10年前の私へ
巴瀬 比紗乃
奈々の話
パラパラと奈々は紙の束を捲って、つい先ほど書き加えられた赤字を目で追った。
「新しい映画、随分苦労したのね」
「そう。脚本の段階から苦労続きだった」
脚本を脇に置き、奈々は出された紅茶をすする。理沙の入れてくれた紅茶はほんのり甘く、ほろ苦い。
「それで、反応はどうなの?」
「全然ダメ」
「相変わらず難しい世界ね」
「だよねぇ」
せっかくの休日だというのに、理沙はエプロンを着けていた。「エプロンは私の正装なのよ」なんて言って、お気に入りの淡いピンクを纏っている。
「まぁ、発表の場が増えただけマシなんだと思う」
「何?配信でも始めるの?」
「うん。次からね」
理沙は焼き立てのクッキーを机に置いて、奈々の目の前に座った。食卓には椅子が四脚。傍には乳児用のテーブルチェアがある。
奈々はクッキーを1枚とると、頬張った。ココナッツの柔らかな爽やかさにさくっとした触感。更なる甘みが、口の中に広がった。市販のものより、少し甘みが強い気がする。
「それで生活できるようになれば良いわね」
「無理じゃない?さずがに流行りにのらないと、見てもらえないみたいだし。見てもらえないと、お金になんないし」
クッキーを一口かじると、理沙は満面の笑顔を咲かせる。好みの味を再現できたようだ。こだわりの強い理沙が、市販のクッキーで満足することはなかった。
「かといって狙えば必ず当たるってわけでもないみたいだけど」
「やっぱり難しいことに変わりはないのね」
「なんにしても、”流行りに乗る”は絶対条件って感じ」
ふーんなんて生返事をしながら、理沙は奈々のカップに紅茶を注ぐ。ついでに角砂糖も1つ、落とす。奈々はお礼を言いながら、上品に円を描いた。
「じゃあ、まだまだバイト暮らし?」
「うーん、派遣? いろんなものに迎合してまで、映画作りたくないんだよねー。だから、楽しくってあんまり負担にならないライスワーク探しながら、映画製作を続けていく感じが、今思い描いてるステップアップ」
スマホの画面をかざして、転職活動をしていると報告する。理沙はそのまま画面をスクロールした。「スーパーはおすすめしないわよ」なんて言いながら、理沙は勝手にスマホの画面をスライドさせていく。
「映画監督って夢に、生涯をささげることに変わりないのね」
「うん。それはそう。あとは自分の満足の行く”叶った!”って瞬間を模索していく感じ。あと、クオリティ? 自分の満足のいく作品を作れるようにならなきゃね、話になんない」
「80%じゃなかったっけ?」
「そう。100%は夢のまた夢」
理沙は机に置かれた奈々のスマホを弄ぶ。「案外いい求人ないのね」なんてお茶を啜った。
渋さに眉をしかめると、角砂糖を2つ追加した。極度の甘党は健在だなと、また2つ飴色の湖に沈んだ角砂糖に知る。
「理沙は?今、なんに人生捧げてんの?」
「家族。今は子供の為に料理してる」
今度は理沙がスマホの画面を掲げて、最近生まれた第二子を抱く長男の待ち受けを見せてくれた。
「子供は、どんな夢を描くんだろうね」
「あんた、たまに突飛なこと言うわよね」
理沙のスマホを借りて、子供たちの成長を捲っていく。誕生日ケーキををぐちゃぐちゃにして満面の笑顔の長男と、奥で泣いている長女の姿は実に微笑ましい。心温まる風景に、写真を捲る手が止まらない。
「どうする?映画監督なんて言い出したら」
「別に良いんじゃない?あんた、幸せそうだもの」
「ビンボーですが」
「幸せにお金は関係ないわよ。まぁ、綺麗ごとだけど」
「ある程度はないと厳しいからね」
おもむろに目が合って、思わず笑い合う。お互い、立場は違えど、お金に困っていることに変わりはない。
「なんにしても、一生懸命生きてくれれば、それで良いわ」
「それがミキの夢の最終系?」
「冗談。老後は田舎でゆっくり暮らすのが最終系よ。手料理配ったりして」
「旦那と?」
奈々は、スマホを返す。理沙は受け取って、一瞬笑顔になったかと思うと、すぐに眉根を寄せた。愛しい子どもたちの背後に、旦那の顔を思い出してしまったのだ。いつもいつも「疲れた」と不平不満ばかり並べる、旦那の顔を。休日のたびにストレス発散に明け暮れる、男の顔を。
「それは考えものね」
軽口のように理沙は言ったが、それが気遣いからくる声音であることを、奈々は見抜いていた。長い付き合いだ。その気遣いの裏に隠された本気を、気づかないわけがなかった。
お茶をすする音が、妙に耳につく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます