第9話 真菜との解散。その後の
翌、八月二十一日。
川上は二十四歳になった。
淹れたばかりのコーヒーに氷をいれたところで、背後から真菜に声をかけられた。
「おはよ、雪ちゃん。起きてたの。早いね」
「おはよう」
リビングの時計を見ると、朝の七時を少し過ぎた頃だった。
「真菜も早いね」
「良ちゃんももう起きたよ。朝ごはんの前に、出ちゃおうって話になったの」
「え?」
振り向くと、真菜は既に服を着替えて、キャリーケースを傍らに持っていた。すっかり目が覚めて、清々しいほど背筋をまっすぐ伸ばして立っていた。
顔を洗って少しばかり寝癖を直せば、すぐに出ていけそうだった。
「ぐずぐずしててもしょうがないしね。もちろん、雪ちゃんの準備は待つよ。昼前に東京駅についておけばいいんだから」
「わかった。できるだけ早く準備するね」
雪本がそう答えると、真菜は頷いて、何も言わずにキャリーケースから紙袋を取り出した。慎重にしまわれ、皺ひとつついていない紙袋の中には、川上の為に購入された水筒があった。真菜はくすぐったそうに笑って
「良ちゃん、もうすぐ出てくるよ」
と自分の部屋の方を指さした。
「わかった」
声が少し弾んだのを感じながら、急いで水筒の口を開けて、コーヒーを注ぎ始めた。
「早く早く」
「待って、零すから」
真菜は構わず雪本の背中を叩いて、うるさいささやき声で繰り返した。
「早く、ほら、ほらもう来ちゃうって」
「だから待ってって。聞こえる――OK、入った入った」
水筒にアイスコーヒーを注ぎ終えてふたを閉め、紙袋の中に込める。雪本がキッチンの棚の中に紙袋ごとアイスコーヒーを隠すのと、真菜の部屋のドアノブが回る音がするのと、同時だった。
「良ちゃん、雪ちゃんももうすぐ出れるって」
真菜はすぐに川上の方に駆け寄った。その時くるりと振り向いた拍子に、裾が翻り、早朝の日光をはじき返して輝く。
その日の真菜の服装は、白いシンプルなシャツワンピースだった。
川上は一瞬、その眩しさをぼんやりと眺めていた。
「良ちゃんも、早く着替えなきゃ。半過ぎには出たいけど平気?」
「大丈夫」
「よかった。じゃあ私、さっさと顔洗ってきちゃう」
真菜はそう言ってリビングから出ていった。川上はそれを少しだけ見送ってから、すぐに雪本の方に目線を向けた。いつもより頬が疲れていた。
「おはよう」
「おはようございます」
雪本は敢えて、真菜と川上の中間くらいのトーンで返事をして、軽く会釈した。川上は安心したように目を伏せた。
「随分早いな」
「そうでもないです。ついさっき起きたばっかり」
「一時間くらい前に、物音がした気がしたけど、じゃあ、あれはお前じゃなかったのか」
「なんでしょうね?それで起きちゃったんですか?」
「ずっと前から起きてたから」
三十分後、雪本は荷物を整え家を出た。川上はそれよりわずかに早く家の前の通りに出ていた。
暑いからか、時間が無かったからか、珍しく五分袖のTシャツにジーンズだけのスタイルで、腕時計も持ってきていなかった。
「真菜は」
「なんか、寝癖ついちゃってたみたいで、治すのに苦労してます」
「無理に早く出ようとするから」
そう言って、焦点の定まらない微笑を浮かべる川上の傍らで、雪本は出きるだけ静かに息をしながら、共に真菜を待っていた。
空は異様に透き通った濃いコバルトを讃え、住宅街は静かに蒼い影の中に沈んでいる。これから浮上することを予期するように、背の高い家の屋根だけが太陽を受けて白々と照っていた。
コンクリートの階段を駆け下りる軽い音がした。
「お待たせ」
真菜が、初めてのデートの待ち合わせのような雰囲気で言った。今まで意識もしなかったほどのそよ風がワンピースをなびかせてやけに目立った。
「遅い」
川上の固い声に、真菜が少し笑顔をこわばらせた。しかし川上は視線をもう進行方向に向けていて、真菜のその表情の変化を見落とした。
雪本は真菜と視線を合わせると、道の真ん中を歩く川上の右側に並んだ。
「まってよ」
真菜の声が調子を取り戻し、元気よく川上の左側に並んだ。川上はため息をついて、真菜が右手で転がしていたキャリーケースを持ってやった。
*****
駅の階段を上がると改札口はすでに人が増え始めていた。
「ここまででいいよ」
真菜は振り返って川上の持っているキャリーケースの取っ手に手を添えた。
「今日の夜にはとりあえず連絡するからさ」
「いらないよ」
川上が軽く笑いながら言った
「俺にかけてるのがバレたらどうするんだ」
「バレないようにするよ」
真菜が遮るように答えると。川上はただキャリーケースの取っ手から手を引いた。真菜は自分の足元にケースを引き寄せ、しゃんと背筋を伸ばした。
「行ってらっしゃい」
雪本が声をかけると、雪本の頭を真菜が軽く撫でた。
「雪ちゃん、よろしくね」
静かな響きに、目を合わせ、はっきりとうなずく。真菜はニッコリと笑って雪本から手を離した。
「じゃ、行ってきます」
真菜は軽やかに手を振った。それもほんの一瞬のことで、すぐに手を下ろすと、とびきりの笑顔を残し、寝癖の名残もないまっすぐな黒髪を鮮やかに翻したっきり、ついに一度も振り返らなかった。
振り返りはしないことを何となく理解していたので早々に川上のようすを盗み見ると、川上はただ身じろぎひとつせず、ただ真菜の背を見ていた。
しかし、真菜の背が見えなくなった途端に
「悪い、雪本」
と切り出した。
「今日一日だけ家を任せていいか」
「え…………」
「旅行してくる」
川上はスマートホンに視線を落とした。雪本は訳がわからないままに言った。
「宿は」
「これからとる。新幹線も」
「じゃあ俺もいきます」
今度は川上が訳がわからなそうに雪本を見た。
「川上さん、荷物は」
「いや…………これから準備して、昼頃新幹線に乗ろうかと」
「じゃあ俺も準備します。ダメですか」
川上はしばらく目を伏せたまま、意味もなくスマートホンの画面をつけたり、消したりしてから、
「歩きながら決めようか」
と、来た道を引き返し始めた。
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