第5話 青山羊の脅迫印
私が目覚めた時には、ビムジーは既に出掛けていた。
身支度を整え席に着くと、既に2人分の朝食が用意されていた。
暖かい具沢山のシチューに、ブリティッシュトーストが添えられている。
横にあったダージリンを飲みながら、ネズミ色の雲がかった冬の空を眺める。
思えば、此処に来てからずっと寒かった。
彼女の推理力と奇抜な事件に目を取られていると、季節感などは感じている暇はないのだろう。
「おはよう、ガルド」
突然の同居人の登場に、ダージリンを思わず吹き出した。
正しく言えば、僕が驚いたのは同居人では無く、同居人が脇に抱えていた物である。
「そ、それって山羊の頭だよね?まさか、ソレを抱えながら歩いてきたのかい」
その山羊の髭は珍しく、白色では無く青髭だった。
「袋に入れて持ってきたんだ。それぐらい弁えている」
目を白黒させる僕の様子を気にする事無く、同居人…ビムジーは、暖炉の前に山羊の頭部をゴトンと鈍い音をたてさせて置いた。
「何故そんな所に置くんだい?キッチンに持っていてくれよ」
「そうだな。確かに腐敗が進みやすい」
そういう意味で言った訳では無いのだが、本人が納得するのであれば文句は無い。
牛の頭部を片付けたと思われるビムジーが、コートを脱いで向かい合う様に席に着き、カトラリーを持って朝食を食べ始めた。
僕は先に食べ終わった為、ビムジーの食事の様子を眺めていた。
「それで、例の山羊の件だが」
食事に夢中になっていたと思っていたが、ビムジーは急に手を止め、カトラリーをゆっくり卓に置いた。
「山羊?君が持っていた青山羊の事だね」
「言っておくが、あの髭は染められたモノでは無い。天然物だ」
その言葉に、僕は目を大きく見開く。
「血も青かった」
「何で分かるんだい?」
その返しに、ビムジーは小さく溜息を吐いた。
その態度に少し顔を顰める。
「分かった、1から説明しよう。その段階が必要だろう」
ビムジーはそう言って、カトラリーを一本だけカップに突っ込んでから、絵を描く様に卓に垂らし始めた。
「この山羊はイズリンドンに発見したんだ。既に息絶えた状態で、解体されたまま放置されていたが。寒さのお陰もあってか状態も悪くない」
それからおよそ20分後、其処には紋章の様なモノ…いや、正しく言えば校章のようだ。
山羊を囲む様にして、ヒイラギが円を作っている。
「このマークは知っているか」
「いや、初めてだよ」
「イギリスに出来た学校の校章だ。山羊の死体の上に描かれていた」
「その青山羊と、校章の真ん中に山羊が居るという事が重要なのかい」
「excellent!その通りだ」
その盛大な褒め言葉に、口元が緩む。
「ダージリンで分かりずらいとは思うが、山羊は青山羊なんだ」
「成程」
そう溢していると、ビムジーが紙切れを渡してきた。
其処には、校名と思われる名と一つの名前が書かれていた。
【バールタング・ロスフィント大学 物理学者 ロング=バーニア教授】
「My dear、午後の用事はあるかい」
「生憎、僕の午後は空っぽさ」
僕が満面の笑みを返すと、ビムジーは再び食事を始めた。
「バールタング・ロスフィント大学、通称分校と呼ばれている、ロスフィント本校はマンモス校と呼ばれており、合格率は6.5%だという。ロング=バーニアは、世界中で有名な物理学者として知られているそうだ」
「ちょっと待った」
話し続けているビムジーの声を、僕は反射的に止める。
「何故そこまで詳しいんだい?理由を教えてくれ」
「知り合いが通っていたんだよ。婦人さ」
「凄い偶然だね」
小さくそう溢せば、ビムジーは口角を上げた。
「此処に連れてきた理由は、直接本人が説明してくれるさ」
ビムジーはそう言いながら、右側に見えてきたドアのノブに手を掛け、その扉を開けた。
「時間通りだな」
私達が部屋に入ると、渋い声が中から返ってくる。
声の主の方を見ると、その人物は金縁の眼鏡を掛け、テストの採点をしている様だった。
卓から目を外す事無い男に、私が近付いていくと、その様子に男は手を止めた。
「聞きたい事は分かっているよ、青山羊の事だ」
「何故その事を知っているんですか?」
ガルドがそう疑問を溢すと、男の目線はガルドへと向けられた。
「警察は口外していないし、ニュースにすら流れていないのに…」
「君の顔を見れば分かるよ。Mr.ホスキンス」
「ご存じであれば、名乗る必要も無さそうですね」
私が話を遮る様に言えば、男は私に目線を戻す。
「今回の脅迫は、この学校に対してでは無い事は知っているよ。過去に似たような事件があって、脅迫関連のモノだとは理解した、だが分からないのは」
「何故、校章が使われていたのか…いや、アレは校章じゃない。アレは貴方を示すマークだ」
淡々と話続けていると、男は立ち上がった。
「正確には教授としての顔ではなく、もう一つの顔と言った方が正しいでしょう」
そう言いながらガルドを見ると、何か言いたそうな表情を浮かべていた。
「貴方が狙われた理由は恐らく2つ。一つは、貴方自身の弱味を握った人物が脅迫の材料として利用した。もう一つは、過去に因縁がある相手が引っ掛けた可能性」
「後者だよ。笑えるだろう」
男は愉快そうに口角を上げた。
「成程。君は興味深い人間だな、噂以上だよ」
男…バーニア教授はそう言って、左手に持ったペンの持ち手で私を指す。
「ビムジーと言ったかな?」
ビスポークの孔子の入ったダークグレーのスーツ、下のゴムが擦り減ってはいるが他に傷は無い、余程物に執着している人間に違い無い。
金の顎髭と口髭も綺麗に整えられた男だ。
紫のペイズリーのネクタイもマッチしている。
だが、一つだけ見えない…
男の頭上を見ると、クエスチョンマークに靄が薄く罹っている。
「えぇ」
冷たくそう返せば、ガルドは首を傾げた。
「ガルド、此処にはもう用は無い。帰ろう」
私はそう言って、ガルドと教授に会釈をして部屋を出た。
「過去に起きた脅迫事件の関連者が彼という事、それを教えたかったのかい?」
「そういう事だ」
そう言ったビムジーに対して、僕は密かに違和感を覚えた。
「ところで良かったのかい?脅迫の件を取り下げる必要はあっただろうに」
「アークス警部補から犯人逮捕の知らせが来ていた、もう心配はないだろう」
「そうか、安心したよ」
僕がそう言った時、ビムジーの顔に不安の影が刺さっている事に気付いた。
あの男は手強い人物なのだろうと表情で確信した。
例の2人が消えた直後に、秘書である男が入ってきた。
「教授。お時間です」
「直ぐ行く」
そう返すが、男が動く気配は無い。
「どうか致しましたか?」
「あの探偵から目を話さないでくれ。何かあれば報告しなさい」
「分かりました」
男はそう言うと、ゆっくりと窓際がら離れた。
「青山羊の脅迫印、漸く収束に至ったな」
あの日の翌日。アークス警部補と聴取室をミラー越しに覗いていた時、そんな安堵した声を警部補が洩らした。
「【今回】のはだがな」
「あの時の犯人は野放しか、頭の回転がいい奴だよ」
チラリと横目で男を見てから、再び正面へと顔を戻す。
「奴は真犯人を知っていて、報復の為に模倣犯を装ったんだ。だから、この事件自体は解決していない」
「お前も知っているのか?犯人を」
警部補を見ると、射抜く様に此方を見ていた。
「もし知っていても話さない。これ程利口な相手であれば、あっという間に霧の様に消えるだろう」
ぞわぞわと寒さが這い上がっていくのを感じた。
この部屋自体が寒いのか、正体不明の何かが迫ってきているのか、理由は分からない。
「トム=アィンザームより目を光らせなければいけないかもしれない。ロング=バーニアという人物は」
「まぁ。真犯人の居場所は大体特定できているから、近々司法の裁きを受けるよ」
警部補はそう言って、小さく口角を上げた。
朝の終わり、春の冷気を包んだサセックスの田舎町では小鳥達の鳴き声が日に日に消えていったのを肌に感じた。
春の冷気が余程身体に触ったのだろう、彼等も冬眠するつもりらしい。
男は、所々破けた長袖のポロシャツを肘まで捲り、音は濡れた付近で店外にあるテーブルや椅子を磨き上げていた。
そのカフェは郵便局の隣にあり、ずんぐりとした石造りの建物にはいっていて、テーブルと椅子が並び、洒落た電飾で縁取られた綿模様の天幕が張られている。
メニューは黒板に手書きで書かれており、石畳みの入り口掛けられていた。
男が拭き上げを終えようとしていた時に、早朝には珍しく足音が背後から響いた。
カラッと乾いた革靴のリズム間の音に、男が呆れた声を出して振り返れば、黒のベルテッド ナッピングコートを羽織った女が居た。
七三分けのニュアンスパーマは少し乱れていたが、賢さを鼻梁に宿した鷲鼻は健在であった。
「キャナル・ビムジー。何の様だ、青髭の件なら話す気はこれ以上ないぞ。あの教授は」
「教授は捕縛出来なかった。捕まったのは別の人物」
「アンタが居ながらか?スコットランドヤードも落ちたもんだな」
「だけど、トム・アインザームより厄介な男だという確証は得られた。完全に無益だった訳ではなさそうでね。青山羊の脅迫印の黒幕は教授であり、同時に」
「アインザームという奴は犯罪コンサルタントらしいな。奴も教授の掌か?」
男が皮肉の様な物言いでそう吐き出すと、ビムジーは細目で肩を竦める。
「アインザームの名は口に出してない。あくまで泳がせて追い込む」
「善人だと噂で聞いたが、綺麗なバラには棘があるようだな」
一瞬キョトンとしたビムジーに対して、男は苦笑と共に零した。
「俺も昔はアンタみたいだったが、ある時教授に目をつけられちまった。俺が狙いだったんじゃなくて、俺の人柄で仲良くなった親しい人間を利用したかったようだな。だから、今じゃ隠れて生きていくしかない」
「利用されるとしたら、私の場合は兄だ」
「聞いても意味がないだろうが、兄貴は何者なんだ?」
その問いにビムジーが首を縦に振ると、男は、笑いを堪える様に布巾をポケットしまった。
「また話を聞いてやってもいいぞ」
「また?何も話す気は無い癖に」
「気が変わったのさ」
男がそう言うと店の奥に消えていくのを見送ると、ビムジーは霧の濃い帰り道に踵を翻した。
kyame 間城信 @800463
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