悪い癖なのだが、それにしてもこの紅茶は本当に別格だった。

「ふふ、そうでしょう」

 私の言葉を聞いていたのか、店員さんが微笑んでこちらに近づいてきてくれる。私と同じくらいの歳に見える女性だが、親切そうで人の良さそうな美人だ。

「マスターのこだわりなんですよ。どうせ出すなら、自分が美味しいと思うものしか出したくないって。だから結構原価ギリギリだし、淹れ方にもうるさくて。でもこうして皆さんが喜んでくれるので、正解なんでしょうね」

「へえ、そうなんですね」

 寒い外を歩いてきたというのもあって、この香り高い紅茶は私の心と体を程よく温めてくれる。おかげで緊張も少し解れて、私は勢いのままこの店員さんに少し話をしてみようという気分になる。

「あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」

「ええ。どうしましたか?」

「実は私、音楽に詳しい人を探してて。こういうのって、どこに行けばいいか知ってたりしますか?」

 そう口にしながら、私は簡単に店員さんへ事情を説明する。もちろんこの店員さんが答えを知っていると期待したわけでは無いが、こういったお店でお仕事をしているのだから、もしかすると業界に関して私よりも詳しいのではないかと思ったからだ。

「なるほど、手拍子の曲がおばあちゃんの遺言なんですか」

 話しやすい店員さんは親切に私の説明を聞いてくれたあと、考え込むような仕草を見せる。

「これだけじゃわからないですよね、さすがに」

「そうですねえ。『幸せなら手をたたこう』とかじゃないでしょうし」

「それもちょっと考えたんですけど、四桁の数字にはならないんですよね」

「ああ、たしかに」

 そう、実はこの祖母の曲の謎にはもう一つ難しいところがあって、たとえ曲を探し当てたところで南京錠を開ける四桁の数字に変換する方法がわからないのだった。まさか曲名が数字ということもないだろうし、何かの語呂合わせというのが一番ありそうな可能性にはなる。とはいえこのアプローチから曲を逆算して探すのも難しそうで、手がかりにはなりそうになかった。

「すみません、急に変なこと聞いちゃって」

「いえいえ、いいんですよ、ここはそういうお店なので」

 一方的に変な相談をしてしまったことを謝罪すると、店員さんは笑顔で首を横に振ってそんなことを口にする。

「えっ、それってどういう意味ですか?」

 そういうお店、という言葉が気にかかって、思わずそう聞き返そうと思ったその時。物静かな喫茶店の空気を染め上げるような美しい声が、私の鼓膜を震わせた。

「1848」

 いち、はち、よん、はち。たった四つの数字を読み上げただけのその声は、まるで楽器のように美しい響きを伴って、私の背筋をぞくりと駆け抜ける。質が違う、とでも言えばいいのだろうか。雑音の中に急に旋律が生まれたような、ざわついた会場にアナウンサーの声が響いたような、そんな圧倒的な説得力の違い。私はこんなにも美しく数字を並べられている場面を、人生で一度も聞いたことがない。

 慌てて声の方へ視線を向けて、私はさらに驚かされる。

 カウンターの中。今まで誰もいなかったその場所に、いつの間にか一人の女性が座っている。私が店員さんとの話に夢中になっている間に現れたのだろうその人は、ずば抜けた美人の女性だった。色素の薄い長い髪。白い肌と明るい色の瞳。少し冷たさを感じるような、整った目鼻立ち。街なかで見かけたなら何かの撮影中の芸能人だと思ってしまいそうな雰囲気と見た目だが、カウンターの中で当たり前のように椅子に座っている様子を見る限り、ここのお店の人ではあるらしい。

 美しい声と容姿に驚きぽかんとしている私に対して、その人はまた唇を開いて数字を口にする。

「聞こえなかった? 1848が第一候補。次が1946か、もしかするとヴェニンガーの1914」

「え、ヴェニ?」

「変な色。三回目は言わせないで」

 脈絡のない言葉の応酬に戸惑う私に対し、その女性は神経質そうな態度でそんなことを言う。表情にも愛想はなく、言葉の意味もわからないが、それにしてもこの人の声は澄んだ小川のせせらぎや鳥の囀りのように美しい。

「変な色、って、いつも着てる服なんですけど」

 何を指摘されたのかもわからず慌てていると、助け舟を出してくれたのは若い店員さんだった。

「もう、柊さん。お客さんが困ってますよ。もっと接客態度頑張ってください」

 柊さん、と呼ばれたその女性は、店員さんの指摘に目を逸らすことで返答をする。子どものような仕草だが、眼力のある美人がすると驚くほど艶めかしいことがわかる。

「ごめんなさい。この人、うちのマスターなんですけどちょっと人見知りで。変な人じゃないので安心してくださいね」

「え、マスターさんなんですか?」

 飲み物にこだわりがあると店員さんが話していて、地図の口コミにもあったマスターというのは、この人のことだったらしい。たしかに男性とは一言も書かれていなかったが、なんとなく渋めの優しいおじさんを想像していたので、こんなにも若い女性のことだとは思わなかった。

「それで、今のが答えなんですか? 柊さん」

 イメージとのギャップに戸惑う私をよそに、店員さんは柊さんという人にまた声をかける。二人の関係は上司と部下にあたるのだろうが、その雰囲気はもっと親しそうで友達や家族のようだ。

「手拍子が主役となる曲なら普通はラデツキー行進曲のことしか指さないわ。よほどひねくれものじゃなければね」

 説明はこれで十分、とばかりに、柊さんはやや冷たい口調でそう話す。そしていつの間に持ってきたのやら自分の分のコーヒーカップを手にしていて、それを優雅な仕草で口元へ運ぶ。そんな一連の仕草も美人な彼女がするとまるでドラマのワンシーンのようで、思わず見入ってしまったのはここだけの話だ。

「えー、全然わからないですよ。もっと私にもわかるように教えてください」

「面倒くさい」

「そんなあ。柊さんの意地悪」

 親しげにそう会話を繰り広げる喫茶店の二人だったが、横から聞いている私にもわかることが一つある。それは、柊さんという人が口にしたのは、おそらく祖母の曲の有力候補であるだろうことだ。

「あの、お願いします。詳しく教えてもらえませんか」

 私は柊さんの方をまっすぐ見て、真剣に頭を下げてそうお願いをする。先ほどのやり取りからすると、彼女は少々とっつきにくい性格には見えるが、一方で悪い人ではないようだった。ただの客である私にできることは少ないが、今はどんなに小さな可能性でも信じたい。

 すると柊さんは綺麗な眼差しでこちらを見たあと、カウンターの裏から取り出したタブレット端末に視線を落とす。何か写真やWEBページでも見せてくれるのだろうか、と黙ってその姿を見つめていると、彼女は無言でカウンター横に設置されているディスプレイを指差した。どうやら手元のタブレット端末は、そのディスプレイに繋がっているらしい。

 柊さんがタブレット端末の画面をタップすると、ディスプレイに写ったのはコンサートの映像だった。多分、ヨーロッパかどこかの立派で豪華なホール会場。いわゆるクラシックというやつのコンサートのようで、名前も知らないたくさんの楽器を持った人たちと、何をしているかよく知らない指揮者の人が中心に立っている。そして優雅だけどどこか陽気な曲の演奏が始まったかと思うと、指揮者の人が突然オーケストラを見るのをやめて、くるりと客席の方へ向き直る。そして何かを促すように手振りをすると、一斉に観客席の全員が楽しそうに手拍子を始めるのだった。

「手拍子の、曲」

 見たこともない光景と演奏に、私は目と耳が釘付けになる。

 詳しくはないけれど、こういったクラシックのコンサートというのは静かに聴くのがマナーのはずだ。それなのにこの曲は皆が楽しそうに手拍子をして、指揮者の人やオーケストラの人たちもそれを満足そうに受け入れているのがわかる。まさに、手拍子が曲の一部であるかのように。

「これは今年のウィーンフィルのニューイヤーコンサート」

 呆然とする私に、柊さんがそう説明をしてくれる。

「このラデツキー行進曲は伝統的に新年に演奏されて、そして必ず観客の手拍子を入れる」

 どうやら手拍子を入れていいのは曲の全体ではないようで、あるところで指揮者の人がジェスチャーでそれを中断させる。すると観客席は嘘のように静まり返って、優雅なオーケストラの演奏がまた会場を満たす。そして一通り曲の起承転結が示されたところで、また指揮者の指示とともに手拍子が再開するのだった。

「こんな曲が、あったんですね」

 感心と感動をおぼえてそうつぶやくと、柊さんはタブレット端末で曲の音量を下げながら、皮肉っぽい仕草でため息を吐く。

「あなたたちのような無学は別として、こんなのは一般常識よ。普通は手拍子のある曲というと、真っ先にこれが思いつく。なにしろ日本の地上波でも毎年放送するくらいだから」

「えっと、じゃあ1848は?」

 曲の正体がわかったところで、私は柊さんが最初につぶやいた数字を思い出す。曲の名前の中には、特に四桁の数字に繋がる要素はないように思えたが、いったいどこから出てきた数字なのだろうかと。

 すると柊さんはまるで厳しい教師のような表情を浮かべて、教科書の文章を読み上げるかのように淡々と言葉を並べてくれる。

「ヨハン・シュトラウス1世という作曲家がこの曲を作ったのが1848年。ウィーンフィルが、ニューイヤーコンサートで演奏を始めたのが1946年。四桁の数字にするならこのどちらかしかないわ」

「な、なるほど」

 説明を聞くと、それは実にシンプルで美しい回答だった。新年の風物詩として半世紀以上演奏されている有名な曲。クラシックコンサートのイメージを覆すような手拍子の演出。全くの無知であっても調べればいつか必ず答えにたどり着けるような、理想的な選曲だ。これならば、祖母がちょっとした謎掛けとして残したのも頷ける。

 私は曲名と数字をメモ帳にしっかりと書き留めて、それから柊さんと店員さんにもう一度頭を下げる。

「あの、ありがとうございました。祖母の曲は、おそらくこれで間違いないと思います。本当に、なんとお礼を言ったらいいか」

 たまたま降りた駅の近くにあった喫茶店に、偶然にも音楽に詳しい人がいて、そしてこんなにあっさりと答えが見つかるとは思わなかった。最悪の場合SNSで拡散でもしてもらうか、物理的に無理やり鍵を壊すかの二択も考えていたので、祖母の名誉を守れたのは本当に嬉しいことだ。私にできることはお会計を多めに払うことくらいだが、せめてこの感謝の気持ちくらいはしっかりと二人に伝えたい。

 と、そう思って真剣に頭を下げたのに、二人から返ってきたのは意外な反応だった。店員さんは、困ったような微笑。そして柊さんは、なぜか不機嫌そうな表情。

「で、正解は?」

「え?」

 柊さんの言葉に首を傾げると、彼女は苛立ったような様子でタブレット端末の画面を叩く。

「勝手に自分だけ満足しないでくれる? 今の数字が合っているかどうかわからないと、私が説明した意味がないんだけど」

「あ、えっと、そうですよね。でも、鍵は祖母の家にあるので」

 誰かが祖母の家に残っていればすぐに連絡をして開けてもらうこともできたのだが、遺品整理は一通り終えているため、私の母ももう実家に帰っているはずだ。他に鍵のことを知っている親族もいないし、事実上開けに行けるのは私だけということになる。どうせならクイズの答えを知りたい、という柊さんの意見もごもっともだが、さすがに今すぐに確かめるのは不可能だった。

 そんなことを考えて答えに困っていると、柊さんがまた口を開く。

「お祖母様の家はどこ?」

「その、調布の方ですけど」

「じゃあタクシーですぐじゃない。行きましょう」

「えっ」

 冗談かと思うような言葉だったが、柊さんは迷いなく立ち上がって本当に出発する準備を始めてしまう。手荷物を持って、スマートフォンでタクシーを呼んで、カウンターの奥にかかっている上着を羽織って。どうやら本当に、彼女は今すぐ私の祖母の家に行くつもりらしい。

 どう反応すべきか迷って店員さんの方を見ると、彼女はこうなることがわかっていたかのように苦笑する。

「柊さんがこう言うと、絶対に止めるのは無理なので。諦めてください」

 その表情には嘘偽りは見受けられなくて、私は本当にこのまま自分が祖母の家に連れて行かれることを悟る。穏やかで知的な美人だと思ったのに、どうやら柊さんは行動派の一面もあるらしい。

「タクシーが来た。行きましょう」

 そう言って、柊さんはカウンターから出てくると私を催促するようにジェスチャーで急かす。

「えっと、その、お会計とかは」

「そんなの後でいいから。早く」

「二人ともお気をつけて」

「わ、ちょっと、急かさないでくださいよ」

 こうしてドタバタと騒がしく慌てながら、私は本当に柊さんと一緒に店を後にするのだった。


 自分が綺麗だと思った直感を大事になさい、という祖母の言葉を思い出しながら、私はタクシーの後部座席で居心地悪く身を固める。日頃あまり車移動しないというのもあるが、それにしてもつい先ほど出会ったばかりの人と、それもとびきりの美人の隣に座っているとなれば、私の動揺も仕方ないことだろう。

 上品なコートを羽織った柊さんは整った姿勢で座席に座り、静かに窓の外を眺めている。私が祖母の家の住所を運転手さんに告げてからというもの、彼女は口を開かずにずっとこの状態のままだった。喫茶店の中でも思ったが、やはり基本的には口数の少ない人らしい。

 それにしても、この人は改めて美しい容姿をしていた。店内の照明であっても、外の光の下でもその印象は変わらなくて、むしろ肩が触れ合いそうな距離にいるぶん余計にその整った外見が気になってしまう。艷やかな髪も、理想的なラインを描く横顔も、印象的な目元も。私が今まで人生で会ってきた中で、一番の美人ではないかと思わず考えてしまうほどに。

「うるさい視線はやめてもらえる?」

 そんなことを考えながら顔を見つめていると、不意に柊さんがそう口を開く。

「あ、す、すみません」

 覗き見を咎められて反射的に謝ると、彼女はちらりと視線をこちらに向ける。

「質問があるなら勝手にして」

「え、いいんですか?」

「勝手にしていいと言っただけで、全てに答えるとは言ってないけど」

「そんなあ」

 思わせぶりな言動に一喜一憂してしまうと、そんな私の反応を気に入ったのか、柊さんはようやく少しだけ柔らかい顔を見せてくれる。

「で、聞きたいことは?」

 状況はともかく、この謎だらけの美女である柊さんに対して聞きたいことは山ほどあるのは事実だ。しかし、あまり立ち入ったことを聞くのもなんだかナンパみたいになってしまいそうなので、私は無難なところから恐る恐るたずねてみる。

「その、どうしてわざわざ祖母の家まで来てくれるんですか」

「だって、面白いから」

 私の質問に、柊さんは当たり前のように即答する。

「無知で無学の孫が解けなさそうな謎掛けをしてまで、遺品に鍵を掛ける人なんてそうそういないじゃない。曲自体は平凡だけど、行為は非凡ね。今どき珍しいとんだ変人だから、何を後生大事に隠していたのか気になるわ」

 言葉だけ見ると少々無遠慮な物言いではあったが、柊さんの声色は優しいものだった。理由はともかく、私の祖母へ興味を示してくれたのは本当らしい。あるいは、もし自分の出した答えが間違っていたら、という保険もあるのだろうか。

「さっきの、ラデツキー行進曲でしたっけ。どういう曲なんですか?」

 曲名を思い出しながらそうたずねると、柊さんは淀みない口調で言葉を並べる。

「ラデツキー行進曲は、ヨハン・シュトラウス一世の曲。二世じゃなくて、父親の方の一世よ。大規模な革命の危機感が漂っていた当時のオーストリア帝国で、闘争の鎮圧に成功したラデツキー将軍を称えるために作られたわ。彼の作品群の中でも突出して有名で、国民にも愛されている曲ね」

 そこまで説明してくれたあと、柊さんはちらりと私の方を見て、訝しげに目を細める。

「まさかとは思うけど、ヨハン・シュトラウス二世も知らない?」

 もちろん音楽知識のない私には全く検討もつかなくて、愛想笑いを返事の代わりにする。

「呆れた。学校で何を学んだのかしら」

「すみません。その、昔から音楽ってあまり得意じゃなくて。特にクラシックだと、聞いたら眠くなっちゃうんですよ。きっと聞く才能がないんです」

 なんとなく言い訳を並べたくなってそう早口で答えると、柊さんから返ってきたのは意外な言葉だった。

「そんなことはないわ。優雅な曲を聞いて心地よく感じるのであれば、それは正しい感性。本当に雑音だと感じているなら、眠ることなんてできないはず」

 てっきりまた無知を皮肉られるとばかり思っていたので、私は少し驚いて柊さんの方を見てしまう。今まで家族や友達にこの話をする度に笑われてきたのだが、こんなふうに返してくれたのは彼女が初めてだった。

 こうして初歩的な質問にもわざわざ教えてくれたり、一緒に祖母の家まで着いてきてくれるところを含めて、柊さんは冷たい言動とは違って実はとても優しい人なのかもしれない。

「まあ、どちらにしてもあなたのようなぼけっとした子孫が末代であることは本当に気の毒だけど。お祖母様には私から謝ってあげるから安心して」

「あ、はい」

 前言撤回。やっぱり柊さんは、ちょっと冷たいかもしれない。

 そうこうしているうちにタクシーが祖母の家まで到着して、私たちは順番に車を降りる。タクシー代は先に柊さんが払ってしまっていて、私は喫茶店で払いそこねた分も含めて後でまとめて返せるように慌ててスマートフォンにメモをしなくてはいけなかった。

「鍵は?」

「ああ、はい。持ってます」

「寒空の下に私を放置していないで、早く入れて」

 相変わらずちょっと強引な柊さんに促されるまま、私は鞄の奥から玄関扉の鍵を取り出して家の中へ入る。家主のいない家はがらんとして静まり返っていて、まるでこの気温の中で時を止めてしまったかのようだ。幼い頃はよく祖母に会いにこの玄関を通ったなと思い出して、懐かしい記憶に胸の奥がつんとなる。もう、出迎えてくれた人はこの世にいないのだから。

「スリッパは?」

「あ、よかったらこれを」

「ありがとう。じゃあ納戸まで案内して」

「はい。こっちです」

 すっかり柊さんにペースを握られつつも、私は薄暗い廊下を通って奥にある納戸まで移動する。暖房は入れていないけど家の中は外よりいくらか温かくて、それがせめてもの救いだった。

 そうして件の納戸まで到着すると、そこには何度も見た南京錠が相変わらずぶら下がっている。私以外にまだ誰もこの暗証番号を解くことができていないようで、その鍵は見た目よりも厳重に閉ざされたままだ。

「じゃあ、開けますね」

 私はそう宣言をしてから、冷たいダイヤルに手を伸ばす。

 1、8、4、8。お店で柊さんが教えてくれたラデツキー行進曲の作曲年を揃えると、南京錠は嘘のようにするりと開き、納戸の扉が開放される。

「本当に、開いちゃった」

 呆然としてダイヤルと扉を何度も見る私をよそに、柊さんは急に顔をこちらに近づけてくる。綺麗な顔が目の前にやってきてどきりと心臓が跳ねるが、彼女が見ているのは私ではなく手に持った南京錠の方だった。

「op228。ちゃんとヒントもあるじゃない」

「え?」

 柊さんの整えられた爪先が指し示すのは、南京錠の裏側に書かれた小さい文字。なにかの落書きか製造番号だとばかり思って見逃していたが、確かにそれはマジックペンで後から誰かが書き足したもののようだった。

「なんですか、これ?」

 どうやらこの正体にも気づいているらしい柊さんにたずねると、彼女はもう興味をなくしたような様子で面倒くさそうに口を開く。

「ラデツキー行進曲の作品番号よ。それよりいつまで扉のまで立ち尽くすつもり? 知らないようなら教えてあげるけれど、このドアノブは手で掴んで回して開けるのよ」

「あ、すみません、今開けますね」

 感慨に浸ったりする間もなく、柊さんに急かされるままに私は納戸の扉を解き放つ。薄暗い室内の光景を目にした瞬間に、過去の思い出がまるで昨日のことのように蘇る。箪笥と、本棚と、古い家具と段ボール。幼い頃にかくれんぼ遊びをして、ここに入った時のこと。実はこの中には宝物があるのだと、いたずらっぽく微笑んで教えてくれた祖母の顔。

「うわ、埃っぽい。最悪。掃除くらいしておいてよね」

 そんな感動をぶち壊したのは、もちろん空気の読めない柊さん。部屋に入れなかったのだから当然掃除なんてできるはずもないのだが、彼女は文句を言いつつもまるで自分の家のように遠慮なく何度の中へ入っていく。そしてぐるりと中を見渡した後、部屋の片隅にあるキャビネットに目を向けてこう言った。

「ああ、なるほど。これはなかなかのコレクションじゃない」

 そこのキャビネットにあったのは、たくさんのCDやレコードやカセットテープだった。すりガラスの蓋で中が見えにくいものの、綺麗に整頓されてぎっしりと詰まったそれは間違いなくコレクションといえる規模のものだ。こんなものが昔からあっただろうか、と思いつつ、私は蓋を開ける。

 ベートーベン、ショパン、モーツァルト、バッハ。私でも学校の教科書で見たことのある名前がずらりと並んだそれは、おそらく祖母が大事にしていた音楽そのものだった。晩年の祖母は家からあまり出ることがなかったそうだが、その時はこの自慢のコレクションを紐解いてこれらを聴いていたりしたのだろうか。

 キャビネットを開くのと同時に、はらりと一枚の便箋が私たちの足元に落ちる。それを拾って広げてみると、見覚えのある祖母の字で、短く一言が書かれている。

「このコレクションは、景へ譲ります」

 その文字を見て、私はようやく祖母の死を実感して、少しだけ涙ぐんでしまう。成人してからは年末にしか顔を合わせることがなかったけれど、あの人はたしかに生まれてから死ぬまで私の自慢の優しい祖母だったのだ。

「もう、忘れちゃったのかなおばあちゃん。私がこれを聴いても、眠くなるだけだって」

 昔、少しだけ祖母と一緒にクラシックを聞いて、居眠りをしてしまった思い出が蘇る。あの時の祖母は、いったいどんな表情をしていただろうか。イメージ通りに、優しく微笑んでくれていただろうか。

「それでも、孫にくらいは聞いてもらいたかったんだんじゃないの」

 柊さんは静かにそう言って、並んだCDを見て微笑む。

「ラデツキー行進曲も知らないできの悪い孫だったのが残念だけど」

「あの、今のは慰めてくれるところじゃないんですか?」

 またもや空気の読めない言葉にずっこけそうになると、柊さんは素知らぬ顔で視線を逸らすのだった。


 結局納戸にはそれ以外のめぼしいものがなくて、私たちは死者に敬意を示してそこを立ち去ることにする。扉が開いたとスマートフォンで家族に伝えてみるが、中にはコレクションの詰まったキャビネット以外に特に何もなかったと教えると母は驚いた様子もないようだった。

「まあ、おばあちゃんのことだからね。変わった人だったから」

 それで私たち家族の大きな謎はあっさりと終わってしまって、私は少しだけ寂しい気持ちと、晴れやかな気持ちを同時に胸の奥に感じる。

「あのコレクション、いらないなら私の店に寄付して」

 納戸の扉を閉めると、柊さんが静かにそう言ってくる。

「え、何か価値のあるものがありましたか?」

「ないけれど。あなたがもらっても豚に真珠でしょう」

 よりによって悪い例えを出してくる柊さんに苦笑しつつも、私は首を横に振る。

「一応、おばあちゃんからの遺言ですから。頑張って全部聞いてみることにします」

「ふうん、眠ってしまうのに?」

「安眠にちょうどいいかもしれないじゃないですか」

 冗談めかしてそう言うと、柊さんは少しだけ口の端で微笑をする。冷たい印象を受ける彼女だけれど、笑った顔はやっぱり美人で素敵だった。

「それにしても、クラシックのCDってたくさんあるんですね」

「当たり前よ。そもそもCDの再生時間はベートーベンの交響曲第九番が収まるように作られたんだから」

「へえ、知りませんでした」

「まあ、この第九というのも指揮者によって長さは違うから、俗説という噂もあるのだけれど」

「同じ曲でも長さが違うんですか?」

「そうそう。指揮者以外にも、たとえばホロヴィッツみたいなピアニストが演奏をすると……」

 と、和やかに雑談をいくつかしている途中に、柊さんは突然言葉を切ってしまう。どうやら喋りすぎたと思ったのだろう。ここは彼女の喫茶店ではなく、私の祖母の家。もう私たちの用事は、これで全て済んだのだから。

「いや、こんな話をしても仕方ないか。じゃあ、私はタクシーで帰るから。さようなら、変なお祖母様の変なお孫さん」

 そう言って、柊さんはコートを翻して廊下を歩き出してしまう。本当に、今から一人でタクシーに乗ってここを去ってしまいかねない様子で。

 偶然立ち寄ったお店のマスターである柊さんと、そのお店を訪れた用事が解決した私。もうこの二人を繋ぐきっかけはこの納戸で終わってしまったから、本来はこのまま別れるのが自然なのだろう。ただでさえ、私たちは趣味も合わないのだし。

 けれど、どういうわけか、私はその背中を呼び止めてしまう。

「あの、連絡先、交換しませんか」

 咄嗟に出た言葉だったが、柊さんはぴたりと足を止めて、静かにこちらを振り返ってくれる。

「どうして?」

 色素の薄い髪を指先でもて遊びながら、柊さんはそうたずねてくる。

「えっと、その、また今日みたいなお話、教えてほしくて」

「面倒くさい」

「そ、そんなこと言わないでくださいよ。あの、じゃあお店のインスタでもいいので、ほら、私結構フォロワーがいるんですよ」

 興味をなくしてそのまままた立ち去ってしまいそうな柊さんを呼び止めたくて、私はちょっと必死になってその背に追いすがる。ダメ元でスマートフォンの画面に自分のインスタアカウントを表示すると、柊さんが突然目を見開くのがわかった。

「……景」

「え?」

 急に柊さんの綺麗な声で名前を呼ばれて、私は思春期の子どもみたいに緊張してしまう。

「景という名前は、お祖母様が?」

「ああ、はい、そうです。言ってませんでしたっけ」

「誕生日は6月18日?」

「えっ、なんでわかったんですか?」

 急に誕生日を言い当てられて動揺していると、柊さんが細い指を伸ばして私のスマートフォンの画面を指し示す。そこには私のSNSのプロフィールとして、名前と生年月日を使ったIDが表示されていた。

「ケッヘルだ」

 柊さんはそうつぶやくと、突然私を追い越すようにして歩き出し、再び納戸の扉を開ける。

「どうしたんですか? 柊さん?」

 慌ててその後を追いかけて名前を呼ぶと、柊さんは急いでキャビネットを開けて一枚のCDを取り出すところだった。

「本当の遺言と遺品がわかった。お祖母様があなたに景という名前をつけたのは、偶然数字が揃ったから。ケイ0618。モーツァルトの作品番号を示すK(ケッヘル)618番は、アヴェ・ヴェルム・コルプス。つまりこれよ」

 柊さんが渡してくれたCDには、確かにモーツァルトのその曲名が書かれていた。そしてもう一つ。ケースに挟まれていたのは、赤ん坊だった頃の私を抱く、笑顔の祖母の写真だった。


 アヴェ・ヴェルム・コルプスは、モーツァルトの晩年の作品だという。カトリックの讃美歌であるというそれは、モーツアルトの妻を看病してくれた合唱指揮者のために書かれた曲らしく、短く簡素だけれど美しいハーモニーを持つ名曲だった。

 この静謐で厳かな曲をどうして祖母が気に入っていて、わざわざもじって私の名前にしたのかまでは今となってはわからない。ただ、その祈りと愛を込めた音楽の響きは、私の涙腺をこじ開けて体を震わせるには十分すぎるほどの説得力だった。

「ありがとう、ございました」

 営業時間よりも早くクローズした、喫茶店ファンティーヌの店内。そのカウンター席で、豊かな響きを持つスピーカーから祖母の愛した曲を聴かせてもらった私は、ハンカチで涙を拭ってから柊さんに礼を言う。

「やっぱり聞く才能、あるんじゃない」

 柊さんはそう言って、温かい紅茶を私に出してくれる。甘く優しい味の、香り高いミルクティーを。

 今まで、私は自分に音楽は向いていないと思っていた。興味もないし、縁もないのだと。けれど祖母が人知れずクラシックを愛して、私の誕生日に運命を感じて惚れ込んで、こうしてささやかなサプライズを隠してくれていたことは、とても人間の優しさと美しさに満ちた物語であるように思えたし、急に音楽を身近に感じることができた瞬間だった。

「どうして人は音楽を作ると思う? 作らなくても生きていけるのに」

 CDを止めてケースへしまいながら、柊さんは静かにそう口にする。

「楽しいから、ですか?」

 私がそう言うと、柊さんは静かに首を横に振った。

「本当に大事なことはね、そのまま言葉にはできないからよ。だからきっと、人はその思いを音へ乗せるの」

 よくわからない、と言おうとして、私はそれが正確でないことに気がつく。なぜならまさに祖母が私へ残してくれたこの思いこそが、言葉にはできない証明そのものだったからだ。

 そして、これをわざわざ私に聴かせてくれて、教えてくれた柊さんの思いも、きっとそれと同じなのだろう。

「連絡先、交換していいよ。その代わり、また店に来て」

 柊さんはそう言って、スマートフォンの画面を見せてくれる。新しい友だちとして表示されている私のIDは、まさにケッヘル618番そのもので、そして祖母の残してくれた深い愛情なのだった。

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