フライミー少女
亜木千秋
坂口紗良
空になると決心してから数年が経った。
近頃は航空学の専門書にも手を出すようになった。小学校六年分とそれと少しの知識しかない彼女には、専門家の書く論文など他言語に等しい。だがそれでも読む。解らないものは調べればいい。見える可能性はすべて掴む。前人未到の夢を為すのに妥協なんていらない。
終業のチャイムが鳴っても坂口は席を離れなかった。成り行きで入らされた美術部にはほとんど顔を出さず、門限の許す時間までただひたすらに書籍と睨み合う。辞書にも劣らぬ分厚い紙の束を、来る日も来る日も飽きずに漁る。日課と呼ぶには重苦しい、彼女のいつもの放課後だった。
『四季と標高による紙飛行機の飛行条件の変化について』
文献を漁るというこの行為が果たして最短ルートなのかは彼女も判っていない。そもそもゴールまでの道が敷かれているのかすら怪しいのだ。「空になる」などという、途方もない夢への道なんて。
それでも、やらないという選択肢はなかった。自分にできることなら何が何でもやり通す。半端な人間じゃ半端な夢も叶えられない。以前別クラスに、「自分は空になる」などと豪語している生徒を見掛けたが、同じ夢を持つ同士などとはこれっぽっちも思わなかった。坂口は空に己の何もかもを捧げる覚悟で生きているのだ。言葉だけ大きい他人のことなど目にかけている暇もない。
窓からの隙間風が急かすようにページを捲った。慌てて押さえようとするも間に合わず、次に次にと小難しいばかりの論文が流れていく。読み進めたページ数の確認を怠っていた坂口は、舌打ちしたくなる衝動を抑え本をぱたん、と閉じた。丁度一息つこうとも思っていたところだ。相当の時間同じ姿勢を保ち続けていたのだ、全身のあちこちが痛い。
体中を換気するように深呼吸すると、坂口はその視線を窓の外へと向けた。
ささやかな青と赤のグラデーションにうっすらと雲がかかっている。今日は終日晴れの予報。何物にも区切られない広大な天井が坂口の瞳に溶け込んだ。
昔のクラスメイトが話していた内容を思い出す。アイドルって自分と同じ人間だとは思えない。憧れる憧れないとかそういう次元じゃなくて、こちらがどれだけ手を伸ばしても絶対に届かない存在。神様みたいだよね。
無意識に手が伸びていた。窓の外と瞳の間を柔らかな人差し指でなぞる。青と赤の境目を、絵の具を混ぜるようにして。
空は何も言わなかった。
「届きそう?」
その声が自分に向けられたものだと気づくまでにすこしの間があった。
振り向くと、見慣れた顔がこちらを覗き込んでいる。
「お、また新しい本だ」
通学カバンを背負った声の主は、すでに帰る準備万端といったところだった。市立図書館のラベルが貼られた机の本をしげしげと見るその眼には、どこか坂口と似た色が反射している。
「どうせ今日も部活行かないんでしょ。そろそろ帰ろうよ、紗良」
一瞬の逡巡があって、坂口がいや、と首を振ろうとすると、
「バスケ部、今日は早めに終わるんだってさ。もうすぐ騒がしくなるよ、教室」
その女子生徒――
「それとも、図書室行く?」
時計の針は五時半を指そうとしている。
坂口は分かっていた。ここで泊木の言う通り図書室にでも行って文献に没頭すべきということを。実際、目の前にいるのが彼女でなければそうしていたであろうということを。
半端から抜け出しきれない自分自身に坂口はまた嫌気が差した。
「いい。帰る」
膨らんだカバンに机の本を押し込むと、雑に背負って坂口は教室を後にした。その横に泊木が何も言わずに並んでくる。
程よく冷たい風の吹く夕方だった。歩道にはまだわずかに桜の花びらが残っており、その上を踏みしめながら二人は歩く。春は終わりを告げようとしているが、かといって梅雨にもまだ早い。坂口も泊木も、どっちつかずのこの時期が嫌いではなかった。
眼前の赤に変わった信号に二人は足を止める。教室を出てから続いていた沈黙を先に破ったのは泊木だった。
「今日はどんなこと勉強してたの?」
放課後の坂口のそれが単なる読書ではないことを泊木は知っている。
「またその質問」
「ちゃんといつも興味持って聞いてるってば」
坂口は眉間に小さなしわを寄せた。どのみち、読んだ内容をそのまま話したところでこの子には伝わらない。
「紙飛行機ってわがままだよね、って話」
「……へ、へぇ。それだけ聞いてもよくわかんないや。つまりはまた難しい話ってことだよね。いやぁ凄いなあ。私が授業の内容わかんなくて唸ってる間にも、紗良はぐんぐん先に進んでいっちゃうよね。まずいなあ、このままだと本当に置いて行かれちゃいそうだよ」
坂口の手に取るような本は、ただの中学生はおろか坂口本人ですら理解に苦労する。堅苦しい日本語で書かれていることもあるのだが、何より中学生が読むにしては内容が専門的すぎるのだ。よほどの好事家でもなければ暇つぶしにすら開く気にもなれない。
「きっと先に空になるのは紗良なんだろうなあ」
泊木からふと発せられたその言葉に他意は見られなかった。
空になりたい。そう坂口が打ち明けた相手は泊木ただ一人だけだ。それは偶然にも彼女が自分と同じ目標を掲げていたからであって、空という接点を失えば彼女は知人以外の何者でもなくなる。今隣を歩いているこの生徒と自分は、息を吹けば切れそうなほどの細い糸で繋がっている。ただそれだけの関係なのだ。坂口はそう自分に言い聞かせた。
間違いなく言えることは、坂口が空に対して抱いているものは泊木のそれとは根本的に違うということだ。なれたらいい、なんて生半可なものでは決してない。夢とは叶えるか、もしくは叶わず死ぬかの二択だ。坂口からすれば、泊木の言う「憧れ」などと同じ扱いを受けるのは御免だった。
「……見下ろすから」
「えっ?」
青に変わった信号を、坂口は早足で進んでいく。
「私が空になった日には、全員見下ろしてやるから。全員私を見上げて、それを私は見下ろす。季節も天気も関係ない。笑ってようが泣いてようが、私は四六時中あんた達を見下ろす。あんたもだから、泊木」
――もう誰も私を、モブだなんて言わせない。
一番濁った膿だけは口から出されなかった。
再び足音だけ響く時間が戻ってきた。時折泊木が当たり障りのない話題を持ち掛けて、坂口が最低限の応答をする。泊木が少しでも気を抜くと坂口は数歩先にいて、その度に泊木は小走りで追いつく。
「そういえば、さ」
お互い居心地の悪さはさほど感じていなかったのだが、泊木の方は沈黙というものにどうも慣れきっていないようだった。
「三組に
その名前に聞き覚えこそなかったが、耳だけ傾けて聞いていた坂口は、彼女がその先話さんとしていることを何となくだが察した。
「私今日、休んでた理科の宿題出そうと思ってちょうど三組行っててさ、ついでに探してみたんだよ。そしたらさ、その潤維さん、なんか『空になる』みたいなこと言ってて」
坂口は正面を向いたまま無言を貫いている。その代わりとして、歩みのペースをほんの少しだけ落とした。
「その時は私も特にリアクションしなかったんだけどさ、内心なんかこう、興奮したよね。そんなことあるんだーって。だって同じ学校の同じ学年に三人もいるんだよ、空になりたいなんて人」
別段この話題で坂口から反応を得ようという魂胆が泊木にあったわけでもないが、それにしても坂口の目は一切の揺らぎを見せなかった。空に取り憑かれているね、なんて言い方をしたら坂口にとってはむしろ本望なのだろうか。そんなことを泊木はひそかに考えた。
歩道橋を登りはじめる頃には、何度目かの沈黙が坂口らの間に流れていた。メトロノームのようにテンポの整ったローファーの音と、気まぐれに一段飛ばしをしてみるカバンの音が二人だけの階段に反響した。
坂口は帰宅後の予定を練り直していた。
本来ならばあと30分は教室に篭っているはずだったのだ。貴重な30分だ。泊木を恨むつもりはないが、タイムロスは早いところ取り返しておくに限る。今日は睡眠時間を削ってその分勉強とトレーニングに充てる。今自分に出来るすべてを空に向けたい。一分一秒も今は惜しいのだ。
ふと、その足が止まった。
階段を登りきったところで、虚を突かれたように坂口はその目を見開いた。
後ろを歩いていた泊木も突然立ち止まった坂口の異変に気付き、何も言わずに柵の陰から訝しげな顔だけを覗かせる。
「あっ」と、その口から声が漏れた。
女子生徒だった。
とめどなく朱色の広がる空を背に、一人の女子生徒が佇んでいる。制服の、しかし通学カバンを持たないその少女は、歩道橋の中心で春風になびいていた。
「ほ、ほら紗良、あの人。私がさっき話した潤維さん」
陰から泊木が耳打ちする。
潤維はこちらには気づいていないようだった。魂が留守になったような色素の薄い顔で、どこともなくただ遠くを眺めている。
そっとポケットに手を入れた。坂口らはその様子を立ち止まったまま見つめる。
取り出されたのはくしゃくしゃの白い折り鶴だった。
潤維はおもむろに腕を振りかぶると、その折り鶴を宙に放った。その一挙手一投足が夕方の黄色い光をチカチカと反射する。
音もなく地上に落ちていく紙屑に視線をやることもなく、手すりに寄り掛かった潤維は両腕を上げて伸びをした。何もかもが不可解な行動のはずなのに、その意味の解らなさがどこか様になっているようにも見えた。
まるで世界に潤維だけとり残されているかのような、そんな錯覚に坂口は陥りかけた。
得体の知れない不快感が坂口の中で渦巻いた。
「あ、あのー、潤維さん……?」
潤維だけが映っていた坂口の視界に泊木が入り込んでくる。潤維はようやくこちらに気が付いたようだ。
「今何投げたかはわからないけどさ、あの、道にモノ捨てるのは、その、止めておいた方がいいんじゃ……?」
しどろもどろしながら近づく泊木を潤維はじっと見ていたが、その視線はすぐに真上の空へと移された。
その口許が、微かに緩んだ。
「空ってね」
「え?」
上空を指差す。制服から伸びた潤維の腕が、視線の先をそっと撫でる。
「さらさらしてるんだ」
もう青には戻らない今日の空を、慈しむように潤維は撫でる。
「さらさらしてるんだよ。知ってる? ねぇ、泊木さん、坂口さん」
「っ……」
坂口からも思わず息が零れた。彼女とは初対面だった。名前は胸の名札を見ればいいとして、想定外だったのは、坂口も彼女の眼中に入っていたことだ。
掴みどころのない潤維の言葉に、泊木も困惑している。
「さ、さらさらしてるの?」
「そう。さらさらしてる」
さらさら、という文字が潤維の声と交わり合って泊木達の耳をくすぐる。
正気に戻った坂口の中には、やはり感触の悪いものがあった。潤維に対するものだった。それまで離れて二人を見ていた坂口が潤維の方へと歩みを進める。
「自分は全部知ってます、みたいな口ぶりだけど。まさか空まで行って触ったとか言わないよね?」
頭から怒気を孕んだ声で坂口はまくし立てた。不安げな顔で泊木がこちらを見ていることにはまだ気づいていない。
知らないものを知ったように語る人間を坂口は軽蔑していた。そして潤維が撫でているのは、坂口にとって最も繊細な箇所だった。
「触ってないよ」
平然と潤維は応えた。
「まだ一度も触ったことない」
その飄々とした態度がまた坂口の神経を逆撫でる。
「触ってないのなら何でそんなに知ったか出来んの」
「知らないよ。うるかはまだ空の手触りを知らない。坂口さんもそうでしょ。うるかも坂口さんも、空の手触りを知らない」
「シュレディンガーの猫とでも言いたいの?」
「ううん。うるかが『さらさらしてる』って言うと、空は寂しくなる。空の手触りは誰も知らない、でもうるかは『さらさらしてる』って言う。何度も言う。可哀そうだね、その度に空は寂しくなっていく」
「分かるように喋ってくれない?」
口調とは裏腹に、坂口は冷静さを取り戻そうとしている。そっと腕をさする、坂口のルーティンだ。
「空は寂しんぼさんなんだよ。だから、うるかが空になってあげる。空になって、空をわかってあげる。本当は緑で、つるつるしてて、ぬるいんだって。いつも何を考えているんだろう。いつからそこに居て、いつまでそこに居るんだろう。空のことは空にしかわからない。今は一人ぼっちのままだから、誰かが空になってわかってあげなくちゃいけない。だから――」
潤維の唇が僅かに震える。
――わたしがそらにならなきゃ。
声とも呼べない小さな音が、二人の前で潰えて果てた。
潤維の発言ターンが終わったことを察しつつ、その顔を坂口は無言で睨みつけている。
変な生徒。泊木から聞いていた印象は潤維が一言喋るごとに固まってゆく。ただ、先ほど初めて見たときに感じた得体の知れないおぞましさは、坂口にも気づかないほど微かに薄れはじめていた。
同時に、先程から潤維に感じていた言葉にならない不快感の正体が少しづつ見えてきた。
「……大層な目標掲げてんのに、こんなところで油売ってる暇なんかあるの? 口だけでかいこと言って何もしようとしない人間が私一番嫌いなんだけど」
この生徒は発言に見合うだけの努力をしていない。
大言壮語など坂口はおろか泊木にだって容易い。もっともらしい理屈を並べて、それでも結局行動には移さない。そんな人間を坂口はこれでもかと見てきた。ゴールが大きければ大きいほどそれに見合う行動をとる。努力など坂口にとっては最低限のラインに過ぎないのだ。
まして彼女らが辿り着こうとしているのは空だ。飛行士でも鳥でもない。今もまさに頭上にある、空そのものになると言っているのだ。命に代えてもきっと足りない、夢と呼ぶにもおこがましい、無謀のさらに向こう側。
「それとも何、歩道橋からゴミを捨てなさいってその寂しがり屋の空から教わりでもしたの? だったら止めないけど」
潤維は何も答えない。坂口の剣幕には動じていない様子で、ただ真っすぐに坂口のことを見つめている。
「紗良ちゃん」
ふと泊木に腕を掴まれた。見なくても判る。その手は震えている。
「帰ろう」
潤維と坂口、二つの視線はそれでも静かに衝突していた。だが坂口の側が、泊木にその場を離れる口実を見つけたかのようにふい、と逸れた。
「わかったから。手、離して」
泊木が一歩下がる。自分の腕が自由になると、坂口は何事もなかったかのように歩き出した。潤維の真横を通り抜け、下りの階段に向かって進む。
すれ違いざま、もうお互いの顔は見ていなかった。
「う、潤維さんも、なんかごめんね。じゃあ……」
泊木も後を追う。何か潤維が言ったようにも聞こえたが、わざわざ聞き返すようなこともしなかった。
ひとり残された歩道橋の上で、せわしなく遠ざかっていく足音を潤維はただ静かに聞いている。その音が完全に聞こえなくなると、人通りのない通路の真ん中で仰向けに倒れた。
「まだ、固いなぁ」
吐息とも違わぬ呟きが、そよ風に溶けて流れていった。
一方で坂口は、走り出しそうなほどの早歩きで帰路を進んでいた。今日失った分の時間だけで一体どれほどの自己研鑽が積めただろう。しかしあれこれ省みたところでその時間が戻ってくるわけではない。そもそもイレギュラーにイレギュラーは重なりやすいものだ。こういう事態に備えて、もっと柔軟なスケジュールを組んでおく必要がある。次の、その次のことへと坂口は思考を巡らせていく。
だがその脳裏には、まだ潤維の声がこびりついていた。
無意識に両の拳に力がこもる。
彼女の言動ひとつひとつが坂口にとって癪なのは確かだった。だがそれにしても、自分があそこまでむきになってしまった理由が坂口の中でもはっきりとしていなかった。
「紗良、あのね」
小走りで後ろをついてくる泊木が呼びかけてくる。
「今の紗良にこんなこと言うと怒らせちゃうかもしれないけど、その――」
いつになく弱弱しい声だった。
「――自分を追い込みすぎないようにね」
空を切る音がした。
「……じゃあ、また明日」
去り際に泊木は「明日も学校来てね」と残していったが、その言葉の意味を深くは考えなかった。
広い住宅街に、坂口の足音だけがやけに大きく響く。
泊木は坂口にとって誰よりも話のしやすい相手だった。少なくとも一番お互いを知っている同学年の生徒だと坂口は思っている。そう思うようになったのが、坂口が夢を打ち明ける前だったか後だったかは覚えていない。ただ初めて夢を語ったときの、弾むランドセルと彼女の赤く染まった頬は、今でも鮮明に思い出される。
「私もずっと空に憧れてるんだ。普段周りには言ってないんだけど。なれたらいいなって思うんだけど、何をすればいいのかはまだわかっていなくって。でも坂口さんは、とにかく行動しながら考えるタイプだよね。道に迷っても立ち止まるんじゃなくて、とにかく進めそうな道を手あたり次第進んでみる。それ、本当にすごいなぁって思うんだ」
中学に上がってもなお泊木は右往左往しているようだった。だが坂口からしてやれることなど何一つない。
空になるのは自分でなければならないのだから。
全員に本当の自分を見てもらう。その決意こそが坂口の原動力だった。
幼少期から、坂口は「頑張ったね」という言葉に強く惹かれていた。テレビで見かける他の子ども。絵本の登場人物。みな自分のやったことに対して正当な見返りを得ていた。お菓子でも賞状でもない、誉め言葉という形のない見返り。しかし坂口が欲していたのは正確には言葉ではない。本当に求めていたのは、自分を見てもらうということ。誰かに、坂口紗良を認識してもらうということだった。
顔も声もほとんど覚えていない父親。
同じご飯を食べるだけの母親。
一人だけの部屋で算数のドリルを一問解き進めては、見よう見まねで自分の頭を撫でてみる。
「えらいねえ」自分の声だけが部屋に流れた。
小学校に上がって、自分の名前は覚えにくいことを知った。自分が百点をとっても誰も喜ばないことを知った。
クラスメイトを見てわかったことは、友達というのは複数人で群れたがるものだということ。
休み時間に本を読んでいても誰も寄ってこないのは、きっとこの本がみんなにとって難しいものだからなのだと考えた。
流行りのゲームはタイトルしか知らない。
きっと自分は、もっと頑張らないとあの輪の中には入れないのだ。そう言い聞かせて勉強した。
勉強した。
勉強した。
「もう、いいかな」
帰り道、つぶやいた。
それから「空は誰もが相手にしてくれる」と気がついたのは間もなくのことだった。
青い、それとも赤い。夜になると暗くなって、星と月が見える。あの星も月も、空。曇りの日は雲がかかっている。雨を降らせるのも空で、虹がかかるとみんなが大はしゃぎする。あの歌にも、この教科書にも、探せばすぐに空が見つかる。
みんな、空を見ている。
そんなみんなを、空は見下ろしている。
私も見てもらえるだろうか。
空になったらみんな私を見てくれるだろうか。
坂口紗良は、空になることを決めた。
日は随分と深く沈んでしまっていた。夕方から夜になるまでの短さにはいつまで経っても慣れない。街灯の点き始めた細い道路を、坂口は弾かれたように駆け出した。
空のなり方など調べたところで見つかるはずもない。ならば自力で見つけるしかない。遠回りでもいい。着実でなくともいい。リミットは自らの命が絶えるまでだ。
ひとまずのチェックポイントとしてまずは実際に空に向かう。地球上における地上からの最高地点はエベレストの山頂。宇宙の定義は高度100キロ以上と決まっているが、空に明確な下限はない。今自分が蹴っているこの地面も空に含まれるのか。ともかく色々見聞きしておくに越したことはない。パイロットになるのはかかる費用と時間が大きすぎるので必然的に優先順位が低くなる。手の届く他のことからノウハウを学びつつ、同時に資金も稼いでいくのが望ましい。一度空を上から見ておく必要もある。宇宙飛行士には年齢制限がなく、歴代最年少は二十六歳。これを越す覚悟でいく。
今の坂口には何もかもが足りていない。知識、経験、資金、そして時間。足踏みをしている余裕などないのだ。
だんだんと上がってくる息も限界の近い脚力も、どれも自分の未熟さゆえだ。全部、全部改善していかなければ。
やるべきことが多すぎる。だがやるべきことが見えている。ならば果てるまで。
「見下ろしてやる」
吐息に交じって声が漏れる。
「見下ろしてやる」
それは自分に向けた決意でも、万物に向けた宣言でもあった。
「見下ろしてやる……!」
家まではまだ遠い道を、息を切らしながら坂口は駆けてゆく。
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