第8話 前夜に
八月二十日。午後八時五十五分。
川上の誕生日の前日ということで、翌日に祝われる予定の川上が自ら申し出て夕飯を用意した。
「ごちそうさまでした、すっごくおいしかった。おなか一杯」
「確かに。今日、良ちゃんにしては品数多かったね」
緑茶に口をつけながら、真菜が雪本の言葉にうなずく。
「明日はどうせ洋食だろうし。和食が食べたくなっただけだ」
どんなに事も無げに言って見せても、普段は三品ほどの川上が、味噌汁と白米と和風ハンバーグだけでなく、ほうれん草のお浸しにピリ辛いきんぴらごぼうにあげ出汁豆腐まで出そろった六品をそろえるのは大分骨が折れたようで、かなり時間がかかってしまった。
明日は川上の誕生日で、全員一日空けているので、焦らずゆっくりと味わった。柔らかく丁寧な味で、心底満ち足りた食事だった。
「やっとあのおっきいテレビが活かせますね」
雪本はリビング側にあるテレビを指さした。たまにバラエティ番組などを見ないわけでもなかったが、ダイニングテーブルからでは三人のうち誰かが見難い角度になるし、食事が終わればそれぞれがそれぞれ、会話や趣味に興じるので、ほとんどBGMのようになってしまうのが常だった。
「今日ね、届いたDVD、ちょっと見てみたの」
真菜が良すぎるくらいの勢いで切り出す。
「えっ?」
雪本が声に出すのと、川上が真菜をはたと見詰めるのとが同時だった。真菜は大きく笑った。
「違う違う。動作確認したくてメニュー画面開いてみただけだよ」
「驚いた」
川上が一言呟いたのに、真菜がまた笑う。
「そんなに信用無いかな。大体……」
音が鳴った。真菜の携帯電話からだった。
「電話だ。珍しい」
真菜は画面を見て、すぐ顔を上げた。
「実家だ」
その瞬間、雪本は持っていた緑茶を静かにおろして、そっと席から下り、出来るだけダイニングテーブルから離れた床にそっと体育座りした。咳ばらいをしてもギリギリごまかせるように、持っていたタオルハンカチで口を押え、真菜に対して背を向ける。
「はい、もしもし。久しぶり。あ、そうそう、おうちね、すっごく快適、ありがとうね、いいお部屋見つけてくれて。……え?良ちゃん?」
会話の流れとしてあまりに唐突で、狼狽する。川上こそ動揺しているのではないかと一瞬だけ振り向くと、同じように今振りむいたばかりという様子の真菜が呆然としていた。
川上がいない。いつの間にかリビングの扉が開いていた。玄関の音はしなかったので、廊下か自室に行ったのだろうか。
真菜は再びダイニングテーブルに背を向けた。
「良ちゃんはいないよ」
強い怒りのにじむ声だった。
「いないに決まってるじゃん、お父さんたちがそうしろって言ったんでしょ……え?」
帳尻を合わせるように、強い語調を続けていた真菜が、突然声を上ずらせた。
「……いや……急に言われても、ちょっと、難しいよ、明日とか」
真菜の声は、頭の回転が追い付いていないような形で、おぼつかなくなった。
「…………なるほど。…………じゃあ、わかった。いいよ。出席はするよ。わざわざ来てくれてるなら追い返すのは申し訳ないし。向こうの方にご迷惑はかけられないから。でも、今度からは、非常識なことしないでね。……ううん。いいよ。別に用事があるわけじゃないもん。ちょっとびっくりしちゃっただけで」
最後に真菜は、電話越しの、恐らくは父親に向かって、柔らかく付け加えた。
「私ね、お父さんの事尊敬してる。でもそっか。こういうこともあるよね」
真菜は電話を切ると、リビングの戸をわざと大げさに閉めて、飛びつくようにして雪本を抱きしめた。
「雪ちゃん、ごめんね、明日無理だ……」
「うん。大丈夫。俺は大丈夫」
雪本は三度だけ真菜の背を撫でると、立ち上がって正座に改めた。真菜は重そうに頭を抱えていたが、それでもしゃんと座った。
「お見合いだってさ」
「えっ。お、お見合い?」
思いもかけぬ単語に面食らった。てっきり、親族の集まりか何かだと思っていた。
「もう母が東京まで来てる。明日はバイトだとか嘘ついたら、多分確認しに来る。だからいかなきゃ。明日朝、東京駅で待ち合わせ」
「何それ……なんで急にそんな、」
「雪ちゃん」
真菜は図々しくも、真剣な様子で、遮った。
「これからいう事、良ちゃんには、内緒にしておいてね」
「ものによるよ」
「そりゃそうだ」
真菜は苦く薄く笑って続けた。
「この家で暮らし始めてちょっとしたくらいにね、うちに親が来かかってたのよ。偵察で。でも私、普通にそれは鬱陶しかったし、皆が皆生活に慣れ始めたくらいなのに一回片付けとかよそにいてもらうの忍びなくてさ。今はちょっとやめてほしいって断ったら、もう、今更って感じなんだけど……良ちゃんとしばらく距離置くって約束してほしいって。それでゆっくり、一人暮らししながら考えてくれるなら、この部屋にも入ってこないって」
「それに、はい別れますって言ったの」
「さすがに本当にそれだけで済むとは思ってなかったけど……良ちゃんだって惰性みたいなものなわけだし、雪ちゃんとお付き合い始めたこともあるし、むしろ今なら良ちゃんからしたって、渡りに船みたいなものかなって思って。とりあえず、言葉の上だけ約束した。……私の親ね、良ちゃんの誕生日覚えてるのよ。初めて良ちゃんがあいさつした時、誕生日だっていうんで、いいとこのペンとかプレゼントしてあげたりして」
つまり、西口家の両親は、単なる馬鹿親というわけでもないのだ。
世間が狭く、小心者で、娘に対して踏み込みすぎてはいるものの、愛する娘の周りの人間には、様々な意味で細心の注意を払って応対しているという事だろう。初めにそこまで厚遇した川上に対し、容貌が変わった瞬間態度を急変させるというのは、酷であり浅はかでもあるが、相当の決断力を持っている証拠でもあった。
「今回のお見合いで、無理に結婚させられるとか、そんなことは無いんだと思うんだけどな。そもそも父さん、本気で私を嫁に出す気があるのか微妙だし」
「真菜って、一人っ子?」
「一人っ子」
「なるほど」
雪本と真菜は場違いににやにや笑った。真菜の表情からは、罪悪感や引け目のようなものはなかった。
ただ、不安な気持ちと一緒に少しだけ空気に漂い出しているような、そんな眼差しだった。真菜はそのまま、しばらく黙ってから、独り言のようにぽつりと投げた。
「お見合いの相手、すごいかっこいいんだって」
「なにそれ」
雪本は気がつくと笑い出してしまっていた。
「お父さんがわざわざそんなこと言うの」
真菜も呼吸を合わせるようにして笑った。食器を洗う水音のような、軽い笑い声だった。
「ね。でも言うのよ。今の良ちゃんよりもかっこいいよーって」
「ええ、写真は」
「まだ送られてきてない。送って『好みの人じゃないからー』とか言って断られたら嫌なんだろうね」
だからといって、嘘をついてまでハードルをあげることが得策なわけが無いし、それくらいのことは真菜の両親も分かっているはずだ。A先輩を模した川上の今の顔は、少なくとも、『イケメン俳優』と言うくくりでテレビや映画に出ているような芸能人と比べても、見劣るような顔ではない。雪本の通う高校にだって、川上を……今の川上を超えるような美男は、まず見たことが無い。それでもわざわざ較べてきたのだ。
明日の見合いの相手が、今の川上と比べて恥ずかしくない容貌を携えていること自体は事実だろうと、雪本は見当をつけた。
「真菜はさ」
「うん?」
「……会わなきゃ、なんとも言えないとは思うんだけど」
「うん」
真菜はもう、およそ何を言われるか予想は着いている顔だった。
「そのお見合い相手に興味を持ったり、結婚をしたくなる可能性って、あると思う?」
「今のところは、全く興味がないけど。私の事だから、絶対100パーセント心が揺れませんとは、言えない」
真菜は艶のある髪の中、ゆったりとした仕草で指を絡ませていた。何かを探るような手つきだった。
「雪ちゃんのこと大好き。良ちゃんのこと、大好き。だから他の人なんて要らない。そういう気持ちは嘘じゃない。今の私の正直な気持ち。三人で今日みたいに、ご飯食べたり、映画見たりするの、凄くほっとするし、楽しい。安心するのにワクワクする。今までで一番、今が楽しい。私は今の時間をずっと続けたいって思ってる」
真菜の眼差しと声に、揺らぎはなかった。ただ漠然とした不安に飲まれた部分だけ、どこかしら質量を欠いていた。
「前に言ったけど、私、先輩のことがあってから、どんなに好みの人からでも『本気』の告白はお断りするって決めてたの。良ちゃんに決められたんじゃなくて、私が自分でそう決めてたの」
「でも俺の告白は受け取ってくれた」
雪本は鋭く、静かに付け加えた。
「俺の事を好きになったから、いいよって言ってくれた」
真菜は寂しく笑った。
「今、この瞬間は本当にそんなつもりがないんだけどね。でも、そうだよ。明日会う人に、私が一目惚れしちゃう可能性だって、無くはない。私はむしろ、その人と一緒に暮らしたらどんなに楽しいだろう、とか思っちゃうかもしれない。その人が私の事好きになってくれたりしたら、すっごく嬉しくなっちゃう、かもしれない」
真菜はぐるりと部屋を眺めた。雪本も眺めた。真菜に向かって、そんなことはないと、雪本と川上だからここまで楽しいんだと主張をしてくれるようなものがあればと念を込めた。
「そんな、ないだろうなって思うけどね。私こう見えて初対面の人にはだいぶ猫かぶっちゃうし、打ち解けるのも難しいとは思うんだけど。でも、こうだ!って思ったら、私……私、分からないな。会ってもいないのに悩んだって、仕方ないんだけど─。でも、こうだ!って思って我慢しなかったから雪ちゃんとこうしていられてるじゃない」
「うん」
「だから、本当にそうしたかったら、今度は別の人とでも付き合ったり結婚することは、無くはないんだろうね。少なくとも、無理にそれを、我慢したりはしない」
真菜の目があまりに真っ直ぐで、雪本は胸の奥を固くした。
「それは、そうだろうね」
嫌だけど。嫌だと言って、騒ぐだろうけれど。
「それが間違いだとは思わない。真菜がいちばん素直な気持ちで選んだことを、やっていくしかないもん」
努めて、雪本が微笑むと、それに合わせるようにして、また真菜が笑った。雪本がその笑みの疲れに気づくと、真菜はそれにさらに気づいて俯く。
「素直な気持ちって、なんだろうね。その時に、その瞬間ずつ、この人のこと好きだなーとか、これが欲しいな、あれが欲しいなって思うことかな。私が明日、相手のこと、すっっごく好きになったとしてね。それで雪ちゃんと良ちゃんとお別れしたら、それは……それはそれで、きっと辛いな。どっちみち同じくらい辛いんだ」
真菜は息をところどころつまらせながら、また部屋を見て、辛いな、と言った。
「真菜」
「私の素直な気持ちって、なんだろ。一番の本音ってなんなんだろうね。今までその瞬間に一番やりたいことを、本当にそのままやってきた。でもその瞬間瞬間の一番を繋いだって、私そのものにはならない。思い出や後悔もいっぱいある。明日やりたかったことだってある。瞬間瞬間の気持ちに引っ張られて、そういうの全部ぶっ飛ばしてるだけなんじゃないのって」
真菜は厳しい口調だった。
「……その場のカンとか、衝動とか、それは何、本能みたいなものだろうけど、『素直な気持ち』って別に、本能の事だけじゃないもんね」
「でも、それを本音って呼ぶ人もいるよ」
「私もそう思ってたことがある。……でも今急にね、それがふわふわ、気持ち悪いの。多分、本当に幸せだなって、今実感してるからだろうな」
真菜は無我夢中に話した後で、ふと、持ち上げていた空気が切れたように、ストンと視線を雪本に合わせた。
「明日はそうじゃなくたって、いつか、大事なものを取りこぼしちゃう気がする」
「俺だって辛いよ、もしそんなことになったら」
「ごめん」
「でも、そういう気持ちは、わかるつもり。そういう風に悩んだことは、俺もあって。ほら、部活のこととか。大事な時に自分の気持ちがまとまらない。後悔したくないなって思う。全部どうにかしようとしちゃう」
真菜は問いかけるように、じっと雪本を凝視していた。凝視するうちに間の抜けてしまった丸い目が場違いに可愛らしくて、笑って誤魔化すのに苦労した。
「そういうのって、どうしたらいいか全くわかってないんじゃないんだ。後悔するのが怖いから、焦りすぎてるだけで。少なくとも俺はそうだった。本当はもうそういう時って、見るべきものは全部見えてる。真菜にとって、一番大事にしたいことって何?これだけはなくしたくないって思うものとか、こういう風にはしたくないって思うもの、なんでもいいから思い出して、それだけ気をつけてればいいよ。そしたらあとは、それ以外のことも何とかなる」
真菜はそこで、初めて屈託なく笑った。
「なにそれ」
「本当に。一発で全部上手くいくわけじゃないけど、二回三回にチャンスを分ければ、気づいたらなんとなく問題なくなってるから」
「二回三回なんて、ないよ。一回が外せない時もあるよ」
「あるけど、それは今じゃない。後悔したくないって思うのは、後が無いわけじゃないってことでしょ。真菜はまだ、全然余裕。大丈夫」
そう言って背中をたたいてやると、勢い余って力が入って、良い音が出た。真菜より雪本の方が先に笑ってしまった。真菜が咄嗟にやり返すと、今度は鈍くて鋭い音がした。雪本も痛かったが、真菜は真菜で床まで手を振り抜いたせいで指を強かにフローリングにうちつけていた。笑いを収める間がなかった。緊張の度合いの分だけ糸が切れれば反動も大きいのか、三十秒は優に笑ったあと、真菜は、ふうと息をついて、言った。
「雪ちゃん」
「うん?」
「今日、順番交代していい?」
真菜は左の人差し指と右の人差し指を上下に横向きに並べて、その上と下をくるりと反転させた。
「今日、雪ちゃんの番だったじゃない。誕生日、お預けだから、せめて」
「ああ……」
いいよ、と答えようとして、息がつっかえて声が出ない。仕方なく笑って頷くと、真菜も同じように笑って頷いて、すくっと立ち上がった。
「良ちゃんにも話してくる。雪ちゃんは、先お風呂はいってていいよ」
「うん」
真菜は長い髪をキリよく翻すと、リビングの戸を開けようとして、そのまま閉めて、雪本に振り向いた。
「雪ちゃん?」
「うん?」
聞き返すと、真菜が目をかがやかせて笑った。
「それ、何かに似てると思ってた」
「え?何が?」
「『うん?』って。わかった、良ちゃんに似てるんだ」
自分も首を傾げて見せながら、うつっちゃったかな、と真菜は笑った。そういう真菜のその仕草が、川上に似ていた。雪本は真菜の手を掴んで、自分の指と真菜の指を一本一本固く搦めた。
「雪ちゃん」
「これからお願いすること、嫌だったら、無視して。ごめんねとか言わないで」
言葉を発するごとに、心臓が破けているような感覚があった。
「今日はいいよ、川上さんでいい。でももし、明日の相手と本当に結婚することになっても、一回だけ俺と会って。夕飯も作る、川上さんと一緒に食べよう。でもその後は、朝まで俺と一緒にいて。その日だけでもいいから」
真菜の目を見た。丸い割に、やや目じりの持ち上がった、笑顔の似合うその目を見た。真菜は雪本の目を見たままで、絡んでどっちがどっちだかわからなくなっている指に、そっと唇を押し付けた。暖かかった。
「喜んで」
真菜はとうとう泣かなかった。けれど雪本はその一言で不意に踏み越えてしまって、しばらく止まらなくなった。それでも最後、手は自分から離した。
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