エピローグ
並んだ本棚の間を縫うように歩く。黒猫ほど気高くはないだろう。けれど、高校生男子にしては上等で、今の俺には相応だ
野放図に回遊し、本棚に向かっている人影を視界に入れる。長年続けた悪癖は、直らないままだ。
ただし、人は変わった。
カーキ色のワンピースにクリーム色のサマーニットカーディガンを羽織り、デザイン性の高い複雑な編み込みのあるサンダルを履いている。私服なのは夏休みに突入したからだ。
学校の図書室で借りた本なんてあっという間に読み終えてしまったらしい文葉は、ご機嫌に本棚の間を泳いでいた。そのままの流れで、こちらへ近づいてくる。
そばに来るまで俺がいることすら気がついていない。そのマイペースさが心地良さ半分、無念さ半分。それでも、そばに来れば気がついて顔を上げる。
当たり前のように寄ってきては、
「何か見つけた?」
と首を傾げてきた。
ワンピースは腰上で返しがついていて、膨らみがくっきりと分かるので、見下ろすと豊満さが飛び込んでくる。
私服を見るのは数度目だ。ゴールデンウィークや本屋へのお出かけ。そして、この夏休みになってからも何度も目にしている。
それでも、新鮮味が削がれることはない。どの角度から見ても、文葉に似合っている。見ていて飽きない。それは格好もさることながら、本への愉楽を隠しもしない明るい性格もあるだろうが。
「そっちは?」
「ラノベ多そうだったよ。シリーズずらっと並んでた」
「へぇ。行こう」
「フッ軽」
「本限定」
「知ってるよ。あたしばっかり誘ってるもん」
以前提案された図書館巡りは、夏休みを利用して実行されていた。主導権は、発案者たる文葉だ。
受け身でいようという気はない。だが、文葉のバイタリティに比べると、俺の腰の重さは十年にも及ぶ。何より、雑念があると声をかける頻度が掴めない。静かな片想いをしていた時間が長過ぎて、アプローチ方法が分からなかった。
結局、文葉に振り回されている。そうはいっても、このスタイルが俺たちにはフィットしていた。不便さはないし、文葉だって口で言うほど不服に思っているようでもない。
「文葉が誘ってくれて嬉しいよ」
「機嫌の取り方が上手くなってきて、タラシみたいになっちゃったなぁ。章人くん」
「タラシてないだろ」
俺がこうして言葉を返せているのは、こういうときはと文葉自身から助言があったからだ。
タラシというほど、不特定多数へこんな態度を取るつもりはない。特定の誰かをタラそうとしていると言うのであれば、反論の余地はないけれど。文葉は俺の気持ちにはこれっぽっちも気がついてないので、その線はなかった。
「そうかなぁ? キザったらしいと思うけど」
「自由にしてるだけ」
「本性だったか」
「いいだろ。で? ラノベ棚ってどっち?」
「はいはい。あっち」
そう言って、文葉は俺の腕を引いて進む。
スキンシップの割合はまた増えた。穂架さんのことがなくなって、自由にすると話してからか。それとも、夏休みになって解放的になっているからか。過ごした時間で距離が縮まったからか。そのどれもが関与しているような気もしている。
「章人くんはやっぱり読書が一番だよね」
「他に大切なものがないみたいな言いざまはやめてくれよ」
「棚田さんのこと、まだ引きずってる?」
「いつも通りになってるって言ったし、そんなふうに見えるか?」
「見えないけど、章人くんは自分の気持ちに鈍感だからなぁ」
こればっかりは、文葉相手に何を言えたものではない。俺の気持ちを解してくれた相手だ。当人はあずかり知らぬだろうが、穂架さんへの気持ちの整理と、文葉への気持ちの自覚。それを成し遂げてくれた相手の言う鈍感には押し黙るしかなかった。
悪手だと気がついたのは、
「ほら」
と確信めいた顔でこちらを見上げられたときだ。
「心配しなくても、とっくに整理はついてるよ。文葉がいてくれるなら大丈夫」
「……それでタラシになってないって言える?」
「タラされてくれてるとは思わないんだけど」
「ほだされているとは思う」
その言葉の意味にどれくらいの差があるだろうか。俺と文葉の感触の違いはどれくらいか。
それを算出するには、まだ俺たちの関係は浅い。それとも、こんなものはどれだけ仲を深めたところで混迷し続けるものなのだろうか。穂架さんとの仲は既定から動かなかったので、その先を知る由もない。
俺にとって文葉は、初めての存在となっていた。
「お互い様だな」
ほだされている。
それ以上ではあるが、経緯を知っている相手に告白するには、舌の根も乾かぬうちに過ぎた。穂架さんのときのように、時間を空費するつもりはない。それでも、時期を見極める理性はある。
文葉は先んじていた歩調を落として隣に並んできた。
「そうなの?」
「そうでしょ?」
そう言って、肘にかけられている文葉の手のひらへ視線で示す。俺が他人にこれほど馴れ馴れしくないのは、クラスでの様子を見ていれば知っているはずだ。
文葉は合点がいったようで、悪戯っ子のような目になった。こうなると、次に何が来るのか。なんて、考えるまでもない。
文葉は自分の魅力をはき違えている。
「章人くんは読書仲間にはチョロいなぁ」
言いながら、腕に巻き付いてこようとするのを見越して、肘にかかっている文葉の手を取った。腕に抱きつかれるのをやり返すにあたって、こちらが文葉の腕を取るわけにもいかない。俺のキャラからかけ離れている。
取った手を握り締めると、文葉は驚いているようだった。けれど、手を離そうって気は更々なさそうだ。いつも丁寧に本を扱っている手は繊麗で収まりがよかった。
「文葉だって同じでしょ」
「本好きに悪い人はいないからね」
「それ、やめとけよ」
「でも、あたしの勘は間違ってなかったと思う」
「悪辣じゃないだけかもしれない」
「そう? こんなにほだされてくれるのに?」
言いながら、触れ合っている指先が絡まってくる。指の股を撫でるように動かされると、ぞわりと肌が粟立った。文葉はお構いなしにすり寄せて、交互に絡んだ手のひらがぎゅっと握り締められる。
自分の指が太いなんて、普段は意識もしない。それが文葉の細い指と並ぶと、否が応でも骨格の違いを疼かせる。
紛れもなく、俺たちは男女だ。
「大胆なのはそっちだろ」
「初心だなぁ、章人くんは」
「悪かったな」
経験のなさを初心と呼ぶならそうだろう。
釈然とせずに、浮いていた指先をがっちりと握り返した。接着面積が増して、手のひらに熱がこもるような気がする。
自由の利く親指で手の甲を撫でると、ぴくりと触れ合った部分が震えた。小さな息遣いが鼓膜を揺らす。横目に一瞥すると、泡を食ったような顔の耳元が赤くなっていた。
俺の視線に気がついた文葉の頬に、薄らと赤が侵食していく。
「む、ムッツリ」
「文葉が先だろ」
「恋人繋ぎはいやらしくないもん。章人くんの撫で方がやらしい」
「オープンだから」
「開き直るな」
言いながら、文葉がぶんと手を振った。逃げようとしているのかもしれないが、非力であるし、距離が近くて上手くいっていない。微笑ましくて、堪えきれなかった笑みが零れた。
「性格悪いよ」
「いつも俺をからかうのは文葉だろ。やり返してるだけ。やっぱり、本好き云々は当てにならないんじゃないか」
「お互いやり返してたら、どっちもどっちでしょ。チキンレースじゃん」
引く気はないらしい。そして、手の甲をくるっと回すようにして腕を絡めて近づいてくる。度胸試しされているのは、こちらだけのような気がしてならない。
「ムキにならないでくれよ」
「付き合ってくれるんでしょ?」
「開き直ってるのはどっちなんだか」
いいのか。この距離は。
仲間。同志。友人。どれを当てはめても逸脱している気がしてならない。けれど、文葉は明るい顔で歩いていた。だったらいいか、と思うのも、ほだされているというレベルを通り過ぎている。
文葉の体温や香りがじくじくと心を蝕んで離れない。困ることは困るけれど、それは自分に都合が良すぎるというだけなので、拒絶などできるはずもなかった。
くだらない。着地点もない不毛な応酬を投げ合いながら、文葉と並んで愛する本の間を歩く。
着飾ることなく隣同士で、好きなものに触れながら。これが続くようにと願いながら、文葉の眩しさに目を眇めていた。
あこがれと恋 めぐむ @megumu
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