第19話

ドアの向こうに広がる整った荘厳な光景に、一時疑問が途絶える。

歩み行った地下8階の書庫は、まるで貴族の城の一角にある図書室のような設えをしていた。

壁際に立つマホガニーの書棚には革張りに豪華な装丁の本が並び、意匠のある閲覧机と椅子が左右に一台ずつ置かれている。

梯子で登っていける三方の壁際にはバルコニーのような"2階"があり、天井近くまである背の高い書棚が占めている。

天井には、黄金のリボンを身につけた神話風の女性が複数描かれ、訪れた者を微笑みとともに見下ろしている。

床に敷かれた赤い絨毯が室の奥へと誘い、次の間に繋がる大理石のアーチの頂点には、金彩の梟がエンブレムとして施されている。

地下にこんなところが、と思うのはもう何度目かだったが、ここまでの階よりも異世界感が強い室内に圧倒されている奏太は、小夜の


「この階でラストかも」


という声で我に返った。


「え、な、何で分かるんですか」

「あそこにいるの、ラスボスっぽいなって」


小夜がまっすぐ指を差した方向、連なる間の最も奥と見られる行き止まりには、金の額縁に収まった肖像画らしき絵が飾られていたが、その下に、黒いフードらしきものを被った、背の著しく低い何かが、背の倍ほどある杖を携えて立っていた。

まだ距離があるため目を凝らしてもはっきりとは分からないが、姿形と、フードの中の暗さから何か良くないものを発している気がする。

歴史ある図書室に巣くう魔物、という印象を与えるそれは、既に見えている分、不気味さが作り出す恐れが徐々に溜まっていく。

さっきのオークは、見つからないように隙を作って7階から離れるのが正攻法だったが、この階は、間がいくつか繋がっているが基本一直線になっている。

隠れるというのはできない、どう考えても、正面から向かっていくしかない。

オークよりも強い相手に真っ向から、純粋な力勝負、それも物理ではなく"本と所有者の力を使って"ぶつかることになる。

勝てるのだろうか、あれに。


「さっきの、何かを呼び出す話なんですけど」


小夜が入室前の話題に戻したと分かったのは、「晴山さんは呼び出す系の方がイメージしやすいですか?」と続いてからだった。

冷や汗を掻いていた奏太は、混乱したまま口を開く。


「は、えーっと、そう、そうです、かね?」

「すみません、説明が足りないですね。私みたいなやり方じゃなくて、形のあるものを召喚するっていう方が、できてる自分を想像しやすいですか?」

「はい、それは、そうかも、です」

「そうですか……イメージがしやすいからなのか、形を作るタイプの人も結構いるみたいなんですよね。そうかー、うーん」


意図が分からないまま奏太が答えると、小夜は立ち止まって腕組みを始めた。


「あの、何の話ですか」

「いえ、頭の中でどう考えれば形になるのか知りたい、って晴山さん言ってたので、何か手がかりでも伝えられたらな、と思って。ここでラストなら尚更」


流れたと思っていた話を、小夜は考え続けてくれていたらしい。

申出は非常にありがたかったが、あの不穏な存在がまた遠く、今のところ微動だにしていないとはいえ、随分呑気だと奏太は心配になった。

ここは何が起こるか分からない企画展示の中なのだ、もし瞬きの合間に、ラスボスが自分達の眼前まで距離を詰めたりしてきたらどうするのか。

ここがラストダンジョンなら攻略レベルは最も高いはずで、油断は禁物だと思うのだがとはらはらしながら、小夜の代わりに、と室内を見渡す。

構造も装飾も、明らかに日本の図書館では見ない、この最終階の様相を見ていると、立派な本も、天井画を始めとして所々に飾ってある上半身の肖像画も、全てがトラップで、いつでも今あるところから飛び出して襲いかかって来そうな気になってくる。

常連者の余裕なのだろうか、と思い至った奏太はふと、小夜が最終攻略常連だとすると、企画展示の最終攻略はゼロが普通だと言われているのはどう噛み合うのか、と疑問を持った。

まさか、常連だが常勝ではない、要するに毎回参加はしているが、うち何回かは最終攻略を達成し、残りは失敗というのが真実だったりするのか。

小夜は、ページを捲りながら何やらぶつぶつ考え続けている。

本人がそこにいるのだから聞けば即座に解決するのだが、聞いてもいいものかと奏太が迷ううち、小夜がとうとう「うーん、これなら何とかなるかなあ」と諦めたように紙面から顔を上げた。


「えっ、あ、はい、何ですか」


奏太が慌てると、小夜は「お待たせしました、上手く説明できるか分かりませんが、試しにやってみますね」とこの階の最奥、ラスボスが佇む方を向いて立った。


「私が持って来た本に出て来るもので、器物で形にできそうなのがなくて。なので」


羊を召喚してみます、と小夜は胸元へと本を持ち上げた。


「羊?」

「ストレイシープというフレーズが出て来るんですけど」


作品中に、主人公が想いを寄せる女性が登場する。

淑やかに、思わせぶりな態度で純朴な主人公の気を引き、翻弄した挙句、社会的地位のある別な男と結婚を決める。

その女性が、作中で三四郎を評し、自虐するアイコンとして使った言葉が、迷える子、『ストレイシープ』だという。

計算高いくせに、結婚するのかと主人公に問われ、自分を罪人だと懺悔する面の皮の厚さを、小夜は気に入らないが、気に入らない分イメージが作りやすく、要所で何度も繰り返されるため、作品に占める力も強い。


「何を形にしたいか決めたら、それをしっかり頭の中に思い浮かべます。多分、はっきりと形で想像できた方が作りやすいかもです。それから本の、該当ページをしっかりと見て、自分が今見ている・覚えている内容と頭の中に連れて来て、その想像を接続する感じです。ここのやり方は、形あるものの召喚じゃなくても同じです」


小夜の視線は確かにページを向いていたが、見ているのは文字ではない別な何かのように

ふいに、遠く離れているラスボスの方から、ざわ、と生温い風が吹き寄せた。

まるで電源が入ったかのように、フードの裾がはためき、黒い輪郭がその周囲に急激に広がっていく。

闖入者が何かしようとしているのに気づいて、防衛か先制攻撃かを開始するつもりなのだ。

思わず後ずさった奏太と対照的に、動揺の全くない小夜は


「興奮しないで、落ち着くというか、平常心が大事です」


と説明を止めない。

黒い輪郭が千切れ、中空に漆黒の球体がどんどん増えていく。


「接続できたと思ったら、繋げたものごと、外に押し出すイメージで」


小夜の発声ははっきりと力強く、もはやそれは本の一節の読み上げではない、詠唱はこういうものかと思わせるような響きを持っていた。


『ただ口の中でストレイ・シープ、ストレイ・シープと繰り返した。』


あっという間に視界が白に埋め尽くされる。

小夜は羊を召喚する、と言い、確かに召喚はされた。

ただし、この1室は、2人の周りの多少の空間を除き、羊、羊、羊、大量の召喚獣が、平面立面にふわふわと群れる場所と化していた。


「あ、やった。出た」


サンプルは2人だけだが、他の連中が呼び出せるのはそれぞれ1つだった。

ところを、初めて試したという小夜のこの数、夥しい量は何だ。

大木槌よりも檻よりも、比較にならないほど圧倒的だった。

メーメーもこもこと俄然騒がしくなったが、端の方で羊の叫びと何かの破壊音が生じる。

羊に遮られて見通せないが、確実に攻撃が開始されていた。


「せっかくなのでこのままやりますね」


小夜は動揺なくきびきびと、「呼び出したものを動かす時は、繋げたまま遠くに飛ばすイメージです」とラスボスの方角に顔を向ける。


「こんな、感じ、で!」


合図とともに、羊の大群が地を宙を一斉に駆け出す。

視界が白から戻らないのは、次から次へと新しい羊が追加投入されているからだ。

叫びと破壊音がする位置は確実に遠ざかり、奥へ移動していく。

漆黒の球体で攻撃されると何が起こるのか、目視で確認しないまま、物理で押し切るつもりなのだ、この人は。

奏太は空笑いで降参する。

常勝ではないかもと疑った自分が浅はかだった。

最強攻略常連とはそのまま、紛れもなく常勝と同義だった。

彼女は、川上小夜は、紛れもなく企画展示の、最強のプレイヤーだった。


*


羊達が全て姿を消すと、あれほど激しい破壊音がしたにもかかわらず、室は無傷、元通りの荘厳さのまま居住まいを正していた。

ラスボスの黒い影は跡形もない。

書架の間を歩かされることもなく、走る必要もない、結果的に、ここまでの階で一番楽勝であっさりと終了してしまった。


「晴山さん、あの、イメージを形にするってあんな感じなんですが、どうでしょう。ちょっとはヒントになりました……?」


室の奥を目指して絨毯を踏んでいきながら、打って変わって若干不安そうに尋ねる小夜に、そういえば模範演技を兼ねていたことをようやく思い出した。

言葉での理解としては十分を通り越して完璧だった、あとは実践あるのみと思えるくらいに。


「なりました。というか、なってたらいいなあ……!まずは本探すところからかあ」


大仰に嘆く奏太に、小夜は苦笑いした。


「これ面白いな、って純粋に思える本を探してください。さっきの『十五少年漂流記』も良い本ですよ。晴山さん、読むの上手だったし」

「あれって有名な話なんですか」

「そうですね、海外の作品なので、世界的にも有名です」

「面白いって思う本がいいってことは、あの茶髪って、数学の本を面白いって思ったってことですか」

「多分そうですかね。まあ、勉強で普段からよく使ってる本を持って来てる人もいるみたいですし」

「数学が面白いってどういう神経してんだ」

「え、いや、あの、い、いろいろな人がいるので……」


世界レベルの本という響きは悪くないし、断片的に覚えている内容はなかなか良かったので、終わったら地上の、"普通の"図書館で借りてみようかと計画しながら進んでいくと、程なくして突き当たりの室へと到着した。

巨大な肖像画に描かれた立位の男性は、王冠を被り大きな宝石の付いた笏を携え、視線は奏太と小夜の遥か上を通り、真っ直ぐ前を向いている。

人物に見覚えは全くなかったが、ふとこの図書室はどこかに実在するものをモチーフにしているのではないかという気に駆られた。


「晴山さん、出口ありましたよ」


小夜に呼ばれて我に返った奏太は、部屋の片隅にしゃがんだ小夜が、背の低い扉を指さしているのが目に入った。

それを見て奏太は思わず「ちっさ!」と叫ぶ。

扉は、ハンドルが部屋の装飾に溶け込む意匠になっていて、注意しないと見逃しかねなかったが、それよりもその低さ、背を屈めないと入っていけない、扉というよりは躙り口のサイズだった。

あの小さいラスボス専用の出入り口で、あそこからまだ何か出て来るのではと若干警戒したが、開けて覗いてみた小夜曰く、ここが書庫から出る通路だという。


「お先にどうぞ」


促されて、「あ、はい」と何心なく右足、左足と踏み出した奏太は、3歩目を記憶に引き留められた。

扉の先は書庫の出口、企画展示の最終攻略者として、未来の出来事に関する情報を報酬として得られる勝利への道が繋がっている。

だが、


「で、でも、最終攻略って、1日1人までって」

「あ、御存知でしたか。そうです、1人です。なのでどうぞ」

「なので、って……川上さんは」

「私は今日はいいです、最終攻略が目的じゃないし、楽しかったので。晴山さんのアイディアがなかったら抜けられなかったところもあったし、今日は晴山さんがMVPですよ」

「俺何かしましたっけ!?」

「地下6階で、ボールペンで試し書きしたじゃないですか。あれがなかったら多分まだ6階を彷徨ってました」


いや、小夜1人なら別な力技で突破できたんじゃないのか、そういう反論を奏太は意図して飲み込んだ。

奏太の内心は戦場だった。

一方で同情か、とムッとする気持ちは間違いなく存在している。

他方で、せっかく勧めてくれているのだから素直に従えという主張が、それに斬りかかる。

自力では二度と来られないかもしれず、初参加で最終攻略という栄誉も手に入る。

さっき、コバンザメであることを自覚してきっぱりと諦めたつもりだったが、蓋の締まりが悪く、早くも勝手にがたがたと鳴り始める。

早く飛び付いてしまえと煩い悪魔を天使が踏ん付け、奏太はなお食い下がりたくなる。


「でも、記録に傷が……」

「記録?」


小夜はきょとんとした。

茶髪の、小夜に対する評価と、奏太が今日の最終攻略者となることで、小夜の常勝が途切れてしまう。

そう伝えると、小夜は呆れ半分に、


「そんな、私連勝なんて目指してませんよ。そもそも、最初の方は失敗してたし、途中でお腹痛くなっちゃってリタイアしたことだってありますし」


と手を振った。

逆に、初心者時と体調不良以外では常勝ということでは、とまだ躊躇う奏太に、小夜が諭すように言った。


「晴山さん。本当に気にしなくていいので最終攻略してください。次回もエントリーするんですよね。なら、企画展示は楽しい催しなんだって達成感を味わって来てください。

最近、足を引っ張りたい人の参加が増えてきて、正直苦しい回もあります。なので、本来は楽しいものなんだって今日ぜひ体験していってください」

「でも俺……ずるくないですか」

「全然!2人で協力してここまで辿り着けたんです、最後どっちが達成者になるかだけの違いですよ。

私、実は最初は晴山さんの怪我が本当は演技で、隙を付いて攻撃してくるタイプの人だったらどうしようって疑ってたんです。

でもそんなことなくて、初めて2人行動で攻略して、途中で危ないトラブルはありましたけど、1人ではできない気づきとかもできて、久しぶりに楽しいなって思えました。今日はそれで十分です」


それでも煮え切らない奏太に、小夜がもう一押しした。


「大丈夫です、次回は最終攻略するので」


特に自信に溢れるわけでも、傲慢でもない、まるで本を読み終われば棚に戻す、そういう当たり前の調子で、彼女は言った。

"何とかするので大丈夫"、この催し中に何度か聞いた請け合いが重なり、奏太の腑に落ちた。

奏太はありがたく、少し情けなく、微かに悔しいが、降参することにした。


「ここまでありがとうございました」

「こちらこそ」

「またどこかで会ったら、よろしくお願いします」

「はい、あ、でも攻略中に会うのはこれで最後かな。次は怪我しないでくださいね、誰かの悪意に気を付けて」


連絡先の交換は、スマホも書くものもないここではできない。

自分が先に出たら、小夜を館内で待ち受けたりできるのだろうか、そう思いながら身を屈めて、小さなドアを開けた。


「終わったら病院、行ってくださいね!」


奏太は手を振って応えようとして、右腕を思い切り壁の角にぶつけた。

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