最強のアイドル
松下柚子
1
「怖いって気持ちが、なくなったらいいと思わない?」
「そしたら私たちきっと最強だよ」
そう続けた彼女の目は、こちらを向いている。私に言っているのだ。そのパッチリとした目は、可愛らしいけれど力強い。私はいわゆる涼しげな目というやつなので、それが少し羨ましかった。
「何の話? 昨日ホラーでも見た?」
真意を掴めない発言に、軽い感じで返事をする。本番前に重い空気にはしたくなかったし、そもそも杏の言い方もそんなに重いものではなかった。
「違うよー。昨日はずっと一緒にいたでしょ」
「じゃあ何?」
「私さぁ、まだ怖いんだよね。ステージに立つの」
意外だった。怖いと思っていることもだが、それをはっきりと口にすることもだ。私はいつも、ステージで隣に立つ杏に憧れていた。自信満々のパフォーマンスが人気な彼女は、二人きりのときでもめったに弱音を吐かない。それだけ不安が強いのだろうか。たしかに今日の会場は、今までで一番キャパが大きい。もちろん私だって怖いと思う気持ちはあった。
「私もだよ。こればっかりは何年経っても慣れないね」
最初にステージに立ったとき、見てくれていたのは数人だけだったのに、どうにも脚が震えた。それまでダンスも歌もたくさん練習してきたから、しくじらないだろうと思っていた。それでも実際に立ってみたら、やっぱり怖かった。だんだんステージで歌うのにも慣れてきて、ファンの方も増えていって、踊りながらファンサするくらいの余裕ができて。でも、ライブが始まる前は決まって手が冷たくなる。緊張しているせいだ。歌詞が飛んだらどうしよう、振りを間違えたらどうしよう、私は今日可愛く見えているだろうか、そんな不安ばかりが積もっていく。きっと、怖くなくなる日は来ない。
「意外。楓も怖いって思うんだ」
杏はビックリした顔をして言った。私たちはお互いに意外だと思っていたらしい。デビュー前からの知り合いだというのに、実はまだ知らないことばかりだ。
「で、なんで怖い気持ちがなくなると最強なの? 」
「怖いとさ、手が冷たくならない? それに、脚が震えて、呼吸も浅くなる」
「うん」
「そしたらパフォーマンスにも多少なりとも影響出る気がして。いやまあ、私のパフォはいつも最高なんだけど。もちろん楓もね」
最高ならいいのでは、とも思うが、そういうことではないのだろう。杏は話しながら豆大福を取り出した。ライブの前に大福を食べる。それが彼女のルーティンだ。一つ分けてくれたので、私もありがたくいただく。
「だから、怖くなくなったら、最高超えて最強になれるかなって」
「ごめん、最後まで聞いてもよく分かんない。そもそも最高の上が最強なの?」
「えー、だって最強の方がよくない? 最強の方が強そうじゃん」
そりゃそうだ。そう答えたかったけど、思いきり豆大福にかぶりついたせいでできなかった。杏はすでにペロリとたいらげている。テーブルを挟んで向かいに座る彼女は、こうして見るとどこにでもいる普通の女の子のようだった。これがステージに立つと、最高に可愛くてかっこいいアイドルになるのだから不思議だ。当然、私だって彼女に遅れを取る気はないけれど。
私が大福を食べ終えたタイミングで、マネージャーの林さんが楽屋に入ってきた。ライブ前のSNS更新を忘れていた、とのことでカメラを向けてくる。杏は両手で大きなハートを、私は左手で小さなハートを作った。右手は大福の粉で汚れているので隠しておく。林さんはすごい勢いで私たちを連写すると、そのまま急いで出ていってしまった。特に何も言ってこなかったから、着替えまではまだ少し時間があるのだろう。
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