ブルーの用意はできている

@Jyabalife

第1話 けした所が恋の始まり

 帰りの電車は夕日に照らされ、過ぎていく景色に影を落としながら走っていた。ふと「君はそこでずっと夢をみていればいいのさ」というフレーズを思いだす。星の光る夜に二人出かけて、風の落ちる晩はただただお喋り。恋の終わるその朝まで、短い月明かりの時間のもとでいよう。何度もきいた歌。石田ユカは今日のことを祈るように回想していた。

 

 感情はゆるやかな波だ。ひいては満ち、満ちてはひく。いうならばわたしは海。ちょっと大げさか。でも自然現象というものにも意味や理由なんてないから、似たようなものだとおもう。

 最近、知り合いの伝手でポートレート撮影の被写体になる頼みを引き受けた。頼みの男のスタジオ兼自宅や街中などの野外で約二時間撮影する。謝礼金もくれる。今日はその三回目だった。場所は男のスタジオ兼自宅。簡素な部屋に響くシャッターの音と光のなか、いつもと違うのは衣服と下着を脱ぐということだった。事前のメールで承諾していたことだったので特にお互い大きなリアクションもなく、その日の撮影は無事に終わった。男は終始「完璧ですね」、ベッドで横たわるシーンでは「ほめてないかもしれないですが、よく似合ってますね」、こちらの気に触れるようなことは一切言わない一定の距離感のある慣れたスタイルだと思った。撮影中かどうかにかかわらず、基本的にあまり会話をしてこない。歳はおそらく三十代後半から四十代前半で、華奢で穏やか。そうだ雰囲気でいうとスピッツの草野マサムネみたい、本当に似てる。撮影中はライトの関係上だろうか、部屋の電気が消される。暗闇で指定されたポーズや態勢をとったり自由に動きまわる。名前も職業もしらない草野マサムネと密室で二人、わたしは全裸。退屈で平凡な毎日に、それは刺激的で、開放的で、自由で、どこか祈りのような感覚だった。今なら空も飛べるはずだとおもった。



 電車は降車予定の一つ前のホームで緊急停車した。人身事故。さっきまで西日に照らされていた車内はずいぶんと人が減り、どこかひんやりとしている。スマートフォンの画面に「いまどこ?なにしてんの」とお決まりの「いまなにしてる?メッセージ」が入っていた。このいまなにメッセ(ひそかにそう呼んでいる)は一日に数回ユカの交際相手からくるものである。二十七歳サラリーマンの彼との交際はたびたび息づまりながらも、いま1年を迎えている。だが、彼も、彼を取り巻く周囲の人も、ユカからするとゾンビである。生きているようで死んでいる。社会にでるということはこういうことなんだという、人生の答えなるものの種明かしをみている気分で恐ろしいし、どうか自分と別の生きものであってほしかった。彼や彼の周囲の人はユカが友人と旅行に行っただけで「お前は羽を伸ばしすきだ」という。あるときは「彼氏がいるのに男友達と飲みに行くなんて低俗でばか」だと。観念の拘束は苦しくて息がつまりそう。他人への愛のある理解の発想がないひとがいるという現実が悲しい。これがどうしてもわからないひとが社会にでるともっとたくさんに増えるという恐ろしくて仕方ないこの世の真理。そしてこれが彼に対する絶望の原因。すべてを嫌う幼さを隠し持ったままユカが二十歳を過ぎてしまっただけなのかもしれないけど。でも本当のこととは一体なんだろう。ユカは、もっと自由に生きていいよ、と誰かに言ってほしかった。


 ホームの人身事故は、中年サラリーマンの飛び込み。隣に座っていた若者カップルからは「飛び込み自殺したらかなりの賠償金払わなきゃなんだよね?」「親に迷惑かかる」などという会話がきこえる。Xを開くと、「人身事故で遅刻しそう、最悪」「他人に迷惑のかからないところでやってくれ」という旨の投稿が交錯している。中年サラリーマンの心に思いを馳せようとするひとはどれだけいるのだろうか。呪われた日本社会。ユカは電車の窓から見えるホームの雑踏をぼんやり眺めながら、いつかみんなゾンビになってしまうよ、とつぶやいた。


 電車を降り、一駅分歩きながら帰路についた。近所のスーパーで良いリンゴの選別に奮闘していると突然声をかけられた。そこには高校時代の友人。赤ちゃんを背負っている。結婚して子供も授かったという彼女は、慣れない子供の世話や家事にせわしない毎日だと明るい笑顔で話していた。別れてリンゴの選別作業を再開しようとしたが、今度はふと草野マサムネのことが思い浮かんだのでなんとなくリンゴのことは諦めて帰った。


 翌日も、翌々日も、ユカは草野マサムネのことを考えた。個人サイトにアップされていたポートレート写真に映る女の子たちに嫉妬した。また撮ってもらいたい。草野マサムネからの連絡を待っていた。


  *

 

 十月。大学の講義が早く終わり、ユカはいちょう並木の下を歩いていた。小沢健二のあの有名なセレナーデを口ずさみながら。肌寒い秋風が吹き、これから訪れる冬を予感させる。待ち合わせの場所に行くと、仕事終わりの交際相手が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。もう夏は過ぎたというのに、まだ半袖のシャツを着ている。夕飯の時間には早かったので近くの公園を散歩したあと彼の家へ向かった。

 家に帰ると彼はいつものようにテレビでやっているバラエティ番組をみながらありえないくらいげらげら笑う。ユカも同じように笑いながらだらだら過ごす。まったくのいつも通り。特に話すことはない。一緒に風呂にはいり、アイスをわけあい、それから寝る。生活はルーティン。バラエティ番組がコマーシャルになったとき、ふいに服の中に手が伸びてきた。

「さいきんしてないじゃん」

 と甘え声。

「そうだっけ、でも今日疲れててあんまりしたくない」

「疲れたって大学行っただけじゃん。おれのほうが疲れてる」

 気分じゃなかった。笑ってごまかして立ち上がりキッチンへ向かう。彼が接待ゴルフでブービー賞に輝いたときの景品である1ケースの缶ビールを消化するため、冷蔵庫に向かう。ビールが飲めない彼にはいろんな意味で実に皮肉なものである。苦笑しながらドアをしめようとしたとき、ふと冷蔵庫の中にリンゴがひとつ置いてあるのが目についた。

「このリンゴどうしたの」

「あ、それ上司の出産祝いに行ったら、奥さんにもらった。いる?いらないか。でも赤ちゃんってほんとかわいいよな~。ユカも好きだろ?」

 冷蔵庫のリンゴはやけに赤くて胸を刺すようだった。 

  

  *


 十月後半。男の自宅のドアの前。少し早く着きすぎたせいか、チャイムを鳴らしても応答がない。しばらくすると、傘をさして男は帰ってきた。スーツの肩に雨のしずくが落ちている。

「はやく着きすぎてしまいました、すみません」

「いいですよ、こちらこそギリギリですみません。いつもならもっとはやく仕事終わってるんですけどね」


 テーブルの上にペットボトルのお茶を置き、飲んでくださいねと草野マサムネはいう。

「前回のは大丈夫でしたか。僕もあんまり慣れてなくて」

「まあ、大丈夫です」

 前回ので最後なのかと思っていたら、先週再び撮影の依頼を受けたのでユカの心はおどった。しかしこの歓びがばれないように冷静な対応を心掛けた。


「先週の撮影の後、大丈夫でした?電車」

「止まっちゃったので歩いて帰りました。二駅分ですけどね」

「不謹慎かもしれないですが、ああいう事件がおこると、生活というものをより実感してしまうんです」

「え?」


 男は、なんでもないと首を振り、撮影機材の場所を調節しながら、微笑を浮かべた。ライトの陰影で口元のしわがくっきり見える。ユカがおもうよりもっと年上かもしれないとぼんやりかんがえた。話してみると意外に声が低い。


「今日は普段の雰囲気を撮りたいので自由にしててください」

「脱衣は」

「今回は大丈夫です」

少し期待していた自分を恥じた。

「ひとつ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「窓辺においてあるリンゴはなんですか?」

初めて男の部屋に来た時から、小窓に置かれているそれがずっと気になっていた。

「あれは大学に在学中だったころ使用してたデッサン用のモデルフルーツです。妙に思い入れがあって捨てに捨てきなくて、この年まで大事にしてるなんてちょっと恥ずかしいですよね。婿入り道具にでもするかな」

 

 はは、と笑って、ユカにプラスチックでできたつるつるのリンゴを手渡してくれた。はじめてここに来た日からずっと本物のリンゴだと思っていたので驚いた。夜の外気に冷やされたのか、とてつもなくひんやりしている。つまらない宝物を眺めてにせもののかけらにキスをする草野マサムネは、いつものように淡々と撮影を続けていた。にせもののつめたいリンゴがなんだか無性に好ましくて涙がでそうだったがこらえた。ふいに部屋の電気が消された。好きだ、とユカはおもった。ああこれだったのか。耳元で波の音が聞こえる。何をいいたいのかというとそう。江戸のとある色男も言っていたように、まさに、けした所が恋のはじまり。


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